末法之世 4.末法思想の登場
長久の荘園停止令が発令されてから一ヶ月半ほどが経過した長暦四(一〇四〇)年七月二六日、近畿地方一体に暴風雨が吹き荒れた。平安京の被災状況が次々と朝廷に告げられ、ひと段落ついたと思ったら今度は伊勢からの被災の報告である。何しろ伊勢神宮の外宮が倒壊したというのだから穏やかではない。
この暴風雨の被災から立ち直りつつあった九月八日には京都で大規模な地震が起こった。
そして、その二日後の九月一〇日には、里内裏としていた故藤原道長の邸宅である土御門殿が火災に遭い、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)もその被災に巻き込まれた。もっとも、八咫鏡の本体は伊勢神宮に安置されており、京都にあるのはその形代(かたしろ)、つまりレプリカである上に、寛弘二(一〇〇五)年一一月一五日の内裏の火災でその形代も燃えて灰になっており、桶代(灰を納めている箱)があるだけである。
内裏が焼け落ちたために土御門殿に避難したのに、その土御門殿も被災した。そのため、後朱雀天皇は亡き藤原惟憲邸に移り住んだ。亡き藤原惟憲は、後朱雀天皇が皇太子であった頃の春宮亮であり、亡き藤原惟憲の邸宅が土御門殿の西隣であるから移動も最短距離で済み、持ち主が不在であり、それでいて里内裏として充分な機能を持った邸宅であったからである。
ただ一つを除いて条件としては最高であった。
それは、狭いこと。何しろ土御門殿の半分の大きさしかないのである。
そもそも貴族の邸宅の大きさは決まっている。皇室に嫁いだ女性が余生を過ごすための邸宅であれば貴族の邸宅の倍の広さ、皇族のための邸宅であれば四倍の広さまで認められるが、一貴族でしかなかった藤原惟憲の邸宅は貴族の邸宅の大きさに留まるしかなかったのである。
藤原道長が土御門殿に住めたのも、実質上はどうあれ、名目上は藤原彰子の邸宅だからであり、藤原道長自身は娘の住まいに身を寄せる父親というスタンスであり続けたのである。
皇室に嫁いだ女性のための邸宅であるから土御門殿は内裏になりうるだけの設備を兼ね揃えていた。藤原惟憲がいかに裕福であったとしても、いかに費用をかけて調度品を揃えていたとしても、皇族ではないという一点がある以上、その広さに制限がかかることはやむを得ないことでもあった。
内裏が燃え、里内裏たる土御門殿も燃え、後朱雀天皇が藤原惟憲の邸宅に避難するという異例事態にさらに輪をかけたのがおよそ二ヶ月後のことである。
長暦四(一〇四〇)年一一月一日の夜、京都に巨大な地震が起こった。
揺れが収まった後で起こったのは大規模火災である。翌一一月二日は京都市中のいたるところで火災が起こった。
関東大震災にしろ、阪神淡路大震災にしろ、大規模な震災は火災とセットになっている。だが、このとき京都市中に起こっていたのは自然発火ではなく放火であった。
朝廷はただちに検非違使に不眠不休の警護を命じた。検非違使たちは放火犯を次々と逮捕していった。しかし、それで根元的な問題を解決することには繋がらなかった。
民度が低いと言ってしまえばそれまでだが、民度を高める努力を朝廷がしていたのかと言われればその答えはNOである。
民度を高めるには、教育水準と生活水準の両方を引き上げなければならない。だが、その両方とも現在の日本と比べられるものではない。
平安時代の教育水準は思っているほど低くは無い。もっとも、現在のように中等教育が義務教育であり、ほぼ全員が高等教育を終え、半分が大学を出るという時代に比べると低いとするしか無い。裕福な家庭に生まれたか、あるいは寺院に入った者でなければ教育の機会は無かったと言うしかないが、それでも教育の機会を手にできた者は意外と多かった。
ただし、教育に対するインセンティヴは乏しい。少なくとも律令制の頃は教育の結果次第で自身の出世が期待できたし、出世に伴った豊かな暮らしも期待できたが、律令制が崩壊したことで教育と出世とを繋げるのが難しくなった。
かといって、豊かになる手段が失われたわけでは無い。
律令制が機能していた頃は、誰もが等しく貧しく、教育を受けて官界に入ることのできるごく一部の恵まれた人だけが豊かになれた。その一部の人になる努力をすることだけが豊かになる道であり、それ以外の方法でいくら努力しても貧しいままであった。だが、律令制が機能しなくなったことで教育が必ずしも豊かになる道ではなくなったと同時に、豊かになる方法が無限に生まれるようになったのだ。
誰もが等しく貧しければ格差問題は起こらない。だが、豊かになるチャンスが生まれると格差が起こる。豊かさは格差を伴い、平等は貧しさを伴う。
同じ無位無官の一般庶民であっても、一方はその日の暮らしもおぼつかない者、もう一方は貴族を思わせる暮らしぶりをする者、そうした二者が平安京という狭い空間の中で同居するようになったのだ。どうしてあいつが俺よりいい暮らしをしているんだという鬱屈した思いを押し留めるのが民度というものだが、その民度が低い場合、ちょっとしたきっかけで爆発する。
自然災害というのはきっかけとなるのに充分な存在である。
これだけ自然災害が続くと、何かしらの良くない原因があるのではないかと考える。ましてや、科学水準が現在とは比べ物にならない平安時代、良くない何かしらを除去するのは、超自然的な存在に頼るしかなかった。
まず、長暦四(一〇四〇)年一一月一〇日に長久へと改元した。いや、ただの改元ではない。「長暦」という元号がこの世にはなかったのだと示すかのように、長暦四年の記録がことごとく長久元年へと書き換えられた。この年に発令された荘園停止令が「長久の荘園停止令」と呼ばれるようになったのも、長暦という元号を捨て去りたいという思いがあったからである。
また、後朱雀天皇はこの頃、頻繁に神社仏閣に足を運んでいる。これはもっともわかりやすい超自然的なものへの頼み込みである。もっとも、その足取りは平安京の周辺にとどまっており、平安京の外へ泊まり込みの行幸をしているわけではない。
ただし、平安京を離れて一般庶民も参詣するような神社や寺院に足を運ぶことに違いはなく、内裏の奥に鎮座して一般庶民とかけ離れた暮らしをしているというイメージからは離れた瞬間でもある。
その一瞬を狙っての事件が起こったのが長久元(一〇四〇)年一二月二五日のこと。この日、後朱雀天皇は平安京北部にある平野社に行幸したのだが、その帰路、和泉国の百姓より直訴を受けたのである。
直訴というのは、現在の自分達の抱えている問題をかなりの高権力者に直接訴え、その権力者の力で自らの訴えを実現させようとするものである。
このときの直訴の内容はわからない。言えることは、天皇に直接訴えを届けようと考える者が出てくる時代になったということである。そこまで追い詰められた者が出てきたということもあるだろうが、そうして自らの訴えを広めようと考える者も出てきたということである。
さて、この頃の東アジアはどうなっていたであろうか?
一応の安定は続いていたが、安定を壊す萌芽が芽生えていた。
これまでの東アジアは、契丹が最強の存在であるが絶対的存在として君臨しているわけではなく、契丹の東西を挟み込むように二つの勢力が台頭してきたのである。
まず着目すべきは、タングート族の建国した西夏である。もっとも、この国号は後世の者がつけた異名で、正式な国号は大夏。それまでは宋の一部を構成する国であり、国家元首は王であった。しかし、大夏として、後世の呼び名で西夏として独立した際に、国王李元昊は、それまでの姓の李を捨てて新たに嵬名を姓とし、宋から独立した独自の年号を作り出し、漢字文化圏からの脱却を図って独自の文字体系を作り上げた。そこまでした上での皇帝宣言である。
中華王朝の概念に従えば、皇帝を名乗れるのは中国のみであり、その他の地域はいかに勢力があろうとトップは王である。ところが西夏が誕生する前に、その概念を覆して平然としている国が二つあった。一つ契丹、もう一つは日本。両国とも宋の概念に従えば宋に傅く王であるべきなのだが、契丹は宋との戦争に勝続け、日本に至ってはそもそも戦争どころか宋を相手にすらしないという態度でいる。
そこに登場した新たな帝国は宋にとって癪にさわる存在であった。いや、宋から独立したという点を踏まえれば、癪にさわるどころの話ではなく国家存亡の危機とも言えよう。もともと、北西部の安定を前提とした軍を敷くというのが大前提として存在し、軍勢に対する根拠として、そのトップに地元のタングート族の者を就けただけでなく、唐の時代に唐の皇帝より下賜された姓である李を名乗り続けることを許すことで歴史の継続と統治の正当性を与えてきたのである。唐の時代から続いてきた勢力であると認めることで成り立ってきた軍勢がそのまま国となることは、宋も認めていた。それで国の平和が作れるなら、宋の支配下にある国の誕生などどうということはない。
その上、宋はタングート族に対して毎年年貢を払っていたのである。それは澶淵(せんえん)の盟(めい)の延長でよるものであったが、少なくとも平和は平和であったのだ。
だが、それはあくまでタングート族が宋の統治下にあるという大前提である。
それが、宋の統治下を離れただけでなく、宋に刃を向ける存在へと成長してしまったのだ。それでも唐から受け継いだ統治の正当性を維持し続けてくれるならまだ救いはあった。唐の統治を受け継いだ正当性という立場なら宋も同じ土俵に立てる。ところが、唐から下賜された姓を捨てたことで唐から受け継いだという歴史の裏付けを捨てた上に、東アジアに存在していた漢字文化圏からの脱却まで図ったのだ。
このときはまだ、西夏が国家として驚異的存在ではあっても戦争の火蓋が切って落とされたわけではない。だが、それは誰もが時間の問題であると考えていた。
もう一方の新興勢力は、のちに満州民族と呼ばれることとなる女真族である。
この時点では契丹の支配下に暮らす民族の一種であったが、刀伊の入寇の前例にもある通りこの時代になると彼らの領地を超えた侵略をはじめていた。日本もターゲットになったが、最も被害を受けたのは高麗である。
国境を越えて侵略してくる女真族に対し、高麗も抵抗を見せる。しかし、この時点の高麗は契丹の属国であり、女真族は契丹人の一部を構成する民族である。つまり、女真族に対する抵抗を見せることは、高麗が、宗主国たる契丹に刃向かうことを意味するのだ。
契丹は、高麗が女真族と戦うことを認めていた。まあ、いかに宗主国であろうと、侵略者に対して抵抗するなと命じる方がおかしい。それに、契丹としても、女真族が契丹を構成する一民族であるとは言え、何度も契丹の領土内で暴れまわっていたことから迷惑な存在とも感じていたのである。
さらに言えば、契丹が高麗を服属させたのは事実であるが、高麗もまた契丹に対して何度も抵抗を見せてきた国であるのだ。現在は家臣として契丹に仕える国になっているとはいえ、いつまた反旗をひるがえすかわからない。いや、女真族が海賊となって暴れていると困ると高麗から契丹に訴えがあったので、いざ契丹が海賊を捕まえてみれば、その構成員の大部分は高麗人で、海賊たちの共通言語は高麗語だったというのだから、心中穏やかならざるものがある。
契丹にとっては、海賊であり山賊であるもの同士が潰し合いをして、契丹の方に目を向けないでくれればそれでいいのだ。そのために、契丹は覇権国家としては考えられない一つの許可を出してもいる。それは何かというと、契丹の領土の一部である江東六州を高麗に譲るというもの。
ここで契丹が高麗に譲った江東六州というのは、もともとは渤海国の領土である。渤海国を滅ぼした際に契丹の領土に組み込まれたから契丹領になったが、渤海はかつての高句麗の継承国を自認していた国であり、高麗もまた高句麗の継承国を自認している国である。この理屈で行くと、旧渤海領の一部である江東六州を高麗に割譲することは理解できない話ではない。
だが、まさにこの江東六州が、渤海国滅亡後に女真族の本拠地となっているとなると話が変わってくる。
これまでは、女親族が高麗に攻め込んでいた。今後は高麗が女親族の領土に攻め込むこととなる。いや、高麗にしてみれば自分の国の領土に勝手に住んでいる女親族の方が侵略者であって、自分たちは正当な権利の行使をしているのだとなるのだが。
新興勢力の勃興と反するように、契丹と宋との微妙なパワーバランスは、契丹と宋の双方ともが衰えることによるより不安定な拮抗へと変化した。
もともと、契丹と宋との関係を一言で言うと澶淵(せんえん)の盟につきる。これは、宋が契丹に毎年一定額の絹と銀を送る代わりに、契丹は宋への侵略を止めるというものである。
ところが、その契丹の軍事力が落ちてきていた。契丹の軍事力の、そして国力のピークにあったのが第六代皇帝の聖宗の時代であるが、聖宗が亡くなり子の興宗が皇帝になると軍事力も、そして国力も衰えを見せてきたのである。そもそも、西夏という国家を契丹の西方に誕生させてしまったという時点で、契丹の国力の低下は見てとれる。また、女真族が暴れまわっている状況も、契丹の国力がピークの頃であれば契丹自身の力でどうにかなったのに、今では高麗を焚きつけてどうにか凌いでいる状況である。
契丹の国力の衰えを宋は見逃してはいなかった。見逃してはいなかったが、澶淵(せんえん)の盟を打破することは考えていなかった。
なぜか?
