末法之世 8.前九年の役
スパイというものは、想像上の存在なわけでも、近現代だけの存在でもない。どの時代にあっても、どの社会にあっても、スパイというのは存在する。安倍頼時が利用したのはスパイであった。
奥六郡に向けて軍勢を進めているタイミングで、朝廷軍に潜り込んだ反乱軍のスパイが、平永衡が反乱軍側に寝返る可能性があるという情報を流したのである。そして、この情報を源頼義が信じてしまった。それだけではなく、平永衡が殺されてしまった。
源頼義はこれで、裏切り者はいなくなり、安心して戦えると考えた。
だが、平永衡が殺されたことは藤原経清を一つの決断をさせるに充分であった。八〇〇名の軍勢を率いて朝廷軍を脱出し、反乱軍側に加わったのである。その上、平永衡の所領に平永衡が殺害されたことを告げ、自らの所領とともに朝廷軍への補給を拒絶するよう指示したのである。
安倍頼時にとっては、考えられる最高の成果を収めたこととなる。手強い武人になると想定されたの二人のうち、平永衡は亡くなり、藤原経清は軍勢を率いて自らの軍勢に加わった。その上、平永衡と藤原経清の所領が反乱軍側に立ち、朝廷軍への補給拒絶を宣言したのである。これは朝廷軍を挟み撃ちにすると同時に、大軍であるがゆえに兵糧も大量に必要とする朝廷軍が補給できなくなることを意味したからである。
短期決戦は不可能と悟った源頼義は、陸奥国府に戻り短期決戦の断念を表明する。
その上で、この戦いは長期戦になると考え、朝廷に書状を送った。
東北地方の反乱が解決すると期待していた京都の市民たちは、想像もしなかった連絡に驚きを隠せなかった。しかも、源頼義は長期戦になると連絡してきた。
その上で、二つの要求を朝廷に迫ってきた。
一つは、源頼義に対する安倍頼時追討の宣旨を再度出すこと。これは、朝廷は軍事作戦の継続する意思であると日本中に公表することを意味する。二つ目は、後任の陸奥国司を早々に派遣して欲しいという願い。これは自分が軍事に専念するため、陸奥国に民政を委ねることができる人材が欲しいというものである。
朝廷は源頼義のこの二つの願いを認め、安倍頼時追討の宣旨を出すと同時に、新しい陸奥国司として藤原良綱を任命した。
ところが、この新しい国司が陸奥国行きを拒否したのである。各国の国司を歴任し、名国司として名を馳せていた藤原良綱は、この時点の陸奥国の民政専念の国司としては最上の選択であったが、いかに後衛の担当であるとは言え戦いのただ中に行くことは耐えられなかったのである。
かといって他に国司に相応しい人材はいなかった。源頼義の弟で、元陸奥国司の源頼清を呼び戻すという意見も検討されたが、この時点の源頼清は肥後国司であり、朝鮮半島情勢に加え、宋に対する牽制も踏まえての赴任であり、ここで呼び戻して東北地方に派遣することは対外交渉において大きなマイナスになってしまう。
それでも京都は何とかして平静を保とうとしていた。平等院は鳳凰堂に次ぐ第二のシンボルとなる法華堂を建立させ、鳳凰堂完成時に似た一大ブームを湧き起こした。
さらに平等院法華堂の一般公開から七日後の天喜四(一〇五六)年一〇月二九日、藤原頼通の六男である藤原師実が正三位権中納言兼左近衛中将として議政官デビューした。実に一五歳という若さでのデビューである。
平静を装いつつ、少なくとも摂関政治の次の形を見せることで未来をイメージ付けさせることには成功したが、新しい陸奥国司はなかなか決まらずにいた。
解決したのは天喜四(一〇五六)年一二月二九日になってから。陸奥国司として任命されたのは、源頼義。陸奥国司の任期を延長するというのが朝廷の判断であった。
と同時に、東北地方での反乱が長期戦になることを通告した。戦いが始まった頃は短期間で戦争が終結すると考えていた者も、この頃にはもう、戦争がそう簡単に解決しないものであることを実感するようになっていた。
安倍貞任らは、この戦いで日本に勝つこと、日本から独立すること、そして、東北地方を征圧し、北海道、樺太、沿海州まで至る巨大国家を作り上げることを夢見ていたが、安倍頼時は、自分たちのしていることが反乱であり、遅かれ早かれ負けることを確信していた。しかも、自分は一度戦いを挑んでおきながら降伏し、その上でもう一度戦闘を仕掛けている身である.二度目の許しはない。
自分の身がどうにかなろうと、奥六郡に住む者たちが、蝦夷であろうとそうでなかろうと、安倍氏の勢力下のもとで生活する者たちが助かるならそれでいいとまで考えるようになっていた。
ただ、奥六郡の人たちの間には蝦夷アイデンティティがかなりの勢いを持ち始めていた。朝廷に降伏するなら死んだ方がマシだとまで考える者が続出していたのである。こうなると、生き残るための降伏という選択肢は消失する。
安倍頼時に残されていたのは、戦争の被害を最小限に食い止めること、そして、戦況を可能な限り優位に進めることであった。戦況を優位に進めることで朝廷から譲歩を誘い出し、奥六郡の蝦夷たちも納得する形で戦争終結に結びつけることができればどうにかなる。
しかし、短期決戦を諦めた源頼義は、安倍頼時に対する勝利をゴールとする長期計画を立て始めていた。それまでは自らの統率する軍勢で一気に安倍氏を、より正確に言えば安倍頼時ではなく安倍貞任とその一味を殲滅させることでテロの根絶を図ったのだが、短期決戦が不可能となると、根本計画を変えなければならなくなる。ただし、その計画を立てるための時間も、実現するための時間も増える。
源頼義の考えた計画は、奥六郡の包囲殲滅作戦である。
奥六郡は東を北上高地、西を奥羽山脈に囲まれている。北は北上川沿いに下北半島までたどり着けるが、それ以外の拡張はできない。南への拡張はそもそも源頼義の軍勢が構えている。
ということは、北にいる下北安部氏が朝廷側に立って挟み撃ちにすればそれで包囲は完成する。
山地や高地を突き抜ければいいではないかと考えるかもしれないが、そう甘くはない。まず、奥羽山脈の西には奥州清原氏がいる。北上高地を抜けて三陸海岸を目指すという手もあるが、三陸地方の大部分を占める陸奥国閉伊郡は銅を産出することもあって朝廷直轄地となっており源頼義の支配下にある。
奥州清原氏はすでに秋田城介平繁成を通じて朝廷側に立つことを宣告している。
残るは下北安部氏である。
下北安部氏をいかに味方に引き入れるかをめぐる駆け引きが始まった。
この時代の陸奥国の陸路は、ほぼ現在の国道四号線に相当する道が主な道路である.陸奥国自体が太平洋沿岸や日本海沿岸、あるいは瀬戸内海いった海路を頼れないことから「道の奥」と言い方がなされ、「みちのく」という言葉が生まれたほどであったが、あくまでも主な道路が内陸部にあったと言うだけで、石巻から気仙沼、釜石、宮古といった三陸沿岸を通る方法もあれば、遠回りにはなるが日本海沿岸を航行するという手もある。
その上、この時点で既に秋田城介平繁成が動いている。秋田からなら、現在の国道七号線沿いに大館、弘前、青森と通れば下北半島へとたどり着ける。
東北地方の地図は安倍頼時の頭にも入っている。奥六郡を制しているために、現在の多賀城にあった陸奥国府から下北半島へと向かう道を塞いでいることと、陸奥国府と下北半島との情報を分断することとは何の関係も無いのである。
と同時に、源頼義にスパイを送り込むぐらいであるから、源頼義がこれからどのような行動を起こそうとしているのかも安倍頼時はわかっている。源頼義が下北安倍氏と連絡をとり、既に奥六郡を三方から包囲しているのに加え、北からも包囲しようとしているのである。
この、下北安倍氏の素性はよくわからない。天喜五(一〇五七)年時点の下北安倍氏のトップに君臨していた安倍富忠は安倍頼時の従兄弟であるとする系図もあるが、一方で、遠縁ではあるが奥州安倍氏との関係は薄いとする説もある。
同じ安倍姓ではあるが、この時点で奥州安倍氏と行動を共にしてはいない。とは言え、朝廷側に立つと明言してもいない。つまり、早い段階で行動して下北安倍氏を味方に取り込めば完全包囲を食い止めることができるのである。
安倍貞任は蝦夷としての大義で動いていると考えているが、それに乗ってきていない以上、蝦夷の大義としての行動は期待できない。安倍富忠という人物は大義で動くような人物ではなく、現実的なメリットがなければ動かないという、戦争をしようというときに必要な素養を身につけている人物であることになる。
このような人物を戦争へと誘おうと言うとき、大義を説いても意味は無い。戦争に参加することのメリットを挙げた上で、参加すれば戦争に勝てると示してはじめて戦争へと動かすことができる。
このような人物を相手にするとき、理想を前面に掲げるしか能の無い安倍貞任に任せても意味は無い。実際に軍勢のリーダーを務めており、安倍貞任よりは現実主義的である安倍頼時が赴かなければ意味が無いのである。
北上安倍氏にとってはやっかいな申し出とするしか無い。
そもそも、同じ蝦夷だと一緒くたにされて朝廷側から反乱軍の一員にカウントされかねないのが迷惑極まりない話で、天喜五(一〇五七)年時点で朝廷軍の一員として従軍していないのは事実でも、安倍時頼追討の宣旨を受けた源頼義から従軍するよう要請されていないのに軍を動かすと、そのほうが問題になるのである。
ただでさえ慎重にならなければならないときに、自分のもとを渦中の安倍頼時が来るというのは、朝廷軍から敵扱いされる可能性が増すことしか意味しない。
安倍頼時は、自分自身が下北安部氏にとって迷惑な存在と認識になるであろうことは認識していた。最悪の場合、どさくさに紛れて暗殺されるぐらいの危険を伴うことも把握していた。
だからといって大軍で下北半島に向かって威圧感を背景に従軍を求めるのは本末転倒である。そもそも奥州安倍氏にそこまでの兵力は無い。暗殺されないぐらいの軍勢を率いていくと奧六郡の軍勢が減ってしまう。そうなったら奧六郡は朝廷軍の占領下に置かれることとなる。
結果、単身とまでは行かないにせよわずかな手勢での北上となった。
安倍頼時が自分を頼りにしてこちらに向かっているという知らせを受けた安倍富忠は、単純明快な答えを安倍頼時に突きつけた。
いきなり弓矢で応じたのである。大砲の普及した時代は、わざと空砲を放って砲弾はもう大砲に設定されていないというアピールして歓迎の意を示すというのがマナーになっているが、そうで無い時代、いきなり弓矢で応じるというのは、威嚇用であっても、訪問拒絶のアピールになる。それぐらいはマナーとして知っている。
ところが、その威嚇用の矢が、他ならぬ安倍頼時に命中したのである。しかもかなりの重傷であった。結果として、暗殺を危惧した安倍頼時の予感が当たったこととなる。
