昭和村「大仏山」登頂断念 2021年 初冬
“観光鉄道「山の只見線」”沿線の「会津百名山」登山。今日は、JR只見線の会津川口駅から路線バスで移動し、昭和村の「大仏山」に登ろうとした。しかし、登山道の積雪量が多く、時々雪が舞い、冷たい風が吹き抜ける天候が続いていたため、登山道途上の喰丸峠で引き返し、登頂を断念した。
「大仏山」には、今春昭和村に滞在し、村内の山々を登る計画を立てた際に候補に挙げていたが、ケガで登山を諦めた経緯がある。滞在中、「高館山」(847.7m)、「愛宕山」(745.4m)、「御前ヶ岳」(1,233m)の3座に登った事で、村内未踏の「会津百名山」は「駒止湿原」と「大仏山」になっていた。
今回、紅葉の時期は過ぎていたが、登山道無しの山という事で落葉期の登山が良いだろうと再挑戦した。
「大仏山」は「会津百名山」の第65座で、「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)では以下の見出し文で紹介されている。
大仏山 <だいぶつやま> 994メートル
大沼郡昭和村の中程、佐倉と喰丸両集落の中間から北奥に大きな岩を持った山が見える。この山が大仏山である。山名の由来は定かではない。ただ、山腹にある大岩が村から見ると大仏の姿に見えるようだ。[登山難易度:上級(登山道無)]*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)p146
また、「新編會津風土記」(1809(文化6)年編纂完了)の野尻組の項に、「大佛(仏)山」と「喰丸峠」の記述がある。
●佐倉村 ○山川 ○大佛山
村より寅の方二十五町にあり、頂まで九町、喰丸村と峯を界ふ
●喰丸村 ○山川 ○喰丸峠
村東十六町三十間にあり、登ること七町五十間餘、小野川村の頂を界ふ
*出処:新編會津風土記 巻之八十二「陸奥國大沼郡之十一 野尻組」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33」p117-118 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)
会津地方には24日(水)にまとまった雪が降り、その後も時々雪が降ったという。今日の昭和村を含む奥会津の天気予報は曇り時々雪。積雪はあっても、登山ができないほどではないだろうと思い、現地に向かった。
*参考:
・福島県:只見線ポータルサイト
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の冬ー
昨夜、仕事を終わり富岡町から、宿泊地の会津若松市に移動した。
今朝、会津若松駅周辺は、昨夜から降り続いていた雨は止んでいた。このまま、天気が持って欲しいと思った。
輪行バッグを抱え駅舎に入り、切符を購入し改札を抜け、連絡橋を渡り只見線のホームに向かう。橋上から見下ろすと、会津川口行きのキハE120形2両編成が暗闇の中、ディーゼルエンジンを静かに蒸かし待機していた。
6:03、会津川口行きの始発列車が会津若松を出発。
切符は会津川口まで、明日の分も合わせて往復で購入。片道1,170円だ。
列車は七日町、西若松と暗闇の市街地の駅を経て、大川(阿賀川)を渡り、会津本郷を出た直後に会津若松市から会津美里町に入る。会津高田を出発すると右大カーブを進み、進路を西から真北に変えた。
振り返って東の空を見ると、雲が大きく割け、明るくなっていた。
列車は根岸、新鶴を経て若宮手前で会津坂下町に入り、会津坂下に停車。上り列車とすれ違いを行った。会津若松行きが到着すると、高校生を中心に多くの客がホームに現れ、乗り込んでいた。
会津坂下を出発すると、列車は刈田の途中でディーゼルエンジンの出力を抑え、車内は一時静かになった。そして、右カーブに入り始めると豪快にエンジンを蒸かし、七折峠に向かった。
