秦氏のルーツと邪馬台国調査レポート
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/9fbc30a9289ae06f70bf1926b35187d9 【八咫烏の「八咫」は「秦・ハタ」に変化】より
神武天皇と桓武天皇には似ているところがありました。
①即位年が辛酉 紀元前660年 桓武即位年781年
660+781-1=1440 1440÷60=24
なお、紀元元年も辛酉の年。
②陵のあるところの地名が似ている 柏原(かしわら) 橿原(かしはら)
続いて 神武天皇は八咫烏(やたがらす)に導かれました。
桓武天皇は秦氏の地盤とされていた長岡京に遷都します。続いてやはり秦氏の地盤の平安京に遷都します。〈平安宮内裏は秦河勝の宅地跡だったそうです〉
そこで、神武=桓武となるには秦氏=八咫烏(やたがらす)でなければなりません。
カラスはともかくとしても、「秦・ハタ」は「八咫・ヤタ」に変えられます。
カタカナの「ハ」を漢数字の「八」に変えるだけで「ハタ」は「八タ・ヤタ」に変化します。
カタカナがいつできて,いつから使われていたのか、が問題となります。
検索したところ、桓武天皇の時代には使用されていたようです。
カタカナの「ハ」の字体の由来ですが、漢数字の「八」からつくられたようです。
八咫烏はハタ烏と変化しても良さそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E4%BB%AE%E5%90%8D#cite_note-2
片仮名(かたかな)とは、日本語の表記に用いられる音節文字のこと。仮名の一種で、借字を起源として成立した。
吉備真備(695 - 775年)が片仮名を作ったという説があるが、これは俗説に過ぎない[2]。漢字の一部を使いその文字の代わりとして用いることは7世紀中頃から見られるが[3]、片仮名の起源は9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するために、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まると考えられている。この借字は当初、経典の行間の余白などにヲコト点とともに使われていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E4%BB%AE%E5%90%8D
「ハ」は「八」からできました。
「ヤ」は「也」からできたそうです。
「八咫」は「ヤタ」と読むべきですし、「ヤタ」と読み仮名が振られたのでしょうが、読む人が読めば「八咫」は「ハタ」の暗号になるべきです。
としますと、神武天皇も「八咫烏」に導かれたとはいうものの、桓武天皇と同様に「秦氏」に導かれた,といえるかもしれません。
というよりも,八咫烏に導かれた「神武天皇」には「桓武天皇」が投影されている,例証の一つといっていいのでしょう。
ところで,下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神の賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) の化身が八咫烏です。
理解できませんが,続けてみます。
https://hatashirootsreport.liblo.jp/archives/hatashiroots.html 【秦氏のルーツ】より
秦氏はどこから渡来したのか、そのルーツを秦氏の家に伝わる信仰や家紋、苗字、地名など民族学の分野と外見的特徴や味覚、聴覚、視覚など遺伝的特徴を手掛かりに秦氏のルーツを明らかにする。
【民俗学・遺伝的考察】
秦氏とは複数の民族で構成された多民族氏族である
【仮説】
秦氏のルーツについては様々な仮説が唱えられており、日本人のみならず外国人の唱えた仮説もあるのでそれらを考察する。
・日ユ同祖論(にちゆどうそろん)
酒井 勝軍(さかい かつとき、かついさ)が唱えた説で、酒井はキリスト教徒であり、アメリカで西洋音楽を学び東京唱歌学校を設立した後、牧師として活動した。その後、日露戦争では通訳として働き、その仕事を終えるとパレスチナやエジプトに大日本帝国陸軍からユダヤ研究のために派遣された。また、ピラミッドの研究も行ったとされ、多様な経歴の人物である。
