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Okinawa 沖縄 #2 Day 150 (04/12/21) 旧佐敷村 (11) Tedokon Hamlet 手登根集落

2021.12.05 14:36

[手登根大比屋 (ティドゥグンウフヒヤー) の墓 (12月30日再訪]


旧佐敷村 手登根集落 (てどこん、ティリクン、ティディクン)

旧手登根村

旧平田村



この手登根には11月28日、12月1日、12月4日の三日間にわたって訪れた。今日で全部見終わるだろう。



旧佐敷村 手登根集落 (てどこん、ティリクン、ティディクン)

手登根は、尚巴志が佐敷小按司として佐敷上城に居を構えていた頃から、首里城に移るまで、第一尚氏の直領地の中でも重要な地位を占めていた。手登根は、配下の居所の中心を意味する「手里根 (てりこん、方音ティリクン) の当て字で、それがここの地名となって手登根と表記されたといわれる。

手登根集落は、琉球王統時代は手登根村と平田村の一部にあたり、この二つの村は古くからつながりは深く、 手登根ノロが両村の祭祀を司っていた。1903年 (明治36年) に手登根村と平田村が統合して字手登根となった。伝承では第一尚氏王統初代国王の尚思紹の三男が平田大比屋 (尚巴志の弟)、五男が手登根大比屋 (平田大比屋の子という説もある) と伝わっている。手登根大比屋は、尚巴志王の弟として明国との交易を始め、王府の財務を司る藏当 (クラアタイ) という重職に就いたと伝わっている。

民俗芸能としては、ニンブチャーといわれる古式エイサー「南無阿弥陀仏」、大和風流踊りを思わせる「シンズー節」、足並みの美を競った ウスデーク (臼太鼓) などの踊りも戦後まで残っていた。

1919年 (大正8年) の地図と現在の地図の民家の分布を比較すると、少しだけ分布範囲は広がっているが、さほど大きな規模ではない。米軍が敷設した現在の国道331号線沿いに拡張しているだけだ。国道331号以北は農地となっており、南側は丘陵で、大きく民家が拡張できる土地の余裕はないからだろうか。戦後の1945年は沖縄戦の影響だろうと思われるが民家はまばらで、以前の姿に戻ってきているのは1975年以降であることが判る。

字手登根の現在の人口は844人で、戦前とほぼ同じぐらいになっている。大きく発展することはできなかった。

戦後は900人台を維持していたが2010年以降、人口は減少傾向になり、近年も微減状態が継続している。

琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所) は以下の通り、旧平田村では殿が一つあるのみで、ほとんどの御嶽と殿は旧手登根村に集中している。村としては手登根村が主導権を持っていたことが想像できる。

手登根村

  • 御嶽: ミハナノ嶽 (神名: ナカモリツカサノ御イベ、所在地不明)
  • 殿: 手登根里主所火神 (所在地不明)、手登根巫火神 (ノロ殿内)神谷之殿、大ナカノ殿 (所在地不明)、安次富之殿 (安里殿)手登根殿桃原免原御神 (御願 在伊原)、川田ノシー
  • 琉球国由来記に記載されていない殿: 名幸殿

平田村

  • 御嶽: 記載なし
  • 殿: 平田里主所火神 (所在地不明)、東風平之殿


公民館の前に置かれた集落文化財の案内板


手登根集落訪問ログ


旧手登根村

まずは旧手登根村にある文化財から見ていく。11月28日には集落の北側から入ったので、それに沿って記載する。



名幸殿 (ナコードゥン)

集落内のほぼ北の端に拝所が二つ並んであった。向かって右側の拝所が名幸殿 (ナコードゥン) で、仲門 (ナカジョー) 家関係の拝所になっている。手登根大比屋より以前に伊原集落から手登根に移り住んだという名幸子 (ナコーシー) を祀っている。 集落では五月 (グングヮチウマチー) ウマチー (稲穂祭) と六月 (ルクグァッチ) ウマチー (稲大祭) にここを拝んでいる。


安次富之殿 (アシトゥドゥン、安里殿 アサトゥドゥン)

向かって左側の小さな祠は、琉球国由来記に記載がある安次富之殿 (アシトゥドゥン) にあたるとされる。ただ、人によっては、かつては安里殿  (アサトゥドゥン) と呼ばれていたが消滅してしまったともいわれている。平良 (テーラ) ヒチの拝所で、この手登根集落に最初に住みついた安里大比屋を祀っている。琉球国由来記には「稲二祭之時、シロマシ、神酒一半完 (百姓) 供之。同巫祭祀也 白米一升完、自 百姓、巫へ遣也。且、居神二人賄、神谷之殿同前也。」とあり、安次富之殿では手登根ノロにより、稲二祭 (五月ウマチー、六月ウマチー ) が司祭されていた。この御願は現在でも続いている。


