熊野市紀行5 阿須賀神社
https://open.mixi.jp/user/250900/diary/1980756532 【新宮・熊野市紀行5 阿須賀神社 / 新宮市立歴史民俗資料館】より
10月8日金曜日は、徐福の墓から北上し、事解男命(コトサカオノミコト)・熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)・熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)・家津美御子大神(ケツミコノオオカミ)を祭る阿須賀(アスカ)神社〔村社〕を訪れました。
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阿須賀神社は、熊野川河口近くにある蓬莱山〔和歌山県指定史跡〕と呼ばれる小丘陵の南麓に鎮座する古社で、社伝によれば人皇第5代孝昭天皇〔位;475B.C.~393B.C.〕の代の創建と伝えられ、古くは飛鳥社とも称されました。蓬莱山は南北100m・東西50m・標高48mの椀を伏せたような山容で、元来は島だったのが熊野川の堆積作用で陸地に取り込まれたと推定され、神奈備(カンナビ)の典型とも言うべき姿をしています。
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熊野速玉大社伝の「新宮本社末社総目録」に上御備・下御備の祭祀遺跡が描かれているように、古くから信仰の対象となっていたと見られ、西暦紀元前210年に徐福が上陸した地だとの伝承もあります。
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熊野権現はまず神倉神社に降臨し、それから61年後に阿須賀神社北側にある石淵谷(イワブチダニ)へ勧請(カンジョウ)されて、その時に初めて結早玉家津美御子(フスビハヤタマケツミコ)と称したと伝えられており、当地は熊野権現の具体的な神名が初めて現れた場所と見なされていた事が判ります。
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また、境内からは弥生時代の遺跡が発掘されており、熊野に於ける歴史と信仰の最も古い層に関わる地だと考えられています。
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阿須賀神社境内弥生式竪穴住居跡〔新宮市指定史跡〕からは弥生時代から古墳時代にかけての円形3・隅丸方形1・方形6の合計10基の住居跡、及び掘立柱建物跡4基が確認されている外、弥生式土器・土師器(ハジキ)・臼玉(ウスダマ)・管玉(クダタマ)等が出土しています。
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当時、沼沢地状態だった熊野川河口に於いて、農耕漁労集落が蓬莱山麓一帯の僅かな微高地に成立していたと推定されています。
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神社境内だけでなく周辺一帯の相当に広い範囲から出土品が見られる事から、大規模な集落が存在していたことが推定され、熊野神邑(クマノカミノムラ)の原型だったとも考えられます。
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平安時代に熊野権現の本地が確立してからは、大威徳明王を本地仏として祀る事となり、11~12世紀の熊野参詣では、阿須賀神社にも参詣する事が常であったと見られ、『中右記』の天仁2(1109)年10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」と記され、熊野九十九王子の一つ阿須賀王子としての扱いを受けていた事が判ります。
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また、『平家物語』巻十には寿永3(1184)年に敵前逃亡した右近衛権中将平維盛(タイラノコレモリ)が新宮で「明日社ふし拝み」と記されており、阿須賀神社への参拝が一般的な事象であった事が明らかです。従って、阿須賀神社は熊野参詣道中辺路(ナカヘジ)の一環としてUNESCO世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」指定地の一つとなっています。
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明徳元(1390)年、3代将軍足利義満が阿須賀神社の造替に際して奉納した神服・調度品等の工芸品類70点余は「阿須賀神社伝来古神宝」として国宝に指定されていますが、昭和26(1951)年に文化財保護委員会(文化庁の前身)が買い取り、現在は京都国立博物館に所蔵されています。
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天保10(1839)年刊の『紀伊続風土記』には、近世の阿須賀神社には並宮・拝殿・御供所(ゴクウショ)・鐘楼堂・四脚門・鳥居・社僧行所等などがあったと記されています。明治40(1907)年に政府の神社統合策により、熊野速玉大社の末社であった建角美命(タケツネノミコト)を祭る八咫烏(ヤタガラス)社や黄泉津道守命(ヨモツミチヌノミコト)を祭る宮戸社等を合祀しました。黄泉津道守命とは伊邪那美命(イザナミノミコト)の別名です。