契丹の衰えを上回るペースで宋も衰えてきたのである。契丹の衰えと宋の衰えとが歩調を合わせているかのように同時進行しているから、いつまでたっても宋は契丹に勝てず、年貢を払い続けなければならない状況が続いている。
この時代の日本は、東アジア全体の流れから取り残されるかのように、あるいは、日本のほうが東アジアを取り残すように、全くと言っていいほど関わりを持たなくなってきていた。
商人が行き交うことはある。だが、国書を持った正式な使節が海を渡ることはなかった。
宋が現状を打破するために、あるいは、契丹が国際関係を築くために、日本に非公式な使節を送り届けることならばあったが、その答えは常に、使節を送り出す側の期待に応えるものではなかった。日本は外交的孤立を選び続けていたのである。
外交的孤立を選んだ日本の判断を、単純に閉鎖的と弾劾することはできない。
正式な国交はないが宋との通商は存在し、正式な軍事同盟ではないが契丹との間には対宋同盟が成立している。
また、高麗に悩まされてきた、より正確に言えば朝鮮半島に存在した国々からの侵略に悩まされ続けてきたのが日本の対朝鮮半島の歴史である。
そして、高麗を属国とすることに成功したと言っても、契丹にとって高麗が目障りな存在であり続けていることに違いはない。契丹にとっての日本は、宋との関係だけでなく、高麗との関係を考えても、友好関係であり続ける方が得策で、敵対することは何のメリットもなかった。
さらに、対女真族という観点でも、日本海を挟んで女真族と向かい合う宿命を持つ日本は、契丹にとって敵の敵になるがゆえに味方になる存在であった。
日本の感覚からすれば、契丹とは渤海国を滅ぼした国である。渤海国は、律令制の頃の最大の同盟国であり、違いに使節を行き交わせる関係であった。その渤海国を滅ぼした契丹に対する感情は必ずしも良いものではなかったが、渤海国の領土を手にした契丹は、地政学の上で、渤海国がそれまで構築していた日本との関係が、無視できるものでも、破棄できるものでもないと気づかされたのである。
その結果が、非公式な同盟関係であった。国民感情を考えたとき、契丹にとってはかつての敵国であった渤海国の最大の同盟国である日本との同盟、日本にとってはかつての最大の同盟国であった渤海国を滅ぼした契丹との同盟ということになる。これを公式な同盟関係とすることはできなかった。
また、日本国の国民感情はむしろ宋の側のほうに好意的なものであった。宋が五代十国の戦乱を収束させるために大量虐殺をしたこと、そして、国外への侵略を計画し、実際に軍を進めたことは知識として知ってはいたが、それでも、発展した先進国として仰ぎ見るのは契丹ではなく宋であると多くの日本人が考えていたのである。
ところが、この時点の日本が最も戦争に巻き込まれる可能性が高かったのも宋なのだ。この時代になると宋の国力も衰えたから戦争の可能性も減ってきてはいたが、五代十国の混迷を終わらせた瞬間の宋は圧倒的軍事力を誇る国であり、日本に軍勢を向けて侵略してくる可能性もあったのだ。
国民感情がいかに良くても侵略してくる可能性の高い国と、国民感情が悪くても互いに同盟を結んだ方が国益になる国と、どちらを選べば正解と言えるのだろうか?
難しい問題である。
長久二(一〇四一)年三月四日に一つの記録がある。
上級貴族はほぼ全てが藤原氏と源氏で占められ、下級貴族もその多くは藤原氏、源氏、平氏で占められている。その他に、大学をほぼ独占している菅原氏や、陰陽寮を支配する安倍氏、医学を独占する丹波氏などがあり、それらは職業の自由とは真逆の職業の世襲が展開されていたが、世襲でなければならないと規定されているわけではない。
少なくとも、大学で学び、試験を受けて役人になり出世を重ねて貴族入りするという道そのものが消えたわけではないし、その道を目指す若者もまだ健在であった。
彼らに対する記録は時代と共に減ってきている。
減ってきている理由は二つあり、一つは、大学を出て官界入りして貴族の仲間入りする者が激減してきていること。もう一つは、大学を出たあとで試験に受かる者が続出してきていることである。
この、相反する二つの事情が彼らを追い詰めていた。
長久二(一〇四一)年三月四日に、後朱雀天皇が大学生たちを招いて漢詩を詠ませたという記録がある。そして、その三日後の三月七日に、大学生一二人を合格させたという記録がある。
菅原道真が二六歳で方略試に合格したのが驚かれたのは、その若さもさることながら、方略試に合格することそのものが珍しいということがあった。同時代人である三善清行が三七歳で方略試に合格したときに騒ぎにならなかったのは菅原道真があまりにも若すぎる年齢で合格したからであり、本来であれば合格者が出たというだけでも大ニュースになる出来事だったのである。
その方略試の合格者が増えた。
方略試以外の試験の合格者はもっと増えた。
かといって、試験問題のレベルが落ちたわけではない。
学生のレベルが上がったのだ。
学生のレベル向上は平和であることの一つの指標である。
平和になれば、まず、生活が豊かになる。生きていくために一日の全てをつぎ込んでいるようでは学習などとてもではないができない。学習のために必要なのは充分な余暇である。少なくとも、誰かが養ってくれるか、余暇が保証されている仕事をして生活できていなければ、学習のために時間を割くなどできない。
さらに、モノの豊かさ、特に、情報に関するモノの豊かさが必要である。この時代は、現在のように気軽に買えるとまでは言わないにせよ、がんばれば買えるぐらいのレベルまで本の値段が下がってきていた。それに、当時の本の値段はかなり高かったが、紙ならばどうにかなった。つまり、本を借りて書き写すことはできたのである。印刷ではなく書き写すのだから書き間違いもあるし、間違いではなく意図的な編集もあるが、それでも、情報は以前と比べて段違いに広まりやすくなったのである。
情報が広まれば学習のペースも上がる。それまでは古くから伝わる古典を暗記することだけが学習であったのに、情報が広まったおかげで、その解説も読めるようになった。また、当時では最先端の流行作品である源氏物語や枕草子も書き写しの情報として広まったが、その裏には、源氏物語や枕草子を読む上で必須となっている当時の人たちが身につけておくべき教養を学べていたというのがある。
大学に目を向けることもなく過ごしている者だけでなく、まさに大学にいる者自身も、それまでより効率的に、それまでよりレベルの高い学習が可能になっていた。
ただし、それは一つの皮肉を生んだ。
学生のレベルが上がれば、同水準の知力を持つ者、少なくとも試験で判断できる知力を持つ者が増える。しかし、試験に合格することが条件であることの役職の数が増えるわけではない。
その結果、努力に努力を重ねて念願の合格を果たしても、努力に見合った結果が得られないのだ。
これは現在の日本を思い浮かべていただければよりよく理解できるであろう。
高校受験、大学受験と、難関試験をくぐり抜け、名門大学を卒業するのを目標とするのは、そのあとに未来が待っているからである。キャリア官僚や一流企業の正社員といった将来の安定と充分な収入が期待できる職業に就くために、努力に努力を重ねているのである。
ところが、その絶対数は変わらない。
しかし、充分な学歴を持って卒業する者は続出している。
すると、要望する職に就くことができなくなる。高望みするからだとか、選ばなければ仕事などいくらでもあるなどという批判の声は全くの無意味である。高望みし、仕事を選ぶために人生の全てをつぎ込んできたのであり、しかも、高望みして仕事を選べるだけの結果を残してきたのである。
よく、学生のレベルの低下を嘆く声が聞こえるが、これもまた現実を見ていないとするしかない。かつて、大学生は同学年の一割しかいなかったのに、現在は同学年の五割が大学生になれる時代であるというのは誰もが認める事実である。だが、学生の数が増えただけでなく、全員とまでは言わないにせよ、現在の学生の圧倒的大多数は、同学年の一割しか大学生になれなかった頃の学生と比べてはるかに優れている。一割の頃、つまり、大学生がトップエリートだった頃の学生が現在にタイムスリップしたとしたら、良くて落ちこぼれ、そうでなければそもそも大学受験で落とされるレベルの知力しかない。逆に言えば、現在の三流大学の学生が現時点の知力のまま一割だけが大学生であった頃の時代にタイムスリップしたとしたら、三流大学ではなく一流大学の学生に、それも、かなりの好成績で入学して好成績で卒業する学生になっているであろう。
話を平安時代に戻すと、この時代の大学には菅原道真クラスの秀才が数多くひしめいていたのである。その数があまりにも多すぎ、かつてであれば合格者がいたというだけでニュースになるような試験でも、今となっては合格者が掃いて捨てるほどいる時代になったのだ。
後朱雀天皇のもとで和多くの合格者が出たことは、後朱雀天皇の優れた業績の一つとして記録に残された。しかし、その合格者に見合った職業を用意したかどうかは別問題である。
この対応の誤りもまた、のちの混迷の一因となっていくこととなる。
南都北嶺の対立もさることながら、北嶺の内ゲバである比叡山延暦寺と園城寺との対立もまた消えていない。
消えないのは当然で、敵の存在は集団をより強固なものにさせる。たとえば、政府に反対するデモに参加する人たちは、主張の中身はころころ変えてきたが、その面々に変化はない。どんな題目を掲げようと、同じ人たちが集まって、同じ想定敵に対して攻撃をし続けている。集団を作り上げるのに必要なのは、自らの考えではなく、敵の存在である。そして、現在は敵に苦しめられており、敵に勝ったという過去と、敵に勝つであろうという未来を希望に集団の一員であり続けているのである。対抗するために掲げるスローガンは、実現させようとか、どういう社会にしようとかを訴えるものではなく、敵を悪と決めつけるための無意味なマントラに過ぎない。
厄介なのが、こうした集団が複数あり、相互に敵対し合っている様子である。
