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不老長寿を願う

2018.10.31 09:42

http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045084.html 【「重陽の節句」、不老長寿を願う行事(一)】より

陰暦の九月九日は陽(陰陽の陽)の数字の重なる日(中国の重日思想から発した祭日。重日とは月の数と日の数が同じ数字となる日付で、めでたい特別の日付と考えられました)であり、中でも九は陽数(奇数は縁起のよい陽の数とされています)の最大値(九は一桁の奇数としては一番大きな数ですので「陽の極まった数」として陽数を代表する数と考えられました)である九が重なることから、「重陽(ちょうよう)」の節句(「重九(ちょうく)の節供」とも呼ばれます)として五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)の中でももっとも重んじられてきました。中国ではこの日、茱萸(しゅゆ、和名:かわはじかみ)を袋に入れて丘や山に登ったり、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習がありました(中国には古くから山に登って天と地の神を祀るという思想がありました。始皇帝や漢の武帝が行ったといわれる「封禅の儀」の祭祀と通じるものがあります)。

 これが日本に伝わり、平安時代には「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」として宮中の行事となり、江戸時代には武家の祝日になります。その後明治時代までは庶民のあいだでもさまざまな行事が行われていたといいますが、残念ながら今では私たちの日常生活とは縁遠くなってしまいました。さかんに行われていた重陽の節句が、現代に引き継がれていないのは、旧暦から新暦にこよみが移り、まだ菊が盛んに咲く時期ではなくなってしまったことが大きな要因のようです(「日付」に固定された祭日なので仕方ありませんが、元は晩秋の頃の行事でした。伝統行事は、もっと季節感を大切にしてもらいたいものです)。


http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045085.html 【「重陽の節句」、不老長寿を願う行事(二)】より

 重陽の節句は別名「菊の宴」(平安時代には、観菊の宴が催され、詩歌など読み、菊の花を酒に浸した菊酒を酌み交わします)ともいい、古くから宮中に年中行事の一つとして伝わってきました。菊は翁草、齢草、千代見草とも別名を持っており、古代中国では、菊は仙境に咲いている花とされ、邪気を払い長生きする効能があると信じられていました。その後、日本に渡り(菊は大和時代に中国から渡りました)、古くより厄災祓いの日として、菊酒を飲んだり、菊の香と露とを綿に含ませ身をぬぐうこと(※菊の被綿・きせわた)で、長寿を保つともいわれ、不老長寿を願う行事として貴族のあいだで定着したようです。これは、菊の持つたくましい生命力に少しでもあやかりたいというのが人々の願いだったのです。※菊の被綿は、重陽の節句の前夜にまだつぼみの菊の花に綿をかぶせて菊の香りと夜露をしみこませたもので、宮中の女官たちが身体を撫でたりもしたといい、枕草子や紫式部日記の中でもその風習を窺うことができます。

 紫式部(『源氏物語』)は、自らの歌集『紫式部集』にこんな歌を詠んでいます。「菊の花 若ゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ」 また、清少納言の『枕草子』には、「九月九日は、暁方より雨すこし振りて、菊の露もこちたく、覆ひたる綿などもいたく濡れ、うつしの香ももてはやされて」という一節があり、平安朝の重陽の節会の様子を伝えてくれます。 さらに、『万葉集』には「百代草=菊」として登場し「父母が 殿の後方(しりへ)の 百代草(ももよぐさ) 百代いでませ わが来たるまで」(生玉部足国・いくたまべのたりくに)、『古今集』の頃から「菊」の文字として現れます「心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花」(凡河内躬恒・おおしこうちのみつね))。また、花札で九月の役札には菊の花とともに「寿」と書かれた盃が描かれていますが、これは菊酒の信仰を受けたものです。これら菊に対する信仰は、やはり中国の故事に由来しています。周の時代、「菊慈童」(きくじどう)という名の男が、あるとき菊の露が落ちて谷川となっているところを見つけました。その水を汲んで飲むと、甘露のように甘く、心がさわやかになり、やがて仙人となって八百歳まで長生きしたというのです。

