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「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】渋沢栄一の後妻伊藤兼子初登場と岩崎弥太郎の際立ったキャラクター

2021.11.09 22:00

「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】渋沢栄一の後妻伊藤兼子初登場と岩崎弥太郎の際立ったキャラクター


 水曜日は大河ドラマ「青天を衝け」について書いている。ある意味で、「戦争」がほとんど書かれない今回の大河ドラマは、ある意味で大河ドラマの中では挑戦的な内容かもしれない。その「挑戦的」というのは、「会話劇による戦争」ということと「NHKではタブー視された女遊びを描く」ことに尽きるのではないか。

 まずその戦争について書いてみよう。

 NHKにしては珍しく「専守防衛」ではなく「自力防衛」ということを打ち出したドラマであるという特徴がある。渋沢栄一の妻千代が、書生と話すシーン。「ここが襲われたらどうするか」という問いを出した千代に、書生が「警察に助けを求める。時代はそういう時代だ」という。すると千代は「あなたが警察に行っている間に残されたものは皆襲われてしまいます。それでよいのですか」ときつくいうのである。「自分で守る心構えが必要」まさに、そのことを、普段のニュースなどでは言わないNHKがドラマの中で主張するというのはなかなか興味深い。私の書いた山田方谷の中でも、農民出身の山田方谷が最終的には農兵隊を作り、官軍と事を構え、そのうえで和平交渉を行う。強いものが力を保持するから対等に交渉ができる。幕末の平和主義者は「非武装」ではなく「武力の使い方を知った平和主義」を唱えていたことがよくわかる。

 片方で岩崎弥太郎と渋沢栄一の会話の中では、岩崎弥太郎が「西南戦争で物資を輸送するのにたんまりと政府から金を巻き上げ、儲けさせてもらった」「強い人物が上に立ち、その意見で人々を動かしてこそ、正しい商いができる。」という主張をするのに対して、渋沢栄一は「国富」つまり「民を富ませることこそ正解であり、一人が儲かっても意味がない」ということを主張する。まさに、「現在の中国の覇権主義」と「民主主義・資本主義」というような協調主義ということの対決を見せてくれている。

 ドラマというものは、このように「過去の出来事を見ながら現在のことを風刺し、それを連想させ事で、様々なメッセージを送る道具」であるというが、まさに、「平和」哉「富のあり方」ということがこの大河ドラマの製作スタッフの中に「正解」というものがあり、その主人公にしっかりと話をさせているところが興味深い。

 実際に岩崎弥太郎と渋沢栄一がこのような会話をしたのかどうかも不明であるが、そのような史実にこだわるのではなく、電台に生きる人のための道しるべに、ドラマの主人公が動いてゆくというのが、やはり興味深いのではないか。

『青天を衝け』吉沢亮VS中村芝翫、白熱の長尺シーン 決定的に異なる栄一と弥太郎の思想

 芸者を大勢集めた宴席での2人の対面は、実に8分以上にも及ぶ長尺のシーンである。誘ったのは弥太郎から。東京商工会議所の設立に栄一から参加を呼びかけられていた弥太郎は、実業家として信頼する五代(ディーン・フジオカ)の後押しもあり、栄一に興味を抱いたのだ。

 栄一と弥太郎は百姓の生まれであり、武士の理不尽さに憤りを覚え故郷を飛び出していったという共通点がある。そして、商業の力で日本を一等国にしなければならないという思いも同じ。しかし、根本的な考え方は全く違っていた。

 激論へと発展していくその構図は「栄一 VS 弥太郎」。強い人物が上に立ち、その意見で人々を動かしてこそ、正しい商いができるという弥太郎の考えに対し、栄一は多くの民から金を集めて大きな流れを作り、得た利でまた多くの民に返し多くを潤す、合本の制度を広めることを押し通す。

 栄一の表情が曇りだすのは、「金は大事」という話題から弥太郎が西南戦争で漁夫の利を得ていたことを明かしてからだ。だんだんと栄一の眼光は鋭くなっていくが、弥太郎の表情にはどこか余裕を感じさせる。さらに考え方の違いをはっきり浮かび上がらせたのは弥太郎の「貧乏人は貧乏人で勝手に頑張ったらえいけんど」という言葉。第34回では栄一が千代(橋本愛)を連れて養育院に足を運ぶシーンが描かれており、「貧しい者が多いのは政治のせいだ」という栄一のセリフもある。

 そのような軋轢が生じていく中で、弥太郎は不気味なほどに自身の感情が高めていく。「わしら才覚のあるもん同士でこの国を動かすがじゃき」と栄一を説得するシーンの威圧感たるや。演じる中村芝翫による歌舞伎役者としての芝居が如実に活かされた場面だったと言えよう。

 この第34回では、新たに登場した人物がいる。その一人が、芸者見習いの伊藤兼子(大島優子)だ。日本の経済が発展する中、成功する者と没落する者とで格差は広がっていた。兼子は「伊勢八」の名で知られた豪商の娘。家業が大損失を出し挙句の果てに両親が亡くなってしまったことから、やす(木村佳乃)が働く置き屋の門を叩くのだ。まだセリフは何もなく、登場はワンシーンのみだが、まっすぐな目線からは真の強さを感じさせる。やがて千代とも人生を交差させる、重要人物だ。

