Okinawa 沖縄 #2 Day 144 (12/11/21) 旧佐敷村 (4) Kaneku Hamlet 兼久集落
旧佐敷村 兼久集落 (かねく、カニク)
- 兼久公民館
- ムーチーヤーモー
- 竜宮神
- 村屋跡 (ムラヤー)
- 坊主井泉 (ボージガー)
- 東之風水 (アガリヌフンシ)、東世 (アガリユー) への遥拝所
- 川当殿 (カータイドゥン) [在 字佐敷]
- 水タンク跡
- 真嘉 (マカー) 山の拝所 (御嶽)
- 風水 (フンシー)
これまで旧佐敷村の中心地であった津波古と新里を巡ったが、拝所の数が多く、訪問記の編集にかなりの時間がかかっている。編集の際には新たな発見があり再訪したくなる。今日は拝所の数が少ない兼久集落を巡る。それほど時間はかからないので、新里に三度目の訪問と、一年半前に訪れた与那原町の板良敷・当添も見落としていたスポットへ訪れることにした。計画では昨日に来る予定だったが、生憎、雨となり、今日に延期となった。沖縄はようやく夏が終わり、朝晩はひんやりとする気候になってきた。沖縄の人は冬が始まったと言っているのだが、本土からの人には初秋の感じだ。昼間は日が照っていると夏と変わらない。今日は日が照っている。ショートパンツと半袖シャツ一枚でも汗ばんでくる。町を歩いている人を見ると、半袖、長袖、ジャンパーを羽織っている人、薄手のコートを着ている人が混在している。
旧佐敷村 兼久集落 (かねく、カニク)
兼久は方言でカニクと言い、砂地のこととされている。また、別の説では、蟹のいる場所ともある。
その後、大正初期のころ、一人の放浪僧が、美しい砂地に引かれて兼久の地に居をかまえた。僧の名は伝わっていないが、素朴な一軒家に住み、付近の住民が〝仏の道" を求めて集まったという。その後、思うことがあって住居を目取真家に譲渡し首里に引き揚げた。この僧の最初の住居跡と僧が掘った井戸は拝所となり、現在でも拝まれているそうだ。
兼久は昭和の初めまでは佐敷の屋取集落だったが、佐敷との関係は良くなく、佐敷から水道の支線の敷設を断られた事が契機となり、1928年 (昭和3年) に佐敷より分離独立している。この集落は帰農士族の屋取集落 (ヤードゥイ) で、帰農したとはいえ、そのプライドからか農民とは一線を画し、お互いに交流することはなかった。今まで訪問してきた集落の屋取集落 (ヤードゥイ) は同じような理由で、分離独立しているところがあった。
2020年末の人口は584人で、旧佐敷村の中では、真ん中程の規模になっている。
字佐敷から分離独立した昭和初期の人口は不明なのだが、200人程度の集落だったのではないかと思う。1950年代までは人口が増加し400人台までになっている。その後、微増、微減を繰り返し、人口は大体そのままで推移していた。2010年から、人口は急増し、約600人に届くほどになっている。
沖縄戦の後、集落全体は米軍用地となっていたが、返還後、元の集落に戻り、近年はこの地域の幹線道路の331号線沿いに住宅が広がっている。
琉球国由来記には記載された拝所はない。(この兼久は屋取なので昔からの拝所が無い)
- 御嶽: 存在せず
- 殿: 存在せず
小さな集落で、拝所の数も限られていることから、決められた拝所を祭祀の際にはすべて御願している。
兼久では沖縄戦の遺構や慰霊碑はなかったが、沖縄戦を通しての犠牲者は当時の住民の23%だった。
兼久集落訪問ログ
兼久公民館
兼久集落は小さな集落で、拝所も少ない。まずは、公民館に自転車を停めて、近くにある数か所の拝所を徒歩にて巡る。公民館の建物は、まだ新しく立派だ。ここは、元々はサーターヤーが置かれていた場所。周りは砂糖きび畑が広がっている。
ムーチーヤーモー
公民館の西側にはムーチーヤーモーと呼ばれた丘があるが、今でも原野のままになっている。海岸沿いは、民家はほとんどなく、畑と佐敷中学校と原野になっている。沖縄の人は海沿いを嫌う傾向があるからか、この地域が農耕地指定になって、住宅建設が規制されているからだろうか?