日ユ同祖論を要約すると約束の地を求めて東に向かった古代イスラエルの「失われた10支族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)」の末裔たちは、数百年かけて東の果てにある国日本に辿り着いて天孫族として日本に定住し、またある者達は秦氏や物部氏となったという説である。
「失われた10支族」は現在行方不明な支族であり、彼らを探す専門機関アミシャーブが設立され、ユダヤ人の子孫であると伝承のある民族を調査し、ユダヤ人の子孫と認定された民族に対し、イスラエルへの帰還を推進している。
・弓月君(ゆづきのきみ/ユツキのきみ/ユンヅのきみ)渡来説
「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」には「ある説では、弓月君は融通王(ゆうづうおう)ともいい、秦始皇帝三世孫、孝武王(こうぶおう)の後裔である。孝武王の子の功満王(こうまんおう)は仲哀天皇 八 年に来朝し、さらにその子の融通王が別名弓月君である。応神天皇 十四年に来朝した。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることになった」とある。
また、「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」には「元慶七年十二月に惟宗(これむね)朝臣の氏姓を賜る。秦宿禰永原(はたのすくねながはら)、、秦公直宗(はたのきみなおむね)、秦忌寸永宗(はたのいみきながむね)、秦忌寸越雄(はたのいみきこしお)、秦公直本、(はたのきみなおもと)らの奏上によると功満王は秦始皇帝十二世孫」とある。
「日本書紀」には「応神天皇十四年この年、弓月君が百済から渡来した。奏上して、「私は私の国の、百二十県の民を率いてきた。しかし、新羅人が邪魔をしているので皆加羅国(からこく)に留っている」と言った。そこで、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ/かづらき、かつらぎ、かずらぎ)を遣わして、弓月の民を加羅国に呼ばれた。しかし、三年経っても襲津彦は帰ってこなかった。十六年八月、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。精兵を授けて詔して、「襲津彦が長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前達は直ちに現地に赴き、新羅を討ち、その道を開け」と言われた。
木菟宿禰らは兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。新羅の王は恐れてその罪に服した。
そこで弓月の民を率いて、襲津彦と共に渡来した」とある。
・羌族(きょうぞく)渡来説
秦氏は羌族が興した後秦に由来する支族であるという説である。後秦の皇族姚(よう)氏は羌族の一派である焼当羌の子孫であるが、羌族は150もの種に分かれており、史書などにはその代表的な種のみが記載されている。その中の焼当羌は無弋爰剣(むよくえんけん)の直系の種族(爰剣種は研種となり、その13世の孫)であり、「後漢書」には「無弋爰剣は秦の厲共公(れいきょうこう)の戎(じゅう)討伐により拘束されて奴隸となった」とある。しかし、どの戎に属したかは記述がなく不明であるが、この頃の秦の領土は西域にあり、西方の戎は「西戎(別称は犬戎)」と呼ばれており、厲共公が討伐したのは秦の周辺にある戎であったので、無弋爰剣も西戎であると思われる。
その後、無弋爰剣は脱出したが秦によって追われ、岩窟中に逃げ込んでだ。羌人の伝承によると、秦人は無弋爰剣を焼き殺そうとしたが、虎のような形の影が火を覆い死なずに済んだという。このことを羌の諸部族は無弋爰剣が焼かれても死ななかったので畏れて彼に仕え、彼を豪(ごう、首領)に推戴した。この頃の河湟周辺では禽獣が多かったので羌族は射猟を行っていたが、無弋爰剣は彼らに農耕と牧畜を教えた。そして、羌族の他部族の人々も無弋爰剣を頼るようになり、無弋爰剣の部落は次第に大部落となった。そして、時代が下り、その末裔の姚萇(ようちょう)が後秦(こうしん)を建国し、皇帝となった。
