囲炉り
あの日、娘が自ら天(そら)へ還ってしまってから、明日をも…いや、たった今、一秒先でさえ生きていることが苦痛な時期がありました。
息も絶え絶えとはよく言ったもので、まさにその状態が続く日々。
そういえば、記憶に残っているだけでも二回ほど、『なにをしてるんですか?!』と、他人にいきなり声をかけられたことがあります。
一度目は、(左肺摘除手術のために)検査入院していた先の看護師さんから。
私が病棟面会フロアーの片隅、三階窓からじーっと下を眺めている時でした。
娘は中学校の校舎三階から他界したので、同じ高さの窓から地上を見下ろし、ぐるぐると想像を巡らせていたと記憶しています。
二度目は、事後10ヵ月あたりから初めてみたパート先からの帰り道で、ホームで電車を待っているときに駅員さんから。
やはりそのときも、亡き娘の事でぐるぐると頭がいっぱいだったと記憶しています。
いきなり声をかけられるということは、相当マズイ危険な状態に見えたのでしょうね。
まわりからは『生気を失ったように見える』私のようでしたが、死別による苦しみや心痛が続いていたということは、ある意味正常な感覚で生きていたのですが。
精神が壊れてオカシクなったわけではないがゆえに、続く心の苦痛。
心(脳)をぼんやりと麻痺させるのに処方薬という手段もあるのだと思いますが、私が最初に始めたのは(術後の歩行練習も兼ねた)ウォーキングでした。
その間数ヶ月。
日々なんとかやり過ごせるようにはなり、身体的にもある程度歩けるようになったものの、心の苦しみから解放されることはなく、感覚はかえって冴えてきたため、様々な複雑な感情に苦しむことになりました。
そこで向かった先は(私の場合ですが)、病院やカウンセリングではなく関東圏内各地で開催していた自死遺族の会。
そこでなんとか苦しみを小出しにしながら生き繋いできました。
そして定期的に参加することにより、一口に自死遺族の会といっても、ざっと大きく2種類あるのだとも知りました。
自治体等の職員や遺族以外の有志の方々が管理開催してくださっている場と、全て自死遺族だけで管理運営している場。
どちらにも、良い面もあれば諸々の改善点もあったりするのかなとは思います。
前者では集い後、(それこそコロナ禍に突入する前の話なので)、ランチ会に誘っていただき、事後初めて多人数で食事をしながら語り合えたことの有り難みは、感謝し尽くせないほどです。
後者では、参加する日の翌朝の始発帰りという(^_^;)、朝まで飲んで『大切な亡き人について』語り明かした日も何度もありましたが、それに付き合ってくれる当事者スタッフさんや参加者さんがいたことも本当に有り難かったですし、50歳代にして新宿や渋谷の始発帰りをものともしないくらい、自身の苦しみも大きかったのでしょう。
結果、薬は飲まずに済み、酒は飲んでも飲まれることがなかったのは、そうした方々のお世話になり、護られていたからなのだと、このところしみじみと思い返します。
あのとき、先の希望を見失って茫然自失だった私を、炉を囲んで暖をとるような場に通してくださった方々、本当にありがとうございます。
ずっと交流が続いている方もいますが、もう暫く会えていない方々もいますね。
Amebaのブログを通じて知ることになった方々も多いですし、実際にお会いできた方々、交流が深まる方々もいて、亡き娘繋がりから得られる様々なことをあらためて思います。
数年ぶりにAmeba伝いに再度お声がけしていただく機会に恵まれた、お世話になった先人ご遺族もいらっしゃいました。
あのときはありがとうございました!
お陰様でなんとか生き繋いでいます。
事後、険悪な空気とバトルが絶えなかった主人とも(^_^;)、たま~にですが『二人だけのわかちあい飲み会』を開催できるようにもなり、宣言解除後久々に、お気に入り脳内登録している居酒屋へ行って参りましたよ。
14歳で還った娘へ、この世で二十歳を迎える年には、コーナーに手向ける献杯は『十四代』と二人で決めてあります(^^)。
十四代の『双虹』には、なかなか出会せないのですが、そのうちの🍶楽しみに。
(この日のお店にも出ていませんでしたね~…)
なにとも、お酒を美味しく飲めるために体調維持・管理をするというのは、『生きる』に繋がる、私なりのささやかな工夫の一つです。
有ちゃんとも酒を酌み交わしたかったけど、先延ばしになっちゃったね。
そっちにいくまでオアズケだな。
今は、こちらからは見えないけれど、そちらでも炉を囲むような仲間たちに出逢えていることを祈っています。
HP⇒田舎家「炉」/いろり
◆自死遺族の集い