「驚き」という情について、哲学者・九鬼周造が晩年に考えていたこと
https://bnl.media/2018/09/kuki-shuzo.html 【「驚き」という情について、哲学者・九鬼周造が晩年に考えていたこと】より
日本文化論の名著『「いき」の構造』で知られる九鬼周造は、主要な研究テーマであった「偶然性」に関連して、晩年に「驚き」についても思考を巡らせていた。そこから何かビジネスのヒントは得られないものだろうか。関西大学の哲学者、木岡伸夫に訊いてみた。
「驚き」のあるビジネスは強い。商品・サービスは印象に残りやすく、お客さんの関心を惹きつける。他社と一線を画するブランドが築けてメディアの注目を集める。優秀な人を採用でき、投資家の期待も高まる。いいことづくめである。
だがそもそも驚きとは何だろうか。驚きという情について深く考えたことはあるだろうか。
歴史上、驚きをテーマに論じた哲学者は意外と少ないものである。古代ギリシアの哲学者プラトンや弟子のアリストテレスは驚きを「哲学の出発点」であると述べていたり、デカルトも「驚きは最も根源的な情緒で、すべての情緒の中の第一のものである」と重要視していたものの、その後、西洋哲学のメインストリームに登場したことはない。
そんななか、京都帝国大学文学部哲学科で教鞭をとりながら、『「いき」の構造』(1930)や『偶然性の問題』(1935)などの注目作を出版し、独自の哲学を探求した九鬼周造は、亡くなる2年前の1939年に、「驚きの情と偶然性」という題名の論文を発表していた。その中で驚きと偶然性の関係について、次のように記している。
驚きという情は、偶然的なものに対して起る情である。偶然的なものとは同一性から離れているものである。同一性の圏内に在るものに対しては、あたり前のものとして、驚きを感じない。同一性から離れているものに対して、それはあたり前でないから驚くのである。
──「驚きの情と偶然性」(1939):『偶然と驚きの哲学』九鬼周造(書肆心水)に所収
さらに深く、九鬼の思考を掘り下げていけば、何かビジネスにも通ずるヒントが見つかるかもしれない。そこで、『邂逅の論理』や『〈出会い〉の風土学』の著者で、過去に二度BNLで取材している関西大学の木岡伸夫にメールインタビューを依頼し、5つの問いを投げかけた。
面白い!と思える出会いには理由がある──『〈出会い〉の風土学』著者が解説
Top Photo: "Surprised Coquerel's Sifaka (Propithecus coquereli)" by Wade Tregaskis (CC BY-NC 2.0)
何の変哲もないこの「ペンペン草」の美しさに、われわれは〈驚く〉ことができるだろうか。Photo: "Shepherd's Purse" by Paul B. (CC BY-NC-ND 2.0)
1. 「驚き」は哲学の出発点
──九鬼周造の論文の中では、「プラトンやアリストテレスは驚きを哲学の出発点と見た」とか、「デカルトによれば、驚きは最も根源的な情緒で『すべての情緒の中の第一のものである』」と紹介されていますが、彼らの後、哲学の世界で「驚き」は十分議論されているのでしょうか?
質問をいただいて、昔、学生の頃に大峯顕先生(フィヒテなどドイツ観念論の研究者として知られ、かつ高名な俳人)の講義で、プラトンが「驚き(タウマゼイン)」を哲学の原点に挙げたことを引いて、その重要性を強調されたことを想い出しました。
そのとき先生が「驚き」の例に挙げられたのは、「よく見れば薺(ナズナ)花咲く垣根かな」という芭蕉の句。「ペンペン草」とも称される何の変哲もない花の美しさに驚く心こそ、哲学の精神である、というお話でした。シェリングの『神話学』を主題とする講義の内容もさることながら、そんな余談に心を惹かれたものです。
例に挙げられた芭蕉の句自体が、そんなに素晴らしい作品かどうか、私にはわかりませんが、哲学と「驚き」に本質的なつながりがあるという指摘は、深く心に残っています。プラトン以来、「驚き」に言及した哲学者がどのくらいいるのかは知りませんが、そのテーマが哲学のメインストリームになった事実がないことは、「偶然性」を本気で取り上げた哲学者が九鬼しかいない事実と見合っています。
本記事は、九鬼周造の「偶然性」に関する主著『偶然性の問題』(岩波文庫)と、その後の諸篇を集めた『偶然と驚きの哲学』(書肆心水)を参考に問いを組み立てている。
2. 偶然の出会いと驚きのつながり
──九鬼は、自身の主要な研究テーマであった「偶然性」に紐づく感情として「驚き」を挙げています。この論理は、その後どのように研究されていますか?