複数ある集団であっても、共通敵があって、共通敵に対して一致団結しているならまだいいのだが、共通敵が存在せず、ただただ相互に敵対するだけの関係になっていると、無意味な対決を繰り返すこととなる。よく「内ゲバ」なんて言葉を耳にするが、あれは集団の一員である自分に酔い、仮想敵に対して攻撃することが麻薬のようになっている者ならば必ずと言っていいほどに起こすことであり、そもそも麻薬中毒になってない人間は最初からそんな集団に関わらない。もし内ゲバが無いとすれば、それは、仮想する共通敵が存在し、かつ、その共通敵扱いされている存在が寛容に接してくれているだけのことである。
延暦寺と園城寺の対立は、もし共通敵が存在していたら起こらなかったであろうし、朝廷が共通敵になることを受け入れていたらそれで解決していたであろう問題である。
藤原道長の時代、藤原道長に対する悪評は数多く溢れていたが、藤原道長が自らの悪評をそれを取り締まることはなかった。それどころか、現在の言論の自由の概念でも説明できる考えで全ての言論を許してきたのである。
しかし、藤原頼通の時代になってそれが無くなった。藤原道長の受けていたような悪評の材料を藤原頼通が持たなかったがゆえに、批判を受けることはなかった。受けることはなかったが、そのために、朝廷が共通敵になる能力も失ってしまったのである。
一度生まれた対立は、どうでもいいことで激しい対立を見せるようになる。周囲には「そんなどうでもいいことでなんで対立するの?」となるが、当人にとっては重要事なのだ。どうでもいいかどうかではなく、敵に対して譲歩できないという問題になるのである。
長久二(一〇四一)年五月一一日に、園城寺から戒壇の設立を認めて欲しいとの請願があがった。本来であれば園城寺のことなのだから比叡山延暦寺には関係無い話である。にも関わらず、五月一四日に比叡山延暦寺が、園城寺の戒壇設立反対を訴えるデモを起こしたのである。一方、園城寺は園城寺で戒壇設立を求めるデモを起こす。
敵対する二派のデモがぶつかったらどうなるか? 間違えても手を取り合ってのダンスパーティーになどなるわけがない。
長久二(一〇四一)年八月一六日、小一条院敦明親王が出家した。三条天皇の第一皇子で、一四歳下の後一条天皇の皇太子であった敦明親王は、一言で言うと忘れられた皇族である。
かつて皇太子であったと言っても、前述の通り後一条天皇は一四歳も下であり、皇位に就く可能性は極めて低かったことに加え、藤原実資や藤原行成の日記を読む限り、性格がかなり粗暴であったことから付き従う者も少なく、上皇に匹敵する権威を与えることを条件に皇太子の辞職を飲み込ませたという事情がある。小一条院の尊号も、本来なら上皇にならないと得られない尊号であるが、特例として与えられたものであった。
それ以後、敦明親王に対する記録は姿を消す。
そして、久しぶりに出てきたのが敦明親王の出家である。
普通に考えればこれで敦明親王は完全に表舞台から姿を消したはずになるのだが、敦明親王は最後の最後で大きな爆弾を仕掛けていたのだ。この年元服したばかりの基平親王である。このときは臣籍降下して源基平となっていた。このときわずか一五歳。しかし、その地位は上皇の実子としてのそれであり、藤原氏など足元にも及ばない地位からスタートするのである。母が藤原頼宗の娘であるといっても、源基平が意識するのは自分が皇族出身であるという点であった。
この源基平の元服の儀が行なわれたのは長久二(一〇四一)年一二月八日のこと。元服と同時に従四位上になったのはひとえに父が上皇に等しい皇族だからで、源基平個人の資質によるものではない。のちにその資質は判明するのだが、この時点ではまだである。
皇族や、主な貴族の元服の儀は内裏で行なわれるのが通例であるが、このときはまだ内裏再建工事中である。とは言え、内裏はほとんど完成していたのだ。だから、もう少しタイミングを遅らせてもいいのではないか、内裏が完成したら改めて元服の儀をすべきではないかと考えるのは現代人の考えであって、当時の人にとってそれは許されることではない。
まず、内裏が完成したら、内裏の完成を祝う儀式だけが行なわれる。その日は吉日でなければならず、いかに人生の一大イベントであると言っても元服の儀をぶつけることは許されない。それは皇族とて例外ではない。仮に皇族には特例として認められたとしても、既に臣籍降下して一庶民たる源氏になった源基平には許される話ではない。ゆえに、元服の儀は内裏完成の吉日以外を選ばねばならない。
ところが、年は既に年末になっている。一二月一九日に内裏に戻る前提で年末の儀式が立て続けに組まれており、後になって元服の儀を追加することなどできない。空いている日となると凶日ぐらいしかないのだが、現在ならばともかく、この時代、自分の元服の儀をそんな日にしようとする人も、我が子の元服をそんな日に行なおうとする親もいない。
かと言って、翌年に繰り越してしまったら元服するには遅すぎる年齢になってしまう。元服の儀をするには年内にするしかないのだ。
そのための妥協点が、里内裏での元服の儀であった。文字どおりの内裏での元服の儀にすることを諦める代わりに吉日での元服の儀とする。これが源基平の選んだ反逆だった。
反逆と書いたのは間違いではない。
第六二代村上天皇の子からは二人の天皇が出ている。第六三代冷泉天皇、第六四代円融天皇の二人である。そのうち冷泉天皇の血を引いている天皇として、冷泉天皇の子の第六五代花山天皇と第六七代三条天皇の兄弟がいる。この冷泉天皇系の皇族に共通しているのが藤原独裁への挑戦であった。いずれも失敗したが、花山天皇も、三条天皇も、藤原北家が独占する政治からの独立を目指し、ときには大々的に、ときには秘密裏に、藤原氏と対立してきたのである。
その三条天皇の孫にあたるのが源基平である。源氏となり皇族から離れたことで、自身や親族が皇位を手にする可能性は減った。しかし、そのために帰って自由になれたのである。
忘れないでいただきたいのは、天皇というのは日本国の国家元首であり、その命令は最終決定であっても、事実上、命令を発することはほとんどなかったということである。中には天皇親政を展開した天皇もいるが、そうした天皇はむしろ例外で、多くの天皇は家臣たちの合議の結果を受け入れて、天皇の名で命令を発しているのである。
村上天皇は天皇親政に成功したが、花山天皇も三条天皇も天皇親政に失敗した。それは、実際に権力を操れる立場にある藤原氏と敵対する姿勢を貫いたからである。村上天皇は藤原氏との融和を前提として天皇親政を展開したということを学ばなかったのかもしれない。
その姿勢は三条天皇の子である敦明親王にも、敦明親王の子である源基平にも受け継がれた。ただし、源基平は父や祖父と違って皇族を離れて一貴族となっている。つまり、天皇として藤原氏と対立するのではなく、合議の場において藤原氏と対立するチャンスを手にしたということである。
源基平には一つの計算があった。
後朱雀天皇から冷遇されている皇后禎子内親王と子の尊仁親王である。
現時点で皇位継承権筆頭は親仁親王であり、尊仁親王は皇位継承権でいうと二番目である。理論上、長男である親仁親王が皇位継承権筆頭で、次男である尊仁親王が二番目なのはおかしな話ではない。しかし、皇位継承順は長子優先と決まっていない。親仁親王の母は関白藤原頼通の妹である今は亡き藤原嬉子であり、尊仁親王の母は皇后禎子内親王である。一応藤原氏の血筋を引いてはいるが、意識としては皇族である。
皇族であることを強く意識する敦明親王とその子の源基平にとって、皇后禎子内親王と尊仁親王への接近はさほど難しい話ではなかった。
この時代の人の中に、それまで連綿と続いてきた藤原独裁に対抗する勢力が生まれつつあることに気づいた人がどれだけあったろう。おそらく、当人たち以外に反藤原勢力を自覚する者はいなかったとしても良い。
ただし、反藤原を掲げた政権を打ち立てたとしても、天皇親政になるか、藤原氏以外の者が大臣や摂関になる、つまり、現存する政治体制がそのまま残り、人を入れ替えるだけであるというのは現代人の常識であったとするしかない。
ところが、視線を朝廷の外に向けると、朝廷という統治システムに寄らない政治体制への萌芽が姿を見せつつあったのである。
まず、関東地方に目を向けると、鎌倉を本拠地とする清和源氏の支配が着々と進行しつつあった。もともと関東地方は平氏の勢力の強い地域であったのだが、平忠常の乱を清和源氏の源頼信が平定したことで、関東地方の武士たちが源頼信の配下へと加わっていったのである。
武芸を主とする一族であることに加え、摂関家のつながりも強く、源頼義という文句なき後継者もおり、源頼信自身が朝廷から官職を賜った国司であるというのは、関東地方の武士たちにとって自らのリーダーたるに相応しい要素であった。
前述した通り、関東地方土着の武士団はその多くが平氏である。江戸、千葉、秩父といった、現在では地名として残る名も、この当時は土着の武士団の名乗る苗字であり、言うなれば通称であった。朝廷からの正式な文書における彼らはあくまでも平姓なのである。
その平氏である彼らがこぞって源氏である源頼信の家臣となった。そして、この時代から一〇〇年以上あとの源平争乱で彼らの子孫は源氏の一員として戦った。西国へ逃げ行く平氏たちから「同じ平氏なのになぜ我々を攻め立てるのか」などと言う声は聞こえてこないし、西国へと軍を進める彼らの口から「なぜ同じ平氏を攻めるのだ」という疑問の声も出てこない。以前、クリエンテスとパトローネスという古代ローマにおける人間関係が平安時代にもあったと記したが、ここでの関係もまさにパトローネスである源氏とクリエンテスである平氏の子孫という関係であり、それは自らの姓が何であるかよりも優先されることだったのである。
ただし、後世の幕府の源流となる関東地方の人間関係がいかに成立していようと、源頼信自身は自分のことを貴族であると考えていた。武器を持って戦うし、武人としての人間関係を築いているが、それは貴族である自分が国司としての職務を果たすのに必要だからしていることであり、貴族として中央で立身出世を果たすことが人生の第一目標であったのである。
