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ZIPANG TOKIO 2020「天地も躍動する!  魚津 たてもん祭りは豪快で、勇壮で、華麗で、その優美さは、まさに夏の夜の風物詩『ユネスコ無形文化遺産』」

2017.04.25 13:05



平成28年(2016)12月1日「魚津のタテモン行事」を含む全国33の 「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。

本日は富山県の北東部に位置し、県都富山市から車で30分ほどの場所にある魚津市の「魚津たてもん祭り」を紹介します。折角ですからこの機会に、後で魚津の三大奇観について紹介します。


たてもん祭り

”たてもん祭り”は、「じゃんとこい魚津まつり」の期間中に、開催されるメイン行事の一つになっています。 「たてもん」は、高さ約16mもある大柱に、90余りの提灯を、三角形につるし下げ、その下に絵額をつけ、長さ10m、総重量約5トンもある、そり台に立てて、80人程の人々よって、威勢よく曳きまわす船型の万燈です。 この形は、三方に贄者(にえもの)を、山と積んで神前に供える形をかたどったもの、あるいは全体が、帆をあげた漁船をかたどったものといわれ、また神前に供え捧げたてまつる言葉が、なまり「たてもん」と呼ばれるようになったといわれています。


”たてもん祭り”は、毎年8月第1金曜日・第1土曜日の夜、諏訪町の漁夫の宮「諏訪神社」氏子の町内から、7台の「たてもん」が繰り出されます。 「たてもん」は、はっぴ姿の威勢のよい若者によって曳き廻され、何百という美しい提灯のあかりが夜空を彩り、若者のかけ声が海上に響きます。 若者の力のほとばしりによる、「たてもん」の移動は、天地も躍動する感を与え、見る人の手に汗を握らせます。
 たてもん祭りは豪快で、勇壮で、華麗で、その優美さは、まさに夏の夜の風物詩であり、魚津が誇る郷土行事の一つです。

この”たてもん祭り”の由来を探ると、約300年前から、大漁と海上の無事安全を祈る氏子の気持ちが、このような形となったといわれています。また、各町内が、いくつかの提灯を台上に吊して町内をかつぎまわったものが、その後、次第に提灯の数を増やし、明治の頃は25張、大正の始めは50張と数はさらに増え、今日のような形になったと伝えられています。

昭和47年10月には、7基の「たてもん」が県の有形民俗文化財に、平成9年12月には「魚津のタテモン行事」が国の重要無形民俗文化財の指定を受けています。

昭和30年初期ごろは、諏訪神社の目の前は砂浜があり海が続いていました。「たてもん」も当時は、その砂浜を曳いており、下部がそり台なのはそのためであると言われています。諏訪神社の南側に鴨川があり、北側にも今は幅の狭い川が流れています。その両側よりも外側の町内は、たてもんを奉納するためにその川を渡ってきたと言われています。

魚津市内のありそドームや新川文化ホールには、たてもんの縮小版が展示されています。

たてもん祭りの2日目は、魚津まつり海上花火大会が行われます。花火大会会場は諏訪神社から歩いて10分程の距離、まずは花火を見て、その後たてもん祭りに移動するのがより楽しめますよ!
花火大会は7時45分ごろから打ち上げ開始です。


”たてもん祭り”は、「じゃんとこい魚津まつり」の期間中に、開催されるメイン行事の一つということなので「じゃんとこい魚津まつり」について紹介いたします。


”じゃんとこい魚津まつり”は、魚津市最大のイベントとして、8月第1週の金、土、日の3日間に開催されます。

「たてもん祭り」、「海上花火大会」、「せり込み蝶六踊り街流し」をメイン行事として、市内各地でイベントが繰り広げられます。

魚津まつりは、1970年(昭和45年)に、第1回魚津観光まつりが開催されたのが始まりで、1987年(昭和62年)の開催から”じゃんとこい魚津まつり”という名称になりました。
(以前は8月7,8,9日の3日間と決まっていましたが、第38回(2007年)より、8月第1週の金、土、日の3日間に開催されることになりました。)