名幸井泉 (ナコーガー)

名幸殿 (ナコードゥン) 北側畑の中に名幸井泉 (ナコーガー) がある。コンクリートで固められた平場 (多分、水場があたのだろう) の中に井戸があり、湧水はなく木が植わっている。かつての姿はなくなっている。伊原集落でも、旧名幸井泉があった。名幸殿で祀られている名幸大比屋はこの手登根に来る前は伊原に屋敷があったというので、旧名幸井泉は名幸大比屋が伊原時代に使っていたものだろう。


宮次井 (ナーシガー)

名幸殿 (ナコードゥン) の前の道を西に進むと、別の井戸の拝所がある。宮次井 (ナーシガー) とよばれ、白塗りのコンクリートの祠が置かれている。この拝所の詳細は見つからず。ここは集落北西の端に当たり、この道を更に西に進み畑を越えたところが山内屋取集落になる。そこには、後で訪れる予定。


中道 (ナカミチ)、馬場跡 (ウマィー) 

名幸殿 (ナコードゥン) から南に進み集落中心部に向かうと、広い道路に出る。集落内の道としてはかなり広い道幅だ。集落のメインストリートの中道 (ナカミチ) で、道沿いには馬場もあった。以前はここで綱引きも行われていた。


旧村屋跡 (戦後)

馬場跡 (ウマィー) の北の端には、戦後、収容所から帰還してきた時に、村屋が置かれた場所で、現在は空き地になっている。


製糖場跡 (北組、中組、南組)

馬場の西側には三つのサーターヤーが並んで置かれていた。手登根集落は南組 (ヘェーヌハラ)、北組 (ニシヌハラ)、中組 (ナカヌハラ)、旧平田の四組に地域分けをしており、この場所には、北から、北組、中組、南組の製糖場となっていた。


二つ井戸 (ターチューガ-)

馬場跡の南西の端に二つ井戸 (ターチューガ-) と呼ばれる井戸跡がある。ターチは二つの意味。確かに二つ並んである。これは尚巴志の弟の平田子 (ヒラタシー、三男) と手登根大比屋 (ティドゥグンウフヤ、五男) が井戸掘り勝負をしてできた井戸と伝わっている。深く掘った方が勝ちで、写真では柵がつけられている井戸の方が深さ5mと深く、手登根大比屋が掘った井戸だそうだ。平田子が掘った井戸は深さ1mだそうで、手登根大比屋の圧勝だ。更に伝承では、手登根大比屋は片手で、 平田子は両手で掘ったといわれている。多分、この伝承は手登根住民の作り話だろう。平田集落を下に見ていた様にも感じられる。両村の関係を表していると思える。旱魃の際でも水が枯れたことはなく今でも農業用水としても利用されてるようだ。 かつては、手登根ノロに仕える神人 (カミンチュ) が死んだ時には「世しりやびたん」 (世を終わりました) といって、ここに報告する習わしがあった。


村屋跡 (ムラヤー)

二つ井戸 (ターチューガ-) から更に南に進んだところに広場があり、ここが元々の村屋が置かれていた場所になる。この辺りが、昔の旧手登根村と旧平田村の境になる。


ノロ殿内 (ドゥンチ)

もう一度、馬場跡の北の端の旧村屋跡 (戦後) まで戻り、東側に進んだ所に手登根ノロの屋敷跡があり、そこには、赤瓦屋根のアシャギが建っている。ノロ殿内で、正面手前中央には、コンクリート製の香炉が、右奥には火ヌ神が祀られている。 現在の建物は平成13年に建て替えられたもの。ウークイの際に踊られる古式エイサーでは演者の集合場所となっている。

琉球国由来記には手登根巫火神と記され、「麦穂祭、且、稲穂祭三日崇、三八月、四度御物参之時、佐敷巫火神同断也。年浴三日崇之時、神酒 (百姓)。年浴之日、花米九合 神酒壱 (百 姓)。麦初タネミヤタネノ時、 花米九合・五水四合 神酒壱 (百姓) 供之 巫ニテ 祭祀也。」 とある。 現在、手登根集落としての御願行事は13あるが、そのうち10の祭祀で拝まれており、最も重要な拝所となっている。手登根巫 (ノロ) は集落の有力者のウフシ門中から輩出されていた。


手登根公民館

ノロ殿内 (ドゥンチ) の南側に公民館が置かれている。先ほど訪れた、元々の村屋から戦後の村屋を経てここに新しく建てられている。


桃原 (トーバル) グヮンス

公民館の駐車場脇を奥に入ると裏に、桃原 (トーバル) グヮンスと呼ばれている神屋がある。ここはウフシ門中 (屋比久・平田・宮城・宮里姓) の拝所になる。グヮンスとは方言で「元祖」の意味で、この集落の草創期に、この地にいた有力者の一人である桃原グヮンスの屋敷があった場所。


