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末法之世 5.後朱雀天皇

2017.04.28 22:20

 後朱雀天皇は、そして藤原頼通は、人事が詰まってしまっていることが問題の一つであることを理解してはいた。そして、人事が詰まっているのだから、詰まりを取れば、根本的解決とまではいかなくとも問題を多少なりとも解決するという考えはあった。

 人事の詰まりは何が問題なのか? 自分に相応しい地位ではないと考える者が増大することが問題なのである。

 能力のある者の増加は平和な時代では当然のことである。かつては一〇〇人に一人しかその能力を持っていなかったのに、今では一〇人に一人という割合にまで、さらには二人に一人という割合まで増加することは珍しくない。二〇世紀から今世紀にかけての日本を見ても、かつて、大卒者は一〇〇人に一人であったが、今では二人に一人とまでなっている。それでいて、現在の大卒者と、一〇〇人に一人の割合であった頃の大卒者とで、能力に違いはない。

 だが、一〇〇人に一人であるために手にできる社会的地位を、一〇〇人に五〇人が手にできるかとなると、それは別問題である。社会的地位は割合の問題であって能力の問題ではないのである。一〇〇人に一人であるからこそ価値を持つ社会的地位を、一〇〇人に五〇人とすることはできない。できたとすればそれは社会的地位の価値を失う。

 能力ではなく割合の問題になってしまっているために人事が詰まってしまっているのである。

 長久四(一〇四三)年九月九日、文章生の大江佐国、惟宗孝言、源時綱、そして、文章生ではなかったが大学生ではあった藤原国綱の計四名を弓場殿に招き、試験をさせた。結果は合格。これにより、この四人は晴れて貴族入りを果たすこととなった。人事の詰まりを解消するというアピールであると同時に、問題の多少なりの解決のためである。

 文章生とは、大学の中でもトップエリートコースとされていた紀伝道の学生のことであり、定員は一〇名。さらに、定員待ちである擬文章生が一〇名いて、この二〇名だけが大学で紀伝道を学べる。紀伝道というのは文学と歴史を学ぶ学部であり、理論上は、法律を学ぶ明法道、哲学を学ぶ明経道、数学を学ぶ算道と並列する存在であるが、大学の他の学部と違って卒業時につける位階の高さ、さらに一気に貴族入りできる方略試の受験資格が紀伝道にしか存在しないなど、特別な存在であった。

 このような特別な地位にある者は、得てしてエリート意識の固まりとなる。エリート意識自体は悪いものではない。人の上に立つ者は、多かれ少なかれ、自分がエリートである認識しているものである。その意識は人の上に立つための必須要素とも言える。しかし、そのような意識を持ち合わせている者が一人残らず人の上に立つに相応しい存在であるかとなると、それは別問題になる。

 かつては、合格するどころか挑むことすら困難であった試験に四人が合格したのである。能力だけを考えれば能力に相応しい試験結果であると言える。だが、挑むことすら困難であった時代の合格者が手にした社会的地位を、四人の合格者が揃って手にできるかとなると、それは別問題である。割合を考えて試験のレベルを上げるか、そもそも試験を開催しないかというのであれば、相対評価としての社会的地位を維持でき、秩序も保てる。しかし、試験を規定通りに実施すると、相対評価としての社会的地位の価値が減る。藤原道長はそのあたりをわかっていた。わかっていたから、自分の地位を二位に留めるという荒療治で、人事のインフレを防いで社会的地位の暴落を防ぎ秩序を維持していた。あるいは、力づくで人事を抑えることのできた藤原道長だからできた芸当とも言える。

 エリート意識をこじらせ、分相応の社会的地位に留まっている現状に対し「君はエリートではないから、相応の地位に留まっているのだ」などと言っても聞く耳を持たない。なぜなら、エリートであるべき自分がエリートになれずにいるのは社会が悪いからだと考えているからで、変えるべきは自分ではなく社会なのである。藤原道長は、社会が悪いという声があろうとそれを許しただけでなく、真に能力のある者はどんなに自分に批判的な言動を繰り返していようと能力に見合った地位と役職を用意した。人事のインフレは抑えたが、正当な人事そのものは維持していたのである。ゆえに、道長政権下で社会が悪いという声をあげることはすなわち、能力の低さを意味するのである。それがわかっているから、エリート意識をこじらせた者は恐ろしい存在ではなくなったいたのである。

 ところが、藤原頼通政権の誕生後、政権が能力に見合った地位と役職を用意できないという見られ方をするようになってしまった。正当な人事が行なわれなくなった以上、社会に対する不満は理のない話ではなくなるのである。

 こういう者は、実に簡単に反体制運動に加わる。

 反体制運動に参加する者は、現在の体制が腐りきっているから打倒しようという題目を掲げてはいるが、実際は、エリートでも何でもないのにエリート気取りをし、行動力もなければ知性もないから社会の全体図を描けず、それでいて分相応の社会的地位に満足していないから現状の体制に対し批判的になっているだけの愚者である。愚者でないのに反体制運動に参加するのは、現在の体制が腐りきっている体制のときだけ。違いをわかりやすく言うと、体制への支持と反体制とで、反体制の方が圧倒的に高い支持率をあげているときというのは、体制が腐っている。そうでないときの反体制運動は、ただ単に迷惑な騒音でしかない。

 その上、エリート気取りで働かずにいる者というのは、それなりに資産を持っている。つまり、働かなくても生活できるだけの余裕がある。歴史上、貧しい人を救い出すことを題目に掲げて来た集団や政党の幹部が、豪邸に住み、莫大な資産を蓄えているなんてのは珍しくない。このような者が反体制運動に加わると厄介なことこの上ない。自己賛美の運動のために暇人を雇えるのだ。

 実際に体制が腐りきっているから打倒しようという動きではないのだが、暇人をかき集めて集団を作り上げている以上、迷惑この上ない。いや、迷惑だというならならまだマシで、下手すると命に関わる話である。反体制を掲げる者は、いとも簡単にテロへと転身する。しかも、自分がテロリストとは認めない。