振り返って、分かれることになる会津盆地を眺めた。上空の青空は意外に大きく、今日は晴れるのだろうか、と思った。
七折登坂の途上、木々の切れ間から、会津坂下町を見下ろす。
目の前の田圃がつぶされ、大型商業施設ができるという報道を聞いてから、完成後の風景を想像しているが、旅行者の身としては景観が損なわれるので止めて欲しいと考えている。しかし、地元住民にとっては喜ばしい事なので、せめて景観に配慮した外観と看板をデザインする事を強く願った。
峠の中の塔寺を経て、会津坂本を出発すると奥会津地域の入口である柳津町に入った。前方の山々の頂付近はうっすらと冠雪していた。
会津柳津を出て、郷戸手前で“Myビューポイント”から会津百名山「飯谷山」(783m)を眺めると、ここも頂上付近が雪を被っていて、朝陽を浴び、最後の彩りをみせる木々の色づきとの対比が美しかった。
滝谷出発直後に、橋梁区間の“前座”を勤める滝谷川橋梁を渡り、三島町に入る。朝陽がもう少し高ければ...と思ったが、それでも渓谷には陰陽ができ、見応えがあった。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス「歴史的鋼橋集覧」
会津桧原を出て、桧の原トンネルを抜けると「第一只見川橋梁」を渡った。この時期のこの時間は下流側の河岸や水面に陽光は届かず、見るとそこそこの美しさを感じられるが、全自動で写真を撮ってしまうとそれらが暗く映ってしまう。*ダム湖は東北電力㈱柳津発電所・ダムのもの
名入トンネルに入り、会津西方を出発すると「第二只見川橋梁」を渡る。上流側は、濃淡の雲が上空を覆っていた。*ダム湖は東北電力㈱柳津発電所・ダムのもの
ただ、会津百名山「三坂山」(831.9m)は、雪化粧した山頂付近がはっきりと見えた。
会津宮下に到着すると、上り列車とすれ違いを行った。ホームには客2人の姿が見られた。
会津宮下を出発すると、列車は東北電力㈱宮下発電所(水路式)と宮下ダムの脇を駆け抜ける。ダムを見ると、この時期では珍しくゲートを1門開けて放流していた。上流域で多く雨が降ったのだろうと思った。
列車は「第三只見川橋梁」を渡る。ここは、下流上流側の両河岸が切り立っているが、その上部の山は冠雪していた。*ダム湖は東北電力㈱宮下発電所(水路式)の宮下ダムのもの
上流側を見ると、落葉が進んだせいで、只見川に落ち込む界の沢が良く見えた。
早戸を出て金山町に入り、列車は8連コンクリートアーチ橋である細越拱橋を渡り、左に緩やかに曲がった。
会津水沼を出ると「第四只見川橋梁」を渡る。下路式トラス橋の鋼材の間から上流側を眺めた。
会津中川を出発し、しばらくして車内放送が流れ列車は減速。前方に林道の上井草橋が見えると、振り返って大志集落を眺めた。ほぼ全面が冠雪した山々を背後に、初冬の良い風景だった。*ダム湖は東北電力㈱上田発電所・ダムのもの
8:10、会津川口に到着。ダム湖(只見川)には浚渫船が浮かび、左岸の低山は雪化粧していた。*ダム湖は東北電力㈱上田発電所・ダムのもの
観光客と思われる方を中心に、7名ほどが降りた。
私も輪行バッグを抱え駅舎に入った。駅頭を見ると、只見行きの代行バスが付けられていた。8時15分、代行バスは4名の客を乗せて出発していった。
私は昭和村に向かうため、大芦行きの路線バスを待った。一日3便と少ない。
代行バスが出発した6分後、会津乗合自動車の路線バスが駅前にやってきた。客は誰も乗っていなかった。
8:23、大芦行きの路線バスが、私一人を乗せて会津川口駅前を出発。この後も、客の乗降は無かった。
路線バスは、只見川の支流・野尻川に沿って延びる国道401号線を走る。路面は濡れていたが、積雪は無かった。しかし、町村境が近付くと雪が舞い始め、昭和村に入ると徐々に道の両脇に行きが目立ち始めた。そして、佐倉付近になると、雪の量が多くなった。