しかし、後秦はその34年後に滅亡し、羌族の有力部族であるタングートが強勢になり、李元昊(りげんこう)が西夏(せいか)を建国して皇帝になった。しかし、西夏はジンギス・カンにより滅ぼされ、西夏人の多くは現在の四川省に定住した。また、異説として別の一派が新羅へ亡命し、その末裔が日本に渡来して秦氏となったという説がある。そして、アミシャーブと呼ばれる「イスラエルの失われた10支族」を探す調査機関が、羌岷(チャンミン)族を「失われた10支族」であると認定したとの情報があるが、羌岷族という民族は中国政府公認の55の少数民族の中にはないので、おそらくは羌族のことと思われる。その認定条件はユダヤ教を信仰していることが前提となるが、ユダヤ教を信仰していない場合はユダヤ独特の習慣(割礼、安息日など)を維持しているか、身体的特徴、服装、伝承などを調査し、それらが一致すれば「失われた10支族」として認定されるという。羌岷族は四川省のチベット国境にあるミンコウという地域の周辺に住んでおり、一神教を信仰し、部分的に戒律に従い、ユダヤの伝承も残っていて第一神殿の時代の犠牲を捧げる習慣があるとのこと。
羌族の信仰は古代羌族時代には精霊(アニミズム)を信仰しており、多神教である。その中で彼らの主祭神は「太陽神」であり、その他に山の神,火の神,羊の神,水神,土地の神なども崇拝している。精霊信仰の儀式は「許(シュイ)」と呼ばれるシャーマンが行う。時代が下ると、チベット族の居住地域に隣接する赤不蘇(チーブゥスー)、三江口(サンチヤンコウ)、九子屯(チョウツートゥン)などの地域ではチベット仏教が信仰されるようになり、1898年フランスの宣教師が茂州城にカトリック教会堂を建て、1909年プロテスタントが茂州(もしゅう)に伝わり、汶川県(ぶんせん-けん)、理県(りけん)、茂州、威州(いしゅう)、薛城(せつじょう)、雑谷脳などに教会が建てられ、1942年中華基督教会の辺疆服務部が威州に事務所を開設し、雑谷脳、薛城、雁門(がんもん)、佳山、通化(つうか)、茂県などの羌族、チベット族の居住地区にまで展開し布教活動を行った。さらに「羌族の信仰する天神はイエスキリストである」、「羌族と西方の民族とは同種同族である」などといいキリスト教信者を増やそうとしたが、キリスト教に改宗する羌族は少数派であった。このような経緯から、アミシャーブが「失われた10支族」であると認定した羌岷族とは、キリスト教に改宗した羌族であると考えられる。従って、原初の「失われた10支族」とは別であると言える。
・新羅渡来説
新羅の北辺蔚珍(ウルジン)郡の波旦(パダン)であり、ハダは波旦、太秦は蔚珍に由来するという説、秦河勝(はたのかわかつ 聖徳太子の部下)は新羅仏教を信仰していたので新羅から渡来したという説などがある。また、京都府教育委員会が行った埋蔵文化財の調査によると、1976年に安藤信策氏が「大覚寺3号墳発掘調査概要」の中で秦氏と新羅の関係を示す古墳(大覚寺3号墳)の横穴式石室内から新羅土器が発見されたと報告している。江浦洋氏はこの古墳の造営者を秦氏であるとし、秦氏の分府と統一新羅系土器の出土地が一致する可能性も示唆されるとした。
・徐福始祖説
「義楚六帖(ぎそろくじょう、別称釈氏六帖)」卷二一國城州市部四三には「また(都城の)東北千余里に山があり、名を富士という。またの名は蓬莱である。その山は三面が海で、一朶は上に聳え、山頂には火煙がある。日中には諸々の宝が山から下り流れ、夜になると却って上がる。常に音楽が聞こえる。徐福はこの地に訪れてとどまり、これを蓬莱と呼んだ。今その子孫はみな秦氏という。その(日本)国は古今他国に侵奪されることがなく、龍神が守護している。その法は人を殺さず、罪人は島流しにされるだけである。その他の霊地や名山は、いちいちこれを記すに及ばない」とある。
成立は後周・顕徳元年(954年)で、開宝6年(973年)に木版印刷による刊本版が出版された。この刊本版に徐福のことが記述されている。作者は義楚という僧侶で、「義楚六帖」の内容は仏教辞典である。