竜宮神
公民館の前の道を隔てた所に海の神を祀った竜宮神の祠がある。集落の人々に恵みをもたらすといわれており、大漁や船旅の安全が願われている。かつては農耕漁業で生活をしていたが、海岸線を見渡しても、船が停泊できるような場所はない。漁業は現在は行われていないようだ。
ここは海岸線のすぐそば、砂浜になっている。この辺りは遠浅になっている。小舟での漁はできただろうが、中型や大型船での漁業にはむいていないようで、場天港や当添港が主要な船着き場になる。
沖縄の海岸には軽石が漂着している。これでも除去作業をs他の後なのだが、今でもかなりの範囲に軽石が広がっている。来週は沖縄北部国頭海岸に船で遠出を考えていたのだが、この軽石騒動で、一部の定期船は欠航、海岸も軽石で覆われて、本来の美しい景色が期待できないので、国頭行きは延期とした。
村屋跡 (ムラヤー)
現在の公民館から南側内陸部に少し入った所が、かつての村屋があった場所。現在は空き地になっていた。
坊主井泉 (ボージガー)
村屋跡 (ムラヤー) 前の東西に走る道は、かつては、集落内の唯一の大通りだった。この道沿い東側に坊主井泉 (ボージガー) があり、集落の産井泉 (ウブガー) で、井戸の神を祀っている。 玉代勢 (タマヨセ) 門中のうちの一家の民家敷地内にある。大正時代初期、この敷地に住みついた一人の僧侶が掘った井戸といわれている。 集落の生活水源だった事から拝所になっていると資料には書かれているのだが、そこにいくと、資料に載っていた写真 (右) に比べてかなり荒れている。場所を間違ったのかと思ったが、地図や資料写真の周りに様子から、やはりここだ。まだ拝まれているのだろうか?
東之風水 (アガリヌフンシ)、東世 (アガリユー) への遥拝所
川当殿 (カータイドゥン) [在 字佐敷]
佐敷小学校の裏の細い上り道の途中に、殿 (トゥン) がある。川当殿 (カータイドゥン) という。この場所は、兼久地区ではなく佐敷地区になるのだが、兼久集落は元々は佐敷集落の一部だったので、この川当殿 (カータイドゥン) も兼久集落の御願祭祀行事では必ず拝んでいる。もとは佐敷小学校の敷地内にあったのを、1999年にこの場所に移設している。
水タンク跡
丘陵の道の途中に、大きな水タンクがあった。いつの時代のものかは分からないが、簡易水道が敷設された昭和30年代のものかもしれない。資料にはこの辺りは兼久集落の水源地とあるので、多分戦後造られた給水タンクだろう。
真嘉 (マカー) 山の拝所 (御嶽)
佐敷小学校隣の佐敷幼稚園から丘陵地へ向かう道の途中に、真嘉 (マカー) 山と呼ばれる丘があり、その森の中に拝所がある。資料の一つは御嶽とあったが、兼久には御嶽は存在しなかったので、集落住民にとっては御嶽的存在だったのだろう。海岸方面の兼久集落内の先ほど訪れた坊主井泉を開いた僧侶が元々住んでいた屋敷跡で井泉跡もある。 奥の拝所 (写真右下) が僧侶の住居跡で手前が井泉の跡 (写真下中) といわれている。この僧侶が兼久集落に移り住む前に住んでいた所といわれている。集落にとっては、水を確保してくれたこの僧侶は今でも尊敬の対象で、後に住民によりこの拝所が作られたそうだ。拝所敷地は一面草に覆われてよく見えないので、持ち歩いている鎌で拝所の周りの草を刈って、なんとか二つの拝所が見えるようになった。
風水 (フンシー)
先ほど訪れた集落内にも東之風水があった。集落巡りではこの風水の拝所に出くわすことがよくある。沖縄の風水信仰は本土よりも根強く残っているようだ。ただ、この風水がどのような意味合いを持つのかは、まだよく理解できない。家や墓を建てる際に縁起の良い方角を決めるために風水を用いるのは本土と似ている。戦後しばらくまでは、沖縄の各民家の庭には風水の祠が造られていた。空き地などにポツンと石の祠が残っているのが、この風水の祠で、屋敷の上手に当たるところに置かれているそうだ。風水とは別に、屋敷の四隅と屋敷の前の中央に存在し家を守るとされる屋敷神 (ヤシチガミ) とまじりあって、風水も集落を守る神となり、集落の四隅に造っている風習の集落もあった。沖縄で面白いと思うのは、この曖昧さだ。御嶽、殿、神屋なども一応の学術的定義はあるのだが、集落によって、その考え方受け取り方がそれぞれが異なっている。一般の人は、各拝所が何であるのかを規定しようともしないし、気にもしない。とにかく、何となく村や家族を守ってくれるありがたい神様と思っていることで十分なのだ。
風水 (フンシー) のある場所の奥は墓地になっていた。ここには佐敷集落の門中墓がある。尚巴志の子孫と伝わる喜友名 (チュンナー) ビチと大屋 (ウフヤ) 門中の元屋の前城 (メーグスク) ビチの門中墓。
この後、帰り道にある新里集落、当添集落、板良敷集落の見落としていたスポットによりながら帰る。訪れたスポットは、それぞれの訪問記に追記している。
参考文献
- 佐敷村史 (1964 佐敷村)
- 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場所)
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)