桃原井泉 (トーバルカー)

公民館の前には桃原井泉 (トーバルカー) の拝所がある。集落住民の産井泉 (ウブガー) として使用されていた井戸。この前の道路で手登根集落は北と南に分けられて、北を北組 (ニシヌハラ)、南を南組 (ヘェーヌハラ) になり、この桃原井泉は南組 (ヘェーヌハラ) の産井泉だった。


上ヌ毛 (ウィーヌモー)、闘牛場跡、農村広場

公民館の横の道を登った所に、かなり広い広場がある。農村公園となっている。ここは昔は上ヌ毛 (ウィーヌモー) と呼ばれていた。この広場の北側は闘牛場が置かれていて、闘牛ブームの時代は大いに賑わっていたそうだ。


ウフシ門中の拝所

農村公園の広場の一画に木々の生い茂る丘がある。何かありそうと思い登ると、やはり拝所があった。四つ拝所があったが、そのうち三つは金網で三方を囲っている。ここで出会ったおじいによると、この拝所は、何度も出てくるウフシ門中の聖地という。三つの主要な拝所は、それぞれが、ウフシ門中の長男系 (屋号 内武平 ウチンリ)、次男系 (屋号 大屋 ウフヤ)、長女 (ノロ) 系 (屋号 宮次 ナーシ) に係わるものだそうだが、どれが誰に該当するのは聞かなかった。

この丘の拝所がある済に酸素ボンベの鐘が吊るされていた。昔からここにあって使われていたのだろうか?


土帝君 (トゥーティークン)

農村広場のウフシ門中の拝所と反対側には、中国起源の農業神で豊作、健康、村の繁栄を祈願していた土帝君 (トゥーティークン) が置かれている。石の祠の中には香炉代わりの四角い石のみがあり、土帝君像はなかった。かつては、17世紀初頭に明の福州から甘藷を沖縄に持ちかえった野国総官とその供の二体の神像があったそうだ。これは興味深い。通常は土地の神の土帝君事態の像を祀っているのだが、ここでは野国総官像に変わっていたのだ。これは沖縄の信仰をよく表していると思う。集落の人たちは、拝めるべきと思ったものを、その名称にはこだわらず、信仰の対象にしてしまう。もともとの教義とか定義などについては無頓着だ。 この土帝君はもともとは、公民館から坂道を登り切った所にあったのだが、1984年に農村広場を整備する際に、ここに移された。その時に、ウフシ門中の拝所がある丘も平場にして、そこにある拝所群を、土帝君に並べて移設しようという意見も出たのだが、当時、集落の長老格であるウフシ門中から、丘は聖地なので残してほしいとなり、結局この丘は手を付けず、元のままとされている。現在も2月2日の土帝君 (カンカー) の際に集落で御願している。


平和祈念塔

資料によれば、平和祈念塔は戦後の早い時期、昭和22年に建てられ、手登根集落出身で支那事変と大東亜戦争 (沖縄戦) で戦死した67柱 (内 59柱は沖縄戦での戦没者) を慰霊している。戦没者の名前が刻まれている。正規の軍人の他、現地での民間人による防衛隊、学生隊、看護婦、徴用された人たちの名もある。

軍関係の戦没者以外にも、この手登根集落では多くの民間人の戦没者がいた。上の慰霊塔に刻まれた人も含め、合計185名が沖縄戦で犠牲となっている。当時の集落住民の28.5%にあたり、約三人に一人が犠牲になった勘定だ。この手登根集落内には砲台が置かれており、集落の民家は日本軍兵士の宿舎や倉庫としても使われていた。想像するにこの砲台があった手登根は米軍の艦砲射撃の標的になったと思う。


神谷之殿 (カナヌドゥン)

元々の村屋の近くの国道331号線沿いの手登根前原にカナ殿 (ドゥン) とも呼ばれた神谷之殿 (カナヌドゥン) がある。手登根集落の平田子 (ヒラタシー) の子孫と伝わる神谷門中 (カナムンチュウ、カナヒチ) と津波古集落の神谷門中の拝所となっている。琉球国由来記には「稲二祭 之時、シロマシ 神酒壱半宛 (百姓)、供い 之。同巫祭祀也。白米壱升宛、百姓ヨリ巫 へ遣也。且、祭前日晩ヨリ祭日朝迄、居神老人、一汁一菜ニテ百姓ヨリ賄仕也」とある。五月ウマチー (稲穂祭)、 六月ウマチー (稲大祭) が、 手登根ノロにより執り行われ、その際、シロマシと神酒が百姓から供えられていたと書かれている。旧暦5月15日のウマチーには、ノロを先頭にして免原 (ミンバル) の御神 →ノロ殿内→手登根殿→東風平殿→神屋之殿→名幸殿の順で馬で廻り、儀式を行っていた。馬は五月ウマチーには手登根ムラから二頭、六月ウマチーには手登根と平田村から各一頭出し、提供者には手当があった。