中学生による蝶六踊り街流し

祭りの名称にもつけられている『じゃんとこい』は、せり込み蝶六で踊られるお囃子の合間に入るあいの手で、「たくさん来て下さい」という意味合いです。 魚津まつりが開催される3日間は、市内外よりたくさんの見物客が訪れ、魚津は、祭りムード一色となります。


”じゃんとこい魚津まつり”≪主なイベント≫ 

■たてもん祭り 

たてもんは、高さ16mもある大柱に、90余りの提灯を三角形につるし下げ、総重量約5トンもあるそり台にたてて、80人もの若い衆によって曳き廻されます。その姿は、豪快、勇壮、華麗で魚津の誇る郷土行事の一つです。 各町内からたてもん7基が諏訪神社へと動きだし、光の競演を繰り広げます。

■海上花火大会

魚津まつりのメインイベントの一つ海上花火大会、県内有数の規模を誇り、沖合の2艘の台船から打ち上げられる水上スターマインや、スターマインの早打ちは、一見の価値があります。周辺には眺めをさえぎる建物がないので、花火そのものの迫力が存分に満喫できます。


海上花火大会の開催される場所は、「しんきろうロード」と呼ばれる海岸線沿いで、花火の観覧にはとても良い場所です。”海上花火大会”会場の直近に、物販・飲食施設の「海の駅蜃気楼」があり、飲食物も手に入りやすいです。

■せり込み蝶六踊り街流し

江戸時代より伝えられる魚津を代表する民謡「魚津せり込み蝶六」、その激しい音頭のリズムに合わせて踊る姿は、まるで極楽蝶が舞うかのようでその名前がついたと、伝えられています。

当日は、市民、市内企業より約3,500名による街流しが行われ、各チーム趣向を凝らした踊りがみられます。

■中学生せり込み蝶六踊り街流し ■ブラスバンドパレード ■高齢者趣味教室民謡踊り ■経田七夕祭り


「せり込み蝶六踊り街流し」とは

“せり込蝶六”は、江戸時代、全国に口説を広めた、越後の瞽女(ごぜ)達により伝えられました。
それを、地元の先名米次郎、中森重次郎により、毎年お盆になると、お寺やお宮の境内で、笠や提灯などを持ち、先祖の御魂を祈り、豊年を祈願して、踊り明かしたのが始まりです。

”せり込み蝶六”の踊りの基本は、念仏・祈り・感動・喜びからなる、踊躍歓喜(ユヤクカンギ)であり、扇子を持って踊る理由も、末広がりで、めでたいからと言われています。

激しい音頭のリズムに合わせて踊るこの踊りは、まるで、極楽蝶が舞うかのようで、その名前がつけられたと伝えられています。

また、昭和21年富山県民謡大会において、村木地区の火の宮青年会が出場し、当時の民謡研究家で、審査員をつとめた、故町田嘉章氏が、せり唄と瞽女唄の口説を合わせ、「せり込み蝶六」と命名されたとも、音頭取りと踊り手が競り合う様子を、言い表したとも言われています。

”せり込み蝶六踊り街流し”は、8月第1金、土、日に行われる、「じゃんとこい魚津まつり」のメイン行事の一つとして、最終日の日曜日の夕刻から開催されます。


街流しは、地区や企業、団体などのチームごとに、趣向を凝らして踊られ、祭りの最終日を飾ります。

「じゃんとこい魚津まつり」の行事として行われる、”せり込蝶六踊り街流し”は、昭和45年の開催当時は、約500名の参加でしたが、年々参加者が増え、現在では、市内外の企業、団体、地区などから約3,500名(約40チーム)が参加しています。
参加チームの街流し終了後に行われる、魚津せり込蝶六保存会による模範演技をもって、じゃんとこい魚津まつりの終焉となります。 

伝統文化の継承として、市内の小学校で、”せり込蝶六踊り”を児童に教えているので、魚津で育った者は大抵この踊りを踊ることが出来ます。


蝶六の代表的な詩章は、二十八日口徳です。親鸞上人の命日が11月28日ということが名前の由来ですが、蓮如上人がお作りになり、信仰者に唱和させたのがこの二十八口徳です。
富山県は親鸞上人の御仏導地であり、庶民には楽しみながら念仏口説きを踊り、心の糧を養っていたことが伺えます。