矢の命中した安倍頼時は本拠地まで戻ろうとし、鳥海柵まで辿り着くことができた。鳥海柵とは奥州安倍氏の本拠地の一つで、この時代としてはかなり堅牢な城塞でもある。鳥海柵は安倍頼時の三男の安倍宗任が居住し、周囲を統治していた。
鳥海柵まで辿り着いた安倍頼時は、天喜五(一〇五七)年七月二六日、三男の宗任に見守られる中、命を落とした。
安倍頼時が亡くなったことで、安倍頼時追討の宣旨は効力を失ったこととなる。
これは、安倍宗任も考えていたことで、父の死を告げる報告と同時に朝廷軍に対して降伏することを検討したようである。
だが、安倍宗任のこの意見に猛反発したのが安倍貞任であった。
安倍貞任は安倍頼時の次男で、安倍宗任は三男である。
この二人は兄弟ではあるが母親が違う。安倍貞任は金氏の女性を母親としているのに対し、安倍宗任は清原氏の女性を母親としている。
金氏という名前の人物が歴史に登場したのはこれが初めてではない。貞観一三(八七一)年に金が採掘されて朝廷に献上したことから金という姓が与えられたという記録があり、それ以後、金を姓とする一族として東北地方に存続し続けたと考えられている。なお、読み方は「こん」もしくは「こんの」であり、現在、「今」もしくは「今野」という姓にもつながる。
この金氏は、一族を挙げて奥州安倍氏の陣営の一員として安倍貞任とともに戦っていた。
安倍宗任の母の系図である清原氏が朝廷側の一員になっているのに対し、安倍貞任は母だけでなく妻も金氏の女性であった。
この状況で安倍宗任が朝廷軍への降伏を主張しても、奥六郡のための行動ではなく母方の実家である清原氏のための行動と見られる。
例外的な巨漢であった兄の安倍貞任と違い、弟の安倍宗任は平均的なスタイルで、人混みの中では埋没するところもあった。知性という点では兄をはるかに凌駕しており平和の必要性も認識していたが、エリート気取りをするところもあって人気は高くなかった。
集団が戦争一辺倒に向かっている中で戦争終結を訴えるのはかなりの勇気を要する。
戦争一色に染まっている中で戦争を無くすには、力尽くで戦争を止めるのではなく、落としどころを見つけるという手もある。藤原宗任は、戦争終結を訴えたが失敗した。だが、次善の策を考えるのは諦めきれなかった。
先に、参院選で岩手県に赴いた自民党総裁としての安倍晋三総理が安倍貞任の子孫であると訴えたと記したが、系図に従えば、安倍晋三総理の祖先はこの安倍宗任である。
天喜五(一〇五七)年八月一〇日、東山道、東海道の諸国に対し、兵糧を陸奥国に運ぶようにという命令が出た。前回、兵糧不足への懸念から大軍を動かせなくなり短期決戦が不可能になったことを危惧してのものである。
ところが、朝廷からの通告と入れ違いに東北地方から届いてきたのが安倍頼時死亡の知らせである。これにより、戦争が終わり、食料運送の必要もなくなったと感じた東山道と東海道の諸国は兵糧を運ぶのを躊躇うようになった。戦争のためと考えて仕方なく受け入れるが、その負担は重い。そこに飛び込んできた戦争終結の噂は、東北地方へと運ばれる兵糧が少なくなるという形で現れた。
朝廷に正式連絡が届いたのは天喜五(一〇五七)年九月二日のことである。既に噂として安倍頼時が亡くなったという知らせは届いており、陸奥国からの正式連絡は戦争終結への期待を寄せるものであった。
しかし、陸奥国司からの正式な連絡は朝廷の面々に絶望感を抱かせるものであった。
安倍頼時はたしかに死んだ。だが、反乱軍は安倍貞任をリーダーとしてなおも抵抗を続けており、戦争はまだ終わっていないというのである。安倍頼時の死によって安倍頼時追討の宣旨は効力を失ったため、源頼義に対して改めて安倍貞任追討の宣旨を発令し、合わせて諸国の兵士や兵糧の徴用を許可するよう求めてきたのである。
朝廷からの知らせを聞いた京都の庶民は、そして、東山道と東海道の国々は落胆した。戦争は終わったから兵糧提供の義務も無くなったと考え、義務を果たさないでやり過ごしてきたのに、ここで改めて戦争の継続が伝えられ、義務が継続することも確認されたのである。
同時に、兵士の提供も求められるようになったのだが、こちらは特に問題なかった。徴兵制である防人が制度として崩壊したこの時代、一般庶民の軍事訓練が受けていることなど期待できない。いかに人海戦術を考えても、無訓練の一般人を無理矢理戦場に連れて行っても何の役にも立たない。それに、いかに農閑期に入るからといって、農地を捨て、つまり職場を捨て、長期戦が伝えられている戦線に行きたがる者などそうはいない。だが、失業者に視点を向ければ話は変わる。仕事が無く、食べていける手段が無いために強盗へと身を落とした者がかなりいた。そうした者を兵士として東北地方に連れて行けば、強盗になった失業者は職を、強盗に襲いかかられていた荘園は治安を、手にできることとなる。これは歓迎できることであった。
東北地方に向かっている者たちは、最低限の兵糧しか持っていかなかった。国からの発表によれば、東山道と東海道の各国から兵糧が東北地方に送られているので、食べ物の心配は要らないはずであった。また、戦争中は職を得ることができるだけで無く、戦争が終わっても朝廷が職を保証するはずであった。
彼らは知らなかった。源頼義のもとに届いたのは、源頼義個人との結びつきで兵を送ることのできる関東地方の武士たちと、失業中の身ゆえに着の身着のままで東北地方へ向かっている兵士希望の者たちと、兵糧を送ったという知らせだけであり、兵糧そのものが影も形も無かったことを。
安倍時頼が命を落としても、安倍貞任がトップとなって軍勢を維持している。安倍貞任よりは話の通じる安倍宗任は、一刻も早く戦争を終わらせるべきだと考えてはいるが、今すぐの無条件降伏ではなく、戦争を有利な形で進めた上で朝廷軍からの譲歩を引き出しての講和を考えるようになっている。
源頼義とともに戦おうという人は続々と東北地方に押し寄せてきている。
それなのに兵糧が届かない。
源頼義は焦りを隠せなかった。人が増える一方であるのに、その人たちを食べさせていける食料が無いのだ。
長期戦を覚悟したと言っても、餓死を覚悟したのでは無い。
かと言って、安倍貞任が攻め込んでくることは考えられない。
陸奥国府宛の食料が届かないでいることはとっくに情報として掴めている。
奥州安倍氏側は、食べていけるだけの食料をとっくに蓄えてある。
このまま黙っていれば勝手に朝廷軍の方が自滅するのに、わざわざ戦闘に訴え出るわけはない。本音を言えば、安倍貞任は戦闘を考えていたようであるが、安倍宗任が反対した。戦わずして勝つことこそ最高の勝利という訴えの前には、戦闘を求める者も黙るしかなかった。
焦りを隠せなくなった源頼義は、天喜五(一〇五七)年閏一一月、ついに動き出した。
これ以上人が集まってしまっては、すでに集まった兵士も、これから集まる兵士も、みな餓死してしまう。それより前に決戦に打って出て戦況を切り開くというのが源頼義の決断であった。
とは言え、この時点で源頼義の動かすことのできた兵士は二五〇〇名ほどである。対する奥州安倍氏側はその倍近くの兵士がいる。この時点の陸奥国府で用意できる食糧で動かせる兵士はこれが上限であったのだ。
源頼義が動き出したという知らせは、かなり早い段階で奥州安倍氏側に届いていた。
安倍貞任は、待ちに待った機会が訪れたと、四〇〇〇の兵士を集めて出撃。
この二者が黄海(きのみ)(現在の一関市)で激突した。
準備万端で待ち構えていた四〇〇〇の兵士と、疲労を隠せず、餓えはじめてきている二五〇〇の兵士との激突は、凄惨なものとなった。
それは戦闘ではなく殺戮であった。源頼義はわずか七騎で戦場から逃げ出すという有様であり、清和源氏の武士団を構成する有力武士、佐伯経範、藤原景季、和気致輔、紀為清といった面々が揃って戦場に消えたのであった。
朝廷軍大敗の知らせが届いたのは天喜五(一〇五七)年一二月のことである。
それまで奥六郡にとどまっていた奥州安倍氏の勢力が南へと拡がり、それまで陸奥国府の統治下にあった土地が奥州安倍氏の手に落ちた。
朝廷の記録は、このあとで大量虐殺があったと記している。戦争で敗れた武士たちが殺されただけでなく、農村に住む一般人も、陸奥国府側であったというだけで殺害されたのだ。
これは、反乱軍側の人間にとっては溜飲の下がる行為であったが、もっともやってはならないことであった。目の前で親が、子が、恋人が、友人が殺され、残り少なくなった蓄えが奪われていったのである。これでどうして、反乱軍を応援できるようになろうか。
このときの反乱軍の蛮行は、東北地方から遠く離れた人たちに、恐怖と同時に怒りを呼び起こす結果を招いた。
いかなる理由があろうと安倍貞任を生かしておくなという声が沸き起こると同時に、敗北の原因が自分たちにあると認めたのである。ケチって兵糧を手元に残し、東北地方に送らなかったことが今回の大敗を招き、虐殺を招いたのだと悟ったのだ。
天喜五(一〇五七)年一二月二五日、安倍貞任追討に対する朝廷の全面バックアップが始まった。まず、源斉頼を出羽国司とすることで反乱軍を西から挟み撃ちにすると同時に、下北安倍氏と連絡をとることで反乱軍の勢いが北に広がるのを食い止める。
戦いに敗れた源頼義はそのまま陸奥国府に残り、反乱軍のこれ以上の南下を食い止める。
そして、ターゲットを数年後に見据えた上での戦略を練り直す。
手本となったのは、坂上田村麻呂の遠征である。
桓武天皇の命令が出てから坂上田村麻呂が東北地方に向かうまで、三年という期間を置いている。これは何もグズグズしていたからではなく、東北地方で戦争をするのに必要な食料を集めるのに三年かかったからである。その上、桓武天皇の命令で補給路の確保が徹底された。この結果、東北地方へと向かった兵士たちは、飢えの心配をすることなく戦闘に専念できたのである。
それと同じことをしようというのだ。
戦いのための増税が決議され、関白左大臣藤原頼通をはじめとする主だった貴族が、倉庫に蓄えていたコメを戦費として寄付してきた。
寄付に応じたのは貴族だけではない。寺社もまた、資産の寄付を申し出た。また、これは寺社だからできる話であるが、敵を敗北へと導く呪詛を唱えだした。
翌天喜六(一〇五八)年、東北地方の戦いにおいて、朝廷軍がもっとも苦労させられる一年が始まった。
陸奥国府の支配下にあった農村が、一つ、また一つと、奥州安倍氏側に奪われていった。その中心を担ったのが、かつては源頼義の家臣の一人であった藤原経清である。