先に源頼信を清和源氏と記したしそれは間違いでないのだが、正確に言うと三系統に分かれている清和源氏のうちの河内源氏である。清和源氏を武人の家系とした祖である源満仲の三人の子のうち、長男で、藤原道長の忠実な家臣として名を馳せ、頼光四天王という伝説も生み出した源頼光の子孫が摂津源氏、次男の源頼親の子孫が大和源氏、そして、三男の源頼信の子孫が河内源氏である。系統名を示す地名は本拠地としていた地名であり、このことからもわかる通り、いかに鎌倉を中心に関東で勢力を築いていようと源頼信は京都に近い河内国を本拠とする武士団のトップであり、京都の貴族社会と密接な関係を築いていたのである。
それは、息子たちの処遇についても言える。
武人としての後継者は長男の源頼義であり、それは源頼信に仕える武士たちも文句なかった。何より頼れる武士であった。
長男の頼義とは別の道を、次男の頼清に用意した。その道とは、貴族の道。
中央政界に身を置き、各国の国司を転々としてキャリアを積み上げる貴族たることを父は願い、次男はその願いに応えてきた。それこそが、本来は貴族である源氏として相応しい未来であると革新していたのだ。
その結果、兄である源頼義と七歳差がありながら、弟の方が先に中央政界で出世していくという、兄にとっては悔しさも感じさせる結果を生み出した。
源頼信自身はそれが家のためになると考えていたのであろうが、それは間違っていた。自身が関東に赴くにあたり、武人としての能力だけでなく、国司という公的地位が関東地方の武士たちを揺り動かしたことを忘れていたのかもしれない。
また、源頼義はその武芸で新たな人脈を築くことに成功していた。小一条院敦明親王である。もともと源頼信は藤原摂関家に仕える武人であり、その武人としての主従関係は藤原氏の当主が藤原道長から藤原頼通に移ってもなお継続していたが、武を認めてきた藤原道長と違い、藤原頼通は武を重く見ない。それどころが不浄のものとして遠ざけようとしている。一方、冷遇されている敦明親王は狩猟を趣味とする人でもあり、武に対する理解も藤原頼通より深いものがある。
完全に藤原摂関家との関係が切れたわけでも、それどころか藤原摂関家を相手にする以上の太さのパイプを構築したわけでもないのだが、気が付けば敦明親王の側近の一人として姿を見せるようにもなったのである。これは後年、藤原摂関政治の衰退と院政の勃興に際し、源氏が院に近い場所に居られる遠因になった。
弟に先を越された源頼義がはじめて国司になったのが、長元九(一〇三六)年のこと。任国は安芸国。年齢は既に五〇歳を目前としており、弟と比べあまりにも遅すぎる出世であった。ただし、源頼義は誰もが羨む財産を二つ手にしている。一つは父から受け継いだ鎌倉、そしてもう一つは、源義家、義綱、義光という三人の子である。特に、長男で後継者となる源義家は、源氏そのものの命運を定めることとなる巨大な存在となるのである。源頼光の思惑とは逆に、武で身を立たせる宿命を背負わせた息子とその子孫が、文で身を立たせる宿命を背負わせた息子とその子孫の上に君臨する時代がやってくるのである。
歴史の中に奇妙な空白があるとき、それは、以下のいずれかを意味する。すなわち、記すべきことが無かったのか、記すべき手段が無かったのか、あるいは、歴史資料が失われたかである。
東北地方の場合は、一番目と三番目に該当する。
まず、東北地方には、関東地方における平清盛や平忠常、瀬戸内海における藤原純友のような存在がなかった。厳密に言えば元慶三(八七九)年に終結した元慶の乱という大事件があったが、それ以後、京都で特に強い関心を引き寄せるような大事件は無かったのである。
京都で特に強い関心を引き寄せなくても、東北地方で、つまり現地で強い関心を引き寄せた場合は、当然ながら現地で記録が残る。そして、記録を残したという記録ならば残っている。問題は、その記録の多くが失われてしまったことである。奥州藤原氏の本拠地とある平泉には東北地方に関する膨大な記録が残されていたことが判明しているのだが、奥州藤原氏の滅亡とともに灰になって消えてしまったのだ。
その結果、東北地方にとっては重要であっても京都にとっては重要では無いとされた記録は無くなってしまったのだ。
ただし、歴史の奇妙な空白のうちの二番目である「記すべき手段が無かった」には該当しない。上述の通り平泉に莫大な資料が残されていたということは、東北地方に文字を自由自在に操れる人たちが存在していたことを意味する。これは秋田城跡などの遺跡からの出土品からも判明している。
東北地方の歴史は元慶三(八七九)年の元慶の乱の終結から、東北地方に関する文字資料が極めて乏しくなる。これに対して、例えば田牧久穂氏は、元慶の乱により東北地方北部が朝廷の支配下から脱したと主張している。その証拠として、延喜一五(九一五)年に十和田湖火山が大噴火し夥しい被害が生じたことが明らかになっているにも関わらず、その噴火について記した史料が乏しいこと、承平年間(九三一年から九三八年)に成立したことが明らかである和名類聚抄に東北地方北部の地名がほとんど出てこないことなどを挙げている。
一方で、元慶の乱において朝廷側に立った者が元慶の乱の後も朝廷の庇護を受けて現地に滞在していたことを記した木簡が発掘されているほか、その後も京都を中心軸とする交易の痕跡があること、現在も残る現地の方言が平安時代の日本語に由来する単語であることなどから、朝廷権力の完全なる支配下ではないにせよ、少なくとも日本国から完全に独立した地域では無かったことも読み取れる。
平安時代の東北地方に関して着目すべき点がある。そもそも桓武天皇はどうして東北地方を平定しようとしたのか。そして、どうしてその戦いが三八年という長さに渡って継続されたのかという点である。
この点は、日本が東北地方に住む人たちに対して侵略したという視点では解決できない。この視点は、日本がやっていたのはあくまでも自衛であること、それも、当時の考えで自衛であるだけでなく、現在の考えでも充分に自衛であることを考える必要がある。身を守るために必死だったからこそ三八年もの長きに渡る自衛戦争に耐えることができたのだ。侵略であれ、犯罪であれ、被害を受けた側は抵抗する権利がある。その権利すら認めないような人は、探せばいるかもしれないがかなり能天気な人とするしかない。目の前で奪われ、犯され、殺されているというのに黙って見ていろなどというのは暴論である。
桓武天皇が軍勢を差し向けたのは、そして、その戦争が三八年にも渡って続いたのは、まさに東北地方に住む人たちが侵略者となって連続して襲いかかってきたからである。身を守るために抵抗し、家族を守るために抵抗した結果が三八年間の戦いであった。
この、東北地方に住む人たちのことをかつては蝦夷と言い、この時代も自分を蝦夷と考える者が数多くいた。そして、この時代の文献資料にも蝦夷と記されている。蝦夷というのは、彼らの自分自身に対する呼称「エムツィウ」の漢字表記である。現在はこの漢字を「えぞ」と読むが、当時は「えみし」と読んでいた。なお、平安時代にはSの発音がなくTSなので、「えみし」と書いて「エミツィ」と発音する。
もともと、日本列島に住んでいたのは彼ら蝦夷だったのである。現在は彼らのことを縄文人と呼んでいる。縄文式土器を使い、初歩的な農耕はあるものの狩猟採集を生活の中心としてきた彼らは、時代とともに大陸から渡ってきた人たちと融合して稲作を中心とする弥生人へとなっていった。ただし、全員が弥生人になったのではない。
稲作を生活の中心とする弥生人と溶け合わなかった縄文人はたくさんいた。そもそもイネというのは熱帯性の植物であり、寒冷地に適した農作物ではない。ゆえに、農耕に適さない気温の地域は弥生人になりようがない。ただし、どこからどこまでが農耕に適した弥生人の地域で、どこから先は農耕に適さない縄文人の地域であるかなど明確な線引きとならない。そのため、境界線は不明瞭となる。
縄文人にしてみれば後からやってきた新参者ということになるのだが、そう簡単にはいかない。弥生人だって人が住んでいるところに乗り込んでいって住まいを占領するなんてことはしていない。人の住んでいない、しかし、農耕の向いている場所を選んで住み着いたのである。
縄文時代の日本列島の人口は圧倒的に東日本に集中しており西日本は閑散としていた。同じ言葉を話す人たちという意識はあったが明瞭な国家意識はなく、国境侵犯という概念も無い。海の向こうからやってきた人が住み着いたところで無人の地に住んだだけのことで何の問題も無い。
しかし、知っている土地に自分たちが知らない人がいつの間にか現れているだけでなく、そこには自分たちが夢にまで見ていたもの、すなわち食料があるというのは、一つの結末を招く。狩猟採集を生活の中心とする者は、森や野原、あるいは海の動植物だけを食糧源とするわけではない。彼らにとっては、農作物もまた狩猟採集の対象なのである。
農地に住む者にとってはたまったものではない。働いて得た収穫を遠くからやってきた縄文人たちに奪われ、犯され、殺されるのである。平和的な交易ならまだ話はわかるが、武器を持って襲いかかってきて根こそぎ奪い尽くす相手に、話し合いなど通用しない。
桓武天皇が求めたのは、そして、三八年間の戦争の結果で得たものは、縄文人たちが襲いかかって来ない暮らしであった。東北地方が朝廷の支配下に組み込まれたと言っても、それはただちに東北地方全体が日本文化一色に染まったことを意味するわけではない。それ以前に、当時の農耕技術では稲作を中心とする日本文化を浸透させようがない。
朝廷の支配下に組み込まれた蝦夷たちに命じられたのは、襲い掛からないことだけであった。日本に対して攻め込まないのであればそれまでの暮らしをし続けても問題なかった。元慶三(八七九)年に終結した元慶の乱は、朝廷の支配下に組み込まれていることを受け入れない蝦夷たちの最後の抵抗の記録だったのである。
ここで着目すべき記録がある。
それは飢饉の記録。
日本国の飢饉の記録は、社会主義政策そのものである班田収受が崩壊したと同時に激減し、現在の資本主義とほぼ合致する荘園制が広まるにつれて完全に消滅した。例外とすべきは平将門や藤原純友が暴れ回っている頃だけだが、どうやらその例外とすべき頃ですらも東北地方だけは平穏無事であったようなのである。
理由としては意図的な移住政策が挙げられる。