 そして、もう一人が栄一の娘のうた。幼少期を経て、小野莉奈が演じる青年期へと成長する。今後、渋沢家にとって大きな出来事が起こるが、その意志を受け継ぐ担い手がうたでもある。その素振りからは千代のような芯の強さを持ちながらも、栄一の無邪気さも感じさせる。第34回のラストでは、アメリカ大統領だったグラント将軍の来日を盛大にもてなすため、千代とともにうたも栄一から接待の指名を受けるのだった。

 第35回「栄一、もてなす」では、グラントのもてなしに、よし(成海璃子)、さらには大隈綾子(朝倉あき)や井上武子(愛希れいか)ら政財界の婦人も加わり、西洋式マナーの習得に挑む。グラントは「渋沢家に行きたい」と言い出し、渋沢家ではグラントの歓迎の準備が始まる。

11/8(月)リアルサウンド

https://news.yahoo.co.jp/articles/7ce381ba587da1aeddbefc1decb966ac36829eba

 実際に「殺し合う戦争」ではなく「商業の戦争」であるということから、現代の人々にも非常に共感を呼ぶことができるのではないかという気がする今回の「青天を衝け」であるが、しかし、もう一つには「女性問題」ということもある。

 そこで出てくるのが、渋沢栄一における「伊藤兼子」であろう。今回は、正座をしているだけの座り姿しか見えない役柄であったが、実はこの女性が、今後、渋沢栄一の妻千代が、明治15年にコレラであっけなく死に、そしてその二年後に後妻として「渋沢兼子」となる人物である。

 今回は、平岡円四郎の妻が芸者に三味線などを教えるということになっており、そこに岩崎弥太郎に接待された渋沢がきて、助けられるというようなストーリーになっている。ある意味で創作であることは明らかであろう。そこまでの偶然はあり得ないし、そもそも三味線の稽古をする師匠は検番にいるのであって、茶屋に出入りすることは基本的にあり得ない。そして、その検番(口入屋)に伊藤兼子が売られてきたというストーリーである。そしてそこのセリフのなかに「大店であった伊勢八の娘」というようなことで入ってくるのである。

 当時の女性は、武士でも承認でも、政府のやり方の横暴で、身を持ち崩す家が多く、女性が身を売って生計を立てることは珍しくない。何しろ大店の小野組が、前回にはあっという間に倒産してしまうのであるから、なかなか大変な時期であり、この時代にしっかりとした内容で生きてゆくのは大変であったと思われる。実際に身分の高低は関係なく、芸事が好きだから芸事で身を起こしたい、という女性は少なくない。言い方は悪いが、昔は芸能人といえば「河原者」といわれ、住所もろくに持つこともできず、体を見世物にして売って生計を立てていたというようなことで、「河原(住所がない場所)にしか住めない人」といわれていたが、現在では、若い子供が芸能人になりたいというようなことを言って、人身売買を想像するような人は少ないのではないか。実際に、江戸時代は人身売買が盛んになったので「歌舞伎は男性だけ」と決められた。それでも大奥で絵島事件のような事件が起きてしまうのである。

 現在と時代が違うのは、現在の「芸能人になりたい」という感覚で芸者になる人も少なくなかったのかもしれない。越前藩主松平春嶽の娘絲子ですら芸者になったほどである。

 この伊藤兼子と伊勢八に関しては、またゆっくり書くことにするが、しかし、この伊藤兼子を書くにあたっては当然に、渋沢栄一の芸者遊びを書かなければならない。それを最小限にするために、平岡円四郎の未亡人を引っ張り出し、芸事の師匠にするということで「恩人が紹介した」という人的関係でうまく収めることになるのであろう。

 実際に、伊勢八一族を救うために、金目当てで渋沢の家に後妻に入ったのか、または、本当に渋沢栄一のことを好きになったのか、そのことはよくわからないし、ドラマの中で今後どのように書かれるのかも見えていない。しかし、ある意味で今回の「青天を衝け」が珍しく女性関係をしっかりと描く大河ドラマになるのではないかと期待しているのである。私が書いた「山田方谷伝」の中でも、山田方谷は、3回妻をめとるのであるが、まさにその時の書き方そのもの、また「当時の男性と女性の出会い」と、「女性から受ける男性の生涯の仕事への影響」という事の大きさは、なかなかすごいものがあるのだ。そのことを書かないで、男性だけの物語を書いても全く面白くない。史実に寄せながら、ある程度話を作って見てゆかなけ得ればならないのである。それこそが物語でありドラマなのではないか。

 ジェンダーの時代だからこそ、女性が芸者になっていた時代の良さと悪さ、それをしっかりとドラマを通してみてゆかなければならない。そのためにタブーに挑戦するのは良いことではないか。