農村に対して発令されていた陸奥国司の印のある書類は全て無効とされ、藤原経清の記した国印の無い書類が正式な書類と扱われた。その書類に記されているのは、ありとあらゆるものの没収である。抵抗すれば、待っているのは殺害だ。
この藤原経清の蛮行に対し、源頼義は何もできなかった。何かをしようにも、動かせる兵がいなかったのだ。
その代わり、少しずつではあるが兵糧が運び込まれていた。源頼義の動かせる残り少ない兵は、この兵糧を守ることに専念することとなった。
一方、出羽国司に任命された源斉頼は、武人としての能力は乏しかったが、抜群の交渉能力を見せていた。特に、奥州清原氏と下北安倍氏を朝廷軍の側に留めておくことに成功したのは大きかった。
黄海の戦いで見事な圧勝を見せたことは、奥州安倍氏にとって、東北地方全体が反乱軍側に加わり、一緒に戦わせて欲しいと願い出てくる者が続出するはずのことであった。ところが、どこからもそのような声が挙がってこない。それどころか、むしろ仲間が減っている。
残虐行為は、仲間を縛り付ける効果はあっても、新しい仲間を増やす効果も無ければ、味方を増やす効果も無く、ただただ孤立へと向かわせるだけであった。
安倍貞任は戦勝の勢いがまだまだあり、戦争そのものに勝てると確信していたが、弟の安倍宗任は極めて厳しい情勢に追い込まれていると、それも、取り返しのつかない悪い状況に追い込まれていると自覚した。
天喜六(一〇五八)年二月二三日、法成寺焼亡。
天喜六(一〇五八)年二月二六日、新造内裏、中和院、大極殿など焼亡。後冷泉天皇は、内裏再建工事の完了を迎えることなく、内裏再建命令を再度出さなければならなくなった。
この短期間でいきなり大規模な火災が連続して発生し、京都はその対応に追われることとなった。
このときの火災は奥州安倍氏の送り込んだスパイによる放火であるとも、戦争に反対する者の手による放火であるとも言われている。真相はわからないが、東北地方で起こっている戦争に対するアクションを伴った放火であるという点では意見の一致を見ている。
京都の火災のニュースを聞きつけた反乱軍側は、朝廷は京都の対応に追われることとなり、東北地方の戦況は打開できるようになると考えたが、違った。
京都の火災は問題であるが、東北地方の戦況もやはり問題なのである。少しずつではあるが兵糧は東北地方に送られており、大打撃を被った源頼義の軍勢も少しずつ回復してきているのである。
その中で脚光を浴びることとなったのが、源頼義の長男で、黄海の戦いで源頼義とともに逃げ延びることに成功した七騎の一人である源義家である。
康平元(一〇五八)年時点で一九歳と推測されているこの若者は、世代の移り変わりを示す存在に成りつつあった。
源頼義は、良かれ悪しかれ真っ当な武人であった。スパイに翻弄されて敵と密通しているという噂を信じてしまい、平永衡を殺害し、藤原経清を敵側に寝返らせてしまったし、兵糧不足を把握していながら戦闘に打って出るという過ちもしてしまった。
源義家は、多少なりとも冷めたところのある武人である。スパイの声に耳を貸すこともなかったし、戦争に勝つためなら卑屈になることも厭わない性格であった。
安倍宗任は、相手が真っ当な武人であれば手玉に取れるだけの才覚を持っていた。
だが、この冷めた若者には安倍宗任の手のひらで踊るような存在では無かった。
それがいつ頃のことなのかはわからないが、康平年間のことであるという。
天喜六(一〇五八)年八月二九日、康平へ改元されたから、源義家がその行動を起こしたのは、もっとも早くても康平元(一〇五八)年八月以降のこととなる。
出羽国の清原光頼とその弟の清原武則、そして、清原武則の子の清原武貞のもとを源義家が訪れた。この時点での清原氏のトップは清原光頼であるが、清原氏の武を操るのは弟の清原武則であり、源義家と応対したのも清原武則とその子の清原武貞である。
これだけであれば、今まさに戦争をしている状況下における同盟関係の確認であり、源頼義の長男で後継者である人物の訪問であるから、何らおかしなことはない。
だが、清原武則の目にしたのは、自分に臣従の誓いを立てる若者の姿であった。
清原武則にとっては全く想像もしていなかった光景であり戸惑いを隠せなかった。
頭を上げるよう促すが、源義家は頭を上げない。その上で、臣従の誓いを立てるから、朝廷軍の一員として参戦してほしいと願い出たのである。
実に困ったこととするしか無い。何しろ、源義家は自分が清原武則のもとを訪問していること、清原氏に朝廷側に立って参戦して欲しいと願っていることを公表している。その上、代償として、自分が清原武則の家臣になるとも宣言しているのである。
ここで参戦を断ることは、朝廷軍の一員にならないことを宣言するに等しい。しかも、源義家の面目は丸つぶれである。奥州安倍氏の反乱は遅かれ早かれ朝廷軍の勝利に終わると清原武則も、息子の清原武貞も考えている。問題はその後。反乱軍に加わらないと宣言しているのは事実であるが、それは勝利者の一員であることを意味するのではない。それどころか、息子の面目を潰したという名目で、陸奥国司源頼義が出羽国まで軍勢を差し向けてくることだって考えられるのである。
本音を言えば、朝廷が勝利を収めるまで中立でいたかった。戦争となると負担は大きく、いかに奥州安倍氏に匹敵する勢力を誇っていようとそう簡単に軍勢を組織できるわけなどない。
朝廷が費用を出すなら清原氏が軍勢を揃えることは不可能では無かったが、自前で軍勢を揃えることは困難であったのだ。
というタイミングで源義家がやってきた。そして臣従の誓いを立て、軍勢派遣を求めてきた。しかし、予算については何も無い。自分の面目だけを代償として、すなわち、費用は全て清原氏持ちで軍勢を指揮し、奥州安倍氏と戦うよう求めてきたのである。しかも、その一部始終を全て公開した上で。
その間も京都では不穏な動きが続いていた。
康平元(一〇五八)年閏一二月一六日、右大臣藤原教通の邸宅である二条第が焼け落ちた。
年が変わった康平二(一〇五九)年一月八日、今度は一条院が焼け落ちた。
誰もが東北地方の戦争の余波と感じていた。潜り込んだスパイの手による犯行か、あるいは戦争反対を訴える者の犯行かはわからないが、この凶行に対し恐怖と怒りを感じはしても、敗北を感じる者はいなかった。
しかし、三月八日の出来事は、テロによる凶行でも、戦争反対の訴えの結果でも無かった。
この日、関白左大臣藤原頼通が倒れたのだ。
後冷泉天皇は慌てて大赦天下を発する。もっとも、前回と同じ轍は踏まないと、奥州安倍氏は恩赦の例外とした。
藤原頼通は既に六八歳を迎えていた。
この時代の平均寿命はとっくに超えている。
父の藤原道長の定めに従い左大臣として政務を司ってきたが、藤原道長の左大臣在任期間は二〇年ほどであったのに対し、藤原頼通は左大臣として三八年目を迎えている。
年齢的にも現役を引退し隠居生活に入ってもおかしくなかった。
その上、藤原道長は頻繁に病気になることで、それが結果的に不定期的な休息をもたらしていたのに対し、藤原頼通は大病を経験しておらず、休むことなくここまで来たのである。ここでの病気は一時的なものであったが、年齢的なものを考えるとこれ以上の無茶をさせるのはさすがに困難である。
藤原頼通は、この病気から回復して政務に復帰している。しかし、藤原頼通の次の時代を真剣に考えなければならないときは来ているのだと、それに誰もが気付かずにいたのだと思い出させるには充分であった。
藤原頼通が倒れたという知らせは、陸奥国府にも、奥州安倍氏にも届いていた。
ただし、その知らせによって起こるであろう朝廷の方針変換、すなわち、東北地方の戦乱について、長期戦覚悟ではなく短期決戦への切り替え、あるいは、奥州安倍氏との講和といった話は全く届かなかった。
朝廷からは、少しずつではあるが兵糧が届いてきている。
そして、安倍貞任追討の命令は相変わらず有効である。
出羽の清原氏も、下北安倍氏も、奥州安倍氏に味方をしないという約束は守っている。ただし、源義家の求めた清原氏の出陣については音沙汰も無い。
黄海の戦いで数多くの家臣を失った源頼義にとって、清原氏の援軍は喉から手が出るほど欲しいものであったが、来ない以上、戦力としての期待はできない。
そこで源頼義の求めたのが、志願兵である。黄海の戦いの前に多くの失業者が職を求めて東北地方に向かったことは記した。黄海の戦いに打って出なければならなくなったのは、集まった兵士たちに食べさせていけるだけの食料が無いという一点に尽きる。黄海の戦いの前は食料の前に人が行列をなす状況であったが、少しずつ兵糧が増えてきたことで人の前に食料が行列をなすまでになってきた。
ここで改めて食を保証した上で志願兵を募集することは、適切な軍勢を作れることを意味した。しかも、長期戦を覚悟しているということは、経験の無いまま食を求めてやってきた兵士を武士として育てる時間があるということである。
源頼義のもとでの軍事訓練が始まった。
と同時に、源頼義は朝廷に一つの連絡を送っている。
ここで訓練された武士たちの戦後の処遇についてである。
戦争を終え、訓練された武士たちが再び失業者へとなってしまった場合、以前よりも厄介な強盗集団になる可能性がある。それを食い止めるには、彼らに対する職業の保証が必要であるというのが源頼義の主張であった。
康平二(一〇五九)年五月二日、京都を大雨が襲い、平安京の各地が水没した。
その一ヶ月後には、水とは真逆に、火災が京都を襲った。
これらの情報は東北地方に届いてもいた。
ただし、奥州安倍氏の期待した結末は無かった。
京都が災害に遭っていることは事実であるが、だからといって東北地方に食料を送るのを止めることもなければ、災害対策のために人手を東北地方から京都に呼び戻すことも無かった。
京都の警備は、武士ではなく検非違使に命じた。警備を申し出る武士はいたが、検非違使ではない武士は東北地方に行くように勧められた。
東北地方は戦争状態にある。命に関わる話であるだけでなく、黄海の戦いで繰り広げられたのは戦闘どころか殺戮である。いかに武勇に生きる者であろうと、死ぬ可能性の高い場所に好き好んでいくわけはない。それなりのインセンティヴは絶対に必要である。
朝廷の示したインセンティヴは戦争終結後の役職であった。源頼義のもとに参じて戦った者は検非違使をはじめとする朝廷に仕える武官に任官するというのである。いかに武名をとどろかせていようと、位階もなければ役職もない無位無冠の庶民である。その上、国から給与が出る武官と違い、荘園で集めた年貢からの給与を貰えるかどうか。