義楚は最初の「義楚六帖」を編纂した後、顕徳5年(958年)に日本の高僧・寛輔からこの話を聞いたとの記述があるので義楚自身は日本に渡っていないということになる。となると、その時代にはすでに徐福伝説が一般に広まっていたあるいは身分の高い人々や知識人の間に伝えられていたということになるが、いずれにしろ日本の僧侶から中国の僧侶へと徐福の伝説が伝わり、現在の中国では徐福始祖説が主流となっている。
・秦氏金(キム、韓国)氏同祖論
秦氏と金氏の祖先が同じであるという説である。新羅の「符都志」には「新羅の起源がパミール高原である」とあり、伽耶(かや)も新羅と同族であるのでそのルーツもパミール高原であるとし、ギムビョンモ博士の伽耶の始祖金首露(キム・スロ)王の妻が中国四川省の普州市から来たという説を考察し、金海市にある文様や伽耶建国神話に似た話が存在したとしている。
また、伽耶と四川省普州市は田辺尚雄が提唱した「秦氏は羌族が興した後秦に由来する」という説において、そのルーツが共通しているとする。羌族は秦を建国した民族であり、始皇帝の死後秦が滅亡した際に青海省と四川省へ亡命して羌族と呼ばれるようになり、12世紀に西夏を建国した。その後、モンゴルのジンギス・カンにより西夏が滅ぼされると、生き残った人々の一部はチベットに亡命して羌族になり、また、別の一派は中央アジアに亡命してカザフ族の一部族であるカンルになったと推測している。「漢書」によると漢字表記では康居であり、カザフの発音ではカンジュウィと表記し、別表記として「ケンケレ」があるが、この発音は元々「ヘンヘレ」から「ケンケレ」に変化し、韓民族を呼称する「ハンギョレ」と発音が似ているこから、少昊(しょうこう、古代中国五帝の一人)、匈奴(きょうど)、秦、羌族、ケンケレ、ハンギョレ、西夏、伽耶、新羅、金氏、弓月君、秦氏はすべて同一のルーツを持つとしている。
また、新羅の文武王の碑文で「ツフゼチョンジリュンが7代を伝え、15代祖の星漢王は・・・に出ており、金日磾(キムイルチェ)から出てきたとして、中国から発見された碑文と韓国から発見された碑文「我々新羅は王の神霊な源は遠く炎帝神農氏(えんていしんのうし、三皇五帝時代の君主の氏族)が創世された基盤を継承して宮殿を高く立て、まさに隆盛であり、これによって(百済と高句麗に)勝ち、(桂林の)枝の(金箱に)乗せられて英異に誕生された。金日磾は祭天(この時代祭天を行えるのは中国皇帝のみ)の子孫にて7代を伝え(漢のお上を補佐した)。15代の祖先漢王(首露王)は天から降りてきて(金閼智、きんあっちは)神霊な仙岳で誕生して初めてお上に臨んで、玉欄を向かい合い、初めに桂林で上書を差し上げるのがまるで(帝禹、ていう、五帝の一人が)石紐山で金窯に座った姿を見ているようだった」)が新羅の金氏族の祖先が匈奴、金日磾、少昊とその源流が同じであることを証明しており、従って、秦氏は金氏と同じルーツが同じであり、それらが同族である可能性があるとしている。
https://hatashirootsreport.liblo.jp/archives/Japanesehistory-thirdkenzuishi.html 【遣隋使第三回派遣、謎の国秦王国と竹島を考察―竹島は五島列島だった】より
第三回の派遣は小野妹子が再度派遣された。
「隋書」
明年、上は文林郎(ぶんりんろう) の裴清(はいせい)を俀国(たいこく)へ使わせしむ。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国(たんらこく)を望み、逈(はる)かな大海の中に在る都斯麻国(つしまこく)を経る。また東し、一支国(いきこく)に至る。また竹斯国(ちくしこく)に至る。また東し、秦王国(しんおうこく)に至る。その人は華夏に同じ。以って夷洲(いしゅう)と為すも疑うらくは明らかにする能(あた)わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東はみな俀に附庸(ふよう)す。
俀王、小徳阿輩臺(あほたい)を遣はし、数百人を従へ、儀杖(ぎじょう)を設け、鼓角(こかく)を鳴らして来り迎へしむ。後十日、又大礼哥多毗(かたひ)を遣はし、二百余騎を従へ郊労(こうろう)せしむ。既に彼の都に至る。
