「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」3 (2)斉昭の藩政改革①
江戸時代の三大幕政改革とは、「享保の改革」(8代将軍吉宗)、「寛政の改革」(老中松平定信)、「天保の改革」(老中水野忠邦)だが、「天保の改革」よりも10年以上早く実施され、その模範になったといわれるのが徳川斉昭による水戸藩の「天保の改革」。それはどのような改革だったのか?幕末の「尊王攘夷運動」を理解する上でも、また慶喜の「尊王攘夷運動」に対する複雑な対応を理解する上でも、この改革を正確に知っておく必要がある。
幼少より会沢正志斎(せいしさい。「後期水戸学」の大成者。主著『新論』は,「尊王攘夷運動の聖典」といわれる)らに学び賢才の誉れ高く、兄斉脩(なりのぶ)の死後,会沢や藤田東湖ら水戸藩天保改革派の運動により文政12(1829)年に藩主となる。この時斉昭29歳。
斉昭は、下級藩士でも藩主に意見書を出すことを許した。質素倹約を励行し、自らも普段は質素な木綿の衣類を用い、食事も一汁一菜を基本とした。さらに改革の推進力となる人材登用を行い、身分は低くても有能な藩士らを抜擢した。農民から悪法と憎まれていた租税徴収法を改め、農民の暮らしが豊かになるよう努め、飢饉に備えて雑穀の貯蔵を奨励した。そうした政策が実を結び、天保4年の台風と飢饉、天保7年(1836)の全国的大飢饉にあっても、水戸藩領内から餓死者はほとんど出なかった。天保7年の飢饉後、江戸で刷られた『凶作救方(すくいかた)』の番付でも、水戸の徳川氏は東の大関(西の大関は伊勢の藤堂氏)となっている。
しかし、以上の点を見ただけでは斉昭の藩政改革の際立った特徴、改革の真の狙いは見えてこない。それを知るには、斉昭が大飢饉の翌年の天保8年(1837)に掲げた藩政改革の4大目標を見る必要がある。
第一 経界之義(検地を改めて行い、境界を正す)
第二 土着之義(藩士を城下から郡部に移し、土地を耕し武備を練る)
第三 学校之義(藩校弘道館創設と各地の郷学〈庶民教育機関〉の増設、偕楽園の造営)
第四 総交代之義(藩士の定府制廃止による財政再建)
注目すべきは、第二「土着の義」。戦国時代の末より、大名は家臣を城下に集めて職業軍人化し、軍事行動を起こす際、即時動員が可能な体制をつくった(「兵農分離」)。その体制は江戸時代にも引き継がれ、武士は支配階層として城下に暮らし、農民や町人とは明確に区別されていた。ところが斉昭は逆に、武士は農村にいて農作業をしつつ、武芸を練ることを課したのだ。当時、どの藩でも改革の主たる目的は、財政再建。水戸藩でもむろん財政は重要であり、検地を行い、藩士の定府制を廃止した(水戸藩は参勤交代がなく藩主が江戸詰めである「定府制」のため、江戸在勤者が多く、経費がかかっていた)のもそのためだった。しかし、斉昭のねらいは財政再建だけにあったのではない。城下暮らしで心身がなまってしまった藩士たちを農村で鍛え上げ、さらに藩士だけでなく農民も郷学で学問を学び、日本が直面している、外国による侵略への危機感を藩士と共有させようとした。藩士と農民を一致団結させて総合的な軍事力(藩士+農兵)を強化し、外国の脅威を防ぐことこそが、改革の目指すところだったのだ。
この考えの根底に流れていたは、斉昭が若い頃より学んできた水戸学の精神。天皇を尊ぶことを重んじ(尊王)、だからこそ天皇から政治を任されている将軍は敬うべき存在である、という考え方だ。そして18世紀後半の異国船の接近にみられる西洋諸国の進出と幕藩制の動揺による内憂外患に対する危機意識が、後期水戸学形成の根底にあった。文政7年(1824)、常陸の大津浜(水戸藩領。現、北茨城市)に突然、イギリスの捕鯨船の乗員が上陸し大騒ぎとなる(水戸藩領は外海に面した海岸線が長いために、それ以降も異国船の接近が頻発)。水戸藩の儒学者で、斉昭の師である会沢正志斎は事件に衝撃を受ける。長い海岸線を持つ水戸藩では、いつ外国の侵攻を受けるかもわからず、またそれは島国の日本全体も同じで、どこで侵攻が起きてもおかしくない。会沢は翌文政8年(1825)、『新論』を著す。その中で会沢はこう記す。
「外国の侵略から日本を守るには、幕府を筆頭にすべての日本人が天皇の下で一致団結し(尊王)、異国(夷狄〈いてき〉)を打ち攘(はら)わなければならない(攘夷)」
これが尊王と攘夷が結びついた「尊王攘夷」という考え方。幼い頃より会沢の教えを受けてきた斉昭の藩政改革の究極の目標は、「水戸藩が尊王攘夷を実行できるようにすること」であった、といってよい。
徳川斉昭書簡「水府名家手簡」
強い抑揚のある独特の筆致。「也」の最後の一画を虎の尾のように跳ね上げる書き方は、斉昭がしばしば行うもの。
会沢正志斎
大津浜事件での「異国人上陸」地点
同上
江戸時代後期の異国船出没状況(鹿島市域)
「藤田東湖像」(幕末と明治の博物館 大洗)
西郷隆盛は東湖を「天下眞に畏る可き者なし。唯だ畏る可き者は東湖一人のみ」と手紙の中で評した。薩摩藩主島津斉彬の一腹心にすぎなかった西郷吉之助を、日本の西郷隆盛に飛躍させるきっかけになったのが藤田東湖だったといえる。