驚くことが、知の探究の始まり
Facebook船木 威徳さん投稿記事【 何よりもまず「自分」に驚く 】
ソクラテスは「驚くことが、知の探究の始まり」と、言ったそうです。
私にとって、この世界は、見るもの、聞くこと、味わうもの、感じることのすべてが、感動に満ち満ちています。驚くことばかりです。
なぜ、日の出はこんなに美しいのだろう。
なぜ、この歌手の歌声、歌詞に、こんなに感動するのだろう。(例えば、森進一さん)
なぜ、こんなに美味い里芋を作れるのだろう。(知り合いの農家からもらいました)
なぜ、私の頭は、突拍子もないことを次々と思いつくのだろう。
普段、あえてやらないと、驚くことはないのですが、その気になれば、驚きと感動に満ちているのは、他でもない、「自分自身」ではないでしょうか?
こんなことを身につけた。こんなことを続けている。こんなことを思いついた。
こんなことまで…。私で言うなら、ずっとやりたかった農業。
一滴、ひとつまみの農薬や化学肥料も使わないで、自分で美味いと、感動できる野菜を作りたいと、勉強を続け、畑を借り、トラクターを買い、お米屋さんを回って、肥料の材料を集め、長い時間をかけて発酵させた肥料を土に馴染ませていきました。
現地のお年寄りたちが、自然に集まってきて、たくさんのアドバイスをくださったり、道具を貸してくださったりしています。
1年前には、トラクターを操る、自分など、自分で想像したこともありませんでした。
驚くこと、感動することが、あらたに、ごく自然に、新しい知識や知恵をもたらしてくれます。
ほんのすこしの成長であっても、自分自身に感動すること。それが、やがて、この世で最も素晴らしい人との出逢い、不思議なご縁、という、深い感動、大きな驚きを持ってきてくれる…。私はそう信じています。
〜王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
2年前 この日の思い出を見る 船木 威徳 2019年11月11【 楽して、成績アップ! 】
小学4年の娘と、ときどき一緒に勉強しています。
問題集をやっていると、娘はときどき、深いため息をつきます。
「疲れたか?」と尋ねると、「そりゃ、疲れるでしょ。」と答えます。
「勉強は、好きじゃないの?」と聞くと、「好きな人なんていないでしょ。」
そうかも知れない。確かに、学校の勉強なんて、楽しいかどうかなど、考えたことはないし「楽しい」わけがないというよりも。楽しい」かどうかなど、考える意味もそこで真剣に考えたことはないかも知れない。
でもねえ、なにが勉強かなど考えなくても、新しいことを知り、新しい考え方を知る、
そして、新しく手にした道具・武器を使って新しく自分で考えてみる。
そんな、小さな試みを通じて「ぼくは生きているんだ。すごいじゃないか。」そう「感動する」ことこそが、私は、勉強の意味だと考えています。
いや、思いつきのような考えのひとつで、偉そうに娘にも伝える自信はないけれど。
「驚く」ことが「知」のはじまり、だと説明する人もいます。
舌を出した白髪のおじいさんの写真をアインシュタインだということは
多くの人が分かっているかも知れません。
しかし、世界一有名と言われる方程式E = mc2を理解しているひとが、どれだけいるでしょう。理数系がだめだった私について言えば、しかしこれは、その意味を聞いたとき、ことばでは言い表せないくらいの、感動を感じました。
アインシュタインと同じように、学校の黒板に、チョークで「E = mc2」と書いてみたときの感動。「ああ、こうして進歩してゆく人類のひとりなんだ、このオレも・・・。」
簡単に言うなら、小さな大豆1つにも、驚くようなエネルギーがつまっており、
わずかな質量でも莫大なエネルギーが含まれているということです。
これで、太陽がとてつもない熱や光を出しながら燃え尽きないでいられることの説明もできたのです。
テレビによく登場する、齋藤孝さんという大学教授がいます。その人が、著書のなかで、こう言っています。
・・・ところが、E = mc2にも驚かない人もいます。
「だから何?全然わからない」と切り捨ててしまう人。数式が出てきた時点でもう「無理」と言って知ろうとしない。あるいは「『源氏物語』?古文はつまらない」「x軸とかy軸なんて知らなくても生きていけるし」などと言って深みに入っていこうとしない。
それは、失礼ながら「無教養な人間のやる無作法な態度」というものです。
(齋藤孝「読書する人だけがたどり着ける場所」SB新書)
この<それは、失礼ながら「無教養な人間のやる無作法な態度」というものです。>