その王は清と相見(まみ)て、大いに喜びて曰く。我聞く、海西に大隋礼儀の国有りと。故に遣わして朝貢せしむ。我は夷人にして、海隅に僻在(へきざい)して礼義を聞かず。是を以って境内に稽留(けいりゅう)し、即ち相見えず。今、故らに道を清め舘を飾り、以って大使を待つ。冀(ねがわ)くは大国の維新の化を聞かんことを。清答えて曰く「皇帝、徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王、化を慕うを以って、故に行人を遣わし、来たりて此に宣論(せんゆ)す。既にして清を引いて館に就かしむ。
【訳文】
翌大業四年、煬帝は文林郎裴世清を使者として、俀国に派遣した。裴世清はまず百済に渡り、竹島に至った。南方に耽羅国を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国に至り、そこからまた東に航海して一支国に至り、さらに竹斯国に至り、また東に行って秦王国に至る。秦王国の人々は華夏人(中国人)と同じである。それでそこが夷州だと思われるが、本当に夷州であるのかという疑念を明らかにすることはできそうにない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の国々は皆俀国に属している。
俀王は、小徳の阿輩臺が数百人の接待係を従えて裴世清を迎え、儀礼用の武器を武装した兵士を配置し、太鼓や角笛を鳴らして隋使裴世清を迎えた。十日後、また大礼の哥多毗が二百余騎の兵士を従えて、都の郊外まで出迎えた。そして、俀国の都に到着した。
俀王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。「海を渡った西方に、大隋国という礼儀の整った国があると聞き、使者を遣わして朝貢した次第です。私は蛮族の人であり、海の彼方の辺境の地に住んでいて、礼儀を知りません。このような事情があり、今まで国内に留まっていたのでお会いすることができなかった。今、殊更に道を清め、館を飾って大使をお待ちしていた。何卒、大国隋のように我が国を改める方法をご教示頂きたい。」裴世清は答えて
「皇帝の徳の明らかなることは天地に並び、その恩沢は四海に流れ及んでおります。俀王が隋の文化思想を慕うので、皇帝は私を使者として俀国へ派遣し、私がこの場で教え諭しているのです。」
そして会見が終わって退出し、裴世清は滞在している館へ戻った。
【解説】
裴世清らが隋を出発してから倭国へ到着するまでに経由した国を解説する。
[耽羅国] たんらこく
現在の済州島(さいしゅうとう)である。紀元前から1402年に存在した国である。いつ頃から耽羅国が存在したのかは不明だが、BC.58年~BC.7年に高厚、高清、高季などが新羅に入朝した記録があることから、古代から存在したようである。耽羅の起源神話である「三姓神話」には太古の昔、高、梁、夫の三人の兄弟が穴から吹き出し、その三兄弟が、東国の碧浪国(へきろうこく、「高麗史」では日本になっている)から来た3人の美女を娶り、王国を建国したと伝えられている。
「三国志」「漢書」によれば、耽羅の前身である州胡(しゅうこ)の人は言語が韓と異なり、背が低く、弁髪(べんぱつ)の風習を持ち、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近く、牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易したとある。この弁髪という髪型は中国の清朝の男性の髪型が有名で、映画「西太后」や「ラストエンペラー」に出てくる皇帝の髪型がそれである。後頭部の中央の髪を長く伸ばして三つ編みをし、その他の髪は剃っている髪型である。この弁髪は民族により若干の違いがあるようだが、何れにしても百済や新羅とは異なる北方の遊牧騎馬民族のようである。
中国北部の遊牧騎馬民族は長い間王を立てずに族長のような長が国をまとめてきたが、耽羅は星主という国王を中心とした国であった。王氏高麗(おうしこうらい)の侵略や李氏朝鮮(りしちょうせん)の併合後も朝鮮半島からの人口流入は殆どなく、20世紀になるまで独自の文化を維持した。