 また、菊の花は皇室の紋章であり、日本を代表する花の一つですが、もとから日本にあったわけではありません。奈良時代に、薬用として中国からやってきたのです。室町時代には、食用としてもさかんに栽培されました。菊の家紋は平安時代から宮中で使われはじめ、特に後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が好んで使ったといいます(鎌倉時代に後鳥羽上皇が衣服や刀剣までこの文様を用いたことに始まると言われています)。その後、江戸時代までは一般庶民でも菊紋を使っていましたが(貴族にしろ武士にしろ、菊の文様を好んだのは、中国の菊慈童伝説<100年を経てなお童顔の仙人で在り続けた>等の故事にちなんで、延命長寿の霊力にあやかりたいと言う願いの現れであったようです)、明治二年に禁止され皇室だけの紋章に決まりました(菊が皇室の紋章として制定されたのは、明治二年で意外に新しく天皇家は十六花弁の八重菊、皇族は十四花弁の裏菊と定められました)。


http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045086.html 【「重陽の節句」、不老長寿を願う行事(三)】より

菊と共に「重陽の節句」に関りの深いものに、その頃採れる栗があります。中国にも重陽に栗を使った料理を食べる風習がありますが、日本でも、重陽を一名「栗の節句」と呼んで、栗飯を食べる日としている地方があります(旧暦の九月九日というと新暦では十月にあたり、ちょうど田畑の収穫も行われる頃、農山村や庶民の間では、初穂を神仏に供えたり、栗ご飯を炊いて神仏にお供えして祝います)。

 また、民間では「お九日」(おくんち)といって収穫祭の一環とする風習もあるようです。「お九日」は九月九日を神の日、十九日を農民の日、二十九日を町民の日などと言って、神酒に菊の花を添えて、餅をつき(ヨギを入れたりする)、栗飯を炊いて神に感謝する稲の刈上げの祭りのようです。「お九日」に茄子を食べると中風にかからないとも言われているようです。

◆◇◆秋の農耕儀礼、八朔(はっさく・九月一日)、風鎮祭(ふうちんさい・九月上旬)

http://www1.neweb.ne.jp/wa/matsuo/hassaku.htm

 旧暦の八月朔日を八朔(はっさく)と呼んでいましたが、新暦になって九月一日の行事になりましたが、「田面(たのも)節句」ともいいます。「八朔たのもに出ん穂なし 九月九日に青田なし」といって、田を回って穂の出たことを賞めて、豊作を祈って「田のも団子」をつくり神仏に供えて感謝しました。農村では、八朔と二百十日は農家にとってはいちばんたいせつな時期でした。また、地域によっては、九月上旬、風鎮祭(ふうちんさい)が行われます。稲の穂が出る前あるいは出揃った時期が、二百十日や二百二十日の大風の季節と重なり、ことのほか農家の関心が強いことを意識した、農耕儀礼と考えられます。

◆◇◆豊かな自然風土と四季の移ろいの中で育まれた「年中行事」

http://members.tripod.co.jp/Accord/VOL5/matsuri.htm

 太古より、私たちの祖先は、日本列島の豊かな自然風土と季節ごとに変化する四季の移ろいの中で、恵み(恩恵)をもたらしてくれる自然に、大きな力の働きを感じ取っていました(プリミティヴな神観念)。そして、そこに住む我々の祖先の日本人は、農耕を生活の基盤に据えながら、さまざまな文化や伝統を育んできました。春夏秋冬の四季の変化の中で、豊作(豊穣)への祈りと感謝を捧げながら、毎年繰り返されるたくさんの民俗行事や伝統儀礼は、しだいに「年中行事」となりさまざまな習俗として今日に至りました。

 こうした民俗行事や伝統儀礼の中には、日本の固有の行事もありますが、外来の行事が習合したものも数多くあります。私たちの祖先は、こうした民俗行事や伝統儀礼を生活の一部として受け継ぎ守り伝えてきました。豊かな自然風土の中で育まれた祖先以来の文化(四季折々の年中行事・伝統儀礼)は、明治の改暦や時代の推移にもかかわらず、今日に至るまで連綿と生き続け、私たちの生活に活力と潤いを与えてくれます。これからも、こうした民俗行事や伝統儀礼、祭りを大切にしていきたいものです。


http://mb1527.thick.jp/N3-02futu.htm【素盞嗚尊の父フツ】より

 列島統一の始祖素盞嗚尊は朝鮮半島から逃れてきたフツを父に持つ。

八岐大蛇関連地図

出雲国建国関連地図

素盞嗚尊の父フツ(布都御魂)の出自

 素盞嗚尊が,国家統一事業を行ったと推定されるが、これは相当に難題で,これを実現するためには, 相当の知識と知恵と行動力がなければできないことである。素盞嗚尊は,これらの能力を,どこで養ったのであろうか。