『偶然性の問題』が「驚き」を重視しているということなら、九鬼の研究者は、たぶん誰でも知っているでしょう。ただ九鬼以外に、「偶然性」と「驚き」のつながりに注目して、主題的に論じた人がいるのかどうか。というのは、「偶然性」が「邂逅」(思いがけない出会い)を意味するということをふまえたうえで、〈偶然性-邂逅-驚き〉の意味連関を追究しようとした例は、私の知るかぎり、見当たらないからです。
多少手前味噌になるが、私の考えを説明しましょう。
九鬼は「偶然性」を、「独立なる二元の邂逅」と定義しています。たとえば、太郎と次郎が、たまたま共通の知人の入院先を見舞いに訪れ、顔を合わせたとする。どちらからともなく、「偶然だなあ」という言葉が口をついて出るでしょう。その時その場所にやってくる理由が、太郎の側にも次郎の側にもあった。〈原因―結果〉の必然的なつながりが、それぞれに存在するわけです。けれども、別々の因果系列が交差して、二人がそこで出会うという事実が予定されていたわけではない。二人の出会いは、まさに偶然そのもの。「独立なる二元の邂逅」とは、そのような経験を意味します。
そのとき、太郎と次郎を同時に襲うのが、「驚き」の感情です。「まさかこんなことが起こるなんて!」。そう言いたいことが、われわれの日常でも時折起こるでしょう。そんなとき、どう思いますか?
「あたり前でない」ことは、「有り難い」(めったに起こらない)こと。それが与えられたことに、感謝したいと思ったとしても、おかしくないでしょう。日本人は、昔からそういう意味での偶然を、貴重な「ご縁」として受け容れ、大切にしてきました。ちなみに拙著『邂逅の論理』では、そういう西洋の論理にはない考え方を、〈縁の論理〉として論じています。
馬は人間のように、恐れと驚きの違いを正確に感じとることができない。そのため何か驚異に遭遇すると、主人を置いてどこまでも逃げようとしてしまう。Photo: "Run Free" by Thomas Hawk (CC BY-NC 2.0)
3. 人間は驚きを感動に転化できる
──「驚き」と「恐れ」を比較し、「驚き」は人間やチンパンジーなど、ある程度の知性がある生き物にしか起こりえない感情だと九鬼は紹介しています。例えば、馬は何か少しでも予想外のことが起きると「恐れ」て逃げ出してしまうそうです。つまり、「驚き」が起きる条件として、受け手側がその出来事が起きた背景知識を、ある程度は有している必要があるということでしょうか?
面白い質問ですね。「驚」の漢字は、馬が下に付いています、馬が何かにオドロいたとき、前足を上げてのけぞるような半立ちの姿勢になる。そこから「驚」の字が生まれた、という説明を読んだことがある──九鬼のテクストになかったかな。もしあるのなら、この質問の趣旨とは正反対になるけれど、動物にも「驚き」が存在するわけです。
まあその点がどうであれ、動物にも当然「驚き」があると私は思います。たとえば、不意に敵と遭遇したなら、人間だれしも驚くはず。それは、「知性的」というよりむしろ、本能的・動物的な反応ではありませんか。そのうえで申すなら、驚きの原因・理由に目を凝らして、その意味を考えることができるのは、人間だけ。そういう知性的な情報処理の能力によって、「驚き」は人間に固有な「感動」に転じる。九鬼が言っているのは、そういうことではないかと思います。
人間と動物に違いがあるとすれば、「驚き」や「恐れ」の原因・理由について、人間はあれこれ考えをめぐらすことができるのに、動物にはそれができない。「驚き」を伴う「邂逅」の事実を深く反省して、書物を仕上げた九鬼の例が、何よりの証拠です。
【参考】
驚きは、著しく人間的な情であるということもできる。動物にあっては、よほど高等なものにならぬと、驚きと恐れとの区別が明瞭ではない。
(中略)
驚くという漢字には馬が書いてある。驚とは馬がおどろくことであるという。実際、馬はよく驚くものである。頼朝が相模川の橋供養に臨んだ時、馬が何かに驚いて、そのため頼朝は落馬して、それがもとで薨じた。ダーウィンも馬が驚いた時のことを詳しく述べている。(中略)馬が恐怖を感じると、習慣的に危険な場所から全速力で逃げ出すように激しい努力をするのであると云っている。それでもわかるように、馬にあっては驚きというのは畢竟、恐れにほかならない。
(中略)
生物発生的に見ても、言語学的に見ても、恐れの方が原始的なもので、驚きは、知性の発達と共に次第に現れて来た情緒と考えることが正しいようである。
──「驚きの情と偶然性」(1939):『偶然と驚きの哲学』九鬼周造(書肆心水)に所収
九鬼の論文の中で、猿は人間同様、恐れと驚きを区別できるという実験結果を紹介している。Photo: "surprised monkey" by pwrgrl09bc (CC BY 2.0)
4. 驚きは可能性と不可能性の〈あいだ〉に生じる
──「不安」と「驚き」の違いに関して九鬼は、「驚き」は現在の不可能性に対する情であり、「不安」は未来の可能性に対する情である、と論じています。確かに「将来こんなことが可能になるかもしれない」と言われるよりも、「これまで不可能だと思われていたが、いま実はこんなことができるのだ」と言われた方が、驚きの度合いは高くなるように思うのですが、その認識で合っていますでしょうか?
