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鹿は神の使い

2018.11.05 07:54

Facebookごとう 孝二さん投稿記事 ·〜失われた日本人のDNAが蘇る〜

「第一回ARUGAMAMA サロン開講♡」

☆11月11日(木)21:00〜22:30

☆zoomより

テーマ「日本が知らない真実のストーリー

    かみしばい〝和の国の物語〟輪読」

☆会費 5000縁→初回特別価格2500縁

☆私は若い時、劣等感に悩まされて無価値観に虚しさを覚えて人生何のために生きているのか?と孤独の中で考えていました。

自分のアイディンティティ(自分の存在価値)がわからなくなっていました。

自分はどこから来てどこへ向かって行ったらいいのか?

9年前2012年の9月に初めて皇居勤労奉仕に参加しました✨

そこで御会釈の機会があり天皇皇后両陛下(現上皇后陛下)とお会いできました。

そこで人生最大の衝撃を受けたのです!

お二人の姿を見てると魂が震え出し涙が止まらなくなったのです。自分でも訳がわかりませんでした。どういうことなんだこれは⁉︎

その意味を知るために日本のことを勉強していきました。

世界最古の歴史を持つ世界唯一のエンペラーである事を知り私たち国民の幸せを毎日祈っている存在であることを知り

これはみんなに伝えようとI LOVE JAPAN❤️をテーマに伝えてきました!

西洋のスピリチュアルやセラピーもたくさん学んできましたが全ての答えは日本にありました✨

今西洋の人たちもスティーブ・ジョブスやビルゲイツも禅を学び生活に取り入れていたように日本精神を学んでいます。

特に戦後、私たちのアイディンティティ日本精神が封印されてきました。

その結果世界一自己肯定感の低い日本人になってしまいました。

元々は世界一誇り高いサムライ精神を持った私たちです!

失われた日本人のDNAを甦らせることをミッションに、ARUGAMAMAサロンを開講いたします✨

天皇家に伝わる白川伯王家の秘儀にも精通しているYumikoさんと一緒に本音を語り合っていきます。

皆さんとお会いできるのを楽しみにしています。

【ARUGAMAMAサロン内容】

☆かみしばい「和の国の物語」輪読

☆神道にみる陰陽宇宙の法則とは?

☆天皇家に伝わると鎮魂の秘儀

☆祓と言霊と統合

☆祝詞の意味と役割とは?

☆宇宙意識に繋がる瞑想

☆参加者の要望で変わることがあります。


https://ameblo.jp/mukainot/entry-11713205304.html 【奈良の鹿と藤原氏のルーツ】より

奈良のイメージといえば、やはり大仏と奈良公園の鹿ではないでしょうか?

小生は奈良出身なのですが、あの鹿が大嫌いでした。

奈良の街を我が物顔で縦横無尽に歩き回り、人が食べ物をもっていようものならしつこく付き纏われる、、、。こんなことを言うとバチがあたるよとよく祖母から言われたものでした。

何故バチがあたるのか?

それは奈良公園の鹿は神の使いだからなのです。

どこの神様の御遣いかというと、春日大社の神様の使いということになります。

この春日大社は奈良時代に、常陸の鹿島神宮から藤原氏が氏神として勧請されたものです。

鹿島の神様である武甕槌命(タケミカズチ)が、常陸から大和の春日大社がある三笠山にこられる際に白鹿にのってこられたのが春日大社で鹿が飼われるようになった由来だそうです。

因みに常陸の鹿島神宮でも鹿が飼われています。

じゃあ本家の鹿島神宮でなぜ鹿が飼われているかというと、天照大神が武甕槌命に出雲の大国主に国譲りの談判をしてきなさいという指令を運んだのが鹿だったからということだそうです。