このインセンティヴは大きく、源頼義のもとには、それまで清和源氏とは全く無縁であった武士たちが集結していた。
こうしたインセンティヴ目当ての参加者をまとめていたのが源義家である。真っ当すぎる武人である源頼義と違い、戦争の勝利のためには武人であることを捨てても厭わない性格の源義家は、インセンティヴ目当ての武人をまとめ上げるのに充分なマネジメント能力があった。
これには、源頼義の子であるという点に加え、源義家の二〇歳という若さも味方をした。インセンティヴ目当ての武士は年齢層が若い。その若き武士たちとほぼ同世代であることは、人をまとめあげるのに役立った。
朝廷軍にとってのプラスは、奥州安倍氏にとってのマイナスになる。戦いに勝ち、陸奥国府の統治下にあった土地に襲いかかってはいたが、戦況はむしろ朝廷軍に有利に進んでいたのである。
京都から届く情報は朝廷軍にとて喜ばしいものではないのに、朝廷軍の戦力は着実に拡張されている。これは反乱軍にとって不気味極まりないことであった。
康平三(一〇六〇)年を迎えた。
東北地方の反乱は、反乱軍優勢から膠着状態へと局面を移しつつあった。
兵站だけを考えると、国衙周辺の収穫しか期待できない朝廷軍に対し、四〇〇〇騎もの兵を養える奥六郡を抱えている反乱軍のほうが有利なはずであった。しかし、朝廷軍は兵の数を増やし続けているだけでなく、兵糧も増やし続けている。
時間が経過すればするほど、戦局は朝廷軍有利へと展開する。
もっとも、この時点の朝廷軍は、以前よりは戦力が整ってきていたとは言え、反乱軍と対等に渡り合えるほどの戦力では無い。それは他ならぬ源頼義自身がそのように考えていた。
ただし、時間とともに有利になってきていると言っても、一つだけ大問題があった。それは、源頼義の陸奥国司としての任期である。康平四(一〇六一)年の末に切れてしまうのだ。黄海の戦い時点の源頼義は清和源氏としての戦力を駆使していた。それが、主だった兵士がことごとく虐殺されてしまったために、今は朝廷軍となっている。
戦争に馳せ参じた武士たちは、清和源氏の一員でも、清和源氏の忠実な家臣でも無い。戦争に勝った暁には武官として朝廷に雇われる身になれるというインセンティヴで東北地方までやってきた者たちである。源頼義に従うのは源頼義が国司だからであり、人としての源頼義に従っているのではない。つまり、今は上官であるため源頼義に従っているが、任期が切れた元国司となった源頼義には従うとは思えない。おそらく、新しく赴任してきた国司を上官とし、新国司の指揮する軍勢に加わるであろう。
これが問題であった。
戦争に勝つという最終目標を考えると、時間をかけて戦力を整えたほうがいい。しかし、あまり時間をかけすぎてしまうと、陸奥国司としての自分の任期が終わってしまう。安倍貞任追討の命令がまだ有効であることを確認し、かつ、国司としての任期延長を特例で認めてもらった上で、陸奥国府で軍勢を鍛えている。普通に考えれば特例の延長はありえない。朝廷も、戦局は有利に進んでいるから放っておいても勝つだろうと、戦争を指揮する能力のない文官を派遣する可能性もある。だが、指揮官なき軍勢では反乱軍に勝てないのだ。
戦争を指揮したことの無い文人がしゃしゃり出て戦闘に打って出たら、間違いなく負ける。それも、取り返しのつかない惨敗を喫する。かと言って、この時代の日本を見渡しても、源頼義自身以上に陸奥国司として朝廷軍の軍勢を率いることのできる武人はいなかった。強いて挙げれば、源頼義の長男で、未来の清和源氏はこの男に委ねることになるであろうと父親自身が考えていた源義家だけである。だが、源義家はまだ二一歳。国司の空席ができれば多くの貴族が殺到する時代にあって、二一歳で国司というのは若すぎる。
源頼義の危惧は、反乱軍にとっては吉報である。
源頼義の危惧が実現すれば、反乱軍にとってこれ以上にありがたい話は無い。
朝廷軍が反乱軍に渡り合えるのは源頼義の指揮があるからで、そうでない者の指揮する軍勢になったら勝てる可能性が増えるのである。
時間を経れば経るほど反乱軍よりも朝廷軍の戦力がより上回るようになるにも関わらず、一気呵成の戦闘に打って出ないのは、現時点で戦闘に訴えるより、源頼義の任期切れを待って攻めに出るほうが勝てる可能性が高くなるからである。
一方、京都では一つのニュースが世間を騒がせていた。
実に四〇年という長きに渡って左大臣であり続けていた藤原頼通が、左大臣を辞すというのである。
左大臣辞任については以前から打診しており、後冷泉天皇もそれを認めていた。
ただし、ここには駆け引きがあった。
後冷泉天皇は、藤原頼通に対して、左大臣だけでなく関白も辞すよう促したのに対し、藤原頼通は、自身の太政大臣就任と、藤原師実の内大臣就任を求めたのである。
藤原道長は、ついに一度も関白にはならず、太政大臣も後一条天皇即位のためという例外的措置として一時的に就任しただけであるが、藤原頼通は、関白の地位を手放すことはなく、太政大臣就任を当然のこととして求めたのである。
これはさすがに図々しいと多くの人は考えたが、藤原頼通の本心はそこにはなかった。
自分が左大臣を辞すと、人事のシフトが起こる。右大臣の藤原教通が左大臣に昇格し、内大臣の藤原頼宗が右大臣に昇格する。ここまではいい。
問題は誰を空席となった内大臣にするか、だ。
藤原頼通の答えこそ、藤原師実であった。
我が子を内大臣に推すことで、父道長の定めた摂関政治の継承権を無視すると宣言したのだ。
藤原道長は、息子頼通を後継者に指名すると同時に、源師房を藤原頼通の後継者として指名した。頼通も父のその指名に従ってきていた。
源師房の年齢は五一歳。藤原師実一九歳。藤原摂関家の次期当主になることはほぼ確実であるとは言え、経験も実績も申し分ない五一歳の貴族を差し置いて一九歳の若者をいきなり後継者位にするのは無茶がある。
藤原頼通がなぜこのような手に出たのかについては、二つの理由が考えられる。
一つは内大臣に就任させることで早めに経験を積ませようという思い。何しろ、右大臣が左大臣になり、内大臣が右大臣になることからもわかるとおり、内大臣に抜擢されるとはいえ、百戦錬磨の政治家に囲まれた政治家人生になるのだ。この環境にいれば否応なく経験が身についていく。
二つ目は皇位継承問題。後冷泉天皇は子供がいないままであった。さらに言えば、子供が出来る気配も見られなかった。
これは皇太子尊仁親王が新しい天皇なる可能性が高いことを意味する。
後冷泉天皇即位直後こそ、皇太子尊仁親王はまだ一二歳の少年であったが、今や年月を重ね立派な皇太子へと成長していた。その上、皇太子尊仁親王は藤原氏の血も流れてはいるが、基本的には藤原氏を外戚としてはいない。つまり、藤原氏と皇室とのつながりを持たないゆえに藤原氏と距離を置いた政治を展開する可能性がある。もっとも、藤原氏の血を引く後冷泉天皇も即位当初は藤原氏と距離を置いていたし、それは康平三(一〇六〇)年を迎えても基本的には距離を置いている。ただ、年齢を重ねることで現実と接するようになったために、藤原氏との妥協ではなく、現実の妥協をみせるようになった結果である。
皇太子尊仁親王の時代を迎えたら、藤原氏は一時的に皇室とのつながりを失うであろう。
だが、藤原氏が一人残らず議政官から消えるとは考えられない。いくら藤原氏のことを憎んでいたとしても、藤原氏なしで政治を成り立つような時代ではなくなっていたのである。
皇太子尊仁親王の時代を迎えたとき、外戚としての藤原氏は確かに存在しなくなる。だが、最有力貴族集団としての藤原氏は残るのだ。その中心となるのは藤原氏でなければならない。摂関政治の継承ではなく藤原氏の勢力の維持を考えたとき、若き内大臣を用意するのとしないのとでは全く違う。
それは源師房を摂関政治の継承者から外すに値するだけの価値のあることであった。
それに、皇太子尊仁親王はたしかに藤原氏を母としている皇族ではないが、皇太子尊仁親王自身は藤原公成の娘を妻としており、その女性との間にこの時点で六歳になる男児をもうけているのである。その男児の時代になれば再び藤原氏と皇室とのつながりが元に戻ると考えることはできたのだ。
康平三(一〇六〇)年七月五日、藤原頼通、左大臣を辞任。後冷泉天皇は合わせて関白の辞任も求めていたが、関白については続投すると決まった。ただし、藤原頼通の求めていた太政大臣就任については却下した。
それから一二日間の左大臣空席を経た、康平三(一〇六〇)年七月一七日、右大臣藤原教通が左大臣に昇格。内大臣藤原頼宗が右大臣に昇格。六五歳の左大臣と六八歳の右大臣であるだけでなく、これまで長期に渡って大臣を勤めてきた者がそのまま昇格したために、変化を感じることはできても真新しさを感じることはできなかった。
しかし、権大納言藤原師実の内大臣昇格は注目を集めるに充分であった。一九歳の若き大臣である上に、藤原頼通の後継者でもある。若き貴種というのはどうしても注目を浴びる宿命にあるが、藤原師実にはもう一つ、どうしても注目を浴びてしまう点がある。それは、本来の後継者である源師房を差し置いて後継者になったこと。
これに対する藤原師実の回答は、自身の結婚であった。
権大納言藤原信家の養女を妻として迎え入れたのだが、その女性の実父は源師房で、実母は藤原道長の娘の藤原尊子であった。このため、藤原氏内部の結婚ではあっても、歴史上、その女性の名は源麗子として残っている。藤原頼通の子であると同時に、ついこの間まで後継者と見なされていた源師房が藤原師実の義父になるのである。
源麗子はもともと、皇太子尊仁親王のもとへと嫁がせようとしていた女性であり、源氏ではなく藤原氏の女性とさせるべく養女とさせたのも、藤原氏の外戚関係を今後も維持する目的があったからである。
皇太子尊仁親王のもとへと嫁がせようとしていたところで断念させられたことは、源麗子のプライドに関わる話であり、ひどく落胆したという。だが、藤原師実という男は、誰に似たのか女心を掴むのがうまく、その生涯でよくもまあそれだけの浮名を流したものだと呆れてしまうほどの女性遍歴を持っている。確認できるだけで一〇人の女性との間に男児だけで一八人の子をもうけているのだから、血筋だけに頼らない男としての魅力があったのだろう。
その藤原師実が本気のアプローチをし、求愛に求愛を重ねた末でのゴールインである。源麗子は結婚を最高の形で迎えることができたと感じたであろうし、世間の人も、約束を破った父と違い、祖父の定めた後継者の地位を正当に引き継いでいると感じた。つまり、誰もが心から祝福できる答えであった。
