【原発事故】(仕事場D・A・N通信vol.50)
福島に通うようになって十年が過ぎた。だが放射能汚染問題や原発事故被害について、それほど詳しくなったわけではない。専門家に対抗するような知識を手に入れようとはしてこなかった。通い続けたのも、たまたまの巡り合わせが私の人生にやってきただけだ。基本的には、世の中のあらゆることに多くの人がとることの多い「傍観者」以上のものではない。
だが東日本大震災・津波・原発事故被災地に通ううち、確信したことがある。それは自然災害と人為災害の違いだ。自然災害の被災地では、数年を経て、人間の素晴らしい刻々の回復力に遭遇することになった。中にはあの被災後にも又、台風や洪水の被害に見舞われたりしているところがある。一方、原発事故被災の福島では正反対に、十年経っても何も変わらない現実をあちこちで目の当たりにし続けている。
放射能汚染レベルがどれくらいだとか、減少しているとかいろいろ言う人はある。皆それぞれ専門家である。国の見解や学者の良心に基づいた発言、専門家同士の見解の相違による対立など様々である。かつての公害裁判で耳にしていたような事態が、原発事故後の世界でも繰り広げられている。
私は専門家ではなく同じ時代に出くわしたものとして、現地の風景を見続けてきた。事故後35年以上経ったチェルノブイリにも訪れた。広大な放棄地もゴーストタウン化した五万人が住んでいた地方都市もそのまま朽ち続けていた。自然は回復するが人為の過ちには蘇らないモノがあるということだ。
政治的思惑や経済問題として、10年経った今、いろいろ発言する人はある。しかし事故の跡地と周辺を見れば一目瞭然である。技術でどうにも出来ないことを、専門用語であれこれ誤魔化しているのをみると、その程度の知性の愚かしさが身にしみる。
起こしたことの後始末もしないままの専門家が、寿命で死んでいくのを大目に見てはいけない。