9:02、喰丸下に到着。料金1,100円を支払い下車した。国道の路側帯には、3㎝ほどの雪が積もっていた。
近くにある「交流・観光拠点施設 喰丸小」に向かった。大イチョウは落葉し、落ち葉は雪に覆われていた。
村立喰丸小学校は、1937(昭和12)年に建築され1980(昭和55)年に廃校。改修工事を行い、2018(平成30)年に「交流・観光拠点施設」として生まれ変わった。校舎の前にある約20mの大イチョウは、樹齢120年を越えると言われ、紅葉期には夜間ライトアップが行われている。
「喰丸小」は9時からオープンしているということで、玄関前のベンチを使わせてもらい、登山に必要が荷物を小さなリックに移し替えた。そして、担いできた大型リュックを建物脇の犬走の上に置かせてもらった。
9:55、しばらく雪が降り続けていたが、晴れ間が見えてきたので「喰丸小」を出発。
自転車にまたがり、国道400号線を東に向かう。少し進むと、さらに雪が弱まり、上空に青空が見えた。館の越山(962m)の堂々した山容が、美しく見えた。
国道401号線に入り、坂を上る。進むにつれて、空か暗くなり、喰丸第2スノーシェッド(252m)に入る頃には雪が多く舞い始めた。
傾斜は徐々にきつくなり、喰丸スノーシェッド(189.9m)の手前で自転車を押して歩いた。周囲の積雪量も多く、24日以降、山間には多くの雪が降ったのだろうと思い始めた。
10:25、「大仏山」喰丸登山口に到着。喰丸峠の入口にもなっている。
大きな木製の案内板は「峠路とけやきの森」の経路図。福島県のホームページには『周辺には樹高30m胸高直径1m前後のケヤキの巨木が数十本林立しており、この巨木は約500年位前自然発生した樹木と想定されています』と記されている。*参考:福島県「ふるさと回廊あいづ(名木)<峠路のケヤキ>」 URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/41340a/www-wakamatsu-kensetsu126.html
喰丸登山口の前、大きなカーブの内側には広場があり、駐車できるようになっているという。
防雪擁壁に自転車を置き、登山口前に立つ。『ここまで積もっているとは...』と先に進む事を躊躇したが、とりあえず喰丸峠まで行き、そこで「大仏山」を目指すか、引き返すか考えようと決めた。
10:32、「大仏山」喰丸登山口を出発。
積雪は30㎝ほどだったが、新雪で軽く、足を取られる感覚はなく、思いのほかスイスイと進めた。
まもなく、砂防ダムが見え、沢を取り囲む木々が綿帽子を被ってしなり、壮観な風景を創っていた。この景色を見て、雪中行軍を決めた価値はあったとは思った...。
この先、峠道は九十九折りになっていて、容易ではない峠越えと感じた。結果、喰丸峠のピークまで10箇所のヘアピンカーブがあった。
峠道には、低木が雪の重みでもたれている場所が多くあり、行く手を阻んでいた。枝の雪を払うと、身体に降りかかり濡れ冷えるので、枝木の数が多い所は脇を通り抜けた。
この先、峠のピークまで唯一の階段が設えられていた。
峠道は雪に覆われても形状が確認でき、安心して進む事ができた。
しばらく進むと、左カーブの端に光背をもった石像らしきものが見えた。
10:46、石仏前に到着。合掌し、首を垂れた。
峠道には2か所、沢で大きく窪んでいる場所があった。慎重に越えた。
10箇所目のヘアピンカーブを抜けると、峠道は緩やかになり、長く続いた。
しばらく進むと、峠道が左に曲がり、切通しに向かっていた。
10:07、喰丸峠のピークに到着。雪を被った標杭があった。
ピークの先の峠道の様子を見る。同じように、先に続く道の形状がはっきりとしていた。
ピークに戻り、標杭の雪を払うが、何も文字は見えなかった。熊が齧ったのだろうが、
標杭の左側には、広い空間が上に続いていた。事前の情報では、ここに階段があり、「大仏山」登山道へと続いているという事だった。