 素盞嗚尊は,島根県平田市塩津の石上神社の地で布都御魂を父として生まれている。フツという名は日本人らしくない名前である。 「古代日本正史」によると,素盞嗚尊の本名はフツシで,饒速日尊の本名はフルである。どうも,同系統の名前のようである。これについて,百済本紀を見てみると,紀元前一世紀頃の記録に,権力争いに敗れた「布流」という人物が出てくる。要約すると次のようになる。

 「紀元前一世紀頃,高句麗王朝の朱蒙という王に二人の王子がいて,その弟の方の温祚王というのが王位につき,その子孫が百済王朝を築いた。 この兄の方は名前を布流といい,海に面したミスコモルという場所に弟とは別の国を作ったが,布流の国は土地が悪くて住み難く, 布流はそれを恥じて死んでしまった。」

 ここに登場する布流は,素盞嗚尊一族と同系統の名で,饒速日尊の本名と同じである。布流は素盞嗚尊一族と関係があるのではなかろうか。また、ほぼ同じ頃、高句麗の始祖伝承によると、始祖・朱蒙は現在の中国と北朝鮮の国境付近にあった布流国を滅ぼして高句麗を建国したことになってい る。BC37年のことである。この伝承の真実性は定かでないが、この頃「フル」という系統の地名なり、人名なりが、朝鮮半島北部にあったのは確かであろう。 素盞嗚尊一族の祖(布都御魂)はこのあたりに住んでいたのではないだろうか。あるいは、布流国王家の一族かもしれない。偶然かもしれないが、 素盞嗚尊が誕生したと推定される時期(BC40頃)と朝鮮半島の伝承による布流国の滅亡の時期(BC37 )がほとんど重なるのである。

 朝鮮半島の権力争いに敗れたフツ一族は,紀元前40年頃,朝鮮半島南端部から船出をしたということが考えられる。実験によると朝鮮半島南端部から漂流した場合,対馬海流に流されて,島根半島北側の河下湾に漂着する可能性が高いことがわかっている。素盞嗚尊の生まれたといわれている平田市塩津の石上神社は,河下湾のすぐ近くである。そして,河下湾周辺には,朝鮮半島から上陸した人々のものと考えられる遺跡が,伝承と共に存在している。この一族の一人に布都御魂がいたのではあるまいか。

 韓国側にもこれに相当する神話が伝えられている。ヨノランとセオニョの物語である。三国遺事に記録されている。

「今から1850年以上の昔、新羅という国があり、その国の海岸の村、今の浦項市の迎日湾あたりに、ヨノランとセオニョという夫婦が仲良く暮らしていました。ある日ヨノランが浜辺で海草を採っていると、急に1つの岩があらわれ、彼を乗せ日本の「出雲」と呼ばれる国へ運んでいきました。セオニョは夫が帰ってこないので浜辺に探しに行ったところ、夫の履物が岩の上にありました。それをとろうとして岩にあがると、またその岩も動き出し、日本へ向かい、その国の人たちは2人を丁重に迎え、夫婦はそこで再会することができたのです。ヨノランはその土地の人たちに、製鉄の技術と米を作る技術を教え、セオニョは桑を植え、蚕を育て、絹を造る技術を教えた。」

 この話をもとに、渡来人がどのようなルートで、どんな方法でわたってきたのか、実証しようというプロジェクト「日韓古代の道をたどる会(からむし会)」が立ち上がっている。

 この物語が真実を伝えているとすれば、後世の別の人物である可能性もあるが、神話上の人物と重なるなら、ヨノランはフツに相当することになる。関連論文では素盞嗚尊とのかかわりを説いているが、素盞嗚尊は日本で生まれており、伝承上対馬経由のルートを通って何回も往復している。浦項-出雲間は直線300km程で、対馬経由に比べると危険性がはるかに高く、この経路を通るのは緊急避難的要素が強いと思われる。実際伝承でも計画的に移動したのではなく、流されて移動したことになっている。