この時にタケミカズチが使用した剣が十握剣といい、鹿島神宮には巨大な直刀が納められています。

で藤原氏の氏神としたとあるのですが、記紀神話では藤原こと中臣氏の氏神は天児屋根命とされておりタケミカズチとは接点があるようには見えません。

特にタケミカズチは剣の神であり、軍神として崇められた神様で中臣氏は拝み屋さんであり軍を率いて戦った氏族としての印象がないので余計に不思議なのです。

しかし、この藤原氏の関係する神社である枚方神社や春日大社、また鹿島神宮では神鹿がいること。

また藤原氏自身がこの鹿島の神を氏神とすることから、タケミカズチと何らかの関係があることは間違いないことだと思われます。

また、別の視点から春日大社の春日とは氏の名で春日氏(和邇氏)の氏神を祀っていたのが元々なのです。そこに藤原氏が自身の氏神を勧請したということなのですが、普通元の神様と何の関係もない神社に自分の祖先の神を祀るなんてこと考えられます?

いわば他人さんの墓に自分の祖先の墓から骨壷を移すようなこと、この祟り一つで国政も決まるような時代にありえないと思うのです。

つまり、藤原こと中臣氏と春日氏(和邇氏)にはなんらかのというか血縁上の関係がある。

もっと言うと春日氏の後裔の中に中臣氏があり、後にこの春日氏の血統の中で最も出世した中臣こと藤原氏が氏の長者として祭祀や財産を継承したのではと思うのです。

春日氏は大和を代表する古代氏族であり、現在の奈良公園のある一帯から天理市北部までを勢力圏とした大豪族でした。

また天皇家との関係も深く、后を出す一族であったと言われています。そして外戚氏族として権勢をふるったものと思われます。

この大和の春日氏の祖は難波根子武振熊という方で、記紀では神功皇后と仲哀天皇が熊襲討伐の為に九州北部に赴いた際にまっさきに恭順の意を示し、その際に現在の三種の神器の一つであるヤサカニノ勾玉を献上した人です。

その後は応神天皇の大和入りの際に活躍したことが記されています。

この春日氏の勢力を張った地域としては、出身地の福岡県北部の遠賀川流域、大和北部、琵琶湖西岸一帯です。つまり水運拠点を握っていた氏族といえます。

春日氏は古代大和朝廷の水軍を担っていた氏族のようなのです。

そして私見ですが、武甕槌命とは武振熊のことなのではないかと思うのです。

全くの同一人物ではないと思いますが、古代大和朝廷により東国に派遣された軍団長こそ春日(和邇)の水軍だったのではと考えています。

その大和の東国の軍事拠点となった場所が現在の鹿島神宮と香取神宮だったと思われます。

きっとこの遠征軍の構成は、九州の水軍を中心としたものではなかったかと思われます。

(福岡:春日氏(和邇)、福岡:安曇氏、福岡:宗像氏、熊本:阿蘇氏)

因みにこの遠征軍が東国に向けて進んだ所に、上記の氏族の進駐した形跡として地名や神社が残されています。

例えば、美濃の春日井(春日居)、三河の渥美半島(安曇半島)、遠州の鹿島(浜松市の地名)、富士山麓の浅間神社宮司は和邇部(春日一族)、熱海(安曇の訛とのこと)、鹿島神宮、利根川を遡った印旛沼周辺に阿蘇、宗像地名、埼玉の春日部などなど。

そして逆に、九州には佐賀の鹿島や杵島の地名があり、福岡の博多には春日市や那珂の地名、また海神族(春日、安曇、宗像など)の総本山(綿都美神社)は福岡の博多湾にのびる志賀島(しかのしま→鹿島)があるのです。

なぜ藤原氏が編纂した日本書記の中で自身の祖がタケミカズチであることを明記しなかったのか?