 反体制運動を抑え、テロを未然に防ぐために、エリート意識の固まりとなっている人間を体制側に飲み込ませてしまうことは、対策としてよく見られる話である。

 例えば、自民党なんてのはこのような対策を得意とする政党で、どう考えても自由主義でもなければ民主主義でもない思想、それこそ、それらの対立概念でしかない社会主義思想にどっぷり浸かっている者でさえ、平然と入党させているし、能力次第では大臣にまでさせている。

 ヨーロッパに目を向けても、カトリックというのは典型的な飲み込み組織で、キリスト教の解釈の違いでどう考えても法王庁から異端の烙印を突きつけられそうな人を、カトリックという組織の中に取り込んで、司教へと、さらには枢機卿へとさせてきた歴史がある。

 アメリカの二大政党制も、共和党も民主党も、共和党が保守で民主党がリベラルとされるが、民主党よりも強く社会福祉を主張する共和党の議員がいるかと思えば、福祉削減を訴える民主党の議員がいたりもする。あの国は飲み込み組織が二つあると言ってもいい。

 このような飲み込み組織は、組織内に異なる意見の幅を持たせ広く世論を呼び込むことができるというメリットの他に、反体制運動を抑えてテロを未然に防ぐというメリットも持っている。むしろ、後者の方が大きなメリットであるとしてもいい。

 理想を高く掲げ、飲み込まれないようにする者と、掲げた理想を低く下ろして飲み込まれた者と、どちらが清廉潔白に見えるかと言えば、前者である。しかし、どちらがより強く社会のことを考えているかと言えば、犯罪に走らないという点で後者だとするしかない。エリート意識をこじらせて体制に飲み込まれないのは、無能ゆえに飲み込まれない頑固者か、頑固ゆえに飲み込まれなかった無能者のどちらか、あるいはその両方であるのだから。

 様々な考えの者を体制に飲み込ませる仕組みがあり、その仕組みを発動させれば、下手すると反体制に転んでテロに走りかねないエリート気取りを飲み込ませることができる、つまり、犯罪を未然に防ぐことができるというのであれば、仕組みを発動させることは何らおかしなことではない。

 話を平安時代に戻すと、エリート気取りをこじらせた者を貴族の一員に入れてしまえば、とりあえずはどうにかなった。貴族というエリートの地位を与えておいて、あとは閑職にでも回してしまえば、平和にはなるのである。ただし、代償は大きかった。藤原頼通の力のなさに起因するのだが、貴族が増えすぎてしまったのだ。



 長久三(一〇四二)年一二月八日に、新造から一年も経ていない内裏が焼け落ちたことはすでに記した。その後、後朱雀天皇は一条院に遷御していた。ここまでは内裏焼亡時の通例である。通例になってしまうほど内裏が頻繁に燃えていたという現れであるから呑気なことは言えないのだが、少なくとも、当時の人たちは朝廷機能そのものが一条院に遷御すること自体は許容範囲であった。

 ところが、この一条院も長久四(一〇四三)年一二月一日に焼けてしまうのである。

 当時の記録によると丑時とあるから、現在の時刻制度に直すと夜中の二時頃である。いきなり一条院が燃え出し、後朱雀天皇をはじめ、朝廷機能がそのまま高陽院(かやいん)に移ったのだ。

 もっとも、朝廷機能を前提とした邸宅として判断するなら、一条院よりも高陽院の方が優れている。一条院は大内裏と隣接する邸宅であるが、平安京の北端にあることから、平安京の北半分に住むことの多い貴族はともかく、南半分に住むことの多い一般の役人となると通うのに不便である。また、諸々の役所の建物も内裏との距離を前提として建てられているため、内裏より遠くなる一条院はお世辞にも便利とは言えない。一方、高陽院は大内裏から一ブロック(当時の呼び方だと「坊」)離れているが、南北の位置関係でいくと大内裏の中の朝堂院と同じ経度になる。つまり、貴族たちも、役人たちも、住まいに近く役所の建物群とも近いので便利なのである。

 それにもう一つ、高陽院は一条院よりはるかに優れている点があった。面積である。高陽院の面積は一条院の四倍であり、栄華を極めたとされていた藤原道長の邸宅の倍の広さを持っている。一条院という建物がはもともと、天皇が退位して出家し法皇となった後の余生を過ごすことを前提として建てられた建物であるのに対し、高陽院は今後の朝廷の未来を担う若き皇族のための建物として設計されたからである。つまり、一条院は個人としての法皇の住まいであることが求められていたのに対し、高陽院はそのまま朝廷機能に展開できる組織を伴うように設計された建物であったのだ。

 ただし、時代とともにその役割は変遷し、周囲の光景も変化する。

 本来の高陽院が朝廷機能に展開できる組織を前提として設計されていたし、その住まいも皇族の住まいであり続けていたのだが、持ち主が次々と移り変わって、今では藤原頼通の住まいへとなっていた。

 このあたりの配慮のなさが藤原頼通の欠点と言える。

 前作「欠けたる望月」でも記したが、藤原道長の住まいである土御門殿は平安京の東端にある。敷地面積こそ広いし、一応は当時の高級住宅街の一角ではあるが、高級住宅地の真ん中というわけではない。その上、事実上は藤原道長の邸宅ではあっても、名目上の持ち主は皇后藤原彰子であって、皇后の私邸ゆえに広された住まいに、皇后の父である藤原道長が居候しているというのが表向きであったのだ。

 ところが、高陽院はもともと皇族の住まいであると言っても、今や藤原頼通の正式な邸宅になっている。邸宅の所有権を正式に手にしているから、居候という立場を崩さなかった藤原道長と比べて法的にはっきりしている。しかし、高陽院と言えば平安京のビジネス街に存在する広大な邸宅であり、皇族ならば許されても、皇族の前には一庶民でしかない藤原氏に許されるようなものではなかった。関白左大臣というこの時代最高の権威の持ち主であろうと、いや、権威の持ち主であるからこそ、配慮は必要であった。