おそるべき一九歳である。
京都の人事異動の話は東北地方にも届いている。
ただし、これで何かしらの変更があったわけではない。
奥州安倍氏は、人事異動を受けて東北地方に姿を見せている武士たちの間に何かしらの変化が起こるのではないか、たとえば、武官拝命で東北地方から他の場所へ任地変更となる武士が出るのではないかと考えたようであるが、何もなかった。
藤原頼通の左大臣辞任で人事の玉突きがあったにはあったが、末端の貴族に届くほどのことではなかったのである。位階でいうと源頼義ですら貴族の末端であり、その下で訓練を積んでいる武士たちはさらにその下。いかに四〇年に渡って左大臣を務めた者の辞職であっても、一人の辞職ではそこまで影響が出るものではない。
さらに京都では、どんなに意見の対立があろうと、それこそ殴り合いに発展する対立を見せようと、奥州安倍氏を滅ぼすべしという意見の一致は常に見られていた。貴重なコメを兵糧として東北地方に送ることも、志願者を東北地方に送ることも、誰も反対しなかった。
安倍貞任はこの時点でもまだ戦勝を信じていたが、安倍宗任はもう少し現実を見据えていた。
日本中から武士たちが集結している。
日本中から兵糧が届けられている。
一見すると寄り合い所帯でまとまりが無いように感じる軍勢を、源頼義は物の見事にまとめ上げている。
北に視点を向ければ北上安倍氏が朝廷側につくと宣言し、東の三陸海岸沿いは昔からずっと朝廷の支配下であり続けた土地で、西は出羽国の清原氏が立ちはだかっており、南は朝廷軍。
四方を囲まれているだけでなく、朝廷軍は大打撃を受けながらも復活を遂げている。
安倍頼時が、戦いに勝ちながら朝廷の前に降伏したのには意味があった。
坂上田村麻呂にはじまる平安時代初期の東北地方遠征で、朝廷軍は実に三八年という長きに渡って戦いを続けたのである。途中に何度も休戦期間はあったが、アテルイやモレをリーダーとする軍勢はどんなに戦いに勝っても最終的には朝廷軍の前に降伏せざるを得なくなった。
戦いに挑んで勝ったとしても、朝廷軍は決して屈することなく、どんなに時間を掛けても軍勢を建て直して最終的には勝つのだ。それと同じ事が今まさに展開されているのである。
無限に生まれ変わる相手にどうやったら勝てるのか? その答えを導き出せた者など一人もいない。
平安時代を代表すると言っても良い女流文学が衰退した中にあって、ただ一つ、文学史に名を残してきた散文作品となると、更級日記しか無い。
一応は日記なのだから同時代資料としてはこれ以上に優れた存在はないはずなのだが、平忠常の乱の同時代資料になっていないのと同様に、末法思想の同時代資料にも、前九年の乱の同時代資料にも、なっていない。強いて挙げれば、天喜三(一〇五五)年、末法思想がある程度収束し、平等院鳳凰堂が世間の注目を集めていた頃の日記に、自分の住まいの軒先の庭に阿弥陀仏が立っていたことの夢を見たことが記されているだけである。
同時代資料になっていない理由は、作者の菅原孝標女がそのようなことに興味を持っていなかったからということに加え、日記を名乗っていながら、全体の半分以上は後年の回想録になっているからである。
その更級日記は康平二(一〇五九)年で終わっている。夫が病死し、子供たちが独立し、一人寂しい日々を過ごすようになって、人生を振り返って、回想録としてまとめ上げた全一巻の作品が更級日記である。
もっとも、文学としては優れているし、この時代の中下級貴族の娘として生まれ、中下級貴族に嫁ぎ、国司を転々とする貴族の妻の日常を知るという点ではこれ以上の資料は無い。
そしてもう一つ、更級日記には特異点がある。古典作品は、当時の作品そのものが残っている可能性が極めて低く、写本しか残っていないことが多い。当時の作品がそのまま残っている藤原道長の日記のほうが異例なのである。更級日記も現存するのは当時の原本ではなく他の古典と同様に写本のみであるが、他の古典は写本時に故意や不意に欠落あるいは挿入させられた部分があるのに対し、更級日記はそれが無い。
この更級日記が成立したと考えられているのが康平三(一〇六〇)年のことである。作者である菅原孝標女が康平二(一〇五九)年までは存命であったことが判明しており、それから少しして亡くなったと考えられているのがその理由である。
康平四(一〇六一)年。陸奥国司源頼義の任期の最終年。
予定では、新しい国司が京都から派遣され、陸奥国司としての源頼義と交替する。武人として優れている源頼義であろうと、インセンティヴに紐付いている武士たちである。新しい国司と、元国司であるというだけの役職無しの身となる源頼義とで、源頼義を選ぶ者はどれだけいるであろうか?
武士たちが揃い、兵糧が集まってきていたとしても、率いるリーダーがいなくなれば軍勢は瓦解する。
奥州安倍氏はそのときを待っていた。
その上、東北地方に届く京都からのニュースは、朝廷軍にとって都合の悪い、つまり、奥州安倍氏にとって都合の良い内容になっている。
南都北嶺の争いは続いていたし、山門派と寺門派との争いも続いているとの知らせも届いた。
法成寺や興福寺の火災の知らせも届いた。
康平四(一〇六一)年五月六日には、丑時というから現在の時制に直すと夜中の二時頃に、京都を巨大な地震が襲い、地震は翌五月七日の午前一〇時頃にも発生して、京都の人たちを震えおののかせ、五月八日には地震の沈静化を目的とした恩赦まで行なわれたという知らせも届いた。
ただ、そのニュースに付随するであろうニュースがどこにもなかった。
朝廷内でどんな対立があろうと、寺社の対立があろうと、奥州安倍氏に対しては完全勝利だけを目指すという意見の一致が見られた。
火災があろうと、地震があろうと、東北地方の戦争に勝つことについて妥協する者はいなかった。
無論、不満の声は挙がっていた。
黄海の戦いで朝廷軍が大惨敗を喫したのが天喜五(一〇五七)年である。そのときの敗戦の理由は兵糧不足に尽きる。それをわかっているから、兵糧を東北地方に送り続けているのである。
また、武士たちが東北地方に続々と集まってきているのも事実であるし、東北地方から帰ってこないのも事実である。つまり、一方通行で誰一人戻ってこない。
これを不気味に感じる人たちが出てきた。この時代のコメは食料であると同時に貨幣であり、コメの所有量こそが資産を計る基準である。
陸奥国府にいる朝廷軍が甚大な兵糧と莫大な軍勢を持ち、その矛先を奥州安倍氏ではなく平安京に向けたらどうなってしまうのか?
ここまで苦労しているのだから、源頼義は苦労に見合った結果を残し、一刻も早く戦勝の知らせを持って帰ってくるべきなのに、それをしていないのは、反乱を企てているからではないか? 裏で奥州安倍氏と手を結んでいるのではないか?
もっとも、この時点ではまだ多数派の意見となってもいなければ、人事に影響を与えるほどの意見となっているわけでもない。まだくすぶっている段階に留まっていたというところである。
康平四(一〇六一)年一一月二三日、関白藤原頼通の七〇歳の祝典が開催された。場所は京都東山にある法性寺、主催者は太政官というから、理論上は一庶民でしかない人間の七〇歳の祝典としては異例中の異例の出来事である。
この異例にさらに輪を掛けたのが、一二月八日に後冷泉天皇がいきなり宣言した関白藤原頼通の太政大臣就任である。
息子を内大臣にさせようかというとき、藤原頼通は関白太政大臣になることを考えていたが、後冷泉天皇の猛反発によって実現しなかった。
それが、ここになっていきなりの太政大臣就任である。
これまでの藤原氏の太政大臣には二種類あった。
一つは文字通りの人臣最高位としての太政大臣で、藤原良房、藤原基経、藤原忠平の三人が該当する。太政大臣は議政官の決議に対する拒否権を持っており、あくまでも理論上の話ではあるが自分の納得する決議になるまで何度でも議政官の審議を差し戻することが可能である。無論、実際には議政官がどのような決議をしたのか公表されるし、太政大臣の拒否権発動も公表されるから、庶民感情を逆なでするような拒否権を発動させようものなら簡単に暴動が起こるし、それ以前に、太政大臣ともなれば議政官に自分の腹心を送り込んで、議政官の議決を自分の望むままに決めるぐらいできる。
残る藤原氏の太政大臣は一人残らず、名誉職としての太政大臣である。最高の栄誉であるが実際の政治に口出すことはなく、短期間で太政大臣を辞めるか、あるいは辞める前に命を落としている。一応、藤原兼通は前者の太政大臣であろうとしていたが、実際には後者の太政大臣の一人であった。
そして、藤原道長もまた後者の太政大臣であった。何しろ三ヶ月で自ら辞意を示し、その後は出家した一僧侶となったのだ。
藤原頼通は前者の太政大臣になることを願っていた。議政官に腹心を送り込めるほどの組織力は無かった藤原頼通にとって、太政大臣の持つ拒否権はかなり魅力的なものであった。
しかし、後冷泉天皇はそれを求めていなかった。
そこで考え出されたのが、後者としての太政大臣就任である。藤原頼通の太政大臣就任は前者としての太政大臣を求めてのものであったが、七〇歳という高齢を前面に打ち出した祝賀を用意した上で、引退した政治家に向けての名誉職である太政大臣就任を宣言したのである。
七〇歳という年齢と四〇年という左大臣としての実績は、それを当然のこととして受け入れざるを得ないと思わせるものであった。
源頼義の陸奥国司の任期は康平四(一〇六一)年で終わる。
源頼義の任期途中で国司から罷免して京都に呼び戻すと主張したら、源頼義が戦いをなかなか始めないことに苛立ちを隠せないという本音が見透かされてしまう。だが、国司交代任期満了に伴う国司交代という主張であれば何らおかしなことはなくなる。ましてや、特例で国司の任期延長をしているのである。再延長は困難だと考えるのは、源頼義に対する疑念を抱いていない人であっても受け入れざるを得ない話であった。
康平五(一〇六二)年一月一三日、高階経重が陸奥国司に任命された。高階経重が陸奥国に赴いて国司交代の手続きを取れば任期満了に伴う国司交代であり、朝廷の命令に従うとなると源頼義は戦争を終える前に京都に戻らねばならなくなる。
このまま国司交代が実現したら、高階経重は何の躊躇いもなく戦いに打って出るだろう。勝算についてきかれてもはっきり答えることなく、「勝てるに決まっているだろう」とか、「ここまで苦労してきたんだから、やらなければ意味が無いじゃないかという答えが返ってくるのがせいぜいである。
勝てるかどうかわからないのに勝負に挑むのは、スポーツの世界ならば許されても、命を賭けた戦いで許される話ではない。