人口増による食糧危機は現在でも珍しくない話である。だが、平安時代の朝廷は、日本国に降伏した蝦夷を、俘囚(ふしゅう)として日本国に受け入れて移住させてきた。
コメの品種改良が進んだことで、本来ならば熱帯性の植物であるイネが寒冷地である東北地方でも栽培できるようになったが、それでも増え続ける人口を充足できるほどの収穫ではない。現在、東北地方だけでなく北海道でも大量のコメが収穫でき、ササニシキやあきたこまちをはじめとする東北地方のブランド米も珍しくなくなっているが、平安時代の東北地方の稲作は、存在した者の満足いく収穫が期待できるほどの産業ではなかったのである。
それをどうにかしたのが移住の推進である。東北地方で狩猟採集生活をしている者にとって、安定した食料を得られる農業は当時の憧れの最先端技術であり、農業で生活するのは最先端の暮らしであった。そして何より、生活水準が狩猟採集と比べて抜群に安定していた。現在からすると不安定に感じるであろう生活水準であるが、当時としてはかなり高いレベルの生活水準であった。無論、農村で暮らすことを決めたとしても、農家に生まれ育った者と違って農業技術を身につけているわけでは無いから即戦力とはならない。だが、農業に直接携わるのでなくても農村で生きていける手段はあった。正確に言えば朝廷がそれを推奨していた。
初代は農村を守る武人。二代、三代と年数を重ねることで農民へとなっていくのである。既に存在する集落に入ることもあったし、新しく作られる荘園のメンバーとしてカウントされることもあった。その中には、武士を兼ねることを選んだ者どころか貴族に名を連ねる者もおり、家系図をたどれば先祖が俘囚であったことなど何のハンデにもならなかったのである。
この俘囚という単語は藤原頼通の時代なっても存続し続けていた。日本の支配下に入った蝦夷のことを俘囚というとは言え、その呼び名は世代を超えて続くものではない。先祖が俘囚であった者のことを俘囚とは呼ばない。あくまでも日本のもとに降った蝦夷だけが俘囚である。つまり、俘囚が続々と登場していることは蝦夷が消えたわけでは無いことを意味する。
北海道のことをかつては蝦夷地と呼んでいた。文字通り蝦夷の住む土地である。だが、奈良時代までの蝦夷地は北海道だけではなくもっと広かった。東北地方、北海道、千島列島、樺太、さらには沿海州までが一つの縄文文化圏であったのである。その東北地方が京都の朝廷の支配下に入り、京都の朝廷と蝦夷との国境は津軽海峡になった。
とは言え、これは閉ざされた国境では無い。それどころか、北海道から海を渡って東北地方に移り住んだとしても日本はそれを受け入れていたのである。その結果、蝦夷を日本に帰化させても帰化させても蝦夷は相変わらず居続けることになったのだ。
少なくとも東北地方に飢饉は無かったし、国策として東北地方からの俘囚の移住を奨励してもいた。ただし、それでもたらされたものは問題の先延ばしでもあったのである。
平安時代の東北地方というと登場するのが奥州藤原氏。
この奥州藤原氏であるが、藤原氏を詐称しているわけではない。藤原氏のように朝廷の中心に君臨する貴族となると、藤原氏でもないのに勝手に藤原氏を名乗る者が現れるものだが、奥州藤原氏の系図にしっかりと奥州藤原氏の祖とされる藤原頼遠の名が記されており、後世の人も藤原氏の一部が東北地方に勢力を築いたと見なしていた。
しかし、関東地方における源氏のように、藤原氏の一部が東北地方を自らの勢力下に置くようになったわけではない。
昔ながらの狩猟採集の暮らしをする者にとって、京都の朝廷が推し進める政策は特に不具合のあるものではなかった。何と言っても狩猟採集生活では期待できない安定した暮らしが期待できるのである。
とは言え、京都の権力におとなしく組み込まれているわけではない。関東地方に住む者は京都の朝廷の権威を受け入れていたが、東北地方に住む者は、朝廷権力を把握してはいても権威を完全に受け入れているわけではないのである。関東地方の民衆にとって平氏や源氏といった血筋はかなりのステータスを打ち立てる要素であったが、東北地方においてそれは期待できるものではなかった。奥州藤原氏が藤原氏の血を引く身であると言っても血筋だけで黙らせることのできるものでは無かったのだ。後述することになるが、奥州藤原氏が権威を打ち立てたのは、藤原の血筋によるものではなく、その実力によるものであった。
関東地方で、あるいは東北地方で新たな時代への萌芽が芽生えていた頃、京都でも新たな時代への萌芽が芽生えていた。
小一条院敦明親王の子の源基平が朝廷に姿を見せたのが一五歳。他の面々と比べて異例の若さであるが、ただ一人の一〇代であったわけではない。源基平よりは歳上だが、一八歳という若き貴族が朝廷に姿を見せていたのである。
その若者の名を藤原通房(ふじわらのみちふさ)と言う。名前から想像できるように藤原頼通の実の子だ。と書くと、このような疑問が湧いてこないであろうか?
藤原頼通の後継者は源師房ではないか、と。
その通りで、この時点でも藤原頼通の後継者は藤原氏ではない源師房とされていたのである。 この時点で五一歳の藤原頼通の後継者は、この時点で三三歳の源師房であるというのは誰もが認めるところであったのだ。ただ、源師房の次がいなかった。
そもそも三三歳の者に子供がいるとしても、その子が成人を迎えているとは考えられない。源師房は三三歳の時点で二人の息子と四人の娘に恵まれていたが、長男の源俊房はこの時点でまだ七歳である。いくらなんでも七歳の児童を次の次の後継者にするなど許される話ではない。
だが、一八歳の藤原通房ならば、藤原頼通の次の次の後継者としておかしな存在ではなくなる。藤原頼通が第一線を退いたら源師房が、源師房が退いたら藤原通房が後を継ぐというのであれば年齢で言っておかしな話ではなくなる。
ただし、藤原通房には一つ問題があった。
藤原通房は母の身分の低さから後継者候補から外されていたのだ。藤原頼通の後継者として源師房が指名されていたのは、本人の資質もさることながら、村上天皇の実の孫という血筋の良さ、そして、姉である隆姫女王が藤原頼通の妻であるという点もある。隆姫女王が男児を産み、その男児がある程度の年齢になったら、源師房は甥であるその男児に権力を継承させるというのが既定路線となっていた。
ただ、まさにその隆姫女王が理由となって頓挫した。
隆姫女王は子供を産めなかったのだ。
藤原頼通は、隆姫女王以外の女性との間には子をもうけているのだから、不妊の原因は夫ではなく妻にある。現在の医学をもってしても妊娠を望みながら妊娠できない夫婦は数多くいる。ましてや今から一〇〇〇年前となったら妊娠への望みははるかに乏しい。
隆姫女王は嫉妬深き女性であったと記録に残るが、その記録はこの時代から二〇〇年も経た時代に記された史料であり同時代史料ではない。ただし、隆姫女王以外の女性が産んだ藤原頼通の子が、ある者は養子に出され、ある者は出家させられているのは記録に残る事実である。藤原通房が養子に出されることも僧籍に入れられることもなかったのは、特別な資質を持って生まれてきたからではない。母の身分の低さに、最初から相手にされなかったのである。
それに、その頃はまだ、隆姫女王がそのうち妊娠すると思われていた。村上天皇の孫というこれ以上ない高貴な血筋の女性が子を産めば、その子はこれまでの藤原氏の誰よりも圧倒的存在を伴った権力者になれる。理論上は。
その理論はまさにその隆姫女王が子を産めないという時点で頓挫し、セカンドプランへと移行せざるをえなくなった。それが、隆姫女王の実弟である源師房である。源師房を藤原頼通の後継者にすることで藤原北家の作り上げてきた、そして、藤原道長が強固なものとさせた摂関政治は継続されるのである。このセカンドプランが既定路線となり着々と進んでいた。ここまでは藤原道長が生前に決めていたことである。
そのセカンドプランを強化させたのが藤原頼通である。もともと母の身分の低さから後継者としてカウントされていなかった藤原通房を呼び戻し、源師房の後継者にしたのである。藤原頼通の実子であるから藤原摂関家の権力継承に問題はない。ただし、母の身分が低い。
そのハンデを補うために採られたのが、源師房の娘を藤原通房に嫁がせることである。こうなると、母の身分が低いなどと言っていられなくなる。何しろ村上天皇の曽孫を妻としている男性ということになるのだ。それに、今まで母の身分の低さから相手にしてこなかった隆姫女王も、弟の娘の夫とあっては相手にするしかなくなる。そして、姪が子を産み、その子が藤原氏の後継者として世に出るのであれば大叔母である隆姫女王の体面は充分に保てるのである。
さて、先ほどから藤原通房の母親のことを「身分が低い」「身分が低い」と連呼しているが、隆姫女王に比べれば身分が低くても、世間一般で見れば決して低いものではない。
藤原通房の母の名は記録に残っていない。残っているのは「対(つい)の君(きみ)」という呼び名だけである。ただし、この女性の父親は源憲定である。源憲定は源氏であるが元をただせば皇族で、現在進行形で皇族の一員である隆姫女王と比べれば一段下になるが、皇族であった頃の地位は同等である。
何度も記しているが、皇族には三種類ある。天皇および天皇に匹敵する地位にある皇族、天皇に就く資格のある皇族、天皇に就く資格のない皇族の三種類である。
天皇および天皇の匹敵する地位にある皇族とは、天皇、皇后、皇太后、太皇太后、上皇、法皇である。小一条院敦明親王は、一応は上皇と匹敵する待遇を受けているが、実際にはこの中にカウントされてはいない。
残る天皇に就く資格のある皇族と、天皇に就く資格のない皇族との違いであるが、これは簡単である。前者は親王、後者は王である。女性ならば、前者は内親王、後者は女王となる。
皇族から離れて臣籍降下する場合でも、前者であれば源姓を与えられるが、後者は平姓になるという明白な差別が存在する。もっとも、国家予算を鑑みて皇族を減らさなければならなくなったとき、どうしても皇族から離れたくない人を説得する材料として、特例として親王でもないのに源姓を与えられることがあったし、自身はまだ王であっても、父親が親王になっていて、かつ、父親が臣籍降下した場合は父の姓に連動して自身も源姓になるので、厳密に適用されたわけではない。