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阿須賀神社には速玉神坐像・夫須美神坐像・奇御食神(クシケミノカミ)坐像が神宝として伝わっており、国宝に指定されていましたが、昭和20(1945)年7月17日のB29による焼夷弾攻撃で焼失してしまいました。この三像の写真は残されておらず、鬼畜の所業によって貴重な文化財が失われてしまったのです。
昭和35(1960)年、東京国立博物館の発掘作業で社殿裏側に於いて蓬莱山経塚が発見されました。出土遺物は200点余を数え、隣接する岩室からも400点以上の御正体(ミショウタイ)が出土しました。御正体の製作年代は平安時代4点・鎌倉時代119点・室町時代42点・不詳数点と分類されており、鏡像・懸仏の両方を含みます。描画技法は墨彩・毛彫・線刻・針書・金銅鋳出等の多岐に亙り、描かれているのは半数以上が阿須賀神社の本地仏である大威明徳王(ダイイトクミョウオウ)ですが、熊野三山の本地仏である阿弥陀如来(熊野本宮大社)・薬師如来(熊野速玉大社)・千手観音菩薩(熊野那智大社)や、神倉神社の本地仏である愛染明王(アイゼンミョウオウ)像等も出土しています。これら出土物はすべて東京国立博物館で整理・調査・研究されましたが、昭和51(1976)年に神社へ返還された後、新宮市立歴史民俗資料館に保管されており、「和歌山県阿須賀神社境内(蓬莱山)出土品」の名で令和元(2019)年7月23日付で国の重要文化財に指定されました。指定物件は御正体193点・銅鏡2点・銅仏像残欠2点・銅銭7点・金銅飾金具残欠9点・一字一石経136点・土師器皿残欠1点・御正体等残欠多数です。
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拝殿です。
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本殿です。
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阿須賀神社の手水鉢〔新宮市指定有形民俗文化財〕です。
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紀州藩新宮城第2代城主水野重良が寛永8(1631)年に寄進した物で、黒雲母花崗斑岩(クロウンモカコウハンガン)の巨大な一枚岩を刻んで仕上げられています。
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徐福を祭る摂社徐福宮です。
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蓬莱山の社叢〔新宮市指定天然記念物〕は境内地後背の蓬莱山にある暖帯照葉樹林です。
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高木には楠・胆八樹(ホルトノキ)・椎(シイ)等、亜高木には蚯蚓灰(ミミズバイ)・白新木薑子(シロダモ)・大明橘(タイミンタチバナ)、低木には犬柘植(イヌツゲ)・馬酔木(アセビ)・鎌柄(カマツカ)・梔子(クチナシ)、更に林床には千両・万両・藪柑子(ヤブコウジ)や暖地性羊歯(シダ)類が繁茂しています。市街地の中にありながら、豊富な植物相を持つ点で貴重な森です。
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小紫(コムラサキ;Callicarpa dichotoma)もありました。
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阿須賀神社のテンダイウヤク〔新宮市指定天然記念物〕です。
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天台烏薬(Lindera strychnifolia)は徐福が求めた不老不死の妙薬の正体とされるため、徐福上陸地の伝説がある阿須賀神社に植栽されており、社殿脇の徐福の墓と称する塚の上の個体は樹高3mにも達しています。本来は低木の天台烏薬としては稀有な例です。
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阿須賀神社境内には新宮市立歴史民俗資料館があります。
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昭和54(1979)年の開館で、入館料は210円です。
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一階展示室では「和歌山県阿須賀神社境内(蓬莱山)出土品」〔重要文化財〕を中心とした展示が行われています。
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御正体の一つである大威徳明王です。
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二階展示室では新宮の歴史や民俗に関する展示が行われています。
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新宮城に関する史料展示もありました。
http://kamnavi.jp/ki/nanki/asuka.htm 【阿須賀神社(あすか)】より
新宮市阿須賀町
鳥居と蓬莱山
交通案内
紀勢線 天王寺→新宮 東へ徒歩10分 its-mo
祭神
事解男之命
配祀神 熊野夫須美大神、家都御子大神、熊野速玉大神
合祀神 黄泉道守命、建角美命 明治後期に合祀した宮戸社と八咫烏神社の祭神
境内社 阿須賀稲荷神社、徐福宮
徐福宮
徐福公園の像と背後の墓
