「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」2 (1)誕生②公家と武家
慶喜の母は有栖川宮織仁(おりひと)親王の王女で斉昭の正室となった登美宮(とみのみや)吉子(よしこ)。この縁談がおこったとき仁孝天皇(孝明天皇の先代)は大いに喜ばれ、「水戸は武臣とはいえ、代々勤王の家である。登美宮にとってこれほどの良縁はない」といわれ、すぐに勅許があった。
また斉昭の姉清子は鷹司政通(たかつかさまさみち)の正室に嫁いだ。鷹司家は摂政・関白になるべき家柄の摂関家(近衛家,鷹司,九条家,二条家,一条家)のひとつ。政通は文政6年(1823年)に関白に就任し、5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して安政3年(1856年)に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で絶大な権力を握った。孝明天皇の信認も厚く、関白辞任後(九条尚忠が後任)も内覧(天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ること)を許され、依然として朝議に隠然たる影響力を行使した。安政3年(1856年)には太閤の称号を孝明天皇から贈られる。義弟の斉昭から異国情勢についてこまめに連絡を受け、孝明天皇に知らせた。
このような慶喜と朝廷とのつながりの深さは、一橋家に養子に入ってからも続く。一橋家七代目当主慶寿(よしひさ)の未亡人で、九代目当主となった慶喜にとって義理の祖母にあたる徳信院直子(つねこ。祖母とはいっても、慶喜との年齢差はわずか7歳)は伏見宮貞敬(さだよし)親王の王女。慶喜と直子は仲のよい姉弟のような間柄だったようで、慶喜の正室となる美賀子は、婚儀から半年ほど後、徳信院と慶喜の親密な関係を疑って自害を図るという事件を引き起こしてしまう(徳信院と慶喜の関係の真偽は不明)。
この美賀子も摂関家のひとつ一条家の王女。ただし養女だが。当初、慶喜は関白一条忠香(ただか)の娘千代君(照姫)と婚約していたが、婚儀直前に千代君は疱瘡に罹患したため破談となる。そのため代役として立てられたのが今出川公久(きんひさ)の長女美賀子。忠香の養女となり、安政2年(1855年)慶喜と結婚した。慶喜は美賀子との仲はしっくりいかなかったが、美賀子の実家との仲は良好で、将軍後見職を務めていた頃には今出川家の世話になっている。
このように朝廷とのかかわりの深さは慶喜を理解する上で忘れてはならないが、彼の人格を複雑にしているのは、少年時代に慶喜になされた教育が「尋常の武士の家庭では想像もつかぬほど、峻烈なもの」(司馬遼太郎)だったということ。慶喜の寝相の悪さを矯正するため、斉昭は側のものに命じて慶喜の枕の両側に剃刀を置かせ、寝返るときひっそりと寝返らぬ限り頭や顔が切れるようにした。また「右下の片寝」を命じられた。利き腕である右腕を下にして寝ていれば、寝込みを敵に襲われて腕をとられても、利き腕で自由に闘えるという理由からだ。衣類、夜具もすべて麻か木綿。絹は一切禁止。早暁に起き、朝食前に四書五経を半巻音読。朝食後、午前十時まで習字。それが終わると藩校の弘道館に登校。正午に帰り、昼食の後しばらく遊戯を許される。午後は武芸。夕食後、朝の四書五経の読み残しを読まされ、一日の日課が終わる。
このような手厳しい日課に縛られながら、慶喜は従順ではなかった。体を使う武芸には熱心だったが、読書はひどく嫌いだった。侍臣が大もぐさで食指に灸をすえても、読書をするくらいなら灸を我慢した方がましだと広言。灸がたびかさなって灸点がただれ、腫れあがっても慶喜は平然としていた。もてあました侍臣は斉昭に訴える。斉昭はどうしたか。座敷牢に入れることを命じる。座敷の一角の一坪ほどを四囲ふすまでかこい、縄で外側を結いまわし、その中に入れて食事も与えない。さすがの慶喜もこれには閉口し、いく分従順になった。
これらの教育は、斉昭のいる小石川上屋敷ではなく、水戸城でなされた。これは、幕府の法の例外である。大名の子弟は江戸屋敷で育てねばならない。水戸徳川家藩主が江戸屋敷に常駐するのも、参勤交代制の例外だったが、藩主の子弟が国もとで育つのも例外。これは斉昭がとくに幕府に乞い、水戸家だけに例外を認めてもらっていたのだ。子は江戸屋敷で生まれる。しかし嬰児の間に江戸を離れさせ、国もとの無骨な藩士の手で育てさせた。都府の華美の風が感染するのを恐れたのである。慶喜は、誕生の翌年、江戸小石川上屋敷を去り、常陸水戸城で育ったのである。
慶喜が「義理の祖母」徳信院直子に惹かれるのも無理はないと思わせる鶴田真由の演技だった
NHK大河ドラマ「徳川慶喜」 斉昭(菅原文太)と吉子(若尾文子)
イメージに近い配役だった
徳川美賀子 明治維新前
芳年『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』「徳川慶喜正室美賀子」
藩校 弘道館