 多くの貴族にとって、自分の邸宅を手に入れるのは夢の世界の話であった。それは、ただ単に立派な建物であるだけでは不充分で、立地条件も欠かすことのできない要素であった。平安京の左京の四条よりも北に邸宅を構えることができるかどうかが、貴族としてのステータスに直結していたのである。

 当然ながら土地は限られている。その限られた土地に、ただでさえ増え続けている貴族が住まいを求めて殺到している。その結果、不動産価格が局地的に急騰している。全財産を使い果たし、持てる荘園を全て譲り渡してどうにか貴族としての邸宅を手にできるかどうかという時勢に、高級住宅地のど真ん中に建てられた皇族用の邸宅を私邸としているのは配慮が乏しいというしかない。

 その上、高陽院の豪華絢爛さはかなりの評判だった。右大臣藤原実資も日記で高陽院の様子を文章に残しており、記録によると、寝殿造りの四方を池で囲んだつくりになっていたという。平均気温が平成に匹敵する高さであったこの時代、四方の池のおかげで夏の涼しさは格別であったろう。万寿元(一〇二四)年には後一条天皇が行幸した記録もあるが、ただの行幸ではない。高陽院の邸宅内で競馬を開催したのである。邸宅内で競馬を開催できるというのだからどれだけの広さかわかるというものである。


 さて、ここで右大臣藤原実資の名前が出たが、この人の生まれは天徳元(九五七)年だから、藤原道長よりも九歳上である。しかし、寛徳元(一〇四四)年時点でも健在である。

 以上のことから想像つくと思うが、かなりの年齢である。なんと八八歳。しかも、現役の右大臣であったのだ。

 男性の平均寿命が八〇歳を超えている現在でも八八歳の政治家というのは見当たらない。ましてや、平安時代は五〇歳で高齢者扱いされる時代である。八八歳というのは現在の感覚で行くと一一〇歳の大臣ぐらいの年齢である。

 右大臣が超高齢だからイメージが伴わないが、関白左大臣藤原頼通は五三歳を迎え、この時代の感覚で行くと充分に高齢者である。内大臣藤原教通も四九歳だから間もなく高齢者だ。

 この時代の政治の混迷の原因の全てというわけではないが、混迷を生み出した原因の一つとして、統治者たちの高齢化がある。老害という言葉の是非はともかく、老害という言葉に紐付くマイナスイメージ、すなわち、時代に合わせることができず、問題の解決のためには既得権者の権利を減らさねばならないが、まさにその既得権者が決定権を持っているために、問題の解決に向かわないという老害問題がここには存在した。

 どのような時代でも起こる現象がある。かつては若者向けの存在であったのが、時代を重ねるにつれてのむしろ若者が敬遠する存在になるという現象である。かつては若者の音楽であったはずのロックンロールが、今や中高年のための音楽になったように、あるいは、かつては若者が熱狂したはずの学生運動が、今や高齢者の運動になったように、若さを前面に打ち出していた存在に携わっていた者が若くなくなり、より若い存在が現れてしまったために時代遅れ、流行遅れとなってしまうという現象は、いつの世界でも、どの時代でも見られることである。

 藤原実資は藤原道長より年長であるが、藤原道長の時代、藤原道長に反対する者たちの中心人物とみなされていた。藤原実資の周囲は藤原実資よりも若い者、そして藤原道長よりも若い者が集って、藤原実資を中心とする若者の集団を構成していた。

 若者が現時点の社会に反抗することは珍しくない。特に、大した知性の持ち主でもないのに自分をエリートと考え、エリートであるはずの自分がエリートに相応しくない地位に置かれていると考えている者は、自らの知性の低さには目もくれず、責任を社会に押し付け、社会への反抗を見せる。そうした者は若者とは限らないが、様々な世代の中でも若者が特に強く社会への反抗を見せるのは、単に社会にまだ出ていないからである。社会に出て社会の仕組みを実感した者は、社会を変えるのではなく自分を変えたほうが自らの社会的地位を高めるのだと気づく。社会運動に身を投じるのはそれに気付かない者である。それは違いではない。優劣である。

 社会運動に身を投じるほどに落ちぶれてしまった者は、その行動理由として、現在の社会のありように疑問を感じるとか、社会がおかしいとか感じるというのもあるが、そんなものはどうでもいい言い訳でしかない。唯一の理由は、反抗そのものである。自己陶酔のためだけの反抗が先にあり、反抗のための題目は後になって登場する。そして、題目を考え出せない者は、批判をする。批判をすればとりあえず反抗にはなる。反抗している自分に酔いしれることができる。そこにあるのは反抗そのものであって、社会を良くしようとか、人々の暮らしを良くしようとか、そのような概念は全くない。あるのは反抗する自分を自分で賞賛するみっともない自己陶酔だけである。しかも、その反抗を若者の証とすることで、相手の時代遅れを、そして老いを、嘲笑うことができる。

 このような者はいつの時代にもどのような社会にもいる。それも、絶対に変えることのできない現実を伴って。

 その現実とは、加齢。

 自分たちの行動が若者としての行動であると信じている者にとって、この現実は出来うる限り認めたくないものとなる。しかも、自分たちよりさらに若い者が、自分たちのやってきたことを、老いであり、時代遅れであると指摘されるのが何よりも苦痛である。

 老害という現象を、現時点で権力を握っている高齢者に指摘しても、「わかった。自分は退こう」などとは考えない。まず、自分が高齢者だと思っていない。次に、自分が権力者だと思ってもいない。そして、自分のやっていることが間違ったことでも古くさいことだとも考えていない。

 よく、社会への反抗を見せる者が、一世代前の主流的な考えに身を寄せることがある。体系づけられた真新しい考えに身を寄せることもある。どちらも根本は同じである。現代の社会を形作っている考えは古くさいために従う必要は無い。そして批判する。だが、その批判に対する代案が無い。代案を必要としないのではなく、代案を考える知力が無いのである。