隆姫女王はその名が示す通り、天皇に就く資格のない女王である。たしかに皇族であるが、皇族としての地位は最も下に位置する。いくら村上天皇の実の孫だと言おうと天皇の実の孫など掃いて捨てるほどいるのがこの時代の貴族社会の現実であった。そこで皇族たることに固執し、村上天皇の孫であることを自らのプライドの源泉としていたのは、それしか自尊心を保つ手段が無いからである。夫が関白左大臣藤原頼通であるというのも「皇族である自分に相応しい結婚相手は皇族。妥協に妥協を重ねて仕方なしに庶民である藤原頼通の妻をしてあげている」という認識になる。
このような人は、自分よりも格下に認定できる人がいたら、遠慮することなく尊大に振る舞う。自分と同じ皇族の女性から生まれた子ならともかく、そうで無い女性から生まれた子が自分の子としてカウントされるのは我慢ならなかった。ましてや、源憲定と言えば安和の変で追放された源高明の息子である。言わば犯罪者の子であり、その娘は犯罪者の娘である。夫がそのような女性と関係を持って男児が生まれたというのは悔しさを爆発させるに充分な要素であった。
その悔しさも、実弟の娘を妻とする男性となれば多少は和らぐ。ただし、あくまでも和らぐであって、手放しで迎え入れるものではなかった。
隆姫女王が嫉妬深き女性であったかどうかはわからない。しかし、自らの血筋にプライドを持っており、そのプライドは何よりも優先されることであったことは言える。
隆姫女王以外の女性から生まれた藤原頼通の子たちが、ある者は養子に出され、ある者は僧籍に入れられたのも、国家の安定とか、藤原氏の血筋とかという以前の問題、つまり、幼児の命の問題があったからとも考えられる。虐待する親というのはニュースになるが、どんなにニュースになって伝えられてもそのような親が一人もいなくなることはない。ましてや自分が原因である不妊であり、夫が自分よりも身分の低い女性と関係を持って子をもうけたとあっては怒りを呼び起こしやすくなる。養子に出したり出家にさせたりしたのは、政略という次元ではなく、殺されないようにするためという次元の話だったのではないか。
藤原通房は生まれてすぐに藤原道長の元に預けられている。母親の身分の低さから早々に後継者争いから除外されていたからであるが、同時に、さすがに藤原道長のもとであれば命の危機は感じないでいられたという現実もあった。
それが年月を経て、気がつけば藤原頼通の次の次の後継者としてクローズアップされる存在になったのである。排除しすぎた結果であった。
未来には二種類ある。過去から継続する未来と、突然現れる未来である。藤原頼通の後継者が源師房であり、源師房の後継者が藤原通房であるというのは過去から継続する未来である。何年何月何日にどうなるかがわかっていなくても、未来はこのようになるとわかっていれば対策だって立てられる。
一方、災害となるとその大部分は突然現れる未来になる。突然の地震、突然の火災、突然の伝染病など、何の前触れもなく現れてきた災害は歴史に幾度となく記録されている。ただし、天災はともかく、人災となると一〇〇パーセント予期できなかった災害とは言い切れない。国際関係の悪化が戦争を招き、国内問題の悪化が内乱を招くものである。つまり、前もって国際関係や国内問題に対処しておけば、人災に発展する前に災害そのものをなくすことも決して不可能ではないのである。根本的解決にならないにしても、圧倒的な武力を見せつけることで国外からの侵略を事前に食い止め、国内の反乱の芽を摘むことは、問題の先送りと非難されようと、争いを起こさなかったという評価できる結果になるのだ。
優秀な執政者は確実に起こる未来だけでなく、起こるかもしれない未来に対しても対策を立てている。問題の先送りになったとしても、問題を爆発させずに済ませたのであればそれは評価できることである。
藤原頼通はその観点で言うと評価できない執政者であるとするしかない。長久三(一〇四二)年の時点で、後に起こることとなる武士の争いの可能性を本当に検知できなかったのであろうかとの疑念を抱かざるをえないのである。
後に戦場になる場所から遠く離れた京都にいるからだというのは理由にならない。藤原頼通に限らず、議政官を構成する面々はそもそも、国司として人を派遣し、国司から現地の報告を受け取っているのである。オフィシャルな情報に頼らなくてもプライベートな情報は届いていたであろう。そして、地方から送られてくる情報の中には地方の荘園の状況、納税の状況、生活の状況が届いていたはずである。
にも関わらず、何の対策もしないでいる。ひょっとしたら、当時の人たちはこれを問題として認識していなかったのかもしれない。
その問題とは何か?
荘園の激増である。
荘園が三倍に増えたのだ。全農地の六パーセントに達するまでに至ったのだ。その上、荘園を巡る争いも繰り広げられている。つまり、いかにして優良な荘園を我がものとするかの争いである。
荘園というのは現在の株式会社に等しい。荘園領主とは株式会社の株主であり、荘園領主に支払う年貢は会社が株主に払う株主配当に相当する。そしてこれも現在の株主と同じなのだが、株主が株式を権利として手にしているのは、出資という義務を果たしたからなのである。株式会社を新たに作るとき、あるいは株式会社が新しい事業を始めるとき、出資してくれた人に支払う対価が株式である。厳密に言うとどのような事業をするのかを明確にした上で、事業に同意した人へ株式を売る。その代わり、事業で結果を出せば株式数に応じた配当を支払う。つまり、より多くの株式を買ってくれた人により多くの株主配当を支払うこととなる。
もっとも、株主配当というのは、売上から原価を引き、人件費などの固定費を引き、税金を引き、次年度の企業の運転資金を引いた残りである。手元に残った額が多いに越したことはないにせよ、人件費を削り、原価を削り、税をごまかし、次年度の運転資金も無視して株主配当を得ようとする人もいなくはないが、そのような人は簡単に淘汰される。株主配当を増やすために従業員を減らしたり労働条件を悪化させたりさせたら、生産物の質も量も減って、売り上げが減る。売り上げが減ったら株主配当も減る。場合によっては配当がゼロになる。そのようなことをするぐらいなら、いかにして売上を増やすかに注力するほうが安定する。
現在は株式市場で株式の売買をする。安定して利益を得られる企業の株であれば、株主配当も安定して得られると期待できるから株を高値で売れる。株を売ったらその会社からの株主配当を得られないことになるが、将来の株主配当と現在の現金化とを比べて、現在の現金化の方が期待できると判断したら株式市場で自分の持っている株を売れる。一方、直接の出資者ではないにせよ、将来有望な企業だと判断してその会社の株式を欲しいと考える人がいたら、現時点で支払う現金と将来見込める株主配当とを天秤にかけ、買ってしまった方が利益になると判断したらその会社の株を買える。その値段は企業に対する評価に直結する。評判が上がれば株価も値上がりし、評判が下がれば株価も下がる。
ただし、これはあくまでも現在の株式市場の話である。
平安時代はそうではない。
そもそも平安時代に株式市場などない。荘園の所有権の売買はあったが、それはオープンなものではなかったのである。と書けばまだ格好はつくが、正当な売買だけでなく、力づくでの奪い合いまで見られるようになったのだ。自らの立身出世のために有力者に荘園の所有権を寄付することも見られたが、それを贈収賄だと非難していられるぐらいならまだ平和な話で、中には、武力で脅して荘園の所有権を奪ったり、武士と武士とのぶつかり合いで荘園の所有権を奪い合ったりといった光景もまた見られるようになったのである。
その上、単なる私有地ではなく荘園と名乗れる存在になれれば権利を高値で売れるから、それまで荘園ではなかったところが勝手に荘園を名乗るようになる。しかも、その荘園の所有権を有力者に勝手に寄付してしまう。年貢を集めて送り届けることで所有権を既成事実化してしまう。その代わりに荘園を名乗るから、免税。無料で譲り渡す代わりに自らの立身出世と無税の特権を手にできるという寸法だ。そして、立身出世を果たせば今度は荘園を持つ側になれる。そうなればあとは不労所得で楽な暮らしが手にできる。
これで何の問題も起きないと考えたとしたら、その方がおかしい。
現在の株式市場での争いは、いかにして株式を安く買い高く売るかという駆け引きぐらいなものである。しかし、現在の株式に相当する平安時代の荘園の所有権の争いとなると、武力のぶつかり合いになることも珍しくない。
それが貴族と貴族の所有権争いなら、朝廷権力でどうにか律することができる。しかし、宗教施設が絡んでくると話はややこしくなる。中世ヨーロッパのカトリックのように教会権力が国家権力を凌駕していたほどではないにせよ。平安時代の寺社は朝廷権力でも抑えつけるのが困難な存在であった。
荘園の所有権をめぐる争いは、まずはダイレクトに収入に関わるが、それよりも重要なこととして、上下関係に関わる話である。貴族であれば位階という明白な順位があり、あるいは役職という格付けが存在する。所有権で争おうと、明白な優劣が事前に付いていればそこに混乱は生じない。それどころか、明白な優劣が人と人との関係を築くことも可能だ。荘園の所有権を差し出す代わりに中央での出世を掴むなんてのはその典型で、ここにパトローネスとクリエンテスとの関係が生じる。
しかし、寺社となるとそうはいかない。そもそも優劣がない。実際上は明白な優劣が存在していても、理論上はどの寺社も対等であり、ゆえに混乱が生じる。荘園の所有権を勝ち取ることは文字通りの勝利であり、所有権を失うことは明白な敗北であった。ただし、敗北は永遠の敗北ではなく雪辱の対象である。ゆえに、敗北から脱するために勝負に挑む。
この、勝負に挑むという行為は、駆け引きとか論戦とかならまだどうにかなるが、武力のぶつかり合いとなると、迷惑この上ない。
当事者たちは自分の行為を正義と名付け、倒すべき悪を打倒する正義の行動とみなしたが、第三者にとっては迷惑きわまりないことでしかなかった。
これらは全て、長久三(一〇四二)年という一年間に起こった出来事である。これを見て、絶賛するような人がいるであろうか?