その秘密は、タケミカズチを祖とする豪族が多数あり、その中で藤原氏が最も格下の位置づけにあったことがあげられるのではと考えています。

また、他の豪族達と藤原は全く別であり天照大神の随神であることを強調したかったと考えられます。

つまり書記編纂時の女帝を天照大神に見立て、その随神である天児屋根命を藤原氏とし、

天孫たる日嗣御子に藤原より后を入れ、その間の子を日嗣の御子としたいという願いが作ったものと思われます。

また突拍子もないことですが、私は春日氏と安曇氏は古の倭国王奴国の王族の後裔ではないかと考えています。

というのも奴国を構成した氏族が全て絶えることなど考えられないこと。

そして、漢倭奴国王の金印が見つかった志賀島が彼ら海神族の総本山であることがあります。

また、記紀にて天皇家の祖と海神の娘の結婚譚が多く見受けられます。

これは春日氏が初期の天皇家に后を入れ外戚となったことと重なります。

つまり藤原氏もこの流れであり、先祖が繁栄した手法をもって自身も出世していったのではないかと考えられるのです。

藤原氏の繁栄の基礎は、天皇家に皇族以外から初めて皇后をいれ、その御子を天皇とし外戚として権勢をふるったものです。

そう春日氏の手法と一緒なのです。

そして藤原氏の旧姓である中臣の中ですが、これはもともとは那珂ではなかったのか?と思います。

そう福岡の那珂のことです。

つまり春日、安曇、那珂臣らは地図でみれば分かりますが本当に近所の一族だったと思われます。

そして鹿島神宮がある常陸にも那珂地名があり、那珂川が流れており、この那珂の中臣氏が鹿島神宮の神官家として仕えていたのです。

日本を代表する氏族であった春日氏と藤原氏のルーツや系図がいまいち良く分からないこと、またその先祖の活躍もよく伝わっていない理由こそ彼らが古の倭国王の末裔であったからと思います。

つまり、天皇家の祖よりも彼らの血筋のほうが高貴の出だったことを隠蔽するために記紀に記さなかったのではないかと思うのです。

つまり倭国王末裔の中臣氏は、天皇家のあくまでも随身としての生き方を選んだ。

それを名にして負ったのが「藤原」の姓の由来なのではないでしょうか?

天皇家を木として、その木に寄生し生きる藤の蔓としての生き方です。

天皇家も勿論彼らが高貴の出であり、自分達よりも上か同等の血筋であるにも関わらず臣下とし仕えることを誓約してくれた彼らを慈しんだのではないでしょうか?

それが記紀神話において天皇家の祖が海神を丁重に扱っている様に反映しているのではないでしょうか。

また、よく藤原氏を百済人とする説がありますが私はその説に異論があります。

藤原氏を百済人とする根拠として、壬申の乱の際に百済渡来氏族が多く住む近江に都したことがあげられるのですが、私から考えると藤原氏の勢力圏は基本的に春日氏の勢力圏と重なっていると思います。

平城京の藤原氏の邸宅があった旧興福寺から春日大社一帯、及び琵琶湖西岸地域は正に春日一族の土地です。

しかし、1点だけ私と百済人末裔説の共通点があります。

それは両方とも渡来氏族であるということです。

私は、藤原氏の祖は春日氏であり、春日氏の祖は武振熊(天足彦)であり、武振熊は天日矛の末裔と考えています。

天日矛は加羅王子とされています。

そう、藤原氏の祖は百済人ではなく加羅人だと考えています。

つまり加羅から太占が伝えられ、それを中臣が継承したと考えます。

太占とは古の中国から伝えられた一種の占いで、亀の甲羅や鹿の骨を火であぶり、割れたヒビから吉凶を読み取るものです。

日本でも鹿を聖なる太占と読んでいたそう。

もしかすると鹿島神宮などの神鹿のルーツがここになるのかも知れません。

そして藤原氏も自分達のルーツである太古から続く祭祀の家であることを忘れないように奈良公園に鹿を飼育したのかもしれませんね。

http://hunt-memo.blogspot.com/2017/10/blog-post_11.html  【】


https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12277348389.html 【原日本語の故郷と春日大社の鹿】より

原日本語は東アジア全体に広がっていたことは述べたが(参考)、その故郷(発祥の地)はどの辺りかはよく分からなかった。北方由来の膠着言語に南方由来の語彙が多く含まれたものが原日本語であろうとすることは既に定説になっている。これを明らかにするヒントが春日大社などにいる鹿であった。

