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ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産甲賀流忍者 甲賀五十三家筆頭は、平安時代に甲賀地方を治めた九曜星を家紋とする氏族」

2017.05.02 15:00


先日、日本遺産登録の甲賀流忍者(滋賀県)と伊賀流忍者(三重県)を二日に渡り紹介したところ読者の皆様から、伊賀流忍者は詳しく紹介してあり理解できたが、甲賀流忍者のことがあまり分からないのでもっと詳しく知りたいと数多くのご要望のメールをいただきました。改めて今号にて紹介いたします。

それでは甲賀流忍術屋敷から紹介しましょう。

[甲賀望月氏]

長野県の武家の名族滋野氏(分流は、真田氏等)を源流とし、平安時代に滋賀県甲賀地方を治めた九曜星を家紋とする氏族。 戦国時代には、伊賀の「服部」、甲賀の「望月」と称され、鈎の陣に活躍した望月出雲守、甲賀三郎伝説の起源とされる望月三郎に代表される甲賀流忍者の家系。


甲賀流忍術屋敷のみどころ

甲賀流忍術屋敷には忍者の歴史を学べるだけでなく、実際に使われていた忍者屋敷の仕掛けを体験したり、触れてみたり、謎解きをしたりすることができます。 時代劇やテレビでのイメージと違う本当の忍者の姿を体感していただけ、忍者好きはもちろん歴史好きの若年層からシニア層の方まで、多くの方に楽しんでいただける施設です。


中二階の天井

かくし梯子を使って上がるようになっており、梯子を引き上げると全く孤立した空間となる。追手から逃れるために使われた。中二階の天井は低いところで1.1メートル、高いところで1.5メートルと非常に低く作られており、敵が刀を容易に振り回せない構造になっている。反面忍者は刀身が短い忍者刀を使用して戦いを有利に導くよう作られている。

三階

中二階からさらに三階に通じることができる。縄梯子を使えば直接地上に降りることができる。


忍者の見張り窓 また中二階には格子窓があり、この格子の一本が外れるようなしくみもあり、これをはずして一階へ逃れることも出来る。


どんでん返し

襖の奥や壁の戸に背中を付け、少し力を加えると回転する扉。ぴったり閉じてしまうと回転するように見えず、一見普通の襖・壁なので消えたように見える。 忍術屋敷では追手の襲撃から逃れるため、屋敷内を暗くし、屋敷内へ進入させてから出口を閉ざしたり、身を隠すためにこのような仕掛けが使われた。

落とし穴 床板に仕掛けられた落とし穴のある暗い部屋に敵を追いつめ、落として閉じ込め、そのすきに逃げた。 落とし穴の深さはおよそ3メートルあり、通常自力では抜け出せないほどの高さがある。 また、自衛手段としてこの落とし穴は屋敷全体の地下に通路として広く掘られており、この通路から屋敷外へ抜ける抜け道ともなっている。


縄梯子 三階から一階まで逃げるための縄梯子。


からくり窓 一見すると開くように見えない金網戸と壁の間に紙一枚を差し込み、スライドさせると開くしくみの窓。 開くように見えないため、そこから逃げれば消えてしまったように見える。

提灯入れ 由緒ある望月家の家紋の九曜紋の入った提灯入れ。


望月家九曜紋瓦 屋敷の瓦には至る所に九曜紋が。

忍者の生活用品 忍者の身の回りの品々が現在も残っています。

中庭 庭には四季を通じて自然が楽しめる木々が繁っています。


忍術屋敷・忍術の歴史


望月出雲守と甲賀忍者

甲賀忍者を世に知らしめた出来事が、長享元年(1487年)の鈎の陣です。 幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢し、山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、佐々木六角氏を助けた戦いです。
これを機に、望月出雲守を筆頭とする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになり、その後戦国時代には、各戦国大名を影から支えていきました。 