一月二四日、図書寮焼亡。現在でいう国会図書館が焼け落ちたようなものであるが、ここは同時に、荘園契約をまとめた書類を保管する施設でもあった。
三月一〇日、園城寺円満院が放火に遭う。犯人は、延暦寺の僧徒。
五月一四日、東大寺大仏で怪異現象。奈良の寺院勢力も宗教施設同士の争いの一端を担っていた。
その後も小さな火災は無数に起こり続けた。あまりにも多すぎて、いちいち記録に残らなかったほどである。
そして、一二月八日、内裏焼亡。再建してから一年を経ることないまま焼け落ちたのだ。
こうなると、宗教施設同士のぶつかり合いとかのレベルではなく、テロだ。
宗教に対して庇護を求めるのは人としてごく自然の姿と言える。人間の理性では理解できないことを、人間の能力では制御できないことを、人間の能力を超えた自然の力によるものと考え、その力の合理的な説明として神があり、神を考える思考として宗教がある。
その宗教がまさに争いの渦中にあること、いや、争いの首謀者であることは、人と絶望へと誘うに充分であった。
日本という国はこの世に誕生してから一度も滅んでいない。海の向こうでは、国というものは生まれては消えるもので永遠の存在ではないというのが常識であったが、日本国では国というものが永遠の存在であった。しかし、何もせずに永遠でいられるわけではないことはわかっていた。日本国を滅ぼさないために強く出ることもあれば妥協することもある。唯一譲れないのは、日本国という国家を滅ぼさないようにするにはどうすれば良いのかという点だけである。無論、愛国心もあるが、国が続くことは生きていくための必須条件でもあるのだ。
国を滅ぼさないために、国の危機に際して神仏に祈りを捧げることは珍しくなかった。それは切実な思いからくるものであったり、純然たる儀式であったりもしたが、超自然的存在に平和を見出すという点ではどちらも同じであった。その超自然的存在と人間とを結びつける宗教が、争いを繰り広げている。この現実が当時の人を絶望へと導いたのだ。
人間は、衰退を実感できる生き物である。ただし、衰退であると叫ぶことはあっても、衰退を食い止めようとはしない。人類史上、様々な人が衰退から発展へと転換させることを考えてきたが、その成功例は極めて乏しい。なぜか?
成功例は、それまで積み上げてきた価値観を破壊するから。
善行を奨励し、悪徳を排除し、自分にとって都合の良い社会を作り上げた結果が衰退なのだ。衰退を食い止めるためには、それまで悪徳とみなされながら経済と社会を向上させてきた存在の価値を認め、それまで善行とみなされてきた経済と社会を悪化する存在を否定し、時代を積み重ねて掴み上げた地位と資産を破棄してはじめて、衰退から発展へと転換する。
自らの価値観を維持し、自らの地位と資産を抱え込んだまま衰退を実感している者は、いとも簡単に宗教にのめり込む。それは、自らの価値観を肯定し、地位と資産を肯定してくれる存在だからだ。それは、宗教が価値観と地位と資産を肯定してくれるからではない。価値観と地位と資産を肯定してほしいという依頼を宗教が受けたからである。
さて、日本国には、すべての宗教を超越した存在がある。
天皇。
何しろ神ですら天皇から位を与えられる臣下に過ぎず、仏教に帰依していようと仏教が天皇の上に立つことはない。一人の人間として天皇が仏教を信仰するのは自由だが、仏教の前で一信徒となることはあっても、仏教が天皇を支配することはない。皇位を降りた者が出家して一僧侶になることはあっても、一僧侶として天皇となることはない。
この、すべての宗教を超越する天皇という存在に対し、この時代、危機感を抱く者が現れる。
記録の最初は長元四(一〇三一)年六月に見える。伊勢神宮からの託宣で、「天皇降誕から未来は決まっており、百王の運は既に半ばを過ぎている」というものがあった。天皇降誕、つまり、神武天皇がこの世に現れた時に既に皇室の未来は決まっているとされ、その定めを「王運暦数」というというのである。そして、その「王運暦数」に記されているのが「百王」であるというのが伊勢神宮からの託宣であった。
もっとも、この「百王」という言葉自体は古代中国に存在していた言葉で、意味することろは「一〇〇人の王」でも「一〇〇代の王」でもなく「たくさんの王」である。しかも、そこに記されていうのは王であって天皇ではない。
にも関わらず、この伊勢神宮の託宣が「日本国の命運は第一〇〇代の天皇までである」とされてしまったのである。
この託宣を藤原道長が聞いたなら笑い飛ばしていたであろうが、託宣を聞いたのは藤原頼通であった。そして、この託宣を相談した相手が右大臣藤原実資であった。二人とも、真面目と言えば聞こえはいいが、要は、融通が利かない性格である。結果、とんでもないことを耳にしてしまったと考えて、託宣などなかったとすることにしたのである。
しかし、隠そうとしたところで漏れるものは漏れる。そもそも託宣があったという情報は先に伝わっているのだから、その託宣が何であったかを表に出さないのはかえって怪しまれる。そこに漏れてきた「百王」の言葉。いくら天皇と王は違うと言っても、噂を信じた者にその理屈は通用しない。噂は、信じたい話だから信じるのであって、理屈で信じるのではない。
世界が終わるのではないかという不安感は、人類誕生と同時に存在し続けていた感情であるとしてもいい。それは、文字通り世界が終わるのではないかという漠然とした不安を抱えているからではなく、現在の自分の暮らしが以前よりも悪くなっていると考え、未来に待っているのが希望ではなく絶望であると感じると、ハルマゲドンの感情を抱くようになる。それは、世界滅亡でも、人類滅亡でも、中身は変わらない。現状の突然の終わりを考え、不安感に苛まれる。
百王とはその感情に論拠を与えるものであって、百王という概念が論理的に否定されようと、不安感そのものが消えない以上、どうにかなるものではない。
神道の託宣である「百王」がもたらした混迷に際し、仏教はどうであったのか。
それを語る前に、当時の仏教と現在の仏教との違いについて記さねばならない。
現在、仏教と言って真っ先に思いつくのは葬式である。人が亡くなると僧侶が念仏を唱えるというのをイメージする人が多いであろう。だがそれは仏教の本質ではない。檀家である人が亡くなったので僧侶が弔いをするのであるが、それは僧侶として成すべきことの一部にすぎず、それが専業であるわけでもなければ、それを本業としているわけでもない。
そして、仏教としてイメージする祖先信仰。亡くなると戒名を与えられて仏となり、あの世から子孫を守るというイメージを抱く人もいるだろうが、原始仏教には祖先信仰などなかった。そもそも、仏教徒として出家した人は結婚が許されず、異性と交わることも許されていなかった以上、自分に子孫がいると考えることもなかったのである。仏教と祖先信仰が結びついたのは儒教の影響であり、位牌も元をただせば儒教の影響によって生まれたものである。
平安時代の仏教を語る上で欠かせないキーワード「南都北嶺」。ここでいう「南都」とは奈良のことで、仏教について「南都」というキーワードを示すと、それは、平安京遷都後も奈良に残った寺院のことを指す。
東大寺や興福寺、唐招提寺、薬師寺といった南都の寺院群が展開していた教えのことを「南都六宗」と言う。無論、奈良時代は平城京のことを「南都」などと呼んでいたわけではないから、奈良時代での名称は単に「六宗」である。
六宗とは、法相宗、三論宗、華厳宗、律宗、倶舎宗、成実宗の六つの宗派のことで、この宗派の名前を受験対策として暗記した人も多いであろう。大きく分けると、法相宗は人間の知というものは深層心理に基づいており、深層心理を解析することで人の知の本質を掴めるとする考え方である。その対極をなすのが三論宗の考えで、物事の実在とは何であるかを解析し、物事の実在を問いただすことが人間の知の本質を掴めるとする考え方である。もし、古代ギリシャの哲学を学んだことがあるなら、法相宗はソクラテスの、三論宗はプラトンの哲学と考えていただければ理解していただけるであろう。
残る四つの宗派は、法相宗と三論宗の中間に位置している。そして、ここで重要なのは、この六つの宗派が独立しているのではなく、互いに結びついているのだということ。僧侶たるもの、この六つの教えの全てに精通しておくことが必須だとされていたのである。
ここまでが奈良時代の仏教。
平安時代になると、この六つに天台宗と真言宗が加わる。ここでもやはり、全ての宗派の教えに精通することが求められるので、当時は「八宗兼学」と言った。
ただ、この平安時代に加わった二つの教えが仏教を大きく変容させることとなった。
実は、奈良時代より存在する南都六宗は、葬式をしない。そもそも、檀家がいないから檀家の人の死に際して読経することもないし、寺院内に墓所を構えていないから墓参りに来る人もいない。何しろ、寺院で展開されているのは、人間の知とはいかにあるべきものかという、哲学である。先に南都六宗の比較として古代ギリシャの哲学を持ち出したが、仏教徒は本来哲学の一種であって宗教ではない。一つの哲学を学べば比較して他の哲学も学べることから、原始仏教と西洋哲学との親和性はとても高い。
一方、新しく加わった天台宗と真言宗はともに現世利益を前面に出している。人間の知とはいかにあるべきかを考える六宗は、学んで、学んで、学び続けてやっと人の知の本質である悟りに至ることができるとしているの対し、天台宗も、真言宗も、祈りを捧げれば誰もが仏になれるとしているのである。
仏を、悟りを開いて輪廻の輪から解き放たれた人とすることではどの仏教の宗派でも同じである。そして、仏になるための道を伝えるのが仏教の教えであるとするのもまた、どの宗派でも共通している。共通していないのは、そのための方法である。しかも、奈良時代までは、修行して、修行して、苦労に苦労を重ねてやっとたどり着けるとされた境地である仏を、平安時代になるといとも簡単になれるとしたのは大きかった。
さらに、仏になった後の道を示したのも大きかった。それまでの南都六宗は仏になるまでの方法を示していた。仏になることがゴールであり、そこから先は必要なかったのである。しかし、簡単に仏になれるとなると、仏になった後の姿を示す必要がある。それが極楽浄土であった。
平安時代の日本に広まっていたのは、亡くなり、仏となった後は、日本のはるか西にある極楽浄土に生まれ変わるという教えの浄土教である。真言宗と天台宗の混交としても良い浄土教が広まったのは、平将門や藤原純友の反乱が日本を覆っていた時代のことであった。未来に希望を持てなくなった時代に、死後の希望を示した空也の存在は大きく、多くの人が浄土教の信仰を受け入れたのである。
死後の安寧を広めた空也に対し、生前の悪行によっては極楽浄土ではなく地獄に落とされると説いたのが源信である。源信の著した「往生要集」により地獄という存在が人々に広く受け入れられるようになり、それが一種の道徳教育につながった。何しろ、死によって現世の苦しみを終えた先に待っているのが永遠に抜け出すことのできない地獄となったら、地獄に落ちないようにするにはどうするかを考えるようになる。しかも、往生要集に記された地獄の様子は、文字の読めない人にも理解できるよう、絵として広められてもいた。