神社の中を気ままにうろついている鶏はよく目にする。神聖な生き物として大切にされている。鶏は農業に危害を及ぼす害虫を食べてくれる動物であり、天照大神を天の岩戸から出て頂くために鳴いた動物も鶏であった。

ところが、奈良の春日大社、茨城の鹿島神宮、広島の厳島神社は野生の鹿が聖獣とされている。

春日大社の鹿

海人族安曇氏(漁師のルーツ)が信仰する神社の総本宮である福岡の志賀島(しかのしま)にある志賀海神社(しかうみじんじゃ)では鹿の角が奉納されている。

博多湾口の志賀島の志賀海神社の鹿角堂の中の鹿の角(神功皇后が対馬で鹿狩りして奉納したと説明されている)

志賀海神社の鹿角堂

そして、志賀島の志賀海神社の氏子の海人族安曇氏が開拓した鹿島(かしま、茨城県)に、後に入植した百済人達が神聖な鹿を放し飼いした鹿島神宮を造営した(参考)。さらに百済人の一派の藤原氏の春日大社や厳島神社に鹿が移された。この鹿を神聖視する百済人のルーツは朝鮮半島よりさらに北の地域に居住した扶余族であり、この扶余族が鹿を神聖視した。

議論を言語学的研究に移すと、後期旧石器時代の原日本語のルーツは日本海を囲むようなエリアにあり、北東アジアの山の民の言語に連なる膠着語を骨格に、南方のスンダランドから北上した海の民(海人族安曇氏、現在の漁師さん)の語彙を多く含んだ言語として原日本語が出来上がったと考えられている。また、考古学的研究によれば、東アジアの新石器時代の遺跡からは日本列島の縄文土器と同じ物が出土することが指摘されている。

後期旧石器時代の言語分布想定図(参考)、環日本海諸語に原日本語が含まれる。

中国大陸の東部の新石器時代は縄文文化だった(参考)、緑の地点の遺跡で縄文土器が出土している。

すなわち、原日本語の故郷(発祥の地)では、鹿を神聖視した扶余族の祖先の山の民と、日本海を中心に周辺地域で活躍して鹿の角を神聖視した海人族安曇氏の祖先の海の民が鹿の角や毛皮と黒曜石の交換などで相互交流していた(参考)。そして出来たクレオール言語が原日本語となった。

山の民の扶余族の先祖と海の民の海人族安曇氏の祖先が鹿と黒曜石を仲介に、相互交流して原日本語(百済系)を作った!

そして2、3万年かけて、東アジアの扶余族の祖先と同族の縄文人、秦、そして羌などの遊牧民に広がり、さらに江南の稲作農民にも広がったと考えられる。この原日本語が最終的に日本列島に渡来・集中して日本語になったことになる(参考)。

この扶余族の祖先の直系の子孫が百済人、高句麗人そして新羅人であり、百済人の話した言葉が現在の関西弁に相当するが、上代には8母音であったり(参考)、彼らのアクセント(京阪式アクセント)から東京式アクセントが出来たと言う説(参考)を納得させられる。

ただし、8母音の5母音化や京阪式アクセントの東京式アクセントへの変化は広大な東アジアにおいて生じ、日本列島に渡来してきた時には既に方言として並行的に存在したと考えられる(参考)。

雑談1

現在の朝鮮語のルーツは、さらに北隣の粛慎(から挹婁、勿吉、靺鞨)に由来しそうだ。朝鮮語も8母音以上を有し、何らか関連は否定出来ない。

雑談2

ここで述べた議論は関西弁(百済語)の故郷を明らかにしたに過ぎないのかも知れない。中国大陸内陸の羌族や秦の原日本語にまで、東海岸の言葉が影響したかどうかを未だ明らかに出来ていない。

