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真似とオリジナル、そしてダメ人間理論

2021.11.08 15:35

久しぶりに鼻血が出ました。牛みたいに興奮していた訳ではありません。決して。はい。決して。


さすがに自重しようとは思ったのですが

本日の練習が急遽お休みになり脅威の四連休となってしまったので、ブログを動かす意味でちょっと書こうかなと思います。


では。


                               ※




小学2年生から高校2年生まで、ずっとバドミントンをやっていた。たまにバレーや陸上の助っ人もしていたけれども、ずっと続けていたスポーツはそれくらい。


おかげで握力と脚力が無駄につき、不器用さも相まって折り紙をしても握り潰すし自転車のチェーンもすぐ切れる(それ関係ある?)


まあそんな話はおいといて。


スポーツ大好きな根っからの体育会系の私が、「文化」「表現」というものに出会ったのは高校1年生のとき。

この出会いが、今に繋がっている。


スポーツをやっていた時、私が得意だったのは「人の真似」。

うまい人のプレーを見て、その通りに動いてみる。さすがにどこぞの黄色い髪の毛でモデルをやりつつバスケをやっているチャラ男ではないので完璧なコピーはできないけれども(このネタ10年前??伝わる人いる?)そこそこ真似は得意だった。

試合前はイメージトレーニングをして、うまく立ち回っている自分を頭に思い浮かべて。

大抵それ通りに試合の事は運ばないんだけれども、イメトレは何よりも大切だった。


取れそうにない球を拾って歓声を受けた時、

大勢が応援歌を向けてくれている時、

点をとって拍手を貰った時。


やっぱりこういう時が1番楽しい。

この瞬間のために、私はスポーツを続けていたのかもしれない。そのためには、上級者の真似を喜んでやった。

スポーツはフォームに忠実に、ルールに誠実に。自分なりの動きも多少は必要だけれど、基本的には一本道。



そんな私は高校1年生の時に、きっと今後の人生においても決して忘れることの無いであろう経験をする。


それは、「文化祭」


文化祭、そう聞いて何を思うだろう。


生徒がわいわいする軽いもの?


文化祭の劇はただ自分たちが楽しむちゃっちいもの?


遊びに近いもの?


その考えが根強いのももちろん理解できる。

きっと学校にもよるけれど、「楽しむ」ことや「協力する」ことに重きを置いているから。


でも、一概に「文化祭はちゃっちい」だなんてイメージを持たれるとそれは少し違うんじゃないの、と思う。し、ちょっと嫌だなぁなんて思ったりする。それはきっと私の経験によるものであるから、理解されないのも当然であるが。