という強い口調のことばこそ、著者が、実はもっとも伝えようとしていた想いなのではないか私はそう感じてしまうのです。
私も、まったく同じように感じるのも、その人をバカにしているのではなく、せっかく手にできる宝物を、どぶに捨てているようなもったいなさを感じてしょうがないからなのです。
齋藤さんは、こうも言います。・・・驚くべきことに驚けるのは、実は、教養があるからです。知識豊富で教養豊かな人はもうあまり驚くことがないのではないかと思うかもしれませんが、逆なのですね。
知れば知るほど、心の底から驚くことができるのです。
知識がないと、何がすごいのかわからない。ぴんとこない、ということになります。
ソクラテスは、「驚くということ、驚異の情が、知の探究のはじまり、すなわち哲学だ」と言います。
小学4年の娘と、日本や世界の農業、日本の食糧自給率について学んでいた時に、遺伝子組み換えの穀物の話をした際、娘が、やたらと「じゃあ、これからどうやって買い物をしたらいいの。『遺伝子組み換えでない』って、分からなくするの?なんで、そんな法律に変えるの?だれが変えるの?」と、びっくりするような質問をしてきましたが「じゃあ、どうしたらいいか?を自分で考えて自分で答えを出して、自分を自分で守るだけでなくほかの人も助ける力をつけるのが、勉強なんだ。」と話すやいなや、「ちょっと、そろそろ休憩しよう。」と行ってしまいました。
ドラマに出てくるように、親の話に子どもが目を輝かせて感動してくれた経験なんて、
そうそうしたことがありません。
~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
https://textview.jp/post/culture/19641 【びっくりして嬉しくなる俳句】より
『NHK俳句』4月号からスタートする講座「びっくりして嬉(うれ)しくなる俳句」の選者を務めるのは、40歳近くになって俳句に出会ったという俳人の池田澄子(いけだ・すみこ)さん。読んでみてハッとするような驚きの発見がある俳句を紹介していきます。
* * *
俳句を作っていて、あるいは人の俳句を読んでいて、何が一番嬉しいかを考えてみると、私の場合は、その一句に、私の思い至ったことのないコトが見つかったときのような気がします。こんなことを考えたことがなかったとか、そういう情景をしょっちゅう私も見ていたのに、そのことを俳句にしようとは思ったこともなかったとか、こういう思いをこういう言葉で表現しようと思ったことはなかったとか、こんなつまらない小さなことが俳句になるとは考えもしなかったとか、いろいろあります。
そのように驚くたびに、俳句が好きになります。その驚きが自分の作った俳句に向けられることがあれば、どんなに嬉しいか。え? 私はこんなことを思っていたの? 私はこういうことにときめく人だったの? と驚きたくて思いたくて、俳句を作っているのかもしれません。
脳科学者の茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが、アハ効果とかいうことを話していらっしゃったことがありました。あ、そうだっ! と思ったときに、脳が活性化するとか、そんなことでした。一句を読んだときに、アハッ、そうかぁと思いたいのです。その喜びのために俳句を作っているような気がします。
ところで、四月と言えば桜。
今頃は桜吹雪(ふぶき)の夫(つま)の墓
飯島晴子(いいじま・はるこ)
この句を読んだ途端、正確に言えば読み進めながら、墓が桜吹雪に取り囲まれている景が目に浮かびます。周囲に建物もない墓地、墓原にきりなく降りかかる桜吹雪。少しの風の通る明るい墓地、その中の夫の墓。まるで見知った墓でもあるかのように目に浮かびます。そしてハッとします。作者がその花吹雪の中には居ないということにです。
作者は桜を見ていない。見た桜吹雪を詠(よ)んではいない。作者は今の自分の居場所も、自分のしていることも明かしていませんし、哀しいとも懐かしいとも言ってはいません。俳句には、写生したモノが最も力を発揮するのですが、この桜は思いの中の風景。読者は、一句に出会って桜を思い描き、その後に、作者のことは何も詠まれていないことに気付き、作者がどこで何をしているのかも、皆目(かいもく)分からないことに気付くのです。
花を見ていない花の句です。桜を見ていない、と詠まれているのに、いえ、だからこそかもしれません。花が理想の姿を思わせることにびっくりします。
■『NHK俳句』2015年4月号より