河下湾最奥部(フツ上陸地点?) 河下湾より朝鮮半島方面を望む

 布都御魂上陸地

素盞嗚尊生誕伝承地及び上陸伝承地

 平田市塩津町に石上神社がある。この神社は風土記に宇美社と記載されており、素盞嗚尊の生誕地と伝承されている。祭神は布都魂命である。古代の神名帳には「宇美神社塩津村海童」と記されており、海童とは海神(素盞嗚尊)を意味している。この地は平田市の北側の日本海岸にあたり絶壁のような狭いところに人家が集まっている。今は道路が開通しているが古代においては海からではないとこの地にたどり着くのは難しかったのではあるまいか。古代において人々が常時住むところとはとても思えない。BC37年布流国滅亡に際して朝鮮半島を船出した布流国王の血筋のフツが臨月の妻とともに日本海を漂流しているとき、命からがらこの海岸にたどり着き、そこで出産した。そのような物語がぴったりと来るような土地である。

 素盞嗚尊はフツが日本海から上陸した直後に誕生したのではないかと思える。BC35年ごろではあるまいか。布都御魂夫妻はしばらく後産まれたばかりの素盞嗚尊を抱きかかえて、この地の少し西にある河下湾に上陸し、住みやすい地を探しながら沼田郷のほうへ移動したものと考えられる。(BC33年ごろと推定)

 

平田市塩津町 石上神社(素盞嗚尊生誕地)

 第二の住居跡 

  平田市平田町宇美神社の記録

 出雲国風土記の「宇美社」に相当する。布都御魂神は書紀の経津主神の別名だとし、この神が出雲国に下られる時、海上から楯縫の地にご上陸になつたのに因んで創祀と伝。古くは沼田郷廻(さこ)の奥(現在平田市平田町愛宕町廻)の丘陵上に鎮座していたため廻大明神と俗称されてゐたが、天正16年(1588)、それまで平田村に熊野権現を中心として七社が散在していたのを、現社地で一社に集併したとき、この廻大明神も熊野権現に配祀された。

宇美神社は沼田郷廻の奥平田町愛宕町の丘陵上にあって、廻大明神と呼ばれていたようである。塩津町の石上神社がもとの宇美神社であったが、沼田郷の土豪長廻氏が廻の奥に移したという伝承もある。

 現在の出雲市平田町の愛宕山公園のあるあたりが、元の宇美神社の社地であったようである。このあたりが布都御魂が生まれたばかりの素盞嗚尊と共に住んでいた所ではないかと推定している。

 ここに住んでいる時、杵築地方の大豪族であった出雲王朝の王(八束水臣津野命)と出会い、協力関係を築いたようである。

出雲王朝

 

古事記には素盞嗚尊を初めとする出雲王朝が15代続いたことが記録されている。古代出雲において出雲王朝は影が薄いのではあるが、要所要所に出てくるのではっきりとさせなければならない。

 

出雲王朝系図

素盞嗚尊─①ヤシマジヌミ─②フハノモジクヌスヌ─③フカブチミズヤレハナ─④オミズヌ─⑤アメノフニギヌ─┐

  ┌───────────────────────────────────────────┘

  └⑥オオクニヌシ─⑦トリナルミ─⑧クニオシドミ─⑨ハヤミカノタケサハヤジヌミ─⑩ミカヌシ─┐

  ┌───────────────────────────────────────┘

  └⑪タヒリキシマルミ─⑫ミロナミ─⑬ヌノシトリナルミ─⑭アメノヒベラオオシナドミ─⑮トオツヤマザキタラシ

出雲王朝系図(古事記)

大山津見──木花知流比賣

          ├───布波能母遅久奴須奴

素盞嗚尊──八島士奴美     ├───深淵之水夜禮花  

          淤迦美──日河比賣      ├─────淤美豆神

               布怒豆怒──天之都度閇知泥神    ├─────天之冬衣神

                               刺国大──布帝耳神      ├─────大国主

                                                 刺国若比賣    ├─────鳥鳴海

                                                   八島牟遅──鳥耳        ├─────国忍富

                                                         日名照額田毘道男伊許知邇

 国忍富

   ├────佐波夜遅奴美

  葦那陀迦    ├────甕主日子

  天之甕主──前玉比賣    ├────多比理岐志麻流美

         淤加美──比那良志毘賣    ├────美呂浪

         比比良木之其花麻豆美──活玉前玉比賣   ├────布忍富鳥鳴海

                           敷山主──青沼馬沼押比賣   ├────天日腹大科度美

                                               若尽女      ├────遠津山岬多良斯

                                      大山津見神──天狭霧──遠津待根

 ①のヤシマジヌミは素盞嗚尊の長男で素盞嗚尊が国家統一事業を始めて倭国の経営に乗り出しているとき、出雲国を治めていたといわれている。また、 ④オミズヌは出雲風土記によれば国引きをしたことで知られている。さらに、 オオクニヌシは素盞嗚尊の末子であるスセリヒメと結婚している。すなわちヤシマジヌミとオオクニヌシは同世代となるのである。また⑤天之冬衣神は天葺根ともいい 素盞嗚尊のおろち退治のアマテラス大神に剣を献上する使者になっている。このようなことから①から⑥までは同世代とも考えることができるが、 古事記にある通り直系だとするとどのようなことになるのであろうか?