そういう議論がされているとは、知りませんでした。「現在の不可能性に対する情」というのは、表面的にとれば、自分が当面している困難に対する感情、というように受けとれます。しかし、「驚き」の理由はそれだけではなく、仰せのように、「実はこんなことができる」あるいは「できるかもしれない」といった可能性を同時に発見するところにあるのではないでしょうか。つまり、「驚き」は可能性と不可能性の〈あいだ〉に生じる、とでもいえるようなことです。それが「現在」の特質であって、可能性もしくは不可能性のいずれかとして予期される以外にない「未来」との違いではないでしょうか。
豊富な経験や知識を有していれば、驚くことは少なくなっていく。しかし、どれだけ除いても、現実世界の偶然性だけは排除することができない。Photo: "Surprise" by Ralf Steinberger (CC BY 2.0)
5. 出会いに心を開き、感動することが大切
──ただ人生経験を積んでいくに従って、さまざまな出来事を経験し、知識を蓄え、多少のことでは驚かなくなってきます。それでも、原始的なところまで因果関係を遡っていけば、必ずどこかに「驚き」が見つかるはずだ、と九鬼は主張します。いわゆる「原始偶然」の話です。この論理からビジネスに驚きの要素を取り込むヒントが見つかるような気がしているのですが?
「原始偶然」は、質問1で名を挙げたシェリングのテクストに出てきます。「仮説的偶然」(『偶然性の問題』第二章)の中で、これを取り上げた九鬼の思惑は、世界の出来事に見られる〈原因-結果〉の因果系列を遡っていくと、最終的にそこから宇宙の始まりが起きるか起きないか、二つに一つの〈偶然〉にたどり着くということ。世界の存在が必然ではなく、「無いことの可能」つまり偶然である、という意外な認識に導くことでした。こういう事実を突きつけられたなら、神様が作った宇宙に生きているんだと素朴に信じている人たちは、たぶん驚くに違いありません。これは哲学の専門的議論ではあるが、ビジネスにも活かせる点があるとすれば、どういう点でしょうか。
この世界が何の不思議もなく存在している、という常識に安住している人に対して、「原始偶然」は、「目を覚ませ。常識を振り捨てて、自分で一からものを考えよ」というメッセージの効果をもつと思います。ビジネスの分野、製品の開発や販売戦略でも、従来のマニュアルを疑い、あえて常識の反対を行く、そういうやり方が思わぬ成功をもたらす例もあるでしょう。むろん、成功するかしないかは、時の運。成功することを目的として、常識破りに勤しむなどといったことは、私に言わせれば邪道です。
驚くことが哲学の始まりだと言えるのは、どうしてでしょうか。驚くこと自体には欲も得もない。かけがえのない人との出会いがそうであるように、ただ世界の新しい意味にふれる経験があるだけです。その経験をありがたいこととして受けとめ、世界と人生の意味を考えていくのが、哲学の営みです。偶然の出来事や出会いに心を開いて、「感動」することが大切であるという点は、たぶん哲学でもビジネスでも同じでしょう。そういう経験をどう活かせばよいかは、その道の専門家なら、たぶんお判りになることと思います。