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IBUKI PROJECT 牡鹿半島の新しい発信&集合基地に。

2017.04.18 03:00

牡鹿に生まれる「いぶき」。

宮城県牡鹿半島。東日本大震災で8メートルもの津波を浴びたが奇跡的に残った古民が、被災地にボランティアで通っていた人たちの手によって再生される。

文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi
写真 = 依田 恭司郎 photo = Kyoshiro Yoda


ボランティアの先にあった古民家再生。

宮城県北東部に位置する牡鹿半島。世界を代表する漁場の三陸海岸の最南端にあり、西に石巻湾を抱き、東は太平洋に面している自然が残された半島だ。かつては観光としても賑わいをみせていた。金華山には最盛期には年間で30万人もの人が訪れていたいう。

2011年3月11日に発生した東日本大震災によって、この半島も大きな被害を受けた。国地理院から「震源のある東南東方向に約5.3メートル移動し、約1.2メートル沈下する観測史上最大の地殻変動があった」と発表されている。石巻市内からも遠く、そもそも高齢化が進む過疎地ということもあって、ボランティアを含め、復興のための支援は遅れてしまった場所だった。

大震災直後に、石巻に入るボランティアをサポートすることを目的に立ち上がったのが<ボランティア支援ベース絆>。現在は <一般社団法人オープンジャパン>として、数々の被災地の復興支援をしている。石巻をベースに、泥だしや漁業支援などの復興支援をしていくなかで、牡鹿半島の大原浜で津波に流されなかった一軒の古民家に出会った。そこから「古民家再生IBUKIプロジェクト」が動き出した。

「オープンジャパンの顧問である吉村誠司は、中越地震復興の際にも古民家の再生に関わっていました。流されないで残っている古民家に大原浜で出会った。壊すことは、ある意味簡単にできることです。けれど壊したものは2度と戻ってこない。この古民家を残していくためにはどうしたらいいのか。そのひとつとして、飲食店として再生し、地域のコミュニティスペースのようなものにできないかというアイデアが浮かんでいったんです」とオープンジャパンの堀越千世さん。

このアイデアを牡鹿の地元の方に相談したのが、大震災からおよそ半年後の2011年9月のことだったという。東京から毎週のように石巻にボランティアで通っていた堀越さんは、このプロジェクトに本格的に関わっていくために牡鹿半島に移住することを決意。翌年3月には当時勤めていた東京の会社を辞め、牡鹿の住民になった。

6メートルの防潮堤が建設中の浜で。

空間工作人として〈フジロック〉などの野外フェスのデコレーションを担っているBubbさんも、このプロジェクトの重要なメンバーのひとりだ。「IBUKI」を活性化させるために、何度も牡鹿半島に足を運んでいる。「千世が牡鹿の住民になってくれたことによって、このプロジェクトはずいぶん前に進んだと思います。女性っていうこともあるし、一生懸命だし、ここに骨をうずめる覚悟を持ってきているのだから。地元の方も、受け入れてくれやすかったんでしょうね。俺が『古民家を改修して食堂にして、みんなが集まれる場所にしたい』と言っても、『何のためにやるんだ?』ってネガティブな見方をされることもある。日本のどこでもそうだろうけど、新しいものをなかなか受け入れてもらえない風潮が牡鹿にも残っています。いつかは信じてもらえる日が来ると思って、牡鹿に通い、牡鹿で多くの時間を過ごし、プロジェクトを進めてきたんです」とBubbさん。

日本の名工とされる気仙大工の技術を集めて造られた古民家は威風堂々とした佇まいを見せている。築80年、もしくは90年が想定されている。この古民家のある大原浜は、西側に海があることで、太平洋沿いの地区に比べれば津波が高くなかった。牡鹿半島の太平洋側が高さ20メートルだったのに対し、大原浜は8メートル。高さ8メートルの津波でも、相当なエネルギーを持って浜沿いにあった家を襲い、引き潮によって甚大な被害をもたらした。残念ながら大原浜ではふたりがお亡くなりになっている。

かつて家が並んでいた大原浜の浜沿いの地域は、災害危険区域に指定された。古民家のある場所も災害危険区域で、災害危険区域に指定されると、そこに家を建てて住むことはできない。けれど食堂としての営業は問題ないという。津波で被害を受けた他の家は壊され、今は更地になっている。古民家から海までの間にはひとつも建物がない。おそらくこれからも、そこに建物が造られることはないだろう。かつて浜があったところには、高さ6メートルの防潮堤の建設が進められている。


