嵐の中の子守歌
うなされる兄貴さんを寝かしつけるロス
うう、と何かをこらえるようなうめき声が聞こえて、何事かと縁側をのぞき込んだらモンジュさんがうなされていた。
「起きて。モンジュさん、おーい」
うなされているのなら起こしてあげようと思ったけれど、控えめに声をかけても起きる気配がない。眉間のしわと、歯を食いしばっているのだろう強張った体勢が痛々しげだ。軽く肩を揺すっても、拒むように小さく首を振るだけで、やはり起きない。
昼寝には悪くない陽気で、きっと心地よくまどろんでいただろうに。どんな悪夢が彼を苦しめているのだろう。
寝床の問題ではないだろうから、抱き上げて移動するのはやめにした。よく縁側にいる彼だ、今更寝心地が悪くてうなされるということもないだろう。ひとまず、そばの部屋から座布団を持ってきてふたつにたたみ、枕代わりに彼の頭の下へ敷いてみる。
「う……」
モンジュさんの顔にかかる日差しを遮るようにあぐらをかいて、縁側のふちに陣取る。横向きに肘をついて寝ていたのが崩れたような、寝苦しそうな姿勢を、少し強引に仰向けにした。嫌がるように身じろいだ彼が、手のひらを傷つけそうなほどこぶしを握り締めているのを見て、そっと手を取る。
「ここには怖いものはないよ」
いつもは少し高く、聞き取りやすいように話す声を、低く抑えた地声で話しかける。この声は人の意識に届けるには重くて鈍いけれど、起こすつもりがない人のそばで独り言を言うにはちょうどいい。一度手を離して、脱いだ自分の上着をモンジュさんにかぶせた。冷えて風邪をひいてはことだ。 あらためて握り拳の小指と薬指へちょっかいをかけて手を開かせれば、力の入りすぎで震えていた腕がふっと緩む。眠る体勢を変えさせたのもそう、外から緩めてあげればそれだけでうまく眠れるようになる子もいるから。
僕とさして身長も変わらない、年上の大人にも、小さなきょうだいたちに使った手は通用するだろうか。
片手だけでも緩めて、握りなおせないように手のひらへ自分の手を添わせる。緊張のせいかモンジュさんの手は少し冷えていて、なにか縋るものを探すように時折指に力が入った。緩く握り返すようにして、そばにいる、と伝える。
寝返りを打たせたときにほつれて顔にかかった鮮やかな赤い髪を、空いている手で柔らかく払った。少し、穏やかな顔になったような気がする。
「……Ах, уймись ты, буря.(ああ、嵐よ静まっておくれ)」
モンジュさんの手を取ったのとは逆の手を、そっと彼の胸の上に置いた。とん、とん、と指で拍を取って、ゆるゆると歌う。
「Не шумите, ели.(モミの木よ、ざわめかないで)」
どっ、どっ、と大きな脈よりも、それにつられたような少し早い呼吸よりも、意識してゆっくりと拍を取る。
「Мой малютка дремлет. Сладко в колыбели.(私の子がまどろんでいるのだ、ゆりかごの中で静かに)」
ぐずり、うなされていたていまいを寝かしつけるために覚えた、優しい母が歌う子守歌。僕が聞いて育ったものよりもいくらか、穏やかな歌詞で。
「Ты, гроза господня, Не буди ребёнка, Пронеситесь, тучи Чёрные, сторонкой.(雷雨の貴婦人よ、この子を起こさないでくれ。黒い雲は流れて行け、私たちから離れておくれ)」
眠る子を苦しめる嵐を遠ざける、祈りの歌だ。
「Бурь ещё немало Впереди, быть может,И не раз забота Сон его встревожит.(嵐はしばらく続くだろう。そして何度も悩みがこの子の眠りを妨げるのだろう)」
僕に、彼の嵐を大本から消し去るような力はないかもしれない。それでも、今ひとときの眠りから苦しみを遠ざけるだけでもできればいい。
「Спи, дитя, спокойно...Вот гроза стихает; Матери молитва Сон твой охраняет.(眠るといい、かわいい子。嵐は静まっていく。お母さんの祈りが眠りを守るから)
モンジュさんのお母さんを、もっと言うなら僕は自分の母のこともよく知りはしないけれど。この歌を教えてくれたひとは、僕にとても優しかった。
「Завтра, как проснёшься И откроешь глазки, Снова встретишь солнце, И любовь, и ласки.(明日、起きて目を開けたなら。また日を仰ぐことができるよ。愛とやさしさもそこにある)」
低くやわらかく、繰り返し音を紡ぐ。
とすん、とすん、と拍を取る手に感じる胸の動きはもう穏やかなもので、眠るモンジュさんは既に悪夢から抜け出したらしい。きつく寄せられていた眉間のしわも緩んで、静かな寝息だけが聞こえる。これでひとまずは安心、だろうか。
……下の子たちを寝かしつけていると眠くなるのは、腕の中に子供のほてったような体温を抱えて横になるせいだと思っていたが、どうやら違ったようだ。寝ている人のそばで座り込んで歌っているだけでも、なんだか眠くなってきた。
のんびりと歌っていた詞がとろとろと言葉の形を成さなくなっていくのを感じながら、僕は目を閉じ、顔を伏せた。
次に目を開けたとき、目の前の部屋には障子越しの明かりがついていた。
膝にはモンジュさんにかぶせたはずの上着、身じろげば肩に和装の羽織がかかっている。もしかしなくてもモンジュさんのものだろう。
立ち上がって障子を開ければ、ふわりとおいしそうなにおいがした。サバだろうか。
「おう、起きたか」
飯、食ってくか。
そう言って台所からのぞいたモンジュさんの顔色がよかったので、僕は笑ってご相伴にあずかることにした。
友情出演:モンジュ・アカザネ(e04831)さん
ロスが幼少期に聞いて育ったのは「コサックの子守歌」 おおよそ「恐ろしい異民族がいるけれどお父さんが守ってくれる、いつかあなたも伝説の英雄のようにたくましくなって戦場へ行くのでしょう、私はそれを見送ることしかできないけれど、心配事を知らないうちは安らかに眠りなさい、戦場に出てもあなたの母のことを忘れないで」といったような歌詞(超絶ざっくり) ロスの耳に残っているのはこれなんだけど、ていまいが戦場に出るなんて想像もしたくなかったロスはぐずるていまいを寝かしつけるためにもう少し平和な曲を村のおばさんに教わった。(おばさんはロスの一回り上くらいの息子を育てたことのある「お母さん」)
作中でロスが歌ったのは「嵐の中の子守歌」
「くるみ割り人形」とかのチャイコフスキー作曲。アレクセイ・プレスチェフ作詞、作中訳詞は藤井宏行訳詞を参考に口調に合わせてやや改変したのみ。 原題は「КОЛЫБЕЛЬНАЯ ПЕСНЬ В БУРЮ」 それほど恐ろしげでもないように思えるのはロシアン子守歌の悲しげな曲調に慣れてしまったせいだろうか。男声で聞くのおすすめ。