高校1年生のとき、文化祭実行委員会に所属した私は、「生徒主体の文化の祭典」であるということを幾度と言われた。


「実行委員が文化祭を支える。裏方としてのプロ意識を常にもて。」


「マイクの不調は音響部署の責任。トラブルが起きたら直ぐに駆けつけろ。舞台に立つ者を全力で支えて全力で輝かせろ。」


「文化は人の心を動かす。全力でやればそれだけ得られるものがある。人に観せるものは、本気でやるんだ。」


「舞台に立った瞬間プロ意識を持て。舞台に関わった瞬間プロ意識を持て。舞台を支ている一分一秒プロ意識を持て。」


「1秒のずれが舞台を汚す。」


こんなことを学んだ。


だから、全力で支えた。


一分一秒、音響の機材から手を離さなかった。


舞台に上がっている人に輝いてもらいたいと、必死で準備をした。


当日は自主的に朝5時から学校に行って、何度もリハーサルを重ねた。


そんな経験が、今この日に繋がっている。


文化は生活に絶対的に必要なものではない。

極端な話衣食住があれば生きていける。


それでも、文化は廃れない。


文化は人の心を支えてくれる。


自己表現は、無限の可能性を秘めている。

本気でやればやるほど、そのリターンは素敵なものだ。経験則で偏った考えかもしれない。


だけど、そう思う。


スポーツにしろ文化にしろ、本気でやるのは苦しい。苦しいけれど、その先にある喜びは何ものにも変え難い。いつの日にも心に残る、人生における宝物になる。


そんなキラキラした宝石を集めたくて、子どもみたいに執着して、子どもみたいな目をしつつ変に大人ぶった心をもって、文化に向き合っている。


スポーツから演劇に転換した私が思うことは、人の真似が得意だった自分がいざ演劇という文化と向き合う上でぶつかった壁は「オリジナル」というものであろうということ。


個性が重要視される演劇。オリジナリティは重宝されるし、それだけで武器だ。


真似っこしかできない自分にはなかなか難しかった。


昔から書くのが好きだった自分も、小中学生時代は好きな作家さんの文体を真似ていた。


それでもいつからか、自分を表現する上でのオリジナリティを求めるようになった。


今でも、脚本を書いて「〇〇に似ている」と言われると1番傷ついてしまう面倒臭い心を持っている。(もちろん、気を遣って褒められるのは嫌いなので、正直な感想は有難いし嬉しい。例えそれが辛辣であっても。その悔しさが、次の創作を生み出したりする。)


スポーツと違ってオリジナリティを強く意識する演劇。追求の終わりがなく、果てしなく苦しい中に喜びと楽しさがある。


とっても苦しいのにやめられない私は、余程のMか舞台バカなんだろう。


それでも、「学ぶ」の根源は「真似る」ことであるように、まずは真似から始めるといいのかもしれない。


オリジナルはオリジナルとしてそこにあるのではなくて、真似を経てそこにあるのかもしれない。


自分オリジナルを生み出すためには、色んな世界を知らなければならない。


だから色々なものを吸収しなければならない。


真似でもいいから、たくさん吸収して、そのあとふるいにかけたらいい。

(もちろん真似たものは真似たものと正直に言わなければ冒涜ですよ)


たくさん吸収するためには、人の声を聞かなければならない。


常に頑固に自分を押し通すことは、かっこいいけれど時に自分に牙を剥く。


何事もバランスと言われるように、

人の声を受け入れることは、自分を貫くことと両立させるべきである。と思う。


歳をとるほど頑固になる。


価値観が固まる。


いい事だけれど、たまに解凍して柔らかくしなくちゃ面白くない。


オリジナルを磨くためには、それに行き着くまでに吸収して、消化して、取捨選択をしなければならない。


難しいけれども、人に観せる演劇をする上では、よりシビアにするべきことだと私は思う。



そんな私は、きっと人間の可能性に夢を見ている。


目の前の素敵な人達の可能性を信じている。


人間誰しも苦手なことがあり得意なことがある。それが噛み合って共生している。

だから人間っておもしろい。

私は純粋に、良いところも悪いところも含めて人間が大好きだ。


生活する上で私が思うのは、苦手なことがあっても気に病まなくて良いよ、ということ。(いや誰目線やねん)

それも貴方だし、貴方は別のことが得意でそこで輝くことができているから。

そして苦手なことは、苦手だからこそ克服できるという可能性を秘めている。そんな可能性を秘めている貴方は、とっても素晴らしい。私はそんなことを考えて過ごしている変わり者である。

貴方は貴方のままでいい。例え私に合わなくても、別の人とは合うだろう。人間関係なんて凹凸の組み合わせだから、そのままで良い。そう思う。だから、私は個性豊かなこの笛の団員たちが大好きだ。こんな素敵な人達に会うことができて、きっと私は幸せ者だ。

激重感情すぎるけれど、でも、そう思う。


つまりは、ダメ人間なんて存在しない。


私は自分のことをダメ人間だと思ってしまうけれど…(このネガティブ人間…。)


でも、だからこそみんなはダメじゃない(?)


って、そんなことではなくて。


「ダメ」って何基準なのでしょう。

何人かの価値観、誰かの価値観、そこからズレてたらダメ人間でしょうか。


もちろん、犯罪は除きますが。


苦手が多いことがダメ人間ですか?


私からしたら、可能性があって素敵じゃん。と思います。


できないことがダメ人間ですか?