情勢は徐々に優勢になってきているとは言え、この段階で戦闘に挑んだら勝てるかとなると、五分五分。朝廷から兵糧を送ってもらっていること、たくさんの武士が東北地方に駆けつけてくれていること、その二つが組み合わさって黄海の戦いの時点を超える軍勢を作り上げることは出来ていたが、それでも勝てる可能性が五分五分なのである。
大人数で少数の勢力に襲いかかるのは卑怯と考える人もいるであろうが、戦いというものは卑怯と呼ばれようと、あるいは臆病と罵られようと、まずは勝つことを最優先に考えなければならない。卑怯であろうと、臆病であろうと、勝てば良いのだ。
京都で源頼義を批判する人たちはこのあたりのことがわかっていなかった。だからこそ規定通りに新しい陸奥国司を任命し、勝負に打って出ない源頼義を京都に呼び戻して、ここで勝負を決めてしまおうとしたのである。
本人到着はまだだが、新しい国司が任命されて東北地方に向かっているという情報は先行して届いていた。
これは朝廷軍に集った面々を怒らせるに充分であった。
自分たちはこれから命がけの戦いをするのである。それも、相手を倒し生きて還ることを前提とした戦いをするのである。それは日本のためであり、日本人のためである。それなのに、戦場から遠く離れたところにいる人間が机上の空論だけでああだこうだ言ってくる。
これは我慢ならないことであった。
ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト共著「その問題、経済学で解決できます」(東洋経済新報社)にもあるように、インセンティヴというのは、人を動かす重要な要素であるが、インセンティヴは自分のやりたいこと、あるいは、やらなければならないことをへと動かす要素であって、インセンティヴだけで動くわけではない。
極論すれば、やりたいと考えているならば、自分のやることが正しいことだと考えているならば、インセンティヴ無しでも人は動く。
東北地方までやってきた武士たちは、口では武官になるためとか、報酬目当てだとか言ってはいるが、東北地方で暴れ回っている反乱軍からこの国を、そしてこの国の人たちを守るという真の動機があった。
源頼義も息子の源義家も、武人として一流であったという点で等しい。だが、人を動かすマネジメント能力という点では、父よりも子のほうが遙かに優れていた。一流と超一流との違いとしても良い。
口では報酬目当てという若き武士たちの本心にある武人としての誇りに火を点けたのは源義家である。心の奥底を見透かされた彼らは既に、戦争に勝つという最優先事項に専念する武人になっていた。
その彼らの目の前には反乱軍によって劫掠され荒れ果ててしまった農地と農村が存在する。反乱軍の蛮行を見るたびに彼らの怒りは増していき、敵に勝つために全てを捧げることが出来るようになる。本心では今すぐにでも戦いに赴きたいのだが、現在のままでは負けてしまう可能性が高いと考え、怒りに耐えたまま勝利に備えているのである。
新しい国司として高階経重が着任したのは康平五(一〇六二)年閏四月のことである。そして、源頼義と国司交代の手続きも済ませた。しかし、高階経重が目の当たりにしたのは京都には伝えられていなかった陸奥国府での現実であった。
誰一人として高階経重に従う者がいなかったのだ。
武士たちは、自分たちの国司は源頼義であり、源頼義のもとで奥州安倍氏を滅ぼすために日々訓練を積んでいる。京都から派遣された高階経重を国司として認めるつもりも、高階経重のもとで戦うつもりはないと宣言した。
それは武士たちだけではなかった。陸奥国府の役人たちは、自分たちは戦争に勝つために全てを捧げており、源頼義の命令に従って仕事をしているのであると宣言した上で、自分たちの国司は源頼義だけであり、京都から派遣されてきた高階経重がどのような人間かは知らないが、現場を知らない京都の人間が勝手に送りつけてきた国司に従うつもりはないと言ったのである。
これは陸奥国府の周辺に住む一般市民も同じであった。反乱軍の襲撃に怯えながらも何とか食い止めてくれているのは源頼義が守ってくれているからであり、もはや盗賊と呼ぶしかなくなっている反乱軍に打ち勝つためにこれまで耐え続けてきた。ここでいきなり新しい国司だと送り込まれてきた人間の言うことに従うのは納得が出来ないことであった。
京都にその知らせが届いたのはいつのことかわからない。
わかっているのは、一気に戦闘に打って出て反乱軍を蹴散らすと息巻いて東北地方に向かったはずの高階経重が、愕然とした様子で京都へと戻ってきたことである。
朝廷は異例に異例を重ね、源頼義を再度陸奥国司に任命した。正確に言うと、陸奥国司を源頼義から高階経重に交替させた後、高階経重を召還して源頼義を陸奥国司に任命したという手続きをとった。
一方、陸奥国府の側でも、京都から新しい国司が派遣されてきたという点で、一つの不安感が生まれてきていた。
補給が停まるのではないか、と。
コメを五年以上送り続けてもらっているため、陸奥国府は豊かになってきてはいる。
ただし、出ていく量も多い。
まず、陸奥国府に詰めかけている武士たちを食べさせていかなければならない。
次に、反乱を起こしている奥州安倍氏が北を征圧しているために北からの物流が停まっているだけでなく、陸奥国府周辺の農村が荒らされてしまっているので、陸奥国府周辺の住民の食料が得られない。不足する食料を埋め合わせているのが朝廷から送られてきているコメである。
だが、朝廷がコメを送らなくなったとしたら、その両方が出来なくなる。飢えた軍隊が守る飢えた住民というのは、軍勢にとってターゲットになるだけでしかない。
源頼義は、現時点で陸奥国府の持つ食料を踏まえ、年内の攻撃と、年内の戦争終結を決断せざるを得なくなった。ただし、この時点での戦力差は朝廷軍が六に対して反乱軍が四と、多少は朝廷軍が有利であるものの圧倒的有利とまでは言えない。
この状況を打開するために動いたのが源義家である。再び清原氏のもとに訪れたのだ。
かつて、出羽の清原氏に参戦を願ったが、そのときの条件は費用全て清原氏の負担である。しかし、このときの源義家は、費用負担ではないがそれを上回る交換条件を示した。
そして、清原氏はその条件を快く受け入れた。
源義家が示した条件、それは、奥六郡の支配権である。現在は奥州安倍氏が持っている奥六郡の支配権をそのまま清原氏に譲るというのだ。
四〇〇〇騎の兵を養える豊かな土地の支配権は、参戦費用を自弁で持っても構わないと考えさせられるものであった。
出羽の清原氏が朝廷軍の一員として参戦すると宣言しただけでなく、軍勢が出羽から陸奥へと移動しているという知らせは奥州安倍氏のもとにも届いていた。
康平五(一〇六二)年閏七月、清原武則の率いる一万人以上の軍勢が出羽国と陸奥国との国境に到着。これより先に軍勢を進めるためには陸奥国司の許可が必要となるため、いったんは国境付近に留まる。
閏七月二六日、清原氏の軍勢到着の知らせを聞きつけた源頼義は、三〇〇〇名ほどの軍勢を率いて陸奥国府を出発。
二つの軍勢は八月九日に陸奥国栗原郡の営岡(たむろがおか)で合わさった。ここで同流するように要請したのは源頼義の指示によるものである。坂上田村麻呂の東北遠征で、朝廷軍が結集したのがまさにこの営岡で、ここで軍勢が集まって軍事行動を開始するのは、縁起担ぎとしてもちょうど良かった上に、実際の軍事作戦という点でも、街道に出て攻め込んでいく基地としては有効であるだけでなく、街道から少し離れた高台ということもあって反乱軍が攻め込むには困難な場所である。
この営岡で反乱軍鎮圧部隊の軍勢が決まった。
第一陣、清原武則の子、清原武貞。
第二陣、清原武則の甥で、橘兄弟の兄の橘貞頼。
第三陣、清原武則の甥、吉彦秀武。
第四陣、清原武則の甥で、橘兄弟の兄の橘頼貞。
第五陣、源頼義と清原武則の両名が指揮。
第六陣、清原氏に仕える武将である吉美侯武忠。
第七陣、清原武則の子で、清原武貞の弟の清原武道。
全体を七陣に分けたうちの六陣が清原氏の指揮する軍勢であり、残る一陣も源頼義と清原武則の共同指揮という、あまりにも清原氏の多い軍勢となった。
ただし、この第五陣だけが人数が突出して多い。
突出して多いだけでなく、先陣を切るのもこの第五陣なのである。
康平五(一〇六二)年八月一七日、朝廷軍第五陣が小松柵(現在の一関市にあった奥州安倍氏の最前線基地)を襲撃。ここに戦いの最終章が始まった。
小松柵を守っていたのは安倍宗任と叔父の安倍則任の二人の率いる軍勢である。反乱軍側は激しい抵抗を見せたが、攻めかかる朝廷軍第五陣の前にはなすすべなく、反乱軍は抵抗を主張する安倍則任と撤退を主張する安倍宗任との論戦の末、撤退が決まった。
小松柵を攻め落とした朝廷軍は撤退した反乱軍を追い掛けようとしたが、攻め落としたのはあくまでも軍事拠点としての小松柵だけで、周囲の集落については奥州安倍氏の勢力のままである。
拠点を攻め落としたことと周囲の集落が服従するようになることとは全くの別問題であるばかりか、ゲリラを生み出す元凶になりかねない。特に、安倍宗任は、周囲の集落に対して朝廷軍に対するゲリラ活動を指示しながら撤退したから、朝廷軍も安穏としてはいられなかった。
そのため、九月五日まで、朝廷軍は小松柵を拠点として周囲の集落を一つ一つ占拠した。
ゲリラの恐ろしさは、いつどこで攻めかかってくるかわからないところにある。
この恐ろしさを打開する方法は二つ。一つはゲリラの可能性のある者を皆殺しにすること、もう一つはゲリラの可能性のある者を味方に引き入れることである。
朝廷軍が選んだのは後者であった。蝦夷としてのアイデンティティに関わると考えている者であろうと、四方を敵に囲まれた戦争をしているのを喜ぶ者はいない。ましてや、朝廷軍の多くを占める清原氏の多くは蝦夷である。自分は日本人と考える者もかなり多くいたが、反乱軍支配下にあった土地の民衆にとっては同胞である。
その上、清原氏は奥六郡の領有権を対価として参戦している。これから攻め込むのはこれから自分たちの土地になる場所であり、そこに住むのは自分たちの領民になる者たちである。
ましてや、黄海の戦いの後、奥州安倍氏が陸奥国府周辺で何をやったかを知っている。それと同じことをされるのではないかと危惧していたら、朝廷軍は、命を奪うのではなく守り、田畑を壊すのではなく守り、生活を破壊するどころか守る。
ゲリラになるよう命じた安倍宗任と、ゲリラにならぬよう守ると宣言した朝廷軍と、どちらに親しみを感じるであろうか?
