人と生まれることは難く、なお会い難きは「真実まことのご法」なり
お釈迦さまが言われているように、私たちが人間として生まれることはあり得ないほど難しいことなのです。
しかし、それ以上に難しいのは「真実まことのご法」に会うことなのです。
「ご法」とは仏さまの説かれた教えのことです。仏教では「正法・像法・末法」と言われることがあります。
「正法(しょうぼう)」とは仏の教えと、その実行、そしてその証(あかし、結果)の三つが存在することと言われます。
「像法(ぞうほう)」とは仏の教えと、その実行はあるけれども、その証・結果がない状態をいいます。
「末法(まっぽう)」とは仏の教えはあるけれども、その実行もなく、従ってその証・結果もない状態をいいます。
ここでいう「真実まことのご法」とは、末法に於ける状態の仏教でなく、像法に於ける状態の仏教でもなく、正しく正法に於ける状態の仏教を言います。
ですから、「真実まことのご法」に会い難いとは、真実の仏教である「正法」に於ける仏教に会うのが奇跡的に難しいと言われているのです。
そして、今の世は「末法の世」と言われます。努力しても報われにくいと言われます。
しかし本当に今の世は末法の世なのでしょうか?
確かに今の世の中を見ると「末法の世」と言われても仕方ないような状況もあります。
しかしその逆に、お浄土のように心みちたりた、心おだやかな、平和で楽しく日暮らし出来ている人もあります。
この状況は、今も昔もあまり変わりないのではないでしょうか。
お釈迦さまが居られた当時のインドでも、今の私たちが住む日本でも、世界のどこに於いても、同じではないでしょうか。
時によって「正法・像法・末法」と区別されるのでなく、それぞれの自分自身のありようによって「正法・像法・末法」がわが身に表れてくると考えたいのです。
すなわち、正しい仏さまの教えを学び、その正しい教えのままに正しく実行し、そしてその正しい証が得られるのなら、それは「正法」と言っても良いのではないでしょうか。
しかし残念ながら、今現在多くの仏さまに関する資料はありますが、その中のどれが本当に正しいものなのか。選ぶのが難しいです。
そして例え正しい教えに巡り合っても、私たちは正しく実行するのが難しいのです。
故に、その結果は・・・。
そうした私たちが真に救われる道があるのか、どうか?
歴史を見ると何かしらのヒントがあるのかもしれません。
しかし、いずれにしても私たちは生きている間は可能性があります。可能性を信じてチャレンジしていきたいものです。