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大地から感じる五島の魅力(文化サイト・自然サイト)

2023.01.10 05:13

https://goto.nagasaki-tabinet.com/feature/geobunka 【大地から感じる五島の魅力(文化サイト・自然サイト)】より

五島列島は、日本列島の西の端にあると同時に、東シナ海の一角を占める場所にあります。

五島列島の大地は、約2200~1700万年前に堆積した(ユーラシア)大陸由来の砂と泥が基であり、その当時は大陸の一部でした。

この大陸由来の砂と泥の地層(白と黒のしましま地層)のことを「五島層群」と呼びます。

いくつもの大地の変化を経て、日本列島が大陸から離れて形成される際に、最後まで大陸とつながっていた特徴を持ち、その後、火山の噴火によって、溶岩台地と多くの火山島が形成されています。

中国大陸と日本の中間に位置する五島列島は、遣唐使の経由地、倭寇の拠点、潜伏キリシタンの移住など、大陸との関わりや離島であることを背景とした歴史が数多く存在しています。

石田城石垣

江戸時代末期、黒船来航を機に外国船警備のために「海城」として築城されました。

石田城の石垣は、鬼岳火山群から流れた溶岩(玄武岩)で、硬くて丈夫であるという特徴があります。

武家屋敷通りの石垣としても使われています。

武家屋敷通り

福江武家屋敷通りには中級武士の屋敷の石垣が残っています。石垣は、付近の海岸から運んだ玄武岩の丸石を主体に築かれ、さらに石垣の上に積まれた小石(こぼれ石)は、敵が侵入してくるのを防ぐ役割を果たしました。

石田城や武家屋敷通りがこの場所にあるヒミツは大地にあった!?

福江大津の岩川

大津地区には、鬼岳の地下を流れた水が湧き出る場所がいくつかあります。

このような湧水地を地元では「かわ」と呼び、洗濯場や野菜の洗い場として利用してきました。

大津地区では、この貴重な湧水を利用してきた歴史があります。

水温は18℃前後で、年間を通してほとんど変わりません。溶岩台地でろ過されているため、透明できれいな水が流れています。

農村集落を代表する景観であり、福江地区の地形的特色を持った場所といえます。

明との交流遺産

2つの遺産は、五島が東シナ海の拠点のひとつであったことを示す歴史遺産です。

●六角井

井戸枠を六角形に板のような石で囲んでいます。井戸の中を覗くと、水面下まで六角形の形をしています。

この型の井戸は長崎県内に3つあり、所在地はいずれも港町で、唐船との交渉があった場所とされています。

天文9年(1540)五島領主17代盛定のころ、活躍していた五峰王直が交易を求めて来航したので、盛定は居城(江川城)の対岸に土地を与え、唐人町を開かかせました。その際、来航してきた唐人達が江川城本丸下につくったのがこの井戸であると伝えられています。五島における倭寇時代の遺跡の一つです。

●明人堂

天文9年(1540年)、当時東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は、通商を求め福江に来航、財政的に苦しかった領主宇久盛定は喜んで通商を許し、江川城の高台(現在の唐人町)に居住地を与えました。その一画に王直ら中国人が、航海の安全を祈願するために廟堂を築き、その跡が現在の明人堂であると云われています。

富江の陣屋石蔵

溶岩の切り石を隙間なく見事に積み上げたこの建物は、江戸時代の富江藩の貯蔵庫として使われていました。

屋根部分はないものの、350年以上経った今もしっかりとした形で残っています。

カンコロ棚などにも同じ玄武岩質溶岩が使われており、富江町の石文化を象徴するひとつです。のひとつの象徴です。

勘次ヶ城

「山崎の石塁」(昭和45年県の指定史跡)ともよばれ、今から150年程前、大工の勘次が河童と築いた石の城という説や、中国沿岸地域の海賊の築城方式に似ていることから倭寇のアジトとして築城されたという説があります。