ただ、秦とは仲良く共存しており交流があったと言えよう(参考)。

さらに、東海岸の多様な農林水産物は西方の内陸部の遊牧民にも魅力的であったはずである。春秋戦国時代の百家争鳴と呼ばれる学問文化の爛熟は東海岸の山東半島近くの斉(秦、百済、日本と同族)であったし、孔子も近くで誕生して儒教を創始した事実を見ても、東海岸から西方向への言語・文化の発展・伝播はあったと言える。

雑談3

原日本語の故郷としては以下の図のように想定される:

橙色がここで議論した扶余から百済経由で日本に渡来した関西弁、黄色も同じく山の民と海の民から成立した日本列島内の縄文系の言葉、ピンクが秦氏+羌族の東アジアの言葉、水色が江南(揚子江)の北九州に渡来する稲作農民の言葉に、それぞれ相当する。

参考

① 鹿信仰(ヤフー知恵袋より)

神使としての鹿への信仰は日本各地にあります。中でも有名なのは春日大社・奈良公園、鹿島神宮ですがこれらの神社は「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」を主祭神にしています。この、武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたと伝えられている事から、鹿を神のしもべとして位置づける事になったわけです。また、武甕槌命は日本有数の強大な氏族である藤原氏の氏神・守護神であるとされることも影響していると思います。

厳島神社も神鹿がいる事で有名ですが、主祭神は宗像三女神であり一見すると関係がありません。ですが、ここにも藤原氏が関係してきます。

厳島神主家は創健者とされる佐伯氏が代々神主家を勤めていましたが承久の乱で敗者となった後鳥羽上皇に味方してしまった為に、神官職へと降格され新たな神主家は藤原家が務めることになっています。

春日大社も鹿島神宮も厳島神社も日本各地に末社がありますので、こうした本社の慣習に倣った為に神鹿信仰も伝わっていったのではないかと私は思います。

② 志賀海神社の鹿の角(参考)

海洋の神「少童命」(わたつみのみこと)を祭神とする同社は万葉の昔から海上守護の神として信仰されている。祭神は綿津見三神で、左殿より仲津綿津神、底津綿津見神、表津綿津見神である。1月15日に古式神事「歩射祭」(ほしゃさい)が、また神事「山誉祭」が春秋二度執り行われています。

この他神幸行事(隔年)があり、いずれも県指定の無形文化財でる。また境内には国指定重要文化財の朝鮮鐘の他、境内には鹿の角一万本を納めた鹿角堂(しかつのどう)や万葉歌碑がある。

③ 扶余族と鹿(参考)

ハルピンは、古代、扶余国(プヨ国)の故地。『旧唐書』百済伝には「百済国、本亦扶余之別種」とあります。扶余→百済→日本。日本民族のルーツは、扶余(ハルピン)なのです。大昔、扶余族が黒竜江流域にいた頃、鹿は聖獣でした。「扶余」とはツングース語の鹿(ブヨ)の漢字表記。「扶余」とは鹿(ブヨ)のこと。扶余の子孫が百済。

④ 百済と扶余の関係(wikiより)

『唐会要』百済伝には「百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海(百済とは、本は扶余の別種で、馬韓の故地にあたる。 その後裔に仇台なる者がおり、高句麗に国を破られ、百家で海を渡った。因って百済と号する)」とあり、百済の支配層は扶余族だったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余とつながりがあり、26代聖王が538年に泗沘に遷都した後に国号を「南扶余」としたこともそれは窺える。

⑤ 扶余系部族連合(参考)

秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)が登場するが、それらは扶余族を宗族とする同族系国家連合、いわば扶余系部族連合である。

扶余系部族連合は、粛慎国に帰属する穢(ワイ)族系部族の連合体で、獩族(ワイ)・貊族(ハク)・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合体の王を出す主要部族が扶余族であり、扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われる。

古代中国大陸では、トーテムによって各自の帰属する部族を明示したが、扶余族は「鹿トーテム」部族だが、扶余系部族でも狛族(高句麗)のトーテムは「鳥」で、始祖神話に「南方系の卵生型」と「北方系の日光感精型」が混合していることから、北方の扶余系部族と南方の部族とが混血融合した部族だと思われる。

⑥ 秦の鳥トーテム(参考)