東北地方で戦闘が繰り広げられていた頃、京都では一つの出来事が起こっていた。
康平五(一〇六二)年八月二九日、関白太政大臣藤原頼通が、父の墓所に参詣した。
そして、九月二日、関白太政大臣藤原頼通が太政大臣を辞任。再び関白専任となった。
藤原道長の決定を自らの政治の基盤としていた藤原頼通にとって、父が三ヶ月で辞した太政大臣にしがみつくことは許されなかった。また、七一歳という年齢を考えても、引退しておかしくなかった。
藤原氏の女性を天皇に嫁がせるところまではできたが藤原氏の女性から産まれた男児を天皇とさせることは成功できずにいる。それでも、藤原氏の女性を皇室に嫁がせ、藤原氏の血を引く男児を天皇に就けることを諦めたわけではない。
自分の時代ではダメでも次の時代には希望を持つ。
その希望をつなげるためにも、息子の藤原師実が実権を掴むまで自分の影響力を残しておかなければならないと考えていた。その答えが関白にしがみつくことであった。
長和六(一〇一七)年に後一条天皇の摂政となってから四五年、寛仁三(一〇二〇)年に後一条天皇の関白となってから数えても四二年という長期に渡って摂政・関白であり続けている。これは異常だ。
藤原頼通が関白の座にしがみついていると誰もが考えるようになっていた。言い方を変えれば潔くなかった。潔さという点でも藤原道長は素晴らしかった。摂政は一年一ヶ月で辞し、太政大臣は三ヶ月で辞している。それに比べ、摂政関白であること四三年というのはあまりにも長い。これまで例外的に長いとされてきた藤原忠平でさえ、摂政として一一年、関白として八年、合わせて一九年であることを考えると、父と比べて長いだけでなく、歴代の摂政や関白と比べても長いとするしかない。
権力者であることの藤原頼通も太政大臣を辞めることで、その悪評を多少緩和するのではないかとの思いはあった。
思いはあったが、思いは満たされなかった。
関白を辞めて無位無冠の一庶民になってはじめて父と肩を並べることができる、それも、父にかなり見劣りする形で並べることができるというレベルである。
老害という言葉で思い浮かぶであろう老人の姿がそこにはあった。
康平五(一〇六二)年九月五日、朝廷軍の侵略を聞きつけた安倍貞任は、朝廷軍に攻め落とされた小松柵を取り戻そうと八〇〇〇名の軍勢を率いて一気に南下して小松柵の奪還を目指したが、その動きはかなり前に読まれていた。弟と違って真っ当すぎる武人である安倍貞任は、守る側にとって守りやすい存在であったのである。
襲撃の知らせを聞きつけて小松柵を出た朝廷軍は北へと進路を進め、安倍貞任率いる軍勢と激突し、戦いは朝廷軍の圧勝。安倍貞任は軍勢を衣川柵まで引き戻した。
安倍貞任を追い掛ける朝廷軍は逆に、高梨宿、石坂柵と立て続けに攻略し、九月六日には安倍貞任の籠もる衣川柵を取り囲んだ。
衣川柵の攻略戦は、現在の時制に直して午後二時頃から夜八時頃まで続いたが朝廷軍は攻め落とせずにいた。
守る側も攻め込む側も、戦いは明日に持ち越すこととなったと感じた。
ここで策を講じたのが清原武則である。夜襲を進言したのだ。
夜襲を卑怯と考える源頼義は反対したようであるが、源義家は賛成。
清原武則は部下の一人を衣川柵に忍び込ませ、夜闇に乗じて放火させることに成功。
突然の火災が放火であることは安倍貞任もわかったが、放火であると宣言したところで火が消えるわけは無い。このままでは衣川柵に閉じ込められ焼死してしまう。
安倍貞任は全軍に退却を指示。
古今著聞集に出てくるエピソードはこのときのことである。
このとき、北へと逃げる安倍貞任を源義家が追い掛けたという。
敵に背を向けて逃げる安倍貞任に対して「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ」と呼びかけ、安倍貞任を振り向かせ、
と下の句を投げたところ、安倍貞任は即座に
と上の句を返したという。
康平五(一〇六二)年九月六日早朝、無人となった衣川柵は朝廷軍の支配下に置かれることとなった。既に小松柵を攻め落とした後の朝廷軍が周囲の集落にどのように対したのかの情報は伝わっており、衣川柵の周囲の集落は朝廷軍に帰順。奥州安倍氏の期待していたゲリラの抵抗は全く見られなかった。
九月七日、朝廷軍は胆沢郡の白鳥に到着。大麻生野と瀬原の二つの柵が朝廷軍の手に落ちた。また、この三日間で奥州安倍氏の重要な武人たちである、平孝忠、金師道、安倍時任、安倍貞行、金依方といった面々が命を落としたことが判明した。
朝廷軍はさらに北へと軍勢を進め、九月一一日の夜明けには奥六郡南部最大の拠点である鳥海柵が無抵抗で朝廷軍の手に落ちた。このとき、以前から武名を轟かせてきていた鳥海柵を落とせたことについて、源頼義から清原武則へ感謝の言葉が述べられている。
その後、黒沢尻柵、鶴脛柵、比与鳥柵といった奥州安倍氏の拠点が次々と朝廷軍の手に落ち、九月一四日、奥州安倍氏の根拠地である厨川柵に向かって出発。
九月一五日の夕方、厨川柵に朝廷軍が到着し、ただちに朝廷軍による包囲が敷かれた。また、厨川柵の隣にある嘔戸柵も同時に朝廷軍による包囲対象となった。
九月一六日の早朝、厨川柵に籠もる奥州安倍氏側と、厨川柵を包囲する朝廷軍の双方が弓矢で衝突。反乱軍側は弓矢だけでなく、弩も使用した。
弩(ど)というのは現在のボーガンに似た武器であるが、大きさが違う。まず、矢をセットする人と実際に発射する人の二人で操作する必要があり、持ち運びが困難な大きさであるほどでこのときは台座に固定されていた。その上、この時代の盾は通常の弓矢であれば持ちこたえることができるが、弩で放たれた矢となると簡単に貫かれてしまう。実際、朝廷軍の中でも少なくない者が弩の被害を被った。
このままでは厨川柵を落とせないと考えた源頼義に対し、清原武則は近隣の空き家を壊して茅萱を刈り取って厨川柵の周囲に敷き詰め火を放つことを提案。衣川柵と同じ戦略であるが今回はここに風が加わる。火が風で煽られれば容易に燃え広がる。
康平五(一〇六二)年九月一七日は早朝から着火準備が始まっていた。
厨川柵の内側でもこれから何がされるのかわかったし、弓矢や弩で応戦もしたが、朝廷軍が火を放つのを食い止めることはできなかった。
準備を終えたと同時に放たれた火は、風に乗って厨川柵に襲いかかり、厨川柵内の建物という建物の全てを炎に包みこんだ。
厨川柵内の反乱軍の兵士たちは消火しようとしたが、炎の勢いの強さの前には無駄な努力であった。反乱軍の陣営内は混乱に包まれ、圧死する者も生じた。
清原武則は混乱の起こっていることを見届けた後、あえて厨川柵の周囲のうちの一箇所だけ火を消した。
厨川柵の中にいた反乱軍の兵士たちはただ一つの出口に向かって殺到した。
その出口の外に待っていたのは朝廷軍。
待っていたのは黄海の戦いを彷彿させるような殺戮であった。
ただし、黄海の戦いは問答無用で殺害されたのに対し、厨川柵の戦いでは投降した者の命は、ほとんどの場合、助けられた。
ほとんどと言うのは、殺害された者もいるからである。
朝廷軍に捕らえられた反乱軍の兵士たちの中に藤原経清がいた。スパイに乗せられたとは言え、この人の裏切りがあったがためにこの戦いはここまで長引いたのである。
また、陸奥国府周囲の集落に襲いかかり、殺害し、略奪に走っていたという過去もある。
奥州安倍氏のことは許せても、この人だけは許せないというのが、源頼義の、そして、この時代の陸奥国府周辺の庶民の感情であった。
このとき、源頼義が藤原経清に対してどのようなことを言い、どのような行動を取ったのかの記録が残っている。ただし、記録が漢文であるためそのままの言葉ではない。なので、漢文の現在語訳となることに注意していただきたい。
源頼義のもとに連れてこられた藤原経清に対し、源頼義は「お前は先祖代々我が家の家臣であったのに、ここ数年は主君を嘲り、陸奥国司の印のある令状ではなく印のない自分の令状を使ってきたが、今でも印のない令状を使えるか?」と訊ねた。
これに対し、藤原経清は無言で俯いたままであった。
返事が無いことを確認すると、源頼義は切れ味の悪い刀を持ってこさせ、苦痛を与えつつゆっくりを首を切り落とさせた。
残酷な仕打ちであったが、家族を殺され、家を焼かれ、田畑を壊された者にとっては積年の恨みを晴らす瞬間でもあった。
安倍貞任は剣を抜いて朝廷軍に対して抵抗したが、朝廷軍は鉾で応戦。いかに安倍貞任の武勇が優れていようと一対多の戦いでは勝敗も目に見えている。
混乱の末に朝廷軍の兵士たちが目にしたのは、瀕死の状態となった安倍貞任であった。
巨漢の安倍貞任を源頼義のもとに連れてくるのに、巨大な盾に乗せて六人の兵士で担ぎ上げる必要があった。その間、安倍貞任は身動き一つ見せなかった。
源頼義のもとに連れてこられた直後、安倍貞任は源頼義を一瞥して亡くなった。
源頼義は、安倍貞任の首を切り落とし、丸太に釘で打ち付け、朝廷への献上品とした。
このとき、安倍貞任の弟の安倍重任は兄と同様に死罪とするが、妻と子は生かしておくという方針であった。しかし、清原武則はそれに反対した。特に、安倍貞任の子の千世童子の殺害を声高に主張した。
千世童子はこの時点でまだ一三歳である。お世辞にも美男子とは言えなかった安倍貞任と違い、なかなかの美男子という評判でもあった。ただし、武勇は父親譲りで、一三歳の幼子と侮っていたせいで何人もの朝廷軍の兵士が命を落としたのである。また、生かしてしまえば近い未来にこの少年を中心として奥州安倍氏が復活してしまう。
千世童子は清原武則の願い通りに殺害された。
同様の悲劇が待っていたのは安倍貞任の妻である。このときまだ三歳の子を抱いて逃げ延びようとしていたが、夫が亡くなり、長男も殺されたという報を聞いて、子を道連れに投身自殺した。敵に身を委ねないという姿勢に、朝廷軍の兵士たちは涙した。
一方、安倍宗任をはじめとする安倍貞任の弟たちや、安倍為元らの安倍貞任の叔父たちは逃げていた。本拠地を逃れても捲土重来を図れるとこのときは考えていたのである。
だが、捲土重来は無謀な話であった。
肝心の奥六郡の一般庶民たちがこぞって朝廷軍の味方となり、逃げ延びる反乱軍の兵士たちは敵になったのである。かくまってくれ、助けてくれと願っても、運が良ければ朝廷軍に差し出され、そうでなければ身ぐるみ剥がされ殺される。
この現実を目の当たりにした反乱軍の兵士たちは次々と朝廷軍に投降した。
ここに前九年の役は終了した。
康平五(一〇六二)年一〇月、東北地方から戦勝の知らせが届いた。
足かけ一二年に渡った戦いで勝ったのだから朝廷では大喜びになるはずであったのに、そのような反応は見られなかった。
朝廷からの返答がないのを危惧した源頼義は藤原季俊に対して、安倍貞任ら三人の首とともに京都に戻るよう命じた。
一二月一七日、源頼義から藤原季俊を首級献上使とする使節を上洛させるとの連絡が届く。