城には、富江半島の大地を作る玄武岩の溶岩が使われ、迷路のような石積は長さ約180mもあります。

円畑

日本の耕地の原形とも言われ、福江島北部の三井楽地区や南部の富江地区で見ることができます。

五島の大地、なだらかな火山だからこそ、この風景に出会えます。

●富江の円畑

富江半島は只狩山を中心とした火山から噴出したサラサラの溶岩で出来ています。サラサラの溶岩は平坦な大地を作り、平坦な大地には円畑が数多く残っています。溶岩を円畑の囲いに使っていることが一目で分かります。

●三井楽の円畑

三井楽半島では楯状火山である京ノ岳の山頂から麓まで、円畑が広がっています。

季節風から作物を守るため、防風垣、椿の防風林で畑を囲っています。

スケ漁・スケアン

スケアン、又はスケ網(九州一円ではスキ)は、その起源が数万年前といわれる原始的漁法の一つです。遠浅の海岸に石積みを築き、潮の干満を利用して魚を獲る方法で石干見(いしひび)漁業とも呼ばれます。なだらかな溶岩で出来た遠浅の地形をうまく活用した漁法と言えます。

●富江のスケ漁

石積みを復元し、観光に活用しています。典型的な縄状パホイホイ溶岩の姿が残る遠浅の溶岩海岸に位置しています。

●三井楽のスケアン

建築時代は不明ですが、底部で約1.5m、上部で50~80cm、高さが1mから最高1.5mに積み上げた石塁で、約80mにわたって入江を塞いだ大規模な遺構が残っています。

遣唐使関連遺産

三井楽には、遣唐使や遣唐使として渡った空海にまつわる歴史が多く残されています。

●空海記念碑

遣唐使にとって日本最後の寄港地となった三井楽の柏崎。川原の浦(現在の岐宿町水ノ浦)や相子田(上五島)のように港としての規模は大きくないものの、風待ちや臨時寄泊地の役目を果たしたと言われています。

第16次遣唐使で唐に渡った空海の言葉「辞本涯」が刻まれた石碑が建っています。

●ふぜん河

遣唐使船の乗組員たちの飲料水として利用されていたとされる井戸。渇水期でも枯れることなく、良質の飲料水として喜ばれました。丸い石(玄武岩)を積んで井戸が作られており、現在も水が湧き出ています。

八朔鼻の海岸植物

八朔鼻は、岐宿町の北端に位置し、岐宿火山から流れた溶岩から形成されています。狭い地域ながら、福江島で海岸植物が最も多い地区であり、長崎県に産する海岸植物の約3分の1が生育するという、きわめて海岸植物が豊富な場所と言えます。中にはレッドデータブックに記載されているスナビキソウ、ハマサジ、ゲンカイミミナグサが生育し、また、対馬暖流によって運ばれる南方系種子も発芽しており、グンバヒルガオも毎年見られます。

皺の浦のハマジンチョウ

ハマジンチョウはハマジンチョウ科の熱帯性の常緑低木で、東南アジアから北上分布し、台湾、琉球、種子島を経て、九州西岸を経て五島列島まで生育しています。

奈留町大串の池塚には、直径100m、短径50mの海跡湖があり、その湖岸に長さ80mにわたってハマジンチョウが群落をなしており、県指定天然記念物になっています。指定地のハマジンチョウ群落には3つの特色があります。

・1つ目は、かつて五島列島の入り江各所に存在していたであろう大規模な群落をなしていること

・2つ目は群生地が海岸ではなく海跡湖の岸にあること、

・3つ目はその環境の高い自然度

いずれの点からも我国第一級のハマジンチョウの群落であると言えます。

亀河原のツバキ純林

亀河原は、久賀島の西部に位置しており、久賀島の中でも特に椿が多く自生しています。

ヤブツバキは海からの潮風にも強く、久賀島では海岸線や急崖でも繁茂しています。

古くから人の手によって管理され、ヤブツバキ以外の樹木を伐採することによって形成されたヤブツバキの純林。ツバキ分布調査では、約10,000本のヤブツバキが確認されています。

島民を中心に保護・活用され続け、椿油の生産・販売は地域の産業のひとつになっています。