雨音ドラムロール
天候・心情描写 習作
仕事場から帰る道すがら、見上げた空は灰色だ。空に薄墨を流し込んだように均一で淡いグレーが、俺の足を急がせる。雨が降りそうだ、それもひどく。だから、急ぐ。
空はすずりのようで、つまり薄墨は時を経るごとに濃く重い黒に近づいてきた。自らの重みに耐えかねたように、雲が背中にのしかかってくる。のしかかる雲を背負って、俺はついに走り出した。顔にぱらりと小さな雨滴が当たる。空気が重たい。
雨雲が迫ってくる。振り返ってみた俺の背後には、黒紗のベールがかかってかすんだ町があった。呑み込まれたら、ずぶ濡れで立ち尽くすしかないだろう。俺はともかく、寒さや服が汚れることを嫌う親父にはいい足止めになる。
なんとしても、雨のピークが過ぎる前に家を出なければ。
強くなりだした雨に肩を湿らせて、玄関に飛び込む。そのまま、勢い任せに大事だと思うものだけをカバンに投げ込んだ。財布、運転免許、少し悩んで弓に雨除けのカバーを掛ける。高校からの相棒をこの家においていくわけには行かない。替えの下着、シャツ、靴下、そんなものをそろえたら、もう手が止まった。19年間もこの家で暮らしてきて、持って出たいと思うのはたったのこれだけか。
「……はは」
山のように積んである参考書、ラインマーカー、単語帳。いらない。数学も、物理も化学も生物も古典も現代文も英語も、いらない。置いていく。
捨てていくんだ。
もっと何か持って行きたくなるだろうと大きなカバンを選んだせいで、肩に掛けてみたらすかすかの厚地が腰にまとわりつく。軽くてよかった、これなら走れる。
自室から飛び出して階段を駆け下りる。わざと乱暴にドアを閉めたのは、親父を誘い出すためだ。 見かけ倒しな大荷物を見て、なにより普段俺が部屋から出さない弓を見て、親父は俺の意図をさとったらしい。玄関で靴に足をつっこんだところで、怒号が降ってきた。
「どこへ行く!?」
「関係ないだろ」
「ふざけるな!」
とっさに動けない親父を後目に、しっかり靴ひもを締めて立ち上がる。弓をひっかけないように玄関扉を抜ければ、ああ、いいタイミングだ。黒紗のベールが一帯を覆って、車のボンネットがドラムロールを奏でている。
「じゃあな」
俺の声で我に返ったらしい親父が、突っかけをはいてベールの中に飛び込んできた。
「逃がすもんか、お前は俺の」
「俺は!」
一瞬ドラムロールが止んで、シンバルはつかみかかってきた親父を振り払って踏み込んだ水たまりの音。さあ、重大発表を、俺の口から。
静寂の中、俺は叫んだ。
「俺は、俺がやりたいようにいきる! もう親父の言いなりにはならない!」
響く雨音の喝采に笑って、俺は身を翻して駆けだした。