年が明けた康平六(一〇六三)年二月、首級献上使藤原季俊ら上洛。
ここではじめて京都が戦勝を実感することとなった。
康平六(一〇六三)年二月一六日、京都に送られた安倍貞任、安倍重任、藤原経清の三人の生首が西獄門に晒されることが決まった。四条通を行く首級献上使藤原季俊ら一行が色鮮やかな装束を身につけ、三人の生首を検非違使に渡す。検非違使は受け取った生首を西獄門まで運ぶ。西獄門には三人の首が並ぶ。その間、平安京の内外から多くの庶民が集まり、あまりの混雑ぶりに後ろを振り返ることもできなかったほどだと、権中納言源俊房はその日記「水左記」に記している。
康平六(一〇六三)年二月二七日、臨時の除目が発表された。
安倍貞任追討の功績により、源頼義を正四位下に昇格させると同時に伊予国司に任命すると発表。また、源義家は従五位下となり貴族の一員に加えられると同時に出羽国司に任命。また、清原武則も従五位下となって貴族の一員になり鎮守府将軍に任命された。
ところが、その他の武士たちの処遇に対する処遇が全く無かった。また、陸奥国司から伊予国司への転任も納得できないことであった。たしかに奥州安倍氏を滅ぼしたが、終戦直後ということもあってこの段階で陸奥国を離れることなど許されなかった。
源頼義は、藤原季俊を通じて朝廷に抗議。
朝廷軍の一員として参戦した全ての兵士に対して報償が与えられることを期待するとした上で、残党鎮圧に専念するために陸奥国府に残ると宣言したのである。
清原武則は鎮守府将軍に任命されたことを全面的に活かすようになった。
奥六郡全体が清原氏の支配下に組み込まれることとなったが、これに対する声は不満ではなく歓迎であった。何と言っても戦争が終わったのである。これを歓迎しない者などいない。
それだけでなく、民政という点でも文句なしであった。
戦場となってしまったため荒れ果ててしまった土地に対し、土地の復旧と、年貢減免を指示したのである。さらに、陸奥国府に頼み込み、兵糧の余りを提供するよう要請して生活難に陥った人たちの救済に当たった。
これには陸奥国府に残っている源頼義も賛成した。
ただし、一つだけ懸念されることがあった。
清原武則の子の清原武貞が、藤原経清の妻である有加一乃末陪(ありかいちのまえ)を嫁に迎え入れたのである。この有加一乃末陪は安倍頼時の娘で、安倍貞任の妹である。
民心掌握のためには、今なお残る奥州安倍氏への親近感を使うのも有効な策であった。戦いに勝ったというだけでなく奥州安倍氏の血を引くという点をアピールするのは奥州安倍氏の後継者を求める声にも応えることになるのだ。
特に有加一乃末陪は当時六歳であった息子を連れて再婚している。この幼い息子を清原氏の後継者とするのは民心掌握の点で有効だったのだ。
さて、この六歳の男児は安倍氏を母とし、母が清原氏に嫁いだから清原姓を名乗るようになったが、実父は藤原経清である。つまり、藤原氏なのである。
このときの幼子こそ後に奥州藤原氏の祖となる藤原清衡である。つまり、藤原清衡は藤原氏であると同時に清原氏の後継者であり、奥州安倍氏の後継者ともなっているのである。東北地方をまとめ上げるのにこれ以上の血縁の者はいない。
源頼義はこのことを何となくわかっていたようである。奥州安倍氏の復活を阻止しようと一三歳の少年を殺害させた清原武則自身が、まさに自分の孫として奥州安倍氏と奥州清原氏の統合を図っている、と。
清和源氏といえば相模国鎌倉である。鎌倉に行けば現在でも鎌倉幕府につながる源氏の記録や記憶が見て取れるが、その中でも群を抜いているのは鶴岡八幡宮。
この鶴岡八幡宮ができたのが康平六(一〇六三)年閏八月のことである。もともと清和源氏が石清水八幡宮を氏神としており、東北地方に赴いて戦いに挑む前に石清水八幡宮に赴いて戦勝祈願をしている。そして迎えたこのたびの戦勝。源頼義は戦勝を祈願するために石清水八幡宮の分祀として、相模国由比郷に鶴岡八幡宮を建立させたのである。
鎌倉が優れた地勢にあることは以前からわかっていた。平忠常の乱の戦勝後、報償として鎌倉を手に入れた直後から鎌倉を重要な根拠地の一つとすることを決めていたが、そこまでの余力は無かった。
鎌倉はもともと杉本寺や長谷寺など奈良時代から続く寺院もあるほか、東海道の要衝として万葉集にも登場するほどの土地である。つまり、既存勢力が強い。そこに割って入るには相応の存在が必要であった。
源氏の氏神である八幡宮の分祀、さらに、建設場所は鎌倉の中心部から少し離れた由比郡とあっては、内心はともかく、表面上は黙り込まなければならない。何しろこの新しい神社を建設するのはこれから鎌倉を守ってくれる人なのである。それも、鎌倉の中心部から離れたところに神社を建設している。ちなみに、鶴岡八幡宮を現在の場所に移したのは源頼朝の命令によってであり、それまでの鶴岡八幡宮はもっと海に近いところにあった。
相模国の国府がどこにあったのか、実はよくわかっていない。火災などで何度か移設されたのではないかと考えられてもいる。今のところ、海老名市、平塚市、大磯町あたりが国府の存在していた場所として推測されている。国府津という地名も国府のあった場所の根拠にならないのが相模国である。
どの令制国にも言えることであるが、平城京や平安京といった都市計画がなされたのでもない限り、国府周辺が令制国内における最大都市である。甲府や駿府など「~府」と名のつく地名はかつて国府のあった場所であったことを示す。そして、現在でも領域内最大の都市である。ところが、国府津という地名があるにも関わらず国府の位置がはっきりとしていない上に、国府の周囲が令制国内最大都市となっていない。この頃には既に、鎌倉が相模国における最大都市になっていたのである。
陸奥国府から源頼義が軍勢を連れて移動するつもりだとの知らせが届いてきたのはまさにその頃であった。名目はあくまでも鎌倉の視察である。
だが、戦争を終えた軍勢が解散することないままでいたのだ。
その上、武士たちに相応の褒賞を与えることを求めているのは誰もが知ることである。
また、捕虜となっている奥州安倍氏の面々の取り扱いも朝廷がまだ決めてくれていない。
どちらも源頼義の一存ではどうにもならないことであるのに、ここまで放っておかれたのだ。命を賭けて戦ったのにこの仕打ちというのは納得できることではなかった。
ただ、源頼義はこのような駆け引きを自由自在に駆使できた人間ではない。
朝廷と源頼義との間の手紙のやりとりがあり、朝廷は源頼義が求めているのが武士たちの処遇であることを把握した。源頼義は建て前と本音を使い分けることができるような男ではなかった。もう少し建前を操れるなら軍勢の移動は鎌倉訪問に過ぎないと言い続けていたであろう。
朝廷はここで、褒賞と捕虜の処分を検討しはじめた。
源頼義は、降伏した者の中から、安倍宗任、安倍正任、安倍真任、安倍家任、安倍則任の五人らをともに上洛すると決めた。
上洛中、自分たちがどこにいて、いつ頃京都に到着する予定であるかを報告し続けていたこともあって、平安京に源頼義らが姿を見せるタイミングは平安京の全ての人が事前に把握できていた。
康平七(一〇六四)年閏三月、源頼義ら上洛。前年の切り落とされた首の上洛に匹敵する群衆が詰めかけていた中での帰京であった。
そして、東北地方の野蛮人と考えていた人たちの姿を目の当たりにして、当初こそ嘲笑が起こった。
ところが、「野蛮人共はこれを知らないだろう」と示された梅の花を示された直後、安倍宗任は
と即座に詠み、京都の人を唖然とさせた。
捕虜たちを内裏に連れて行ったとき、貴族たちも庶民と同様に野蛮人扱いしていたが、いざ話をしてみても、当時の貴族たちの素養とされていた古今和歌集の暗唱に加え、中国の古典も身につけていたことが明らかになった。これではいったいどちらが野蛮人であるのかというのが貴族たちの感想であった。
朝廷では奥州安倍氏の処遇について様々な検討が起こった。皆殺しにすべきという意見も挙がったし、無罪放免とする意見も挙がった。
康平七(一〇六四)年閏三月二九日、朝廷の決断が下った。
死刑になる者なし。
捕虜たちは反逆罪に対する処罰として伊予国へ追放すると決まった。
また、朝廷軍の一員として戦った武士たちの中からおそよ二〇名ほどが貴族に取り立てられ、その他の武士たちにも働きに応じた褒賞が与えられると決まった。
これで前九年の役は正式に終了した。
これで全ての問題が終わったと誰もが考えた。
だが、終わったのならそもそも「前九年の役」などという名前などつかない。「前」とあるのは「後」もあるからで、この時代の人はそう考えなかったが、前九年の役はのちの戦乱の前哨戦だったのである。前九年の役と名付けられる前、この戦いは「奥州十二年合戦」と呼ばれていた。それが、いつの間にか期間が短くなり、前九年の役と呼ばれるようになったのである。そしてその頃には、前九年の役が前哨戦でしかなかったのだということが周知の事実となっていた。
前九年の役の与えたインパクトは、平安京の人たち、特に朝廷の貴族たちに戦争のリアルを伝えたことに尽きる。人の生首が運ばれ、捕虜が運ばれ、多くの武士が死んだのだ。そして、武士という存在が大きくクローズアップされることとなり、中国の古典の世界にしか登場しなかった、報酬のためではなく忠義のために、そして、この国を守るため戦う者の存在は大きなインパクトを与えた。
一方で、末法を迎えたことで明るみに出た社会のひずみは隠せないものになっていたことに誰もが気付いた。律令制によって生じた問題を解決するために誕生した摂関政治が、時代とともにメリットよりもデメリットが大きくなってきていると認めざるをえなくなってきたのである。
永遠と考えていた摂関政治も二〇〇年を経ることでほころびが見えるようになってきた。しかし、摂関政治に変わる政治システムなどそう簡単に生まれるはずがないとも誰もが考え、摂関政治はまだまだ続くと誰もが考えていた。
天皇の外戚という摂関政治の前提も、皇太子尊仁親王こそ藤原氏の女性から生まれた皇族ではないが、尊仁親王の息子は藤原氏の女性から生まれた男児である。この男児である貞仁王は、皇太子尊仁親王の第一皇子として、藤原氏の女性を母とするごく普通の皇族として育ち、尊仁親王で一時的に藤原氏との関係が薄くなったとしても、その次の貞仁王の時代になれば全ては元に戻ると考えられていた。
関白にしがみついてはいても、藤原頼通はもう過去の人になっていた。だが、藤原頼通の後継者である藤原師実は既に内大臣にまで登り詰めている。藤原師実の時代になればまた、摂関政治は今まで通り展開されると誰もが考えていた。
しかし、皇太子尊仁親王の第一皇子で、藤原氏の女性を母とするごく普通の皇族として見られていた貞仁王は、後年、この摂関政治に真正面に向かい合う存在となるのである。
後の白河天皇こと貞仁王、このとき一〇歳。誰もまだ、未来の光景に気づいていない。
― 末法之世 完 ―