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認知症サポーター養成講座に行ってきた。

2021.11.06 11:52

昔から、とにかくメモをとる。

すこしでも耳に残った言葉を、自分の文字に起こす。

自分の書き込みと相反し、お話しはどんどんと進行していくので、聞いた事柄を脳内にクリップして文字化し、耳は現在の言葉を録音するという塩梅で、次から次へと書き出す。

余計な、というか、本題と外れたいわゆる余談部分こそ、メモを取る。

経験上、その方が記憶に残る。

冗談や私情などを盛り込むことによって、その事柄がより彩りをもって刻まれる。

感化をもって、学びを自分のものにする。

私の勉強の仕方は、ずっとそんな感じです。



朝のお散歩の帰り道、公共の掲示板で認知症についての講習のお知らせを見つけた。

主催である事務所に伺って、予約をした。

認知症自体に深く興味があったというわけではなくて、寧ろ、もやっとした印象だった。

もちろん、とても重要な課題であるとわかってはいても、自分とはやんわりと遠い、介護とセットのような、そのくらいの知識しか持っていなかった。

わからないものをわからないままにしないように暮らしてきたおかげで、今回の掲示板のお知らせにも気付くことが出来たのかもしれない。

ご自宅に伺ってのマッサージもやっていこうと思う中、日本という国が抱えている課題を、きちんと知っておくべきだとも思った。

えまちゃんが、お子さんがいてなかなか外に出られないと言っていたが、認知症の方のご家族でも同じような方がいるかもしれない、とも。

また、お仕事に日々を追われる世間の方の中には、気になっていても学ぶ時間がない、機会がないという方もたくさんいると思った。

今、自由の利く生活だからこそ、自分のためにも、誰かのためにも、なるべく多くの知識を吸収しておこうと思っている。


今回講習を受けて驚いたのは、脳細胞の破壊による症状と、その後二次的に起こる精神的障害とは別のものであり、後者であれば、改善が見込めるということ。

思い通りに出来ないこと自体ではなく、自尊心が傷付くことによる弊害が広く影を落としているという事実を知り、本当にびっくりした。

私がいま日々研究している、いかにして穏やかな心を保つかというものと、どこもかしこもリンクしている。

その実、認知症に限らず、精神的萎縮がどれほど人体に影響力を持つかという話。


すべてに関して、人を無駄に糾弾するという行為は、浅はかであって、誰かを貶めてしまう行為であって、自らの理論や思想を守るためのものなんだよねって。

糾弾したい衝動に駆られたら、一度心を落ち着けるのが何より吉だ。

わかっていたって、すんなりと出来得るわけもなく、またモヤモヤしたり、泣き出したりする。

時間があまりないかなと思ったけれど、こういう時こそ、最速朝のお参り時間をはかるチャンスかなと、ささっとお散歩へ。

とはいえ、やはり、シャッターを切っていました。

枯れると共に、あざやかに色付くもみじの葉は、愛おしいね。

今日はすこし遅めのブランチお参りで、空のそらいろと紅葉がビビッドですごく素敵だった。

私は昔から、切り取るのが大好きです。

写真を撮るときには、撮る対象、いわゆるモデルよりも、画面の外側、その枠にぶった切られたカタチに目がいきます。

すこしだけぐっと近寄って、切り取るのが、大好きです。

いつだって、質感を伝えたい、それが生々しくても、不気味でも、細胞を粒子を、生命だと伝える足掛かりやきっかけになれればと思う。

認知症の課題への注意事項として、上記みっつがある。

でもね、これって、普段から当たり前になくちゃいけないものじゃないかな。

そう感じるのは、私だけなのかな。

介護施設に入っていらっしゃる方のなかには、腰が曲がって、認知症もあって目の前しか視覚としてわからないから、床しか見えない方がいる。

だから、道案内も、トイレへの矢印も、床に貼り付けたら、安心して過ごせたという話を聞いた。


言葉の話せない赤子を前に戸惑う人と似ていると感じた。

私たちは、驚くほど、言語以上の、言語外のコミニュケーションをとっていて、でも、頭で理解しようとするばかりに、判らなくなっていく。


同じ時代に生きるものだからね。

でも、ご家族からしたら、そんなに簡単に割り切れるものではないとおもう。

だからこそ、部外者の私が、勝手だけれども思う事を提唱して、愛しいと思っていく。

それしかないもんね。


今日もたのしいいちにちでした。

配信しようかな。

えへへ。