 誰かが創り出した思想にただ乗りしたり、誰も思想を創り出さなかったときは一世代前の思想を持ちだしたりして、それを新しい考えと見なし、現在の古い社会を批判する。

 問題は、そのまま時代が経過して、新しい考えとみなされていたことがむしろ古い考えとなり、次の新しい考えが、それも、自分たちが古いとして見下してきた考えが新鮮な考えとなって次の世代を取り込んでいくことにある。しかも、その頃には自分たちが考えるところの新しい考えが世代の主流になっているのだ。血筋に基づいてほぼ自動的に上級官職に就けるという自浄能力が働かない社会に限らず、選挙による選別のある現在でも、時代とともに時代の主流となる考えは流転する。それも、権力をとった頃には古い考えと一刀両断されるような時代になっている。それを食い止めるには、古い考えとなる前に人のほうを入れ替えてしまうことが重要なのだ。

 それは入れ替わりであっても創新ではない。創新ではないが、少なくとも入れ替わりではある。つまり、前進はしないが、一応は変わる。変わることによって人の新しさを担保し、少なくとも現状の問題に目が向いて取り組もうとする動きを見せることは可能なのである。

 だが、入れ替わりが硬直して老害へと堕落すると、現状の問題に目を向けることも無くなり、目を向けたとしても問題解決に動くことも無くなる。その上、一つ前の時代を批判するのは、社会的地位の低さを直視ないために展開した自己陶酔の結果なのだ。それが、自分の前の世代がいなくなったというただそれだけの理由で相対的に高い社会的地位になった。ただし、質そのものは全く変わってない。

 ただでさえ劣った質の権力者が、明確な政治的視野を持たぬまま、権力を手にしたまま、権力者としての役割を果たすこと無く権力にしがみついている。

 これを問題と気付いていないわけでは無い。だが、問題解決のための方法をとるつもりなど毛頭無い。この矛盾は時代の閉塞感を増しこそすれ、打開する要素にはならなかった。


 長久五(一〇四四)年一月二一日、伝染病の記録が登場する。

 その様子はあまりにもむごたらしい。多くの人が亡くなり、死体が平安京の道路を埋めつくしているというのである。

 ただし、どのような伝染病なのかはわからない。伝染病で多くの人が命を落としたと記録に残っているだけで、病気の名前も、どのような症状なのかも不明である。

 伝染病の歴史は人類が誕生する前から存在している。しかも厄介なことに、病原菌の進化のスピードが人類の比ではない。SF小説などで現代人が過去や未来に行く話があるが、本当に過去や未来に行ったら、その時代の人たちは免疫として身につけているであろう病原菌によって、タイムトラベラーは何かしらの病気に罹患するはずである。存在しない未知の病原菌についての耐性を持つ者などいない。

 それでも、現代医学であれば、伝染病のメカニズムを調べることができるし、どのようにすれば完治するのかを調べることもできる。伝染性が高ければ隔離することも可能だし、伝染病の流行をニュースとして流し、どうすれば伝染病に罹患せずに済むかを伝えることも可能だ。

 この全てを、平安時代は期待できない。唯一期待できるのがあるとすれば隔離ぐらいなものだが、平安京の道路を死体が埋めつくしているというぐらいだから、病気になった人から離れるなど考えるだけ無駄であろう。

 この時代の医療システムに高レベルを期待してはならない。

 律令制は無償医療を建前としていたが、全ての患者に充分な医療を提供できるだけの医師や薬剤師がいなかったし、薬も無かった。医師は免許制であったが医師の地位は高くなく、むしろ賤業扱いされていた。結果、医師のなり手が少ないのに、病院の前に患者が列をなした。

 律令制の崩壊は、病院の前の行列を消し去った。貧しい人が医師にかかることができなくなり、医療費を払うことができ、薬代を払うことができる人だけが、医師に診てもらえるようになった。しかも、その医療水準はお世辞にも高くない。当時の薬を再現した研究者によると、現在では命に関わる劇薬と扱われるものもあったという。

 おまけに、この時代の上下水道の品質は劣悪そのものである。井戸水と川の水が生活用水だが、井戸水の消毒は期待できず、川の水にいたっては死体とゴミが浮かんでいる状態である。このような水を使った生活をしていて、伝染病が流行しないとすればそのほうがおかしい。

 病気になる可能性は現在より高く、医師に診てもらうのに必要な費用は現在と比べようもない高さで、治る可能性は現在より低い。この現実の前に医療は無力であり、その代わりに存在価値を見いだせていたのが寺院であった。加持祈祷での病魔退散がこの時代での最大の医療行為であったとしてもいい。少なくとも国としての医療福祉は、健康な日常生活を送る方法でも、誰もが医師に診てもらえる社会作りでもなく、加持祈祷をいかに大々的に展開するかという一点に集中していた。

 伝染病の流行に際し、長久五(一〇四四)年三月二三日に、延暦寺の阿古也聖が法華経六万九三八四部を写させて延暦寺に収めさせたのは、その中の一環である。なお、効き目はなかった。何しろ伝染病は六月まで続いたのだから。

 この伝染病は藤原頼通にとっても想定していなかった大打撃をもたらした。

 長久五(一〇四四)年四月二七日、藤原頼通の嫡男として、藤原頼通の後継者である源師房の後継者、つまり、次の次の次代を担うことを想定されていた権大納言藤原通房が二〇歳という若さで命を落としたのである。

 我が子の死を悲しまない親はいない。

 その上、藤原頼通が立てた日本国の未来計画が完全に壊れたのである。

 親としての悲しみを乗り越えなければならないとは頼通にもわかっていた。しかし、残されている手段は無責任と罵倒されてもやむを得ないものであった。

 頼通の男児はことごとく養子に出されたか、あるいは出家させられたか、あるいはこれからそうされる予定であった。その結果、この時点で頼通の子としてカウントされうる男児は一人しかいなかった。藤原師実である。

 藤原師実の母は、藤原頼成の娘である藤原祇子である。つまり、正室の子ではない。いや、藤原頼通の正室である隆姫女王は一度も妊娠出産を経験しなかったのだから誰であれ正室の子ではない。そもそも、後継者にカウントされていた藤原通房も正室の子ではない。

