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人は愛するために生まれてくる

2018.11.13 04:14

Facebook清水 友邦さん投稿記事 人は愛するために生まれてくる

瀬戸内寂聴さんが11月9日に99歳で肉体を離れました。

寂聴さんとはインドを旅していた時に祇園精舎(サヘート・マヘート)で偶然お会いしたことがあります。

祇園精舎は雨季の間に定住して瞑想する雨安居(うあんご)で釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダールタ)が最も長く滞在した仏教の聖地です。

寂聴さんとは霊鷲山(ラジギール)のホテルも同じでした。寂聴さんに寄りなさいと言われて日本に帰国してからお寺にも訪問しました。とっても気さくな方でした。

旅をしていると実に様々な人と出会います。

光の根源のような魂から、堅い自我に覆われ肉体の五官に囚われている魂までこの地球はあらゆる魂が出会う場のようです。

この世界は階層構造になっています。

階層の下方から上方を知ることはできません。

理解出来るのは相手よりも自覚の領域が広いときか同じ領域を持っているかに限られます。

つまり、お互いに共通の振動帯域がなければ話をしても理解することは出来ないです。

微細(サトル)な領域は振動帯によって分けられています。

同じ振動数をもった魂だけが出会う世界は違う経験を得られにくいのでしょう。

この地球では愛にあふれた人に出会うこともあるでしょうし、攻撃的な人や、人格が冷たく皮肉っぽい人にであうこともあります。

肉体をもった物質世界では、ありとあらゆる人々との出会いのドラマがあります。

その時に喜怒哀楽の感情を味わう事ができます。

魂は記憶を失ってこの世界に誕生しています。

そして現象世界に適応したマインドを自分だと思っています。

地上世界は実に、さまざまな経験ができるようになっています。

それはベーシックな肉体という共通の体を持っているからこそ、異なる振動数の魂でも出会うことができるのです。

童話の主人公は、まま母から意地悪を受けたり、性格の悪い人からさんざんひどい目にあったりしますが、それは微細(サトル)の世界では体験できない貴重な経験です。

良い人ばかりではドラマがなりたちません。

名脇役がいないと物語は刺激がなく単調なのです。

サンキャ哲学にでてくるプラクリティ(物質原理)とプルシャ(純粋意識・観照者)の関係は演劇を演じる役者と芝居をみている観客のようなものです。

よくできた脚本と演技力がある役者が演じると観客はその芝居と自分を同一化して、よろこびや悲しみを感じます。

人生で受け入れられない経験をすると不快な感情や重たい気分に巻き込まれてマインドは苦悩します。

マインドが作り出す仮想現実を真実と思い込んでいるのです。

メロドラマを現実と思って深刻になっているのが、私たちのマインドです。

沈黙して自己の本質に気がつけばマインドが演じている芝居が現実ではないことに気がつきます。

思考との同一化をやめ夢から覚めると本質である我に帰ります。

観照が起きると悲劇と喜劇を繰り返す人生をそれほど深刻にならずに過ごすことができるようになるでしょう。

肉体をもったこの世界では様々な経験をすることが可能になっています。

そのほうが魂が自覚するには都合がよいからなのでしょう。

二元性の世界では愛するものを失うことの苦悩と、悲しみに満ちています。

世界を死と生、苦と楽、光と闇に分けて見ているマインドと同化している限り、苦しみやつらく悲しいことから逃れる事はできないでしょう。

苦悩も喜びも包み込んで溶かす真実の愛に気がつくまでは

「人は愛するために生まれてきて、愛するために生きている。愛するということの、究極は許すことなんです」瀬戸内寂聴

Facebookごとう 孝二さん投稿記事「宇宙の法則は自分を愛した分だけ周りに愛される」

「周りを愛した分だけ愛される」というのは、ある意味ほんとうなんだけど、順序があるんです。

まずは「自分を愛した分だけ周りに愛される」という真実を生きること。ちゃんと自分自身に目を向けること。なにをおいても自分を優先すること。欠如から出た愛なんて愛じゃない。まずは自分。そこからです。自分は、いちばん身近で、いちばん大切で、いちばん愛すべき「他者」。「欠如から出た愛なんて愛じゃない」って、結構刺激的な発言ですけれど(笑)ほんとうにそう思うんです。自分を愛せていないままに誰かを愛せるか、って話です。ここで言う「愛する」っていうのは、「認める」とか「受けいれる」とかとほぼ同義です。どんなときでも、いまの自分を否定しないこと。

どんなに醜く、汚く、直視したくないような姿の自分が出てきたとしても、それも自分なのだと、世界でたったひとりだけの愛すべき自分なのだと、その事実を、まずは認めて、受けいれてしまうこと。

「認めよう」「受けいれよう」とがんばる必要はないですよ。

ただ、「あ、こんな自分もいるんだね」と、淡々とその存在を認めて、受けいれるだけでいいんです。「いる」ものは「いる」。「ある」ものは「ある」。それでいいんです。

でね。

どんな自分でも、その存在をただただ認め、受けいれていると、あるとき、大きな転換が起こるんですよ。

具体的に言えば、自分は「すでに」全世界から認め、受けいれられていたことに気づくんです。

すでに圧倒的な「ゆるし」の中に、つまりは「愛」の中にあったのだ、と、ただ、気づくんです。

そうするとね、自分が抱えていた欠如感が、嘘のように消えていくんですよ。

そして、愛に満たされる。愛そのものになる。

そこにおいては、「愛し愛される」関係性が当たり前のように展開されていきます。

だって、そもそも愛しかないのだから。でも、何事も、一足飛びにはいきません。

まずは、自分から。ほんとうに、そこからしかはじまっていかないのだと思います。

小出 遥子オフィシャルブログより。