津波の記憶を残すために。

堀越さんが移住したおよそ1年後の2013年3月11日。古民家で安全祈願祭が行われ、<牡鹿半島食堂いぶき>として再生するための一歩が刻まれた。

それから4年の時間が流れ<いぶき>はこの4月22日にオープンすることになった。「牡鹿には美味しいものがたくさんあるのに、ほとんど食べられるところがないんです。遊びや観光に来た人に関しては、適正な価格で牡鹿の美味しいものを食べて欲しいと思っています。地元の方にとっても、ワイワイ集まれる場所もない。ひなたぼっこして、縁側でお茶を飲んでいるような感じでもいいと思うんです。地元の人も、外から遊びに来た人も、ぶらりと寄れる、なんとなく集まれる場所。<いぶき>をそんなところにしたいですね」と堀越さん。石巻の人などに協力してもらって、庭でマルシェのようなことも開催していきたいという。

外装や内装を手掛けたのはBubbさん。気仙大工の匠を残しつつ、居心地のいい空間にリノベーションしている。「牡鹿半島で、もっとも古くて立派な古民家です。津波をかぶって残っているのはここだけ。残っていることが奇跡だと思います」とBubbさん。山側にある蔵の壁には、津波がここまで来たという印が残っている。津波の記憶を目に見える形で残していくために、蔵はオープン後も工事が進められていく。


地域の再生のための場作り。

<いぶき> には「FEEL GOOD STOREby KEEN」が併設される。Bubbさんがアンバサダーをつとめる<KEEN>はアメリカ・ポートランドに本拠を置くアウトドア・フットウェアブランドで、CSR活動を積極的に行っている。これまでもオープンジャパンの災害復興活動を継続的に支援しており、「古民家再生IBUKIプロジェクト」では、大原浜地区のコミュニティの活性化や復興の後押しを願い<KEEN>の常設ストアをオープン。特別価格の商品がラインナップされ、売り上げの一部は「古民家再生IBUKIプロジェクト」に寄付される。

「オープン期間などだけの限定ではなく、常設のショップインショップとして<KEEN>を売らせてもらうことになりました。牡鹿半島の先端に近いこの大原浜という場所まで人が来てくれるようになればと思っています」とBubbさん。

防災集団移転促進事業により、浜辺にあった家は海から離れた高台に移転することになった。大震災前は140名ほどいた大原浜の住民は、現在は60数名まで減少している。過疎が進むスピードを、さらに加速させた地震と津波。「夜になっても灯りがついている店。『牡鹿には<いぶき>があるんだぜって自慢してもらえるようなお店。灯台のような、みんなの拠りどころになってもらいたいね」とBubbさん。「ずっとボランティアに来ていて、被災してしばらくは街灯さえなかったんです。人もいなくて、本当に真っ暗でした。地震の翌年の冬に、はじめて街灯が灯ったんですね。そのとき『明るいっていいな』って自然と涙が出てきたんですよ。灯りって人がいることの証明じゃないですか。灯りによって人の暖かさも感じられるっていうか。このまま放っておいたら、誰も住んでいない地域になってしまうと思うんです。 Bubbさんとか<KEEN>さんの力を借りれば、打ち上げ花火も可能だと思います。けれどそうじゃなくて、手持ちの花火を仲間と一緒に楽しんでいるようなことが毎日あるようなお店。いつも心の灯りがついているようなお店になったらいいなと思っています」と堀越さん。

大震災から6年、安全祈願祭が行われてから4年の月日が経過して<いぶき>はオープンにこぎつけた。ふたりは「オープンしてからが大切」と口をそろえる。古民家再生に込められた思いとは、その地域の再生なのだろう。壊すのではなくて再び生かしていくこと。地元の人にとっても、牡鹿半島を訪れる観光客にとっても、いつも灯りが灯っている場所になることは間違いない。


関連情報

牡鹿半島 食堂いぶき

〒986-2412 宮城県石巻市大原浜字町18-1

0225-25-7282 11:00-17:00


FEEL GOOD STORE by KEEN(フィール グッド ストア バイ キーン)

シューズ製造過程で発生した規格外品(表面に傷がある等)を特別価格で販売。大原浜地区のコミュニティの活性化や復興を後押しすることを目的にオープン。売り上げの一部は、古民家再生IBUKIプロジェクトに寄付される。

キーン・ジャパン公式サイト