天候は次々に変わり、晴れ間が見えたと思うと、吹雪いたり、強い風が吹き抜けたりした。このまま「大仏山」を目指すか、引き返すか悩んだ。
...結果、今回は「大仏山」への登頂を断念し、引き返す事にした。
11:15、喰丸峠から引き返す。時折、雪雲の切れ間から陽射しが注ぎ、新雪を照らし美しい眺めが現れた。
20分ほどで、国道沿いの入口が見えてきた。
11:42、国道の登山口に戻った。さっそく、擁壁に置いていた自転車を取り出し、帰り支度をした。
今回、雨や雪に備えTEMRESⓇを用意した。初めて使ったが、良かった。ゴムは低温でも固くならず柔軟で、防水性も高かった。
中手袋の甲にはカイロを貼っていたので、雪をかいても手先はそれほど冷えなかった。もっと早くTEMRESⓇを使っていれば、今までの雨天時の自転車走行が快適になっていただろう、と後悔した。
「大仏山」への挑戦は、失敗に終わった。
今春足のケガであきらめ、今回は晩秋の落葉時期に、急坂の「桑袋沢」登山口ではなく、緩やかな「喰丸」登山口を選び万全を喫したつもりだったが、まさか11月下旬に膝まで埋まる雪に阻まれ、登頂を断念するとは思わなかった。
只見線の列車に乗って柳津町、三島町、金山町と進んでくる中で、周囲の800m前後の山々を覆う雪が少なく登山に影響は無いだろうと思った。しかし、昭和村に入ると徐々に積雪量が多くなり、喰丸峠登山口で30㎝、峠内で50㎝超という積雪量と雪雲に覆われた上空を見て、“山を越えると天気が変わる”という格言を実感させられた。
昭和村・柳津町・会津美里町3町村境にある会津百名山「博士山」(1,481.9m)の南東に位置する「博士峠」付近は降雪量が多く、国道401号線が冬期通行止めになる事は知っていた。今回引き返す事になった「喰丸峠」の北西には、「大仏山」(994.3m)とその5km先には「志津倉山」山塊(最高点1,234.2m)がある。この付近一帯は、越後山脈と奥羽山脈の間に位置しているため、雪が多くなる気候帯なのだろうと思った。*下地図出処:国土交通省 国土地理院「地理院地図」URL: https://www.gsi.go.jp/
「大仏山」登山の再挑戦について。
今回、登山道に積もる雪の中を歩き、森林の雪景色を見ながら進む雪中山行は良いのではないかと感じた。他の方の山行記を読むと「大仏山」山頂からの眺望は得られないということなので、次はカンジキかスノーシューを用意し、登山中に雪景色を楽しみながら登りたいと思った。できれば来春の残雪期に、無理ならば来秋の新雪期に「大仏山」に再挑戦したい。
「大仏山」喰丸登山口を後にして、「喰丸小」で荷物をピックアップし、昼食を摂ろうと「やまか食堂」に向かった。雪が本降りになっている中、15分ほど国道を進むと、右に看板が見えてきた。
12:39、「やまか食堂」に到着。全身に付いた雪を払い、マスクをして、食事を終えた2人組と入れ違うように店内に入った。
テーブル席が3、座席が2あり、先客は居なかった。私はテーブル席に通された。
昭和村のゆるきゃら「からむん」が描かれたメニューを見る。名物のソースカツ丼と煮込みカツ丼、どちらにするか迷ったが、ソースカツ丼に決め、ご主人に注文を告げた。
さっそく、奥の厨房からはカツを揚げる音が聞こえた。味噌汁が別付けだと気づき、追加注文すると、まもなく注文の品が運ばれてきた。
濃いソースに全体を絡ませたブ厚いカツが重なり二列に並び、迫力ある盛り付けだった。
食べてみる。
ソースは良い香りが立っていたが、味は見た目よりは濃くなく、あっさりしていた。何より驚いたのが、コロモのサクサク感。ソースが絡んでいるので、しんなりしていると思ったが、噛むとカリっと音を立てた。肝心の豚肉は、柔らかく、厚いので食べ応えがあった。ソース、コロモ、豚肉が良く調和し、旨いカツだった。キャベツはもちろんシャキシャキで、王道のソースカツ丼だった。