 出雲朝第6代大国主命は素盞嗚尊の娘スセリヒメの婿になっている。吉田大洋氏「出雲帝国の謎」で大国主はクナト大神の子であり、クナト大神は出雲本来の神として扱われている。 出雲の神社では本来クナト大神を祀っていたものが素盞嗚尊に取って代わったと言い伝えられている。素盞嗚尊は朝鮮半島から渡来した父布都より誕生しているので出雲としては よそ者となる。そのため、出雲国風土記では扱いが小さくなっており、大国主が大きく扱われていることになる。 また、出雲王朝の人物を古事記では「命」ではなく「神」という尊称を使っている。このことも出雲王朝が特別な存在であることを意味している。 出雲王朝は本来の出雲の王家の系統を表わしているのではあるまいか? 古事記編纂において素盞嗚尊の系統につないだため、このような不自然な系図になったものと推定される。この出雲王朝の王をクナト大神と表現しているものと推察する。

 それでは出雲王朝初代は誰なのであろうか?伝承上八島士奴美神が始祖である。同時に素盞嗚尊の子であるという矛盾があるのであるが、これは後で述べるとして、この人物の推定没年は大国主命の推定没年AD45年より1世平均28年で遡るとBC95年頃となる。直系であるとすればBC100年ごろ活躍した人物となる。BC108年に漢の武帝が朝鮮を滅ぼした時、朝鮮半島から多数の人々が日本列島に流れ着いているが、八島士奴美神は活躍時期から推察するに、 そのなかの一人かもしれない。

 

衛氏朝鮮

衛氏朝鮮( BC195年 -BC108年)は、朝鮮半島の最初の国家であると云われている。『史記』によれば、前漢の高祖の時代のBC202年、燕王の臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰が燕王に封じられたが、BC197年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命したため、劉建が形式的な燕王に封じられたることになった。しかし実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化したものだった。これに反発した燕人の衛満も亡命し、清川江を南にこえ、千人余りの徒党と共に朝鮮に入り、燕・斉の亡命者とともに原住民の連合政権を樹立、王険城(現在の平壌)を首都として王位に就いた。漢の皇帝がこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方まで及んだ。

 BC109年漢の武帝はこの衛氏朝鮮を攻めたが、朝鮮王右渠(うきょ)は5万の大軍を迎え撃ったが、武帝は和戦両様の策をとったので、朝鮮の大臣や将軍があいついで漢に降り、翌BC108年に朝鮮王右渠は家臣に殺され衛氏朝鮮は滅亡した。漢の武帝は、衛氏朝鮮の故地に「楽浪郡」「真番郡」「臨屯郡」「玄菟郡」を置いて直接支配に乗り出した。

 国引き神話 

 出雲国風土記によると出雲朝第4代淤美豆神の時国引きをしている。活躍時期はBC30年ごろで、素盞嗚尊の父布都の活躍時期と重なるのである。 出雲風土記の国引きとは一体何であろうか。これについて検討してみよう。 

 国引き神話あらすじ

 『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと・淤美豆神)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。

そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。

そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)

北門の佐伎(さき)の国(隠岐の島・島前)→多久の折絶から狭田(さだ)の国

北門の良波(よなみ)の国(隠岐の島・道後)→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国

越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼

神話伝承

長浜神社 主祭神 八束水臣津野命

国富の要石 国引きで引き寄せた土地が地滑りするのを防ぐために立てた石・出雲市国富町旧木佐家敷地内

帆筵石(ほむしろいし) 旅伏山の山頂、都武自神社の境内にある。八束水臣津野命が韓国へ航海した時の帆が石になったもの

岩船石 出雲市唐川町。八束水臣津野命が韓国に航海した時の船が石になったもの

帆柱石 出雲市別所町。八束水臣津野命が韓国に航海した時の帆が石になったもの 国引きとは一体何なのであろう。実際に土地を引き寄せたとは当然ながら考えられない。八束水臣津野命が韓国に航海したということが地域伝承に言い伝えられていることから、ほかの土地との交流を意味していると思われるが、これを技術者の輸入と仮説を立ててみた。