498年に百済の属国となったが百済が滅亡した後、662年には新羅に服属したとみられる。
また、「日本書紀」には唐から帰国する遣唐使がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたとあるので、日本とも交流があったことがわかる。
[都斯麻国] つしまこく
現在の長崎県対馬市であり、「三国志」魏志倭人伝には對馬國と記述があり、この時代から中国大陸にその存在が記録されていた。「古事記」には「津島」とある。
[竹島] ちくとう
「隋書」には「百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈かな大海の中に在る都斯麻国を経る」とある。
すなわち、百済と都斯麻国の中間に位置することになるが、現在でもその場所は明確になっておらず、諸説がある。
古田武彦氏は大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する鬱陵島(うつりょうとう)が竹島であるという説を提唱しているが、その所在地を確認してみると島根県と韓国の中間(韓国より)にある島で、百済と都斯麻国からかなり離れているのである。「隋書」では、都斯麻国の次は一支国となっており、どう考えても「隋書」にある航海ルートに合致しないのである。
そこで、地図を見て百済と都斯麻国の中間にある国を探したところ、五島列島があったのでその島について調べてみたら、旧石器時代には既に人が住みついており、縄文時代や弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。また、現代でも中国やベトナムからの難民を乗せた船が何度も漂着したことから、古代の人力船でも五島列島に到達することは可能である。これらのことから五島列島が竹島であり、五島列島から都斯麻国へ至ったと考えられる。
次に日本の文献を調べてみた。
「肥前国風土記」には、「五島の海士は容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」とある。
また、「古事記」には国産みにおいて、イザナギ、イザナミが大八州(おおやしま)を生んだ後に「児島」「小豆島(あずきしま)」「大島」「女島(ひめしま)」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むがとあるが、この中の知訶島が五島列島である。
そこで、この「ちかのしま」が「ちかしま」となり、さらに「ちくとう」と変化し、「ちく」に「竹」という字を当てて「竹島」になったと考えられる。
五島列島ならば「隋書」の航海ルートと合致していて日本の文献にも記述があり、「ちくとう」の音とも合致しているので「隋書」にある「竹島」は五島列島であると考えられる。
[一支国] いきこく
現在の長崎県壱岐市であり、「魏志倭人伝」には「また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一大國に至る。また長官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。広さは約三百里四方ばかり。竹や木のしげみが多い。三千ばかりの家がある。田畑が少しあり、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。」とある。
「翰苑(かんえん)」卷三十魏略逸文には「南に海を渡り一支國に至る。官を置くこと対に同じ(其の大官を卑狗と曰い、副を卑奴と曰う)。地の方三百里。」とある。
「梁書」巻54列傳第48諸夷傳東夷条倭には 「帯方郡から倭に行くには、海を巡って韓国を経て、東へ南へと航行すること七千余里で、初めて一海を渡る。海の広さは千余里、名は瀚海、一支国に至る。」とある。
[竹斯国] ちくしこく
筑紫国とさる。筑紫国は現在の福岡県のうち東部(豊前国の一部だった地域)を除いた地域にあたる。
「古事記」には国産み神話において、壱岐の前に筑紫島(九州)を生んだとされ、さらにその四面のひとつとして、別名を「白日別(しらひわけ)」といった。
[秦王国] しんおうこく
