食器は料理の着物であるー北大路魯山人ー
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食器は料理の着物
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北大路魯山人の有名な言葉です
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季節の移ろいを
愉しむ料理と器
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最近は白や黒の
器が流行していますが
日本伝統の器として
受け継がれたのは
季節感が感じられる色絵や染付
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食事の醍醐味は
料理、器、室礼
そして愉しい語らい
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食と器そして有田焼の談義
笑いに満ちた秋の夜は
あっという間に過ぎていきました
・・・
魯山人の言葉を
詳しく列記いたしましょう
⬇️
🔹生きた食器
死んだ食器について
「そこで食器のことになりますが、せっかく骨折ってつくった料理も、それを盛る器が死んだものでは、まったくどうにもなりません。
料理がいくらよくても、容器が変な容器では、快感を得ることができません。
私は生きた食器、死んだ食器ということをいっておりますが、料理を盛って、生きた感じがしますのと、なにもかも殺してしまう食器とがあります。
茶人という者になりますと、向付に五千円、なにに五百円という具合に、よい器を欲します。
それは生きた食器だからであります。
食器が下らぬものでは料理まで生きませんから、料理と食器とが一致し、調和するように心がけるのであります。
その食器を選ぶということも、ただやかましくいうだけのことではなく、食器そのものを愛し、取り扱うことが楽しみであり、その食器をいたわりいたわり扱うというところに、料理との不二の契りが結ばれるのです。
食器が楽しいものになれば、必然、料理が楽しいものになるのです。
それはあたかも、車の車輪のようなものでありましょう」
続いて・・・
🔹料理と食器について
「いうまでもなく、
食器なくして料理は
成立しない。
太古は食べ物を
柏の葉に載せて
食ったということであるが、
すでに柏の葉に載せたことが
食器の必要を如実に
物語っている。
早い話がカレーライスという
料理を新聞紙の上に載せて出されたら、おそらく誰も食おうとするものはあるまい。
それはなぜであるか、
いうまでもなく、
新聞紙の上に載せられた
カレーライスがいかにも醜悪なものに思われ、嫌らしい連想などが浮かぶからである
カレーライスそのものだけ
なら、これをきれいな皿に
盛ろうと、新聞紙の上に載せようとも変わらないはずである。
それにも拘らず、美しい皿に盛ったカレーライスは、
これを喜んで食べ、新聞紙に載せられたカレーライスは見るだに悪寒を覚えて眉をひそめるのは、料理において食器がいかに重要な役目をするかを物語ってあまりあるといえるであろう。
もしかして、こういう感覚は一応は誰でも持っているのだが、美食家とか食通とかいうものになればなるほど、それが鋭くなる。
ほんとうに物の味が分ってくればくるほど料理がやかましくなり、料理がやかましくなればなるほど、料理を盛る器についてもやかましくなる。
これまた当然である。
しかるに、現代多くの専門家が料理を云々していながら、
その食器について顧みるところがないのは、彼らが料理について見識がないか、ほんとうに料理というものが分っていないか、そのいずれかであろう。
以上のことが分ると、それに従って次々にいろいろなことが分ってくる。
料理をするものの
立場からいえば、
自分の料理はこういう食器に
盛りたいとか、こういう食器を使う場合には、料理をこういうふうにせねばならぬとか、
いわば、器を含めて全体としての料理を考えるから見識が広く高くなってくる。
(中略)
料理と食器とは相離れることのできない、いわば夫婦のごとき密接な関係がある。
料理を舌の先に感ずる味だけとみるのは、まだ本当の料理が分らないからである。うまく物を食おうとすれば、料理に伴って、それに連れ添う食器を選ばねばならぬ。
もちろん、ひいては料理を食う座敷も、床の間の飾りもすべてがこれに伴って来るが、そのもっとも密接なる食器について意を用いることが、まず、今日の料理家に望まねばならぬ第一項であろう。
よい料理とはなにか、よい食器とはなにか、これがただちに続く問題であるが、今日の一般はまだそれを問題にするまでにさえ至っていないのを遺憾とする」
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