中国古代の秦王朝が卵生説話をもち、鳥トーテムをもつ部族であったらしいことは、中国神話の研究家白川静氏が指摘するところである。秦の卵生説話は『史記』の秦本紀に見え、その祖女脩が機織りをしていたとき、玄鳥(黒い鳥。一説に燕とされるが、それに限らないと思われる)が落とした卵を呑み、子の大業を生んだという。大業の子の大廉は鳥俗氏の祖であり、その玄孫の中衍は身体が鳥で人語をよくしたと記される。

⑦ 日本語の起源の現在、主流な説(wikiより)

日本語がアルタイ系言語と南島語の混合語起源とするものであるが、「混合」の定義・プロセスについては、論者の間で見解の相違がある。日本人の民族学人類学的な特徴が混合的なものであることは、古くから指摘されてきた所であるが、言語学者の間では日本語アルタイ起源説が19世紀以来、定説とみなされてきた。

⑧ 占いと鹿(wikiより)

古代日本で行われていた占いの一つに太占(ふとまに)があり、古事記や日本書紀その記述がある。この占いでは鹿の骨(卜骨 - ぼっこつ)を用いることが多く、鹿卜(かぼく)とも呼ばれる。具体的には鹿の肩甲骨(少数ながら肋骨や寛骨も)を焼き、その亀裂の形や大きさで吉凶を判断した。このため鹿は聖獣として扱われていた。

⑨ 扶余族(wikiより)

言語について定説は無く、混乱している。

その内の一説として、夫余語系説…比較言語学的研究により、『三国史記』所載の高句麗地名から抽出した高句麗語語彙が、ツングース系語彙よりも日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、アルタイ祖語は夫余・日本・朝鮮・韓共通語とテュルク・モンゴル・ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始扶余語とに分かれ、ついで原始夫余語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとする説。しかし、村山七郎や清瀬義三郎則府は、高句麗語と朝鮮語は遠いことを示すと共に、日本語と近縁の言語とし、そもそも高句麗語の存在や不正確さも指摘している。

10 江上波夫の騎馬民族征服王朝説(wikiより)

扶余系騎馬民族が、南朝鮮を支配し、その後弁韓から日本列島に入り、大和朝廷の前身になったとする仮説を江上波夫が提唱したが、今日ではほとんど否定されているともされる。

著者注: 扶余系騎馬民族を秦氏と同族とし、原日本語を喋るとすれば、肯定される。

11 扶余の歴史(wikiより)

扶余のハッキリした歴史は中国の前漢の中頃あたりまでしか遡れないが、中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ、扶余の前の時代の沃沮と濊貊(わいはく、かいはく)もほぼ同じとされる。

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12 朝鮮語(wikiより)、、、日本語とは関係無い、粛慎(から挹婁、勿吉、靺鞨)に由来する民が話した言語と考えた方が自然。日本への併合前の朝鮮の習俗(参考)は正に挹婁のものとそっくりだった。

韓国の学会では、朝鮮語が孤立した言語でないとしたらアルタイ語族に属すであろうという考え方が主流である。ただし、テュルク語群、モンゴル語群、ツングース語群には一定の類似性があるものの、それらが共通の祖語を持つアルタイ語族であるということは今のところ証明されるめどは立っていない。

歴史学の見地から考えると、百済、新羅、高句麗では言語体系が異なるという説も存在しており、『三国志』魏書弁辰伝には馬韓、辰韓(秦韓)間においては異なる言語が用いられていたという記述が存在している。また、高麗王朝の支配者層は元の時代にモンゴル系民族に取って代わられたため、モンゴル系言語の流入も考えられており、言語体系は定かではない。その中でも、朝鮮語はアルタイ語のうち、ツングース語族との関係が最も深いと考えられており、唯一まとまった文字資料をもつ満州語との比較研究が行われている。

13 漢民族は3000年前頃に黄河流域の中原に侵入して来た(参考)、、、それより以前の中国大陸は秦や羌族などの原日本人が活動していた。