 無責任とするのは、藤原師実が正室の子でないことが理由ではない。後継者としてカウントしなければならない男児の年齢である。このときわずか二歳なのだ。貴族でないどころか、何の官職も得ていない。当然ながら、位階もない。ただ頼通の子であるという一点だけでまだ物心のついていない二歳の幼児を後継者の一人としてカウントしなければならないほど、頼通は一瞬にして追い詰められてしまったのである。

 このとき、藤原頼通五三歳。子を亡くした父親の動揺というだけでは済まされない焦りが誰の目にも明かであった。

 これから新しく子が生まれたとして、自分が生きていられるまでにどれだけ成長するのを見届けることができるであろうか。


 伝染病の流行が沈静化したのは長久五(一〇四四)年六月になってから。

 朝廷はそれまで何度か伝染病の沈静化を狙った施策を打ったが、何をしても無駄であった。

 わが子を亡くした藤原頼通は、自らの身に、そして亡き息子の身に起こった不幸を鎮めるために恩赦を行った。伝染病といった天災を天が下した執政者失格のサインであるとするのがこの時代の考えであり、恩赦自体はこの時代の考えでは、執政者の徳を高める行為である。つまり、伝染病という天災に対する政策として、この時代の考えでは間違っていなかった。

 ただし、伝染病流行に対する適切な処置であるかというと、話は別である。牢に閉じ込められていた犯罪者が自由を回復したことと、伝染病流行の沈静化とは何のつながりもなかった。

 この朝廷の無策に対し、活躍を見せたのが、名の伝わっていない医師である。

 長久五(一〇四四)年五月二五日、後朱雀天皇が伝染病に倒れた。現在のような医療制度など無い時代であると言っても、天皇である。この時代の最高の医療が提供された。それだけでなく、医師から朝廷に提案がなされたのである。

 何度か記しているが、この時代の医師の社会的地位は低い。医師としていかに結果を残そうと貴族に列せられることはほとんど無い。唯一の例外が律令制における医療制度のトップにあたる典薬頭(てんやくのかみ)で、現在で言うと厚生労働大臣に相当する職務であるが、唯一の例外であると言っても従五位下だから、貴族としては最下層になる。つまり、二位や三位の貴族が当たり前である議政官の面々と話をするのも許されない位階なのだ。

 唯一の例外ですらその程度に留められるのだから、その他の一般の医師の社会的地位もお世辞にも高いとは言えない地位に留まる。医師としての能力の高さゆえに伝染病に倒れた後朱雀天皇の治療のために天皇の側に身を置くことが許されているが、それは伝染病という非常事態ゆえの極めて限られた例外であった。

 つまり、本来であれば姿を見せることすら許されない社会的地位の者が、天皇の治療という特例によって議政官たちの目の前に姿を見せたのである。

 その医師の伝えた伝染病対策が、現在でも有効と言える対策であった。

 その対策とは、京都の閉鎖。

 インフルエンザによる学級閉鎖や学校閉鎖というニュースは耳にしたことがあるであろうが、その医師は、それよりもはるかに大きな規模の閉鎖、すなわち、平安京とその周辺の全ての建物を封鎖し、京都市民全員を強制的に休ませるように主張したのである。

 いかに伝染病流行という非常事態であっても、平安京閉鎖など前代未聞である。しかも、この時代の概念では議政官の面々を相手に発言をすること自体許されない社会的地位の者の口から出た発言である。この時代の感覚で行けば、意見を聞き入れてもらえるどころか、逮捕されてもおかしくない発言であった。

 しかし、この医師の後ろには後朱雀天皇がいた。そして、この医師のアイデアに他ならぬ後朱雀天皇が賛成したのだ。

 長久五(一〇四四)年六月三日、平安京閉鎖が決まった。ただし、一日限りである。

 ところが、このたった一日が、ものの見事に伝染病の流行を強制終了させたのである。伝染病の記録がこの日を境に完全に消え失せたのだ。

 平安京閉鎖を提唱した医師の名は残っていない。この医師がもしこの時代の人であったら、ノーベル医学生理学賞を受賞していたであろうに。


 その頃、中国大陸で一つの動きが見られた。

 平和というものを考えさせられる出来事である。

 宋が契丹に対して毎年毎年絹二〇万疋、銀一〇万両を送るという澶淵(せんえん)の盟(めい)は、一〇〇四年に締結され、一〇四二年には契丹からの領土割譲要求を断念させる代わりに、絹は二〇万疋から三〇万疋に、銀は一〇万両から二〇万両に増額された。現在の貨幣価値に直すともともと五〇〇億円ほどを贈っていたのが、八〇〇億円ほどに増えたということになる。

 これに加え、一〇四四年には宋は西夏に対しても年貢を贈るようになったのである。西夏も契丹と同様に宋への侵略を計画し、宋は侵略を食い止めるために西夏にも年貢を贈ることとなったのである。その金額は、銀五万両、絹一三万匹、茶二万斤。現在の貨幣価値でいうと三〇〇億円ほどとなる。同時に、契丹へ支払う年貢の増額も決まった。

 これだけでも充分な財政負担だが、ここに宋の朝廷をさらに悩ませる大問題が加わった。人件費の増額である。

 五〇万人まで削減した総軍の兵士がこの時代になると一二〇万人に達していた。しかも、この時代の宋の風潮は、軍に入ることとは恥ずべきことであり、他に職業の無い者がたどり着く最後の行き場とみなされていた。

 それでいて、兵士の数は足らなかった。徴兵制という考えが無かったわけではないが、そのような選択をすると、待っているのは軍備拡張どころか不満爆発による内乱である。徴兵以外の方法で、社会的地位がかなり低く観られている兵士という職業に就く者を集めるには、待遇を上げるしか無かったのだ。