別注文の味噌汁は、大根-わかめ-油揚げ-ネギという具材のもので、大根に濃いめの味噌味がしみこみ、旨く、体が温まった。あまりの旨さに、おかわりをした。
ゆっくりと食事をして、冷えた体が少し温まったと感じ、会計を済ませ店を出る事にした。表に出ると、雪は降り続いていて、自転車にも積もっていた。
13:26、自転車の雪を払い、「やまか食堂」を出発し今夜の宿のある金山町玉梨温泉に向かった。
「やまか食堂」のご主人の話では、今は雪が降っているが、金山町との境が近付くにつれて、雪の量は少なくなる、ということだったが、確かにその通りになった。野尻地区に入る手前で、金山町方面には青空が見えた。
14:05、昭和村から金山町に入った。国道400号線上に雪はまったく積もっていなかった。
綱木橋を渡る途中で、乞食岩を眺めた。迫力ある大岩で、野尻川と良い景観を創っている場所だ。対岸には使われなくなったような地元の建設会社の資材置場があるので、キャンプ場など体験型施設を整備すれば、面白いと私は思っている。
国道を順調に進んでゆくと、前方に玉梨温泉郷が見えてきた。
更に進み、町営温泉施設「せせらぎ荘」の手前に、「旅館玉梨」跡があった。オーナーの高齢化などでだいぶ前に宿泊は取りやめ、その後日帰り入浴施設として営業していたが、2017年に完全休業したという。外観から、施設は未だ使えるようなので、もったいない施設だと思った。
まもなく、前方に今日の宿が見えてきた。
14:29、玉梨温泉「恵比寿屋旅館」に到着。宿泊の受付は15時からだというので、水道を借りて、汚れた自転車を洗って、それまで過ごした。
「恵比寿屋」は構造に特徴があり、道路に面した玄関と受付、食事をする大宴会場などは3階で、客室は2階(10室)と4階(5室)、浴室は1階になっていた。エレベーターは無く階段での移動になるので、注意が必要だ。
チェックインを済ませ、若女将に案内され部屋へ向かった。401号室だった。
部屋は6畳で、入口に洗面台(ドライヤー常備)とトイレ(様式、ウォシュレット無)があった。清潔感のある部屋だった。
窓の下には野尻川が流れていて、水音が常に聞こえていた。私は川の音を聞きながら過ごすのは好きだが、降雨時や春の融雪期は水量が多くなるので、気になる人には注意が必要だと思った。
部屋で準備をして、1階の風呂に向かった。
階段を下りて1階に到着すると、目の前には河童の置物と“河童の湯 由来”が書かれた碑が置かれていた。「恵比寿屋旅館」の温泉は“河童の湯”と言われているという。
[河童の湯 由来]
当館の横を流れる清流野尻川は、文献によれば寛永・文政の度重なる大洪水により、その姿を変えつつ現在に至っております。
これは、古くから野尻川に棲む河童の悪戯というふうに信じられ語り継がれて来ました。
文政年間(今からおよそ百七十年前)に弘法大師が、当地を訪れた際、難儀する村人達を知り、河童を退治する為に、幾つかの大石に梵語で呪文を刻み立ち去ったと伝えられています。
その後、河童の悪戯は影をひそめ、逆に洪水がある度に村人達を守る為、自ら身を呈したということです。
当館では、河童伝説を永遠に語り継ぎたいとの考えから、ここにカッパの湯と命名した次第であります。
平成三年十二月 館主敬白
男湯の脱衣所。細長く、野尻川の方に向いていた。
大きなガラス窓からは、間近に野尻川を見る事ができた。
壁には日本温泉協会の“天然温泉認定標”や温泉成分表が掲げられていた。*「恵比寿屋旅館」は「日本秘湯を守る会」の会員でもある URL:https://www.hitou.or.jp/provider/list#pref7
源泉名(泉源名):玉梨温泉町営源泉
加水・加温・消毒・循環ろ過装置:全てなし
泉質名:ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物・硫酸塩温泉
pH:6.4(中性)
湧出温度:45.9℃
