『応仁の乱』リアルな世界に主役はいない
呉座勇一著『応仁の乱』読了。
いやー、おもしろい!最初登場人物が多くてとっつきにくいんだけど、ハマるとハマる。売れてる理由がわかるなー!
応仁の乱は新時代を切り開いた「革命」になぞらえることが多い。結果的にそのような意義を果たした面は否定できないが、それが変革を求める民衆運動ではなく支配階層の”自滅”によってもたらされたことに留意する必要がある。しかも、その「革命」のために多くの血が流されたことも忘れてはなるまい。
彼ら(将軍や大名たち)はそれなりに”出口戦略”を考えており、終戦に向けて様々な努力や工夫をしている。にもかかわらず、コミュニケーション不足やタイミングのズレによって、終戦工作は失敗を重ね、戦争は無意味に続いた。”損切り”に踏み切れなかった彼らの姿勢は、現代の私たちに取っても教訓になるだろう。《”あとがき”より》
なんて言うか、その後の戦国時代の、織田信長や武田信玄、徳川家康とか名武将と違って、この『応仁の乱』にその人の一本の人生がおもしろいってキャラクターの登場はなく、、、それぞれのその時その局面で、いろんな人が取っ替え引っ替え登場して来て、それぞれの思惑(私利私欲や憎悪や復讐心)で、戦ったり、徒党を組んだり、寝返ったり、活躍してたかと思うと、あっけなく死んじゃったりする。
そこまで話の主役にいた人があっけなく死んじゃったりするので、つまりドラマにはなりにくい。
ドラマにすると、すごく尻切れとんぼになり、ドラマ的筋が通らなそうだから。ドラマ的ダイナミズムが描けなそうだから。
つまり「“尻切れとんぼの人生”を生きた有名無名な無数の人々の群像劇」
ってのが、『応仁の乱』なのだ。
でも、それが“現実”なんだと思う。
生きることってそういうことなんだと思う。
誰の人生も世界において主役なんてない。
言い換えれば、誰の人生も自分の人生において主役なのだ。
この室町時代の“ごちゃごちゃした筋のない群像劇”
僕はすごくリアルに感じられて、むしろすごくおもしろかった。
そして、天邪鬼の僕は、だからこそこの『応仁の乱』をフィクション化(小説化とか映像化)とかしたいと思った。
主役のいないドラマ。というか誰もが主役のドラマ。エンドロールの配役の順番が決められないドラマ。
そんなの作れたらおもしろいだろうな。というかいつか書いてみよう。