甲賀望月氏本家旧邸の歴史

江戸時代元禄年間(1688~1704年)に建てられたものです。江戸時代に入り、世の中が安定を取り戻しつつありましたが、戦国時代から百年余りで乱世の記憶も覚めない当時、また甲賀ゆれ(豊臣秀吉による改易処分)等厳しい経験を重ねてきたこともあり、甲賀忍者として高度な資質、能力を有していた望月氏は、今後の不測の事態に備え、身を守るために自身の居宅に、多くのからくりを施したと考えられます。
奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、そのような中で培われた巧みな建築技術や、また非常に合理的な思考、深い洞察力を有していた忍者として、攻撃目的のからくりでなく、素早くその場を離れることを最優先にするというからくりの考案設計技術等、防御建築(防衛建築)としての観点からも、非常に見応えがあります。 

九曜星に込められた意味

中央の星を八星が囲む九曜紋が満月の意味を持つ望月氏によって用いられました。 平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日8月15日に改められた。この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族として望月の姓が与えられました。そのあと、滋野氏が分家し、望月氏、海野氏、根津氏を起こし、滋野三家として継承されていきます。
この頃、家紋は望月氏は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用い、根津氏は丸に月、六連銭、丸に違い鷹の羽を、海野氏は洲浜や月輪七九曜、結び雁金、六連銭(六文銭)を用いられました。そのあと、平安時代の平将門の乱の武功のあった望月三郎兼家が、朝命により甲賀十六ケ村を贈られ赴任、甲賀望月を起こし、家紋として九曜紋(九曜星)を用いることになります。

甲賀忍者の歴史

甲賀忍者がその存在を大きく認められたのは、何といっても長享元年(1487)、「鈎(まがり)の陣」の戦いである。 

当時、幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九代将軍義尚が六角氏を追って甲賀城を攻めた。六角氏は姿を隠し、甲賀山中でのゲリラ戦となったが、足利将軍の権威をかけたこの戦いは将軍義尚が鈎の陣屋で延徳元年(1489)に死ぬまでの約3年間続き、逆に甲賀武士(甲賀忍者軍団)の活躍ぶりを全国に知らしめる結果となったのである。(写真:甲賀流忍術屋敷望月家の祖甲賀三郎兼家を祭る社殿)

 

その5年後の明応元年(1492)にも、将軍職を継いだ足利義種が甲賀総攻撃を命じるが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びた。このように、佐々木氏にとって、甲賀忍者との結びつきはなくてはならないものとなっていた。 

ところが永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのである。こうして近江の雄、佐々木氏の時代は去っていったのだが、この時、甲賀忍者集団が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもあった。

実はこの裏では、徳川家康が動いていた。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れていたという。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている。


もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。 「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。

しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。 

このように先の見通しを早くから察知して、天下の成り行きを十分把握していたのが忍者の活躍の特徴である。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。

徳川家康が伊賀越えで岡崎に命からがら逃げかえるのを助けた甲賀53家の1人・多羅尾家の小川城跡

 
甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは寛永11年(1634)で、伊賀忍者たちの江戸移住よりおよそ50年程後になってからのことである。というのも、甲賀忍者は合議制の伝統が続いていたこともあって、先祖代々の土地を離れて江戸に移住することに反対するものも多かったためである。しかし将軍の度々の勧めを断り続けるわけにもいかず、ようやく大原氏以下数人の者が江戸移住を決意したことで、甲賀百人組もようやく江戸に舞台を移すことになった。

 戦国の忍者たちは火術に長けていたことから鉄砲の名手も多く、江戸では鉄砲隊の職などで活躍していたようである。しかし、江戸幕府の身分制と世襲制の中で、忍術を伝える必要も学ぶ必要もなくなって、世代の交代と共に忍者は姿を消していく。鈴鹿の山間の地で生まれ、戦国の世に育った忍術は、太平の花のお江戸では消えざるをえなかったのだろう。