由緒
熊野川の河ロを1.3キロほど遡った西岸に、半身を水流にさらす円錐形の孤丘〈標高約40m〉がある。この南麓に鎮座。
当地には、秦の徐福が始皇帝の命により、不老長寿の薬を求めて東海へ船出し、ここに漂着したとする伝承がある。近世、それにちなみ孤丘は「蓬莱山」と名づけられた。 古木の鬱蒼うと繁る神奈備型のこの丘は、往古は熊野川の河ロ近くに浮かぶ小島であった。
熊野灘の他には帯世国があるとの信仰がある。かっての島は、帯世国の神霊が寄りつく所と信じられていた。 徐福伝承と結びつく起源もそこにあった。
神武天皇熊野神邑顕彰碑が大正時代に建立されている。
当社の域内には、社殿背後の蓬莱山中を含めて弥生時代から室町時代に至る遺跡があり、戦後になって、数次に渡って発掘調査が行なわれて来た。
昭和29年 境内から弥生時代の竪穴式住居跡、土師器、須恵器、祭祀用土器
昭和34年 子安石付近の洞穴から藤原時代から鎌倉時代の御正体(懸け仏)、経塚、石室
御正体は本地仏の大威徳明王、薬師如来、十一面観音、阿弥陀如来 等、熊野信仰に関わる諸仏。
昭和39年 本殿向かって左脇(上オンビと呼ばれる) 石組み機構、礫石、銅板御正体 鎌倉初期
昭和50年代 竪穴式住居跡、掘っ建て柱住居跡、溝状遺稿
弥生時代は人が住んでおり、この蓬莱山と宮戸社があった熊野川に面した小丘との組み合わせで、宮戸で水葬した魂が熊野灘のかなたの常世国で再生して蓬莱山に神霊として蘇る信仰が想定されている。*1 また王子社跡があるように、後年、熊野信仰の影響を大きく受けている。
阿須賀神社を頂点とした2等辺三角形のそれぞれの角に速玉大社と神倉神社が鎮座する。
当社は中古、火災のために古文書、旧紀をことごとく失ったが、天仁二年(1109)に白河上皇の参詣があったという由緒にふさわしい多くの神宝を有している。 うち国宝指定のもの十五点に及び、現在すペてが国立京都博物館に保管されている。また境内発堀物は境内の新宮市立民俗資料館に保管きれている。
神社で頂いた熊野阿須賀神社について
当社は古事記・日本書紀にしるされている熊野村、熊野神邑でありまして遠く第五代孝昭天皇御世の創立と申されます。
御承知の通り伊邪那岐伊邪那美さま熊野に参られ御生みになつた神々をお祭りし、従つて熊野は黄泉の国常世の国と読まれ初め家津美御子さまは貴袮[のぎへん]谷、結速玉はアスカの森に二宇の社、第十代崇神朝には熊野川上流の音無ノ里、結速玉には第十二代景行朝、今の新宮に遷座、当社は熊野の発祥地と云われています。(長寛勘文1162年)(熊野山略記)
阿須賀とは阿は接頭辞、祭祀生活を営む好適条件を備えた霊場とか或は浅州処と名づけられる地名で此の地方の国魂神(在来神)であつたものが、中世以後熊野隆盛なりし頃御幸日記を見ましても当社奉弊参向、三山に習合準ぜられるようになりました。(中右記1109年)今国宝の多いのをみても朝野の尊崇が察せられます。
社後の森即ち蓬莱山は、第七代孝霊朝、素人徐福始皇帝の苛政を遁れ不老不死の仙薬を採り、童男女三千を卒い五穀百工を携え東海に船を浮べ当山に参つて帰らず子孫繁昌したと伝えられる徐福之宮がございます。尚之らの歴史を裏付けるかのように近年数々の考古学的遺跡と遺物は共の痕跡を証明し中央学界の話題になりました。 平安朝の昔から上下貴賤競って不老長寿神仙境にあこがれ、霊薬ありときいて蓬莱島を捜し求めて熊野に詣でたのであります。
然して熊野路が持っ魅力は観光の魅力、山や川、岩や温泉だけの魅力ではありません。路のすみずみに遺されている歴史と宗教的なものであると申されます。産業国土開発の威によつて之らの遺産が消え去り行く中に熊野のみが持つ美しさが云い知れない魅力だと申されております。
神仙説と結ばれた秀麗な蓬莱山の容相、古典的な、たたずまい、熊野阿須賀神社は幾多の記録伝説や考古学の見地から其の古き歴史と信仰生活のあとが偲ばれる蓬山[常世]にございます。
御祭神 事解男命、家津美御子大神、夫須美大神、速玉大神
配 神 黄泉道守神 建角美神
例大祭 毎年十月十五日に行います。
社殿造営 徳川幕府歴朝の聖慮を奉体し昔時の尊厳を保持し造営維持の方法を設け、嘉永七年に将軍家定紀伊国主をして社殿の再建を成し、其の結構宏壮偉魔でしたが戦災の為悉々烏有に帰しましたが昭和五一年に銅板葺社殿が復興いたしました。
蓬莱山 史蹟飛鳥の森は古来禁足地となつていた聖域にございまして権現御創祀の神蹟、即ち最初は孤立した斉島(神の森)原始期の磐座であつて其の麓には上・下・両古代祭祀遺跡と、後世両部信仰に関係深い熊野諸尊御正体埋納所(経塚)を営み、熊野信仰の一霊所であつたことがわかるのでございます。
今に至るも蓬莱山に対する信仰には変りありません。
境内三光社 熊野三毛津神と尊称され又夫須美神の荒御魂、熊野党の母神ともいわれるなど共の創祀は並宮として更に古代にさかのぽるものと思われます。
徐福の宮 弟七代皇霊天皇の頃、秦の徐福が始皇帝の命を受けて不老長寿の神薬を求めてこの熊野に来り、蓬莱山の麓に住み、捕鯨、製紙、造船等を導き里人の敬慕するところとなり、この地に奉祀されたといわれています。
神宝(国宝)と考古遺物 神宝は古来遷宮の都度朝廷貴族より御寄進ございまして稀世の宝器、紀伊風土記に記載された神宝の数、三十三種六十九点に及んでこざいます。 今は当社伝来として国立京都博物館に保存され、此の外近年発見された数多くの弥生須恵、土師器の外、祭杷遣物を初め和鏡八点、銅板毛彫鏡七九点(藤原時代)御正体諸尊像二百数十点(鎌倉、南北朝時代)は、それぞれ御由緒深い御社歴を証するものでございます。
お姿
蓬莱山は神奈備山の典型である。その昔には島であった。境内に竪穴式住居跡の遺跡や民俗博物館があり、生きた歴史を学べるようになっている。