 状況打開の方法はあった。軍事同盟を結んで契丹と西夏に対抗することである。

 その軍事同盟のパートナーとして何度も検討された相手が日本であった。ただし、日本という国は東アジアの中であまりにも異質の国である。

 中華帝国が中心であり、周辺の国々は中華帝国より下に位置付けるのが東アジアでの秩序であるという歴代の中華帝国と同じ概念を宋も持っていた。宋が契丹や西夏に年貢を贈るのも、名目上は目上の国が目下の国へ贈るという体裁をとっていたし、宋が使者を派遣するのではなく、格下の国である契丹や西夏が使者を派遣するのでその返礼としていたほどである。その宋にとって、東アジアで唯一、宋を目上と思わない日本は実に扱いづらい相手であった。

 地政学的には最高の選択肢である。日本と軍事同盟を結ぶことに成功すれば、契丹を挟み撃ちにできるだけで無く、契丹の属国となっている高麗を抑えつけることもできる。

 ただし、それは宋の戦略に日本が乗ってきたときに限った話であり、日本にとってはメリットの無い話である。そもそも戦争をしていない国を仮想敵国にする軍事同盟に意味は無い。宋にとって意味があるかどうかなど何の関係も無い話である。

 かといって、この時代の東アジアの外交は、格下の国が格上の国に使者を派遣するのが鉄則であり、自国をどの国よりも目上と考える宋は当然ながら使節を派遣するなどあり得ない。ゆえに、日本と軍事同盟を結ぶためには日本から使者を呼び寄せなければならないのだが、日本は宋を目上とは思っていないし、それ以前に宋の提唱する軍事同盟とは何の関心も示していないのである。

 宋の見せた妥協は、商人の派遣である。民間人がビジネス目的で日本にやってきたのだという体裁にすれば、宋のプライドは維持できるのだ。カネで平和とプライドを買ってきた国に、プライドを捨てるという選択肢など無かった。

 長久五(一〇四四)年八月七日、但馬国に漂着した宋の商人の張守隆が漂着したとの知らせを受けた朝廷は、急遽中原長国を但馬介に任命する。もともと但馬国は、但馬国司源章任が在任しており、その役職は但馬守。そこに、対宋交渉専任として中原長国を但馬介に就任させ、派遣させようとしたのである。現在でも、会社のある部門が危機に陥っているときに、危機対策専門の人員をかなり高い役職に任命した上で派遣することは珍しくないが、このときの覇権はそれと同じ意味合いを持っていた。

 ただし、実際に派遣されることは無かった。これから京都を離れて但馬国に向かうのだというまさにそのタイミングで、但馬国司源章任から取り調べ終了を伝える書状が届いたのだ。源章任の父の源高雅は各国の国司を歴任した地方行政のスペシャリストであり、藤原道長も一目置いた存在であった。その源高雅の息子は父の血を引いていたのだと、このときはちょっとした評判になった。


 伝染病の流行が沈静化したことと、伝染病の流行前の暮らしが戻ることとは必ずしも一致する者ではない。いや、流行前の暮らしが戻ることを期待する方がおかしい。

 伝染病で命を落とした人が蘇るわけではないし、一家の大黒柱が倒れた家庭がかつての暮らしぶりに戻れることを期待できるのは、どんなに福祉を充実させた社会であっても成立するものではない。

 生きていくために必要なのは何かを考えたとき、生きていくために犯罪に手を出す人がいてもおかしくはない。実際、長久五(一〇四四)年八月一〇日の夜には、平安京の北西にある松尾神社に強盗が押し入り、めぼしいものを奪い去って行ったという事件まで起こっている。

 伝染病の流行に加え、後朱雀天皇が病に倒れただけでも一大事なのに、さらに加わった治安悪化のニュースを前に、朝廷では様々な議論がなされた。

 何かのアクションを起こさなければならないのは誰もが理解していた。しかし、どうすれば現状が改善するのか誰もアイデアを持ち合わせていなかった。議論百出の末に出されたのが改元である。元号を変えればどうにかなるのではないかという意見が出ては消えたのある。

 明治維新を迎えるまで、改元の理由は、新天皇の即位のほか、吉事や凶事でも改元となった。ただし、凶事での改元というのは実は少ない。誰もが凶事による改元であると考えても、表向きの改元理由は吉事による改元とするものである。

 ところが、このときはどこをどう探しても吉事がなかった。

 珍しい亀が見つかったというだけでも吉事とされ改元の名目に使われるのに、このときはそれすらもなかった。

 何としても吉事を見つけ、吉事を理由とする改元へとこぎつけようとする意見が出た。

 吉事が見つかるまで改元を延期すべきだとする意見が出た。

 恥も外聞も捨て、凶事による改元とすべきとする意見が出た。

 長々とした議論の末にたどり着いた結論。それは、凶事による改元。

 長久五(一〇四四)年一一月二四日、寛徳に改元。実に三ヶ月に及ぶ議論の末の決定である。

 とにもかくにも改元にたどり着き、これでどうにか世の中を好転させされると思った矢先、一つの知らせが朝廷を揺るがした。

 後朱雀天皇倒れる。


 後朱雀天皇が倒れたまま、寛徳元(一〇四四)年を終え、寛徳二(一〇四五)年を迎えた。

 摂関政治というシステムは、藤原道長によって堅牢なものとなったが、堅牢であり続けるための前提条件の厳しいデリケートなものとなっていた。デリケートであるがゆえに一定以上の品質を保証できるが、デリケートでなければ運用できないシステムになっていたのだ。そして、デリケートを保てば高品質が保証される、つまり、デリケートさを維持できなければ破綻するというシステムであったために、摂関政治というシステムは壊れたのだ。

 摂関政治というシステムを藤原道長が堅牢なものとした結果、日本国の統治システムは以下の通りとなった。

 まず、日本国は天皇の言葉が最終決定であるが、天皇自身が自分の思いを言葉として発するわけではない。家臣たちから上がってきた議決をそのまま読み上げるのである。つまり、天皇不在と議決の先送りとはつながらない。そのため、このときのように後朱雀天皇が病に倒れたとしても、国政が止まるということはない。