 天之冬衣神は素盞嗚尊が八岐大蛇退治をするときに協力した神であり、素盞嗚尊と同世代と考えられる。オオクニヌシは素盞嗚尊より1世代後と考えられるので、天之冬衣神の父である八束水臣津野命はフツと同世代となる。出雲王朝はこの当時杵築(出雲大社周辺)に本拠地を置いていたと考えている。出雲王朝は当時山陰地方をまとめていた王国であり、クナト大神、オオクニヌシと共通名で呼ばれることもあるようである。以下は推測である。

 布都御魂が河下湾に上陸し平田市近辺に住みついたとき、その世話をしたのが八束水臣津野命ではないだろうか、布都御魂としては見知らぬ土地で困っているところをいろいろと助けてくれたのである。布都御魂のほうも八束水臣津野命に朝鮮半島の新技術を伝授した。八束水臣津野命は遠くの国には我々の知らない技術があることに驚いたであろう。知識欲が旺盛だった八束水臣津野命は布都御魂にもっと技術はないものかと相談した。布都御魂は楽浪郡にはもっとすごい技術があると伝えたことであろう。

 フツから楽浪郡には素晴らしい技術があることを聞いて八束水臣津野命は楽浪郡からその技術を取り入れようと決心し、船を造ってその技術を輸入しようとした。すぐには学べない技術もあったので、楽浪郡の技術者を出雲に呼び寄せた。先ほどのヨノランとセオニョもその技術者に含まれるかもしれない。朝鮮半島から戻ってくるときの目標が三瓶山だったのではあるまいか。そして、その上陸地が長浜と考えられる。これが国引き神話の実相ではないだろうか。BC30年ごろのことであろう。

 楽浪郡から技術導入の後、八束水臣津野命は妹の伊弉冊尊が嫁いでいった飛騨国からの技術導入を図り、北陸地方能登半島の珠洲地方から技術者を呼び寄せた。能登半島は東の縄文文化と西の弥生文化の接点であり、飛騨国の領域であり、出雲にはなかった技術があったのであろう。この中の一人に後に素戔嗚尊に退治される八岐大蛇とされている人物がいたと思われる。その帰り道、大山を目標とし、上陸地が弓ヶ浜だったと思われる。後に隠岐の島の島前・道後を訪問しここからも技術者を呼び寄せた。土地が違えば人々の生活形態も異なるものであり、出雲の人が知らない何かがあるのが当然であろう。布都御魂は八束水臣津野命の支援のもと、平田近辺の一豪族として勢力を拡大していった。そして、この事業が後に素盞嗚尊が統一事業を始める試金石となったものであろう。

 八束水臣津野命の活躍によって、出雲に多くの技術者が集まるようになった。同時にその技術を学ぶために地方から多くの人々が集まってきた。

 

宇美神社(平田市平田) 宇美神社拝殿

布都御魂御霊の御陵

 布都御魂は素盞嗚尊が日本列島統一事業を始めるとき、行動を共にしている様子が全く見られない。八岐大蛇事件の時(BC20年頃)にはすでに亡くなっていたのではないかと思われる。

 島根県の日御崎神社の裏山に御陵がある。神社の記録によると,安寧天皇の時代に御陵の上にあった社を現在の位置に動かしたとあるので,この御陵は一世紀には存在していたようである。日御碕周辺にはその他にいくつかの朝鮮半島系のものと考えられる墳墓が見つかっている。素盞嗚尊は父の布都御魂を尊敬しているはずであるから,その御陵は意味のあるところに存在するはずである。日御崎は朝鮮半島を向いた位置である上に,日御崎神社上の宮(祭神素盞嗚尊)も朝鮮半島を向いている。布都御魂が,彼の故郷である朝鮮半島を思う気持ちから,この地に作られたのではあるまいか。この御陵は素盞嗚尊のものと伝えられているが,素盞嗚尊の御陵は別に存在するので,この御陵を布都御魂のものと推定するのである。そうなれば上之宮の真の祭神は布都御魂である可能性も出てくる。