7台の「たてもん」が繰り出される諏訪町の漁夫の宮「諏訪神社」とは

諏訪神社は勝負の神様、風と水の神様です。

【戦いの神】 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように戦いの神「軍神」として知られており、力士が勝ち名乗りを受ける時、軍配の上にのせられた懸賞に左⇒右⇒中と手刀を切るのは勝負をつかさどる三柱の神、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祭る鹿島社、経津主神(ふつぬしのかみ)を祭る香取社、建御名方神(たけみなかたのかみ)を祭る諏訪社への感謝の意だともいわれています

諏訪神社の社紋は諏訪梶と呼ばれ、根の部分が4本のものが上社、5本のものが下社です。魚津の諏訪神社は上社です


”諏訪神社”は、魚津を代表するお祭り「たてもん祭り」の会場として有名です。毎年、「たてもん祭り」の当日は、非常に多くの人で賑わいます。

昔この地方は、信州地方との交易が盛んで信濃の諏訪本宮に豊漁を願って初魚を奉納する習慣があり、大宝元年(701年)に魚津の信濃浜(大町海岸)に、お諏訪さま(建御名方神・たけみながたのかみ)を分霊して祀りました。後に”越の大社”と改称され、諏訪の神垣の森として栄えましたが、お社が海の沖合になった為、天正年間に魚津城址河田豊前守(かわだぶぜんのかみ)が社殿を再建しました。

その後も波にのまれ、1634年8月下猟師町の北部に「無格社諏訪社」を再建しましたが、狭くなった為、明治6年(1973年)8月17日加賀藩魚津塩倉跡(現在地)に移転しました。

文禄3年(1594年)4月、魚津町餌指町の有志たちが漁業祈念の為本町2丁目(旧餌指町)に日吉さま(大山咋神・おおやまくひのかみ)を祭り、村社「日吉社(ひえしゃ)」を創建しましたが、維持が困難になり、1932年6月19日本町の日吉社を、諏訪社へ合祀して諏訪神社に改称しました。

1940年2月8日、富山県指定村社に列格。 平成7年(1995年)6月12日、本町2丁目(旧元町)の「諏訪社」を合祀して現在に至ります。
現在の境内横にあった「西宮社」に恵比寿さま(事代主神・ことしろぬしのかみ)を祭ってありましたが合祀された時期は詳しくはわかっていません。

御祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)〈お諏訪さま〉、大山咋神(おおやまくひのかみ)〈日吉さま〉、事大主神(ことしろぬしのかみ)〈恵比寿さま〉です。
建御名方神(たけみなかたのかみ)(弟)と事大主神(ことしろぬしのかみ)(兄)は父を大国主神(おおくにぬしのかみ)とする兄弟です。

建御名方神(たけみなかたのかみ)は水と風の神として、農耕狩猟神として崇められています。漁業船が動力でなく風が頼りだった時代、漁業にとって風力はとても重要だったと考えられます。
事大主神(ことしろぬしのかみ)は七福神の中で唯一の日本の神様、豊漁の神様として崇められています。

鴨川に架かる最後の橋の名前は、鬼江(おにえ)橋です。かつて鴨川では諏訪神社の神様に捧げる生贄(いけにえ)の魚を採ったという説と生贄の魚を洗い清めたいう説があり御贄(おにえ)川、後に鬼江川と書くようになったそうです。

社殿は昭和5年、総檜造りにて造営されました。
天井絵馬には花鳥の他に魚が描かれており、漁業の神様としての信仰の深さが伺えます。また、拝殿に設置された龍と獅子の彫刻は、昭和9年皇太子誕生記念に造営された西宮社に奉納されたものです。欅の木目が美しく、細部まで丁寧に施された表現技術は一流品です。

また、黄昏時鳥居奥の海に沈む夕日は、崇高の一言です。

黄昏時諏訪神社の鳥居奥の海に沈む夕日の写真でサイトの容量が限界になりました。
魚津の三大奇観「蜃気楼、ほたるいか、埋没林」は明後日紹介します。申し訳ありません。

                                  鎹八咫烏 記


協力(順不同)

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