 それでも、天皇の名で公布されてはじめて議決は法となる。つまり、「このような制度を始めます」と法案を広報しようと、天皇の御名御璽がなければ法としての価値を持たないただの雑文になる。

 そこで登場するのが皇太子である。皇太子が天皇の国事行為を代行するのだ。天皇の御名御璽が得られなくとも、天皇が病気であるならば皇太子の御名御璽で代行可能である。天皇臨席を要する儀式に関白が代理として参加することは、一応は許されてはいたが、できれば避けたいことではあった。天皇の代理が必要なときはやはり皇太子の参加なのだ。

 と、ここまで記してこのように考える人はいないであろか? 摂政ではダメなのか、と。

 摂政とは、天皇の病気や、幼くして即位した天皇が元服するまでの間、天皇の職を代行する人のことである。摂政はあくまでも天皇個人の血縁による近親者としての天皇の職務代行者であり、その権力は極めて大きい。

 律令に基づけば、天皇が病気で倒れたならば、天皇の近親者が摂政となって天皇の国事行為を代行することも可能であった。それどころか、藤原良房以後、藤原氏が摂政となり、圧倒的権勢を手にし続けるのが常態化していたのだ。

 その藤原氏の継承者である藤原道長は、摂政という役職をなくしたわけではない。ただ、摂政という仕組みを可能な限り狭くしたのである。何しろ、藤原道長が摂政であった期間は文字通り天皇の元服前に限っており、関白にはついに就任することないまま一生を終えた。天皇の病気は摂政を立てるのではなく、天皇の体調回復を前提とした皇太子による代行とすることを、藤原道長の作ったシステムは想定していたのである。

 皇族は皇族であり、藤原氏をはじめとする貴族はあくまでも一家臣でしかない。一家臣である貴族たちの合議が議政官の決議となって天皇に奏上される。それを覆せる権威は天皇のみに存在するが、その権威を天皇は行使しない。

 ここで重要なのは貴族たちの合議という視点である。

 いかに優れた人物が朝廷に君臨していようと、永遠の命があるわけではない。優れた人間の優れた能力に依存するようでは、組織として、さらには国として、瓦解するのは目に見えている。誰かがいなくなった瞬間に動かなくなるような仕組みは、仕組みではない。

 貴族たちの合議制にすれば、突出した個人の能力に頼ることなく、決議の内容を一定水準以上に保てるのだ。しかも、貴族たちは入れ替わる。ある日突然全員がいなくなるような事態が起こったら話は別だが、普通に考えれば、少しずつ貴族たちが入れ替わることで、継続と新陳代謝の両方が図れるのだ。

 つまり、独裁政治を否定したのである。現在は、代議制、あるいは議会制民主主義として、議論する人たちを国民の選挙で選んでいるが、平安時代に選挙などない。選挙などないが、議論をする資格のある者たちを流動的にさせ、一定以上の水準の議決が常に行われること、そして、一人の意見が多数派の意見を覆すことなどないという点では、現在の議会政治に匹敵すると言えよう。

 しかも、藤原道長自身がそうであったように、民意は断じて無視できるものではなかった。貴族自身が良かれと思って下した決断であっても、民意に反する決断をしようものなら容赦ない批判が待っている。ひどいケースになると屋敷に群衆が襲いかかり、火をつけられるなんてこともある。政治的意見というものは、想定している以上に多くの人が持っているものなのだ。

 その上、藤原道長は藤原独裁すら否定した。道長の想定した議論する貴族というものは、藤原氏に特定したものではない。他ならぬ藤原道長自身が、藤原頼通の後継者に藤原氏ではない源師房を指名している。皇室の血筋は国政に関わる重要事であるが、皇室の前では一庶民でしかなくなる貴族の血筋など、国政とは何の関係もないというのが藤原道長の考え方であった。

 ところが、このシステムでは困る人がいた。藤原道長の後継者である藤原頼通その人である。

 藤原道長の作り上げたシステムでは本来、関白など不要な存在なのだ。人臣の最高位は左大臣であり、左大臣として議政官を指揮し、議政官の決議を天皇に奏上するというのが藤原道長の定めたシステムなのである。人臣の競争により誰が左大臣になるかはその時代にならないとわからない。藤原氏かどうかわからない。源氏かもしれない。平氏かもしれない。その他の貴族かもしれない。それでも、誰が左大臣になろうとそれは競争の結果なのだ。競争に勝ち抜いた人物が議政官のトップに立って国政を左右すればいいと藤原道長は考えたのである。

 しかも、左大臣は人臣の最高位であり議政官の議長を兼ねるが、議政官においては他の者と等しく一票であり、いかに左大臣が力説しようと左大臣の意見が否決されたら、否決という結果を上奏しなければならない。

 このシステムを藤原頼通も守っている。藤原頼通のこの時点での官職は左大臣であり、公式記録にも左大臣藤原頼通として記されている。

 ところが、藤原頼通は兼職である関白の地位に執着した。人臣のトップである左大臣の役職だけで満足しなかったというだけでは不正解で、関白に与えられている特権、すなわち、天皇の補佐役という特権を手放す気になれなかったのだ。

 藤原道長は議政官を自由自在に操ることができた。それだけの弁論の力があった。説得力もあったし、結果も出していた。それに、藤原道長に心酔する仲間たちにも恵まれていた。

 一方、藤原頼通に父の持っていたような能力はない。左大臣として議政官の議長職を務めることはできるが、議政官を自由自在に操る弁論の力などなく、結果も出せず、そして何より、心酔する仲間など考えられなかった。

 この状況下で藤原頼通の意見を通す方法が、関白との兼職である。議政官の議決に関わらず、自分の意見を天皇の意見として公にすることも厭わないという無言の圧力を持っていることは、藤原頼通の意見を通すときに有効な武器となった。