秦氏のルーツを調査している私としては、「隋書」にある秦王国という国が秦氏が建国した国であるかを考察したいが、「隋書」の記述は邪馬台国の所在地よりも大雑把に書かれている上に、秦王国がどのような国であったかについてもほんの僅かなことしか取り上げていないので、それが本当に国であったのかを考察するにはその時代の九州についての文献や伝承などから情報を得る必要があり、多くの時間を要するので今回は秦王国の所在地を考察する。
「隋書」には「また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。以って夷洲と為すも疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。」とある。
この文章から筑紫から東に位置する国であることがわかるが、その後に続く十余国の国の規模について記述がないので、明確な位置と秦王国の規模も特定できない。しかし、「竹斯国の東」とあって秦王国に至るまでに国があるとの記述がないことから、竹斯国に隣接していたと考えられる。紀元前の九州であったなら人口が少なく空き地もあったと考えられるが、中国や朝鮮の国々が滅亡した際にその王族が一族や技術者などを率いて九州に亡命した痕跡が伝承として複数残っている。例えば呉王夫差の子の「公子忌」(松野連系図)が熊本県菊池市野間口に渡来したので神来(おとど)という地名が付いたという。この系図が史実かは別として、「広島県呉(くれ)市」や「呉服」という言葉にも「呉」という文字が使用されていることから呉人が渡来したことは確実であると考えられる。
また、熊本県八代市には河童渡来伝説があり、オレオレデーライタ祭りが行われているがオレオレデーライタとは「中国の呉からよくいらっしゃいました」という意味だという。すなわち、ここでも呉人が渡来したという伝承が残っているのである。
その他にも、佐賀県諸富町搦に浮盃(ぶばい)という地名があり、徐福が木盃を海に浮かべ潮に流された木盃がそこに流れ着き、徐福が上陸したことから浮盃と呼ばれるようになったという。
伝承以外では濊族(わいぞく)が福岡県に渡来したという仮説を唱えている人や、中国の春秋戦国時代に楚という国があり、その王族は羋姓熊氏であり、熊のついた地名(和歌山県の熊野など)があることから楚人も渡来しており、最初の上陸地は九州であったと考えられる。
そして、九州に上陸した渡来人王族達はそれぞれに国を建国するが、時が経つにつれて人口が増加すると同時に王族同士の権力闘争があって国外へ出奔して新国家を建国した可能性も十分考えられる。以上のことから彼らが建国した国が乱立しており空き地がなくなっていたと考えられる。従って、秦王国は竹斯国に隣接していたと考えられる。
福岡県の東に隣接した地域として、秦王国の所在地候補としては豊前国(ぶぜんのくに)が考えられる。豊前国は現在の福岡県東部に属する北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築(けいちく)地方の全域、及び大分県北部(中・宇佐市)となっているが、大分県の宇佐市までが秦王国であったかは不明である。なお、「正倉院文書」には大宝2年残簡戸籍仲津郡丁里(なかつぐんよぼろり、現在の福岡県行橋市、京都郡みやこ町付近)秦部239戸、上毛郡里(こうげぐんとうり、現在の福岡県築上郡上毛町上唐原、下唐原)秦部66戸、上毛郡加自久也里( 現在の豊前市大村周辺)秦部26戸とあるのでこの地域には秦氏が居住していたようである。
次に「日本書紀」を見てみる。
九月の辛未(かのとのひつじ)の朔(ついたち)乙亥(きのとのいのひ)に、客等を難波の大郡(おおごおり)に饗たまふ。辛巳(かのとのみのひ)に、唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす。吉士雄成(きしおなり)をもて小使(そいつかい)とす。福利を通事とす。唐の客に副へて遺す。爰に天皇、唐の帝を聘(とぶら)ふ。