こうなると、それまで仏教とは無縁であった人ですら恐れ慄くようになる。現在の暮らしが苦しいというのは理解できる。それが死によって終わるのも理解できる。しかし、死の後の苦しみをこのように明示されたことはなかった。それが明示され、恐怖の対象となったとき、「地獄に落ちないようにするにはどうすべきか」というのが日常にも広まったのである。
このように、極楽浄土と地獄の姿が明示され、死後のイメージが形付けられているところで一つの考えが広まった。
「末法」である。
末法とは、仏教の正しい教えは時代とともに衰え、やがて滅びるとするものである。この考え自体は仏教成立と同時に誕生したと言ってもいい。少なくとも、原始仏教の段階ですでに散見される考えである。
原始仏教の頃からあるこの考えは、時代とともに少しずつ変遷してきた。変わっていないのは、時代とともに仏教の正しい教えが衰えやがて滅びるとする考えである。変わったのは、その滅びる時期。最初は、釈迦入滅、すなわち、お釈迦様が亡くなってから一〇〇〇年後が末法とする考えであり、それが一五〇〇年になったり二〇〇〇年になったりと、時代とともに変遷して、正確にいえばその時代が末法となるように伸ばされてきたのである。
考えていただきたい。目の前に滅亡の危機があるとする考え、あるいは、今すぐではないにせよ実体験できる未来に滅亡の危機があるとする考えは、どの時代にどんな状況にも存在していた。ノストラダムスの一九九九年七の月なんてのは有名なところだが、そこまでの有名どころではなくとも滅亡予言なんてのは頻繁に散見される。あまりにも散見されるので、来月には地球が滅亡するという記事を載せた雑誌が来月号の予告を載せていても誰も何とも思わないレベルである。
末法という昔からあった概念がにわかに脚光を浴びるようになったのがこの時代である。
実際に末法の時代を迎えたからではない。
時代が良くない方向へと転落していると実感し、今後の未来に希望が抱けなくなっていると感じるようになったからである。かつては、それも、自分が実体験できた過去は今よりも素晴らしい時代であったのに、自分が暮らす現在は、そして、我が子が生きることになる未来は過去の素晴らしさなど感じられない時代であると感じているから、世の中の破綻を訴える考えが隆盛を極めるのである。
その考えに対する科学的アプローチは無駄である。まず先に世の中が衰退へと向かっていて滅亡へと向かっているという結論があって、その結論に至らないような話は何の価値もないのだ。求めているのは科学で証明する現実ではなく、科学に頼ることなく、知的レベルが低くても納得できる解説なのである。
自分が思い込んでいることを科学で否定されたとしても、人はそれを受け入れることができない。しかし、科学でなくても、いや、科学でないからこそ、思い込んでいることを肯定する存在であればいともたやすく受け入れる。末法に限らず、終末思想というのは、実際に終末を迎えるから存在しているのではなく、それを信じたい人がいるから存続できるのである。
その人たちは科学を信じられないのではない。科学を信じられるだけの知性を持ち合わせていないのだ。
その上、終末思想に堕する人間というのは、何も考えていない不真面目な人間ではなく、程度は別にしてそれなりに考えている真面目な人間ではある。少なくとも、真面目か不真面目かと判断するならば真面目と結論づけるしかない。
ただし、融通が利かず、遊びがない。
人生に余裕がない上に、現在の社会の状況を鑑みて、劣化の理由を不真面目に求める。普通なら「まあ、それぐらいいいじゃないか」となるところを不真面目として攻撃する。そして窮屈な社会になる。
そのときの攻撃材料として、「間も無く世の中は終わる」「真面目に生きる優れた我々だけが生き残る」というのは、彼らのプライドを充足させることができる考えになるのだ。
彼らの多くが社会的地位の低い者である。その社会的地位の低さは知性の低さに由来する。だが、それを認めるわけにはいかない。真面目である自分の社会的地位が低いのはおかしいというのが彼らの言い分であり、自分がバカだから社会的地位が低いのだという現実は到底受け入れられるものではない。社会的地位が低いのは社会のほうがおかしいというのが彼らの結論になる。
こうなると、終末というものは恐るべき存在であると同時に、自分を勝者とするためにぜひとも起こって欲しいこととなる。何しろ、おかしくなっている社会の方を壊すのだから、悲劇どころか、間違った社会を叩き壊す正義の鉄槌ということになる。ひどいのになると、自分から終末を起こそうとする。共産主義革命にしろ、ナチスにしろ、オウムにしろ、絶望的に頭の悪い、しかし、真面目か不真面目かでいえば真面目に分類される人間の起こした、自分のプライドを成就させることを主目的とした犯罪なのである。
彼らの目に映る彼ら自身は、エリートであるはずの自分である。終末を迎えた後に待っているのは、彼らに言わせれば彼らが本来いるべき位置であるエリートの地位に彼らが君臨し、彼ら以外の者は雑民として底辺に這いつくばる社会である、と彼らは考える。自分が社会的地位を持っていないことを認めていないか、認めたとしてもそれは社会のほうがおかしいと結論付けており、自分がエリートでも何でもない、それどころか知性の劣った愚者であるという現実は目に見えていないのである。
しかも、この終末思想というのは、乗っかる者だけでなく、訴える側にとってもまた良いことづくめである。
もうすぐこの世が終わると訴えれば、多少怪しいビジネスであろうと儲かる。訴えに耳を傾ける人も増えて自己満足度も高まる。「滅ばなかったじゃないか」と文句を言ってくる人がいたとしたら、「私の祈りのおかげで滅亡を免れることができたのです」と言ってしまえばいい。
もうすぐこの世が滅びると考えたとして、終末を願っている人はともかく、そうでないのに滅びを簡単に受け入れる人はそうはいない。終末を予期させる事態が迫ったなら、どうすれば滅びのときを迎えないで済むかを考えるものである。そのとき、「いくら払えば助かりますよ」と言うのは、倫理的に許される話ではないが、詐欺としては実に有効な手段である。この時代で言うと、土地を寺院に寄進すれば助かるなんて詐欺話を持ちかけるのは、純粋にビジネスだけで考えるならば有効な手段であった。
執政者として考えるべきは、この不安感の払拭なのだが、これはそう簡単に行く話ではない。何しろ、現状に不満がある上に未来にも希望が持てないから不安感を抱いているのであり、その不安感の題目として掲げている終末思想がいかに非科学的であると主張しようと無駄なのである。自分の考えていることが非科学的であるという事実を指摘されても、いや、事実だからこそ、それを認めるわけにはいかないのだ。まあ、「君はバカだからそんな非科学的なものに騙されているのだ」と指摘されて、「そうか、自分はバカなんだ」と考える人もいないが。
話は逸れたが、不安感を払拭するには、今は以前よりも良くなっているし、今後は今よりもさらに良くなるという希望を抱けるようにならなければならないのだが、これが難しい。何しろ、ここで思い浮かべる過去というのは脚色された過去なのだ。それも、時代の移り変わりでなく、自分がその時代は若かったという、今となってはどうにもならないことによって美化された過去なのだ。これを相手にするのだからかなり無茶な話である。
これに成功した執政者は、いるにはいる。ただし、極めて少ない。
なぜか?
比較対象となる過去が絶望の時代だからだ。戦争とか、革命とか、大規模自然災害とか、まさに絶望であるという時代が過去であるなら、あとは良くなるしかないのだから、未来は否応なく希望になる。
藤原道長のもと、自由があり、豊かな暮らしがあったという過去に青春時代を過ごしていた人に、その時代よりも自由が少なく、その時代よりも貧しくなっている現状を示して、前より豊かになり、未来は希望に溢れているというのは無茶な話である。
神道が皇室の終わりを予言し、仏教が世界の終わりを予言する。こうなると、ちょっとしたことでも不安感を増す材料となる。
たとえば、長久四(一〇四三)年という年は、最初から雨が少なかった。
雨が少ないことは確かに問題だが、それが滅亡への序曲になるわけではない。水量不足は、農業にとっては死活問題であること間違いないし、不作になるだろうことも予期はされるが、そのときに必要なのは貯蔵していた食物をいかに配給するかであって、超自然的存在の伝える滅亡への序曲に恐れることではない。
後朱雀天皇もこのあたりのことは理解していた。そして、そのタイミングを狙ったイベントを開催した。
まず、五月一日に日食があることはわかっていた。何度も書いてきたが、平安時代に使われていたカレンダーは精密なものであった。あまりにも精密すぎて、カレンダーの維持管理に必要な複雑な計算のできる人材育成に失敗した中国大陸の諸国家や朝鮮半島では、そのカレンダーの使用継続を断念したほどである。しかし、日本はそのカレンダーを使用し続けていたし、維持管理できるだけの人材を育成し続けることもできていた。陰陽師がそれである。
陰陽師、国の仕組みでいうと、国家機関である陰陽寮で働く役人たちから上奏された日食の知らせを利用した。
まず、五月一日の日食がある。日食が歴史上何度もあったこと、それがどうというものでもないことは多くの人が知っていた。ただし、終末思想にはまるような残念な知性の人は除く。想像通り、残念な知性の人たちは、以前からの雨不足に加え、太陽がいきなり欠けて昼になのに夜になったと大騒ぎする。この世の終わりだと考えて。
無論、日食などすぐに終わる。それでも、一時的にせよ太陽が欠けたとあっては、彼らにとっては一大事だ。どうにかしてくれと慌てふためくが、慌てふためいてどうにかなるものではない。神道において天皇が神の上に立つ存在であるという理屈が成立していても、自然現象に勝てるわけはない。
慌てるのを見届けた後、平安京の水甕とも言うべき神泉苑でのイベントの開催を告知する。平安京の水不足の際に神泉苑の水を開放するというのはよくある話なので、ワラをもすがる思いである人たちは神泉苑に殺到する。もっとも、いかに神泉苑が平安京の水甕であっても、日本全国の水不足に応じられるわけなどない。
イベントの開催は五月八日。僧侶の仁海を神泉苑に呼び寄せ、読経をさせた。要は雨乞いである。これでイベントの途中で雨が降ってきたのなら面白い話になっただろうが、残念ながらそこまで都合よくはいかなかった。
とは言え、いかに水不足の日々であると言っても雨のない毎日が延々と続くわけなどない。ましてや、時期的にだんだんと梅雨が近づいている。イベントから六日後の五月一三日の午後、無事に雨が降り、水不足を危惧する集団狂気はこれで収まりを見せた。ちなみに、雨を降らせたということになった僧侶の仁海は、雨が降った二日後に表彰されている。