 藤原頼通は言うだろう。そのような武器を使ってはいないと。

 だが、武器を持ちながらも使わないでいるのと、そもそも武器を持たないでいるのと、同じに考える人などいない。

 藤原頼通は父のシステムの継承者であることを自認していた。間違えても自分がシステムの破壊者になるなど全く自覚していなかったであろう。


 後朱雀天皇が病に倒れたことで、いつもなら一月に実施する予定の除目(じもく)、すなわち、人事発表は中止すると決まった。

 貴族にしろ、役人にしろ、新年一月の除目を期待と不安を持って眺めるのが普通であった。昇格するか否か、新しい役職を手にできるか否かというのは、貴族において、あるいは官界に身を置く全ての者にとって、人生における一大事であった。

 その除目を中止するということは、ある一つの出来事が間も無く訪れるのだというニュースにもなった。

 その想定されるニュースとは、天皇崩御。

 新しい天皇が即位したとき、人事を一新するのが通例である。

 しかし、一月に新人事を発表してすぐにまた新しい人事を発表するというのは困難である。制度として困難なのではなく、昇格させられるだけのポストがないのだ。

 医療技術が現在と比べ物にならないほど低かったこの時代、かなりの割合で死去による欠員があった。ただし、欠員を埋められるだけの人員もいたのだ。昇格要件を満たしながら、上が詰まっているために昇格できない者や、役職に就くのに充分な位階を持ちながら役職につけずにいる者が溢れていたのだ。

 前年の伝染病の流行によって例年以上の欠員が出ていたとしても、待っている人の多さを考えれば一回の除目で全て埋まってしまう。そうなると、新天皇の即位に合わせた新しい人事が不可能な話となってしまうのだ。

 除目を止めるということは、そう遠くない未来、それこそ数ヶ月、あるいは数日というレベルで、後朱雀天皇の崩御が待っていることを意味していた。

 後朱雀天皇が病に倒れてから、天皇としての政務は皇太子親仁親王がとっていた。このとき、親仁親王は二〇歳。若きプリンスをまさに具現化したような人であった。父である後朱雀天皇が倒れてから、父の容体を心配する一方で、皇太子として天皇代理の職務に専念していた親仁親王は、もうすぐ訪れるであろう新しい時代のシンボルになるであろうと見なされていた。

 父は後朱雀天皇、母は藤原道長の娘である藤原嬉子。つまり、藤原頼通とは伯父と甥の関係にある。藤原摂関家にとっては申し分ない血筋であるが、一つだけ問題があった。藤原氏ではなく、皇族である章子内親王を妻としていたという点である。つまり、このまま親仁親王が天皇に即位した場合、皇后となるのは章子内親王であり、皇后が子を産んだら藤原氏と外戚関係にない天皇が誕生することとなる。

 このような場合、中宮と皇后と分け、中宮として藤原氏の女性を嫁がせるという手段もとれた。ところが、藤原頼通には娘がいなかった。藤原頼通の弟である内大臣藤原教通も事情は同じである。こうなると、無理して中宮に嫁がせることもできなくなる。

 そこで藤原頼通は、藤原頼通のもとにいるただ一人だけ女児に目をつけた。その女児は間違いなく藤原頼通の娘である。そして、女児の母は藤原祇子である。ここまでは判明している。ただ、この藤原祇子という女性の素性がよくわからないのだ。この時代、いかに父の素性が申し分なくとも母の素性がよくわからないという女性が皇族に嫁ぐなど断じてありえないことであった。

 しかも、この女児はまだ一〇歳である。いかに平安時代が早婚であるとはいえ、まだ初潮も迎えていない女児を嫁がせるなど無茶にもほどがあった。

 この女児の名を藤原寛子と言う。この藤原寛子という女児がにわかに着目を浴びるようになったのだ。


 寛徳二(一〇四五)年一月一〇日、皇太子親仁親王の名で恩赦が命じられた。天皇が病に倒れているという状況下での恩赦の命令は珍しくない。

 それは当時の人に一つの覚悟をさせることであった。

 後朱雀天皇は間も無く亡くなるという覚悟である。

 そして、新しい時代はそのときが訪れる前に始めさせられた。寛徳二(一〇四五)年一月一六日、後朱雀天皇が退位し、親仁親王が受禅したと発表された。正式な即位はまだであるが、後冷泉天皇の治世はこの日から始まる。

 同日、左大臣藤原頼通が関白に任命された。

 関白というのは、天皇個人の相談役であり、天皇交代の後も自動的に引き継げる職務ではない。摂政もまた、幼少や病気などの理由で天皇の職務を取れなくなった場合に天皇が個人的に命令する代理である。つまり、天皇自身が自分は摂政も関白も必要としないと宣言すれば、その瞬間に役職が終わるのが摂政、そして関白という職務である。このときまでの藤原頼通は後朱雀天皇が個人的に任命した天皇の相談役であり、後冷泉天皇のもとでも関白であり続けるためには後冷泉天皇の名で改めて関白を任命しなければならなかった。

 ここまでの流れに藤原頼通が何一つ絡んでいないなどありえない。

 後朱雀天皇の容体が悪化しており、回復する見込みが見られないとなったとき、後朱雀天皇の退位は最優先として上がる選択肢であったはずである。

 にも関わらず、遅い。

 もともと藤原頼通という人は即断即決と程遠い人であるが、それにしても決断が遅すぎる。

 そこで推定されるのが、皇太子親仁親王と、左大臣藤原頼通との間に様々な駆け引きがあったのではないかという視点である。

 皇太子親仁親王、即位後の呼び方をすれば後冷泉天皇は、明確な政治的意見を持っていた。君臨すれども統治せずというのはイギリス王室をはじめとする立憲君主制の国において見られることである。そして、その概念はこの時代の日本にもある。ただし、それは慣習であって、法に従えばむしろ天皇は君臨し統治する存在であるべきなのである。若きプリンスとして新しい時代を感じさせる存在であった後冷泉天皇は、母系をたどると藤原氏に結びつくという、平安時代の典型的な天皇の血筋である。だが、藤原氏が議政官の圧倒的多数を占め、藤原独裁というべき政体になっていることを許容してはいなかったのだ。

 後冷泉天皇は、藤原氏との対立を隠さなかったのである。