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窮則変 変則通 通則久

2018.11.05 07:37


知床半島のヒグマ、常食は「セミの幼虫」…好物の草はエゾシカに奪われる

読売新聞 2021/11/05 13:54

セミの幼虫を探しているとみられる母グマ(右)と子グマ(北海道斜里町の知床半島で、北海道大の富田さんと東京大の日浦教授提供)© 読売新聞 セミの幼虫を探しているとみられる母グマ(右)と子グマ(北海道斜里町の知床半島で、北海道大の富田さんと東京大の日浦教授提供)

 北海道知床半島のヒグマはこの20年で、セミの幼虫を常食するようになったとする論文を、北海道大の研究者らがまとめ、米国の生態学専門誌「エコロジー」に発表した。フンを分析した結果から結論づけた。

 ヒグマは雑食性で、禁猟などで増えたエゾシカに、好物のフキやセリなどの草を先に食べられたためとみられる。道内各地で問題となっているエゾシカ増加の影響が、ヒグマの採食行動からも裏付けられた格好だ。

 研究については、北大大学院博士課程3年の富田幹次さんが調べ、日浦勉・東京大教授(森林生態学)と論文をまとめた。

 富田さんは、知床半島の斜里町で2018年5~7月、ヒグマのフン60個を調べ、何を食べたかを分析。1985年夏頃に他の研究者が56個を調べた結果と比べた。その結果、フンに混じる餌の割合として、草は93%から49%に減少。85年頃にはフンに混じっていなかったコエゾゼミの幼虫が、18年には14%も占めるようになった。幼虫を食べることは、2000年頃には知られていた。

 カラマツの人工林に設置したカメラには、幼虫を食べるために母グマが子グマと地面を掘る様子が写っていた。富田さんは「コエゾゼミは明るい人工林を産卵場所に選ぶ習性がある。地中浅くにいた幼虫を捕食したのだろう」と話している。


Facebook近藤裕子さん投稿記事《 窮則変 変則通 通則久 》(易経)

窮すれば すなわち変じ 変ずれば すなわち通じ 通ずれば すなわち久し

行き詰まった時には 変わって行かなければいけないし、変わって行けば 道が開けるようになり、通じれば 長く続くようになる。

行き詰まった時には 変わらざるを得なくなります。変化するところから 道は開けます。

これは 私の実感するところです。

行き詰まった時は、生き方 考え方を変えるしかありません。

他力本願では 道は開けません。


http://mingtian.seesaa.net/article/440979944.html 【窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず、通ずれば則ち久し】より

「窮則変 変則通 通則久」(易経 繋辞下伝)

「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず、通ずれば則ち久し」

あらゆるものは絶えず変化していきます。その変化はどこかで窮まる。そうすれば、また次なる相に変化する。不変なるものは決して永遠にはなりえず、変化こそが永遠です。変化することで「通じ」、「久し」となる。

行きつくところまでいけば、必ず変化が生じ、変化することにより新たな進路が開けていく。こうして変化とそれによる新しい段階での発展を繰り返しながら、ものごとは久しく続いていく。

事物发展到了极点,就要发生变化,发生变化,才会使事物的发展不受阻塞,事物才能不断的发展。 说明在面临不能发展的局面时,必须改变现状,进行变革和革命。

「陰陽相対(相待)」という概念

「陽」は分化発展の象徴であり、目に見える力の発揚を示します。一方、「陰」は統合含蓄の象徴であり、万物を現実として定着させ、生み出す力です。この2つの作用によって、万物は創造され、衰亡していく。その生成化育には自然として自ずから順序があり、その原則を説くのが『易経』です。

「陽」は天であり、乾であり、男性的・父性的な徳、「陰」は地であり、坤であり、女性的・母性的な徳とされます。それらのどちらか一方だけでは、決して生成化育が成立しない、それぞれは相対していると同時に相待つものであるという点が「陰陽相対(相待)」という考え方の面白いところであり、本質だと思います。

爻(こう)には「─」と「- -」の2種類あり、易伝によりそれぞれの属性は陽・陰

奇数は陽 偶数は陰


http://ppnetwork.seesaa.net/article/413585389.html 【窮すれば通ず】より

「窮すれば通ず」は,

行き詰まってどうにもならないところまで来てしまうと,案外活路がひらかれて何とかなるものである,

という意味だとされる。『折たく柴の記』にも,

「窮して通ずとこそ題易にも見え侍れ」

とあるらしい。ここが,日本的な極楽とんぼで,窮したら,ただ窮するに決まっている。ずいぶん昔,棋士の呉清源さんが新聞のインタビューで,「日本では『窮すれば通ず』が諺になっているが,本来は『窮即変,変即通』で『変ず』が抜けている」という指摘をしておられたそうだか,そう言いたくなるのはよくわかる。

原文は,『易経』に,

易窮則変 変則通 通則久

とあるそうだ。つまり,「易は窮すれば則ち変じ,変ずれば則ち通ず,通ずれば則ち久し」であり,ただ,

「変ず」

が抜けているだけではない,「変じ」と「変ずれば」が抜けている。つまり「変ず」がなければ,窮したまま,ということになる。しかも,「易は」の主語があって,「窮すれば通ず」というような「窮したおのれ」の慰めにはならない,ということらしいのだ。

『易経』をさらりと読み飛ばしただけなので,改めて探してみると,

易は窮まれば変じ,変ずれば通じ,通じれば久し。ここをもって天よりこれを祐け,吉にして利ろしからざるなり。

とあり,その前がある。

神農氏没して,黄帝堯瞬氏作(おこ)る。その変を通じ,民をして倦まざらしめ,神にしてこれを化し,民をしてこれを宜しくせしむ。

とある。中国の堯瞬の前の,神農,その前の包犧氏という歴史(神話)を例にしているのである。ただ,(個人が)行き詰まってどうにもならないところまで行けば何とかなる,などという意味でないことだけは確かである。