湧出量:219Ⅼ/分
引湯距離:約100m
浴室に入る。内湯は広く、開放的だった。掛け流し源泉は適温だった。
洗い場には『開栓後、お湯が出るまで時間がかかる』と注意書きがあった。確かに時間が掛かった。
浴室内に扉があり、露天風呂に通じていた。浴槽は木製で、丸と四角の二種が並んでいた。また、露天ながら全開放ではなく、虫の侵入を防止するためか、隙間なく金網が張ってあった。
内湯内で体を洗った後に、丸浴槽に入った。“お湯が新鮮”と実感できる感覚になり、その狭さもあって、最高に気持ちが良かった。湯量は豊富で、野尻川の水音を聞きながら入っていると、全身が入れ替わるような錯覚になり、『恵比寿屋は温泉だけでも元が取れる』と思った。
丸と四角の浴槽とも、引湯管が2種あった。一方からは湯がどんどんと流れてきて、他方からはチョロチョロとわずかな湯量だった。豊富な湯量が「玉梨温泉」源泉、この時少なかったのが「亀ノ湯」源泉のようだった。もともと「恵比寿屋旅館」は「亀ノ湯」源泉を主利用していたが、湧出量が減ってきたため「玉梨温泉」源泉を引湯するようになったという。
「恵比寿屋旅館」には、この他に宿泊者限定の貸切風呂「月と太陽」がある。受付時に予約が必要で、私は明日の朝食前に予約を入れておいた。
ゆっくりと湯に浸かり、部屋に戻って一休み。18時前に、食事が用意されている3階の大宴会場に向かった。
スタッフにどこに座ればよいかを聞いて、座布団の上に腰を下ろした。和卓の上には、明るい色合いの皿に盛りつけられた品々が並んでいた。食前酒に梅酒が用意されていたが、最初の一杯は日本酒と思い、南会津町の「花泉 辛口」を頼んだ。
茶碗蒸しを食べて少しお腹を満たしてから、自家製の湯葉とこんにゃくの刺身をいただいた。香りよく、自然な柔らかさで、旨かった。日本酒との相性も抜群だった。
他、ニシンの山椒漬け、ブリの西京漬け焼き、キノコの煮びたし、など酒の肴にはうってつけの品々を少しづつ、時間を掛けていただいた。
途中から、給仕されたものも多かった。
キノコ汁は、とろみがあり、濃い味かとおもいきや食材の香りと食感を楽しめた。
蕎麦を揚げ、野菜のあんをかけたもの。パリッとする食感は、食事のアクセントになった。あんも薄味で、蕎麦の風味が勝っていた。
天ぷら。山菜とキノコで、塩を付けて食べた。衣が薄く、サクサク揚げられ旨かった。
そして、〆の炊き込みご飯とキノコのすまし汁。炊き込みご飯は色が薄く、『⁉』と戸惑ったが、一口食べて驚いた。キノコの出汁がしっかり浸み込み、旨味や塩味が抜群で、満腹だったが二杯頂いた。
「恵比寿屋旅館」の夕食は、噂以上の旨さとバランスだった。会津の日本酒を吞まずにはいられないメニューで、三合四合とゆきそうになってしまった。ただ、一つ一つの料理は少ないが、出される品が多いので、女性や高齢の方は注意が必要だと思った。
夕食の後は、もう一度温泉に浸かった。
喰丸峠の雪中登坂に「大仏山」登頂断念、雪降る中の自転車走行は辛かったが、新鮮豊富な温泉と多種美味の夕飯が忘れさせてくれた。明日は、新たな気持ちで「堂ケ作山」と「滝沢峠」の会津百名山に挑めると思った。
(了)
・ ・ ・ ・ ・
*参考:
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)
・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)
【只見線への寄付案内】
福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。
①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
[寄付金の使途]
(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。
以上、宜しくお願いします。