Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Tawada × Müller = Project

【レポート稽古場③】『夜ヒカル鶴の仮面』by 斎藤明仁

2021.10.29 09:23

稽古場からのレポートです。

2021年10月に京都芸術大学にて上演される川口智子演出『夜ヒカル鶴の仮面』。そのお稽古第3週の様子を、演劇素人の筆者からの目線で書き記す。上演まで残り一週間を切り、お稽古場は遂に京都に移っている。

見学五日目。この日から京都芸術大学さまの楽屋の一室をお借りしてのお稽古である。感染症対策も万全で、安心してお稽古に取り組めることがありがたい。プロジェクトの要となって実に多面的に支援してくださっている、舞台芸術研究センターの長澤慶太氏にもお初にお目にかかることができた。お稽古に先立って、本番の会場となる春秋座の搬入口を見学させていただいた。観客席は舞台をコの字に近い形で囲むように設置されるそうである。

本日もまずは科白合わせである。いつも通り輪になって踊りながら行うのかと思いきや、役者四人は楽屋を出て一列に小走りで行進しはじめた。様々な坂や階段を、上っては下りてを繰り返す。行き先は迷子になりつつも(思いがけず絶景スポットにたどり着くこともあった)、科白は決して迷子にならず、滾々と続いていく。一度通し終わって楽屋に戻ると、今度は輪になってボール回しをしながらの科白合わせがはじまる。いったいこれまで何十回反復してきたのであろうか。台本の語句との些細な相違もほとんどなくなっている。些細な相違がないというのは例えば、「が」と「は」という助詞を取り違えていたり、「あたしは、少なくとも」と書かれているところを「少なくともあたしは」と読んでいたりしていないということである。それは紛れもなく、役者一人ひとりがほんの一瞬も気を抜かず、真摯に台本の言葉をそのまま再現しようとしている証拠である。

細かい小道具の配置の確認をした後(ついに七つの仮面全部の姿を見ることができた!)、通し稽古が一度だけ上演される。はじまる前に川口は、動物が人間のふりをしてお葬式に来ていることを如何に観客に伝えられるかを意識してほしいと云った。弟のふりをして家に帰ってくる貝は(人間でいうところの)頭を使って鍋を運び、通訳のふりをした犬は戯曲後半になるとこらえきれずに誰にも自分の身体をこすりつけようとしている。今日はまた新しく、虎(或いは狼?)が隣人のふりをして姉さんの弔いの場に訪問してきた。

見学六日目。仮面に語らせるための練習をしたいという山田の提案で、科白合わせは四人が任意の仮面を手にして行われる。無生物である仮面が話をしているように見せるにはどうすればいいのか、その試行錯誤の過程をみていると、普段私たちが唯の一言を話すだけでも身体の方向・表情・目線など複雑な連動の連続であるということ(しかもそれは無意識のうちに起っている)に改めて気づかされる。しかし、今回用いる仮面は人間の顔をかたどったものではない。人間のものの捉え方をそのまま応用して動かそうとすると、仮面が話しているように見えてこない。けれども役者四人は、それぞれが独自の方法で巧みに仮面を語らせることに成功している。鶴がプシューという音(エンジン音だろうか)で羽ばたいたり、狐は逆立ちをしたまますらすらと反論していたり、さらには鶴と犬の両方が交互に隣人の科白を発声していた。

タイムトライアルも欠かさない。各人がストレッチをしながら早口で科白を読み上げる。先日から再び、立ち稽古のはじまる前に科白合わせで間違えた個所を確認する時間が設けられている。間違い個所が指摘されると、「そうだった、確かに間違えてしまった」と役者自身が先ほど云った科白を覚えているということに驚かされる。それはまるで将棋の感想戦、棋士が全ての手順を覚えていて再現することができるということに似ている。

本番の舞台である搬入口での作業がはじまった。川口はお稽古の合間を縫って、技術スタッフとも打ち合わせを入念にしている。スクリーンや小道具、観客席などの配置も詳しく決められていく。技術的な作業が終わったかと思うと、今度は立ち稽古がはじまる。仮面(が語る)劇の場面を部分的に取り上げて、役者一人ひとりに対して指示を出している。仮面をつける行為と科白を発する行為は必ず分けて行わなければならないということをしきりに云っていた。

17時過ぎ頃、搬入口を使った通し稽古が行われる。 小道具もひと通りそろって、冷蔵庫の上のラジカセからはインタヴューでもお世話になったFish氏が作曲した音楽が流れている。歌詞など具体的な内容はまだ秘密にしておくが、どうやらたったこの一曲が、どこかで戯曲を起動させるきっかけになるようである。

役者四人の演技も急速に具体的になっていく。物語はじめには誰が訪問してきたか(本人たち含めて)分からないようだけれど、徐々に「わたし」という主体にそれぞれ異なる動物が憑依していくところや、仮面を効果的に用いて、犬の仮面の影・犬の仮面・犬だった(と分かった)通訳が同時に登場する部分など、何度も云うことになるが、ばかばかしいようでいてやはり弔いの演劇なのである。仮面も含めた舞台上の全員が泣/鳴/啼いている場面は圧巻だ。

この日、舞台監督の横山弘之氏にお初にお目にかかることができ、また夜には映像担当の北川未来氏も合流した。遂に『夜ヒカル』上演チームは全員が京都の地に結集したのである。いったいどんな上演になるのだろうか。お稽古だろうと本番だろうと、同じものは二度とはつくれない。それこそ演劇の醍醐味のひとつであろう。たくさんの方々に支えられてこの上演にたどり着くことができたことに、心より感謝申し上げる。――Wir können jetzt allein in Ruhe unsere Zeremonie durchführen.

斎藤明仁(上智大学)