思うに,「変化」に意味があるのではないか,ただ行き詰まったところで,何かが変ずる,というような僥倖がふりかかるなどということではないはずである。

「易とは天地と準う。故に能く天地の道を弥綸(びりん もれなく包み込む)す。」

「易とは象であり,象とは像すなわち物の姿に像(かたど)るという意味である。また彖(たん 卦辞)とは,その卦(か)の全体の意義を総括する材料という意味であり,それぞれ爻(こう)は天下の万物の動きに効(なら)う(爻=効)変化を示す。だらかこそ卦や爻によって吉凶が生じ,微妙な悔・吝も明らかになるのである。」

とある。そして,

「その中に示された道はしばしば変化し,変動して一箇所に停止することはなく,六虚すなわち卦中の六爻にあまねく流通し,絶えず上り下って常住することなく,陰陽剛柔互いに入れかわって,これを一定不変の法則としてとらまえることは困難であり,ただただ変化流転する動きのままにあるよりほかはない。」

ともある。だからこその,

臨機応変

なのであり,誰もが,その「変ずる」に出会えるわけではないのである。

「天下の賾(錯綜,入り組んで見分けがたい複雑さ)を究め尽くしたものは卦の中に示され,天下の動(変動,変化きわまりない動き)を鼓舞するものは卦爻の辞の中に示され,陰陽の変化に即して適宜これを裁ちきって融通性を発揮させることはいわゆる変の中に示され,これを推し進めてその場その場の具体的な処理を講ずることはいわゆる通の中に示され,神妙の働きを尽くしてその理法を明らかにするのは,それを利用する物の資質如何によるのであり,暗黙の中に益の道を成就し,言わず語らずして誠信の実効をあげ得るのは,その人の徳行如何によるのである。」

と。結局は,

「一陽一陰これを道と謂う。これを継ぐものは善なり。これを成すものは性なり。仁者はこれを見て仁と謂い,知者はこれを見てこれを知と謂い,百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮(すくな)し。」

となる。だれにでも,「変」が生じ,「通じる」という意味ではない。

上面を撫ぜただけで言うのは,おこがましいが,

「変化とは進退の象」

とある。つまり,たとえば,どつぼにはまって,二進も三進もいかなくなったとき,前へ前へと同じことを繰り返すと,それはますます深みにはまるだけである。立ち止まる,ということが,変化を生むことがある。何かに憑かれたような一途な執着が,剥がれ落ちる,それだけで見え方が変わることは起きる。

ソリューション・フォーカスト・アプローチに,

もしうまく行っているなら,変えようとするな

もし一度やってうまく行ったなら,またそれをせよ

もしうまく行っていないのであれば,(なんでもいいから)違うことをせよ,

という3ルールがある。これも同じことだ,変化を起こしたくないなら,そのまま続ければいい。しかし,変えたいなら,何でもいい,いままでとは違うことをせよ,である。

易には直接関係ないが,そこから,類推するのは,発想である。行き詰まって,思いつめた頭を,たとえば,「や~めた」と解き放った瞬間,視界が開けることが,たまにある。

よくひらめきの三上(馬上,厠上,枕上)と言うが,何もなくて,ただ寝ていたら,いいアイデアが浮かぶなどということは,三年寝太郎ではあるまいし,ありえないのである。数学者の岡潔氏が,

縦横斜め十文字,考えて考えて考えた末に,それでもだめなら寝てしまえ,

といった趣旨のことを言っておられた由だが,「寝てしまえ」だけとっても,ひらめきの条件にはならない。似たことは,よくアイデアとか創造性が,

既存の要素の組み合わせ

というが,では組み合わせたら,何かいいアイデアが生まれるのか,というとそんなことはない。その辺りは,さすが(NM法の)中山正和氏で,

情報を集めて,加工して,孵化して,

といわれる流れを,

①方向づけする(問題意識の言語化)

②情報を集める

③情報の切断

④組み合わせ

と分解した。まず大事なのは,問題意識とされる。問題意識とは,

第一信号系の条件反射である

から,それを第二信号系の言語によって「意志的に『方向づける』」と言っている。実は,多く忘れられているが,自分の関心につながらないところではアンテナ感度は鈍る。鈍った感度で情報が集まるわけはない。問題意識の言語化は,

アンテナの指向性

を高める操作なのである。これなしの,ステップは,本気でアイデアを考えたことのない人の説だろう。

もう一つ重要なのは,「情報の切断」である。情報は,基本的に自己完結している。情報については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406738733.html

で触れた。自己完結しているというのは,論旨,意味づけられている,ということである。だから,論旨,というか因果関係といってもいいが,それを切断する。

われわれがひらめいたとき,

脳の広範囲が活性化する,

と言われている。発想は,ただの情報の組み合わせではない。自分の中にあるリソース,

意味記憶,

エピソード記憶,

手続き記憶,

とリンクすることで,情報がリンクしあい,今まで見えなかった意味が,パースペクティブが開く。忘れられているが,発想はそもそも主体的な作業ということである。そのためには,「切断」がなければ,デジャヴな発想に留まる。その意味で,最初の問題意識の言語化が,ここと関わる。発想は,その広げた風呂敷以上にはいかないのである。

ま,というように,「変化」が生まれるには,ただ窮したり,ただ寝ていても,「産むが安し」とはいかない。ブラックボックスの部分を見ないで,慰めにするのは,自堕落の始まりである。

参考文献;

高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)

中山正和『発想の論理』(中公新書)