忍者の歴史

 装束と変装

装束

忍者は普段家にいる時には一般の武士と同じ服装をしていたが、敵の状態を探りに忍びに出かけていく時は、テレビや映画に出てくるような黒装束であった。
 情報を持って帰るのが役目の忍者は、できるだけ目立たない服装の方が良いと考えられ、表が茶染・柿染などの茶系統の色で、裏が黒かネズミ色の着物を着ていた。この上着の内側には物入れが作られていて、そこにはシコロ(小さな両刃の鋸)や三尺手拭などの細長い物を入れ、胸のところには銅製の鏡や渋紙・油紙・和紙などを入れ、防弾の役割もさせた。
 身に付けているものは全てが敵の攻撃からの防御と、同時に攻撃の道具になるように、さまざまな工夫がなされていた。衣装一つを見ても合理性を追求した忍者の知恵が感じられる。

変装

忍者の衣装には黒装束の他にも、情報収集のために出掛けるときの「七方出(しちほうで)」という変装術用の衣装がある。この「七方出」のほかにも、連歌師や琵琶法師などにも変装していたし、ただ姿を変えるだけではなく、尺八を覚えたり、お経や呪術も学び、ときには方言までも習得するなど、怪しまれないためのいろいろな工夫や鍛錬にも努めていた。 

商人 怪しまれることが少なく、品物を売り歩きながら 情報を収集できた。 ほうか師 現在の手品師のこと。 敵を油断させるのに都合がよかった。 虚無僧 編み笠をかぶっているので、顔を隠すことができた。 出家 お坊さんのことで、怪しまれにくく、 托鉢をしながら情報を集めた。 山伏 出家と同じように、人に怪しまれることが少なかった。 猿楽師 能役者のことで民衆に人気があった。 また猿楽の好きな大名に招かれることもあり、 敵城内を探ることもできた。 常型 普段の服装のこと。 今で言うリバーシブルの着物で、いざというときには 逆に着替えて敵の目をごまかした。

忍者の修行の場「岩尾山」

岩尾山の地名は、巌という言葉と深い関わりがあるようです。その名の通り、岩尾山には大きな岩があちらこちらに見られ、雄々しい様は印象的です。又、その昔、巨岩が積み重なった山頂やその周辺は、甲賀忍者の修行の場にもなっていたようです。頂上からの眺めは360度の大パノラマで紅葉の季節は山々が真っ赤に色づきとてもきれいです。



600年の歴史をもつ甲賀忍者の薬茶「健保茶」

「健保茶サービスあり!」 甲賀流忍術屋敷ではご来館いただいた方には特別に、600年の歴史をもつ薬茶「健保茶」をお飲み頂けるサービスを行っています。


ガイドによる「からくり」「忍具」等の詳細説明をさせていただきます。 甲賀流忍術の奥義を記した甲賀流伝書、手裏剣等、様々な武器道具類の展示資料室があり、ご自由にご覧いただけます。 からくりに触れたり、2階3階にのぼっていただいたり、どんでん返しの扉を通っていただいたり、実際にからくりを体験していただけます。 忍者が飲用していた薬草茶(健保茶)を試飲していただけます。 忍者体験(別途料金)として、手裏剣投げ、忍者変身(忍者衣装貸出し)をしていただけます。 【本物の忍術屋敷で忍者姿に身を変え、各からくりを操ったり写真を撮ったりと、当時の忍者に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。】


交通アクセス

自動車にてお越しの場合 新名神高速道路「甲南I.C.」で益々便利に。 新名神高速道路「甲南インターチェンジ」が2009年春にオープンし、甲南I.C.から忍術屋敷まで3分でお越し頂けるようになりました。 甲南インターチェンジを降りて頂くと、分かりやすい看板が出ていますので、看板に従ってお越し下さい。

新名神高速道路・・甲南I.Cから約3分 名神高速道路・・竜王I.Cから約35分 名阪国道・・・上拓殖I.Cから約20分


公共交通機関にてお越しの場合 JR草津駅より、JR草津線 甲南駅下車、約2km ・徒歩約20分(JR甲南駅から徒歩でお越しの場合は、上記の地図の青線のルートがおすすめです。) ・タクシーで約5分


鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使


お問い合わせ・協力

甲賀流 忍術屋敷 滋賀県甲賀市甲南町竜法師2331番
TEL0748-86-2179・FAX0748-86-7505


協力(順不同)

甲賀市観光協会 〒520-3308 甲賀市甲南町野田810番地 TEL 0748-60-2690 

文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111