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年間第33主日(B)

2021.11.12 20:00

2021年11月14日 B年  年間第33主日  貧しい人のための世界祈願日

福音朗読 マルコによる福音書 13章24~32節

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。 父だけがご存知である。

 太陽、月、星の動きは、古来、人間の営みにリズムを与えてきました。朝が来て目を覚まし、昼間、太陽の光と熱を受けて活動し、日が暮れると、ゆっくり過ごし眠りにつく。いつの時代も人間はそのようにして暮らしてきましたし、天体の規則的な運行を読み取って生み出された暦は、絶え間なく流れる時間に枠組みを与えてくれました。さらに、夜空に輝く月と星は、闇夜を照らし旅人に方角を知らせました。そんな夜空を眺めていた人々は、星の並びに意味さえ見出し、様々な物語を紡ぎ出してきました。夜空の中でひときわ目を引く星の帯を見て、ある人々は女神ヘラの母乳だと言い、ある人々は織り姫と彦星をへだてる天の川だと言いました。街の灯りも、大気汚染もなかった時代の夜空に輝く星々は、人々の想像力を無限にかき立ててきたのでしょう。

 一方、天文学の発達した時代に生きる私たちは、その天の川と呼ばれる星の帯が、銀河の中心方向の星の群れだと聞かされています。かつての神話は、科学による語りに取って代わられたにしても、宇宙が人々の興味関心を引きつけることには、今も昔も変わりはありません。はやぶさ2が小惑星リュウグウから岩石を持ち帰ったとか、流星群の出現がピークを迎えるとか、宇宙に関連する事柄は頻繁にニュースに取り上げられますし、私自身もそれに関心を寄せるうちの一人です。

 それには、いくつかの理由があるように思われます。まずは、その年齢が138億年と言われる宇宙の壮大さ自体が、人々に多くの謎や問いを突きつけて止まないということが挙げられます。その謎に思いを巡らすとき、私たちは地上の事柄を脇に置き、単なる損得勘定を越えて、純粋に不思議な何かを探求するという、実に人間らしい行為をしていると言えるでしょう。また、その壮大さにひるまず、果敢に謎の一端でも解明しようとする天文学者たちの尽力に、共感やあこがれを覚える人もいるでしょう。さらに、彼らが互いに激しく競争する一方で、多くの国際プロジェクトによって協力を深め、現代社会に連帯の精神を示している事実も見逃せません。130億光年の彼方に目を向ける彼らにとって、地図上の国境線を越えた発想を展開することは、ごく自然なことなのかもしれません。

 このように、人々を照らし温め、人々に時間と方角を知らせ、人々の興味を引きつけてきた天体は、調和、秩序、確かさの象徴とも言えるものであり、はるか遠くにありながら、人々の暮らしと切り離せないものです。それだけに、天体が光を失い天から落ちるということは、混沌や無秩序を表わすための、この上ないイメージになったようで、預言者たちはそれを繰り返し語っています(イザ13:10、エゼ32:7、ヨエ2:10ほか参照)。しかし、その宇宙的で恐ろしい表象をともなった預言者たちの言葉は、空の星そのものについて述べるのではなく、むしろ、民を虐げる地上の支配力や不当な秩序が永続しないことを告げるものとして語られました。だからこそ、イスラエルの回復や、主に立ち返れという希望のメッセージが、それに続くのです。つまり、それらは苦難のために足もとに視線を落としていたイスラエル民の中で、目を天に上げた預言者に、神が託した言葉であり、救いが地上の力にではなく神にあることを、力強く民に告げ知らせるのです。

 その上、神のみ言葉は、預言者たちを通して語られるだけでは終わりませんでした。今度は永遠の神のみ言葉ご自身が、時間の中に、この地上に降り立ったのです。それが、私たちの救い主イエス・キリストです。そして今日の福音の中で、イエスは預言者の言葉を引き継いで、天体が光を失い空から落ちることを語り、次いで栄光ある人の子の到来を予告されました。それは、地上の人々を圧迫する不当な支配はやがて過ぎ去ることを教え、さらにはご自身が栄光のうちに再臨し、その際、散らされた人々が天地のどこにいても、ご自身のもとに集めてくださると約束するものでしょう。

 次にイエスは、宇宙規模の話から一転して、いちじくのたとえを持ち出します。それによって、天と地の果てにまで広げられた私たちの視線は、急に普段の生活空間に引き戻されます。いちじくは常緑樹の多いイスラエルの地にあって、めずらしく季節の移ろいに従って葉を落とす植物なのだそうです。そのため、季節を知らせる植物として、ここに選ばれているようです。とは言え、イエスは「その日、その時」は天使や子でさえも知らず、父のみがご存じであると述べているので、私たちが「その日、その時」がいつかを無闇に知ろうしても、それは不毛な努力に終わるはずです。それよりも、天地万物の造り主である神のみ言葉が、私たちを救うために時間の中に、また私たちの生活空間の中に入ってきてくださったことに思いを巡らす方が、はるかに豊かな実りを結ぶでしょう。

 永遠の神のみ言葉が、私たちと同じ人間になってくださった受肉の神秘は、少しずつでも解き明かされうる宇宙の謎とは異なり、神が啓示してくださらない限り、人間には近づきようがない神秘です。むしろ神は、その受肉の神秘によって私たちにご自身を現わし、目に見え、手に触れられる距離にまで近づいてきてくださいました。そして人となった御子は、地上で神の国の福音を告げ、受難と復活によって救いの業を成し遂げた後、天に上げられて神の右の座につき、王として神の国を治めておられるのです。

 それほどまでに被造界を愛してくださる神に改めて信頼を寄せ、信仰のまなざしによって物事を見るとき、夜空に輝く星も、庭先のいちじくも、そして私たち自身も、すべてを造られたみ言葉によって支えられていることに、私たちは気づかされます。それを思い起こすなら、私たちはいちじくの木からも教えを学ぶようになるでしょう。私たちは、移り変わるものの中に、み言葉の反響を聞き取るからです。その響きに耳を傾けるとき、私たちの生活のあらゆる場面は、神への祈りになっていくでしょう。

 私たちは、この地上に多くの苦難を見出し、また自分自身でもそれを体験し、ときに深く傷つきます。しかし、その祈りが深まるにつれて、神の御子が私たちのただ中で、私たちとこの世界を支えてくださっている事実にいっそう感謝し、さらには神の国を完成するために、御子が再び来られるという確かな約束に、希望を抱くようになるでしょう。その希望は、神の御旨に聴き従う望みを私たちの中に湧き上がらせます。神はすべての人の救いを望まれます。その御旨に従ってこの時代に生きるとき、私たちは苦難に満ちた世界に、み言葉という希望のメッセージを携えて派遣されていきます。その時、私たちは、過ぎ去るこの地上にありながら永遠の神とのみ言葉と響き合い、神の国の完成を待ち望みながら、苦難の中にある人々のもとに、み言葉を告げ知らせるために遣わされていくのです。

(by F.N.K)