其の辞に曰く、「東(やまと)の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴世清等至(もういた)りて、久しき憶(おもい)、方(みざかり)に解けぬ。季秋(このごろ)、薄(ようやく)に冷し。尊(かしこどころ)、何如(いか)に。想ふに清悆(おだいか)にか。此は即ち常の如し。今大禮(だいらい)蘇因高(そいんこう)、大禮乎那利(おなり)等を遣して往(もう)でしむ。謹みて白す。具(つぶさ)ならず」といふ。是の時に、唐の国に遣す學生(ふむやわら)倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)、奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)、高向漢人玄理(たかむこのあやひとくろまろ)、新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)、學問僧新漢人日文(にちもん)、南淵漢人請安(みなぶちのあやひとしょうあん)、志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)、新漢人広済(こうさい)等、并せて八人(やたり)也なり。
是歳、新羅人(しらきひと)多く化來(もうおもぶく)けり。
【訳文】
九月五日、客たちを難波の大郡(外国使臣接待用の施設)で宴を催しもてなした。
た。
十一日、唐の客人である裴世清は帰ることになった。
またすぐに、小野妹子臣を大使とした。吉士雄成を小使とした。
鞍作福利を唐の客人の通訳として派遣した。
天皇が唐の皇帝に安否を問い言うには「東の天皇が、謹しんで西の皇帝に申し上げる。使者である鴻臚寺の掌客の裴世清らが我が国に来られて、久しく国交を求めていた我々の思いがたちまち解けた。この頃、ようやく涼しい気候となったが、貴国はいかがか。お変りないか。当方はいつも通り変わりがない。今、大礼の蘇因高と大礼の雄成らを使者として隋へ派遣して向かわせることとする。至らないところもあるかと思うが、謹しんで申し上げる」と言われた。
この時唐に遣わされたのは、学生である倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧である新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済ら合せて八人である。
この年は新羅人が多く帰化した。
【解説】
前回(第二回)の遣隋使派遣の際に隋の皇帝煬帝を怒らせて大失敗に終わったので、今回こそは成功するように天皇もだいぶへり下っているが、「東の天皇」という言葉を用いている。それはすなわち、大和朝廷としてはあくまで対等な立場で外交を進めたいとの思惑の表れである。隋の皇帝はあくまで倭は臣下であるという考えに対し、大和朝廷側は対等の立場を要求しているのである。隋の皇帝煬帝は中華史上でも上位に入るほどの暴君であるから自分は世界の中心であり、隋こそが世界最高の国であるという考えを変えるつもりなどみじんもないのである。このような考えの皇帝が大和朝廷の要求を受け入れる筈もなく、両者の「立場」を巡る考えは歩み寄ることがなく遣隋使の派遣を終えるのである。
第四回の遣隋使派遣のことを「隋書」では、「その後、清は人を遣りて、その王に謂いて曰く。朝命は既に達す。即ち戒塗を請う。ここに於いて、宴を設けて享し、以って清を遣わす。また使者を清に髄せしめ、来たりて方物を貢ぐ。この後、遂に絶ゆ。」とある。
それすなわち、この後、裴世清は倭国の使者と共に隋に帰国するが、その際に遣隋使は皇帝へ貢物を献上し、その後に交流は途絶えたとだけ記述はあるが、「大和朝廷の要求を受け入れた」あるいは「隋と倭の対等な立場を認めた」ということは一切記述がないのである。「隋書」によると遣隋使の目的は達成されないまま終わったことになる。
隋の皇帝の一族は漢族であると皇帝自身の公式発表であるが、後世の歴史家によると鮮卑族であるという仮説もある。何れにしろ鮮卑族も漢化政策を行っており、鮮卑族特有の文化風習などは漢族のものに改めたので「自民族中心主義」も取り入れており、従って隋と倭が対等な立場になるとうことはあり得なかったのである。遣隋使派遣の失敗の原因は漢族についての情報不足であり、漢族の考え方を理解していなかったことによるものである。