私からしたら、伸び代があって素敵じゃん。と思います。


むしろ、苦手を克服しよう、出来ないことを出来るようになろう、そうやってもがいてる貴方はとっても輝いている。


やっぱり、頑張る人は大好きだ。


勘違いしないで欲しいのが、頑張らない人が嫌いということではない。それも1つの生き方だし、「頑張る」というのはあくまで個人基準であるべきだから。自分が頑張ってると思うなら頑張ってるのだ。


人間何かしら、自分なりに頑張りながら生きている。わかった気になるなよ、わかった風に言うなよ、そう言われるかもしれないけど、私はそう思う。


それを前提として、見るからに伝わってくる努力は、私の心を動かす。

何かに本気になっていることは、目を見たらわかる。本気の人は、輝いている。

その目が、大好きだ。

可能性を広げようともがいている、その姿が大好きだ。

人間で良かった、人間ってこんなに可能性があるんだ、そんなことを感じられる。


やっぱり、みんなみんな素敵だ。


挑戦する人は、上手くいかなくても上手くいっても、とっても尊敬してしまう。



期待しすぎなのかもしれない。


人間の可能性というものに。


自分が期待されたかったからかもしれない。


でも、だから、勝手に幻滅しないようにしたい。


そんな自分勝手な想いをぶつけないようにしたい。


可能性には期待するけれど、だからといってできないことに幻滅はしない。


それは=ダメというわけではないから。


私は人の良いところ探しが好きだ。


良いところに目を向けて、寄り添える人間でありたい。いつの日も。



ただ、こと演劇に関しては、少し厳しくなってしまう。


それは、お客目線で練習をしている訳ではないから。

我々はお客さんではない。


人の時間と料金を頂いて観てもらっている、

一介のクリエイターである。


料金に見合う満足感、それを追求するためには厳しさが必要だ。


自己満足、そんな甘い世界に浸っているだけでは、表現への冒涜だ。


第三者の目線を忘れず、よりシビアに、

苦しいけれど厳しさも持って、追求していかなければならない。


舞台上で輝き、舞台上を輝かせなければならない。


人の心を動かすなんて、そんな傲慢で大変なこと、「楽しい」だけでは決してできない。


極端に言えば演劇が楽しいなんてただの理想だ。


役者にしろスタッフにしろ、

殻を破れなくて壁にぶつかって

苦しくて苦しくて逃げ出したいくらい

精神も削れる。


それでも、本番のあの空気を浴びるため、

お客様の笑顔のため、

その一瞬の大きな喜びのためにやっているのだ。


そこまで踏まえて、やっぱり演劇は楽しいと言える。


理想を現実にしているんだ。


人間が集まって、もがいて、苦しいことなんてしなくたって生きていけるのにもがいて、


理想を現実にしているんだ。


楽しいよ、演劇は。


生きる喜びだよ、演劇は。


知って欲しいな、この楽しさを。


そう思いながら、今日も舞台を見守っている。


常に思う。


こんなに苦しくもがく私たちだけれど、


それより苦しい想いをしつつ観劇に来てくれている人も、仕事で疲れてる中来てくれている人も、色んな人がいる。


そんな方々のお時間を貰っている。

そんな方々のお金を頂いている。


私たちの舞台裏なんてお客様には関係ない。


本番その日、最高のパフォーマンスをすること。


一切の妥協なく、本番を迎えること。


それだけだ。



ま、一個人としては団員みんな

まずは演劇を楽しんで欲しい。

そう思いながら生きている。


演技以外で変に苦しまず、

必要以上の無理をせず、

ただ毎日が幸せでありますように。


団員みんなの笑顔をひっそりと願っている。


新入生、入ってくれてありがとう。

2年生、引っ張ってくれてありがとう。

代表さん、君は立派な代表だ。


そう、大丈夫。大丈夫さ君たちならば。


元気で愛らしい、可能性に溢れた君たちなら


どんな舞台だって花が咲く。


厳しいことも言うけれど


それでも君たちが


笛が大好きだ。



…恥ずかしくなってきたのでやめますね!


可愛い後輩たち、またご飯行こうぜ。



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【劇団笛 令和3年度 冬公演】

『マリオネットに花束を』

脚本:藤井唯 演出:橋ヶ谷良太

日時:令和4年1月16日(日)

            13:00開演・17:00開演

            (30分前から入場可能)

料金:一般800円 学生 500円  

            (高校生以下無料)

場所:C.S.赤れんが ホールⅡ