手登根殿 (ティドゥグントゥン)

神谷之殿から国道331号を渡って、畑の中を進んだところに手登根殿 (ティドゥグントゥン) がある。手登根殿は苗代大親 (佐敷按司) の五男で尚巴志の弟の手登根大比屋のが住んでいた屋敷跡といわれている。(後に集落の山手側に移動している 屋号: カーラヤー この後訪問)。手登根大屋子 (手登根大比屋) は、佐敷小按司 (後の尚巴志) の頃から直領地の手登根を根拠地として、佐敷小按司配下の軍隊の指揮、管理、訓練を任されていたという。三山統一の影の人物として、軍糧と武具の補給という重大任務を担当した人物ともいわれている。手登根大比屋は手登根集落の総元家とされている。この殿のある付近が瀬類原 (シリーバル) であることから、瀬類 (シリー) 殿とも呼ばれている。 

祠の前の広場では古式エイサーの奉納舞踊を行い、祖先の霊を慰め、集落内の厄を払い除けたという。

手登根殿 (ティドゥグントゥン) を囲むようにビンロウヤシが植わっている。南国の雰囲気が漂う。


手登根井泉 (ティドゥグンカー)

手登根殿への入り口付近に手登根井泉 (ティドゥグンカー) がある。手登根殿のグサイ井戸 (カー) という。


福建 (堀川) 石 (フッチャーイン)

手登根殿 (ティドゥグントゥン) 一帯に広がる農地に安山岩の細長い岩が付き刺さって立っている。フッチャーインの名は福建から持ち帰ったからという説とこの地が堀川だったという説がある。この岩は尚巴志の弟の手登根大比屋が、兄の冊封を求めるため明に赴き、その帰国の際に持ち帰ったといわれる。また、別の伝承では、手登根大比屋が丘陵の上にあるアカバンターから投げて突き立ったとか、船の碇石であるとか伝わっている。

伝承にあるこのフッチャー石を投げたアカバンターの場所がここから見える。丘陵上に立つ風力発電のプロペラがあるところがそうだ。とんでもない力持ちだった??



旧平田村

次は、旧手登根村の南側に隣接してあった旧平田村内の文化財見学に移る。平田村は1903年に廃村となり、手登根に編入された集落。



カーラヤー

旧手登根村から旧平田村に入った所にカーラヤーと書かれた文化財がある。手登根之殿の場所に屋敷を構えていた手登根大比屋が、後に屋敷を移したという。敷地内には神屋が建っている。


東風平殿 (クチンダドゥン)

平田原に東風平殿 (クチンダドゥン) または、平田殿 (ヒラタドゥン) とも呼ばれる旧平田村の拝所がある。 尚巴志の長男の平田子 (ヒラタシー) の子孫とされるカナヒチ (神谷 平田姓) の拝所。(ヒチは門中と同じ意味) 平田村に最初に住みついたとされる東風平主 (クチンダスー) を祀っている。東風平殿の前のプレートには「佐敷主 東風平主 渡嘉敷主 元家神谷家、左之御三方御兄弟佐敷間切御 創立之神々」と書かれている。琉球国由来記には東風平之殿 (平田村) とあり、「麦初種子 ミヤタネノ時、平田里主所火 神二同也。稲二祭之時、シロマシ・神酒壱 (百姓)、供之。同巫祭祀也。 (麦初種子ミヤタネノ時には、平田里主所火神を祀る時と同様、花 米九合五水四合 神酒壱といった供物が百姓より供出された)」と記されている。手登根ノロによって祭祀が執り行われていた。現在は、ここでもウークイの際の古式エイサーが奉納される。 

ここで祀られている佐敷主とは平田(之)子の事でないかと思う。平田(之)子は元々は佐敷王子であったが、尚巴志が南山城の他魯毎を攻めた際に尚巴志の弟の平田大比屋が戦死してしまい、長男の佐敷王子を平田家に養子に出し、平田(之)子 (後に平田大比屋) となったという。平田(之)子の子孫が孫姓を名乗ることになる。余談だが、NHKで放送された「テンペスト」で仲間由紀恵が演じた真鶴 (孫寧温) はこの平田(之) 子の子孫の孫氏主家に生まれ、第一尚氏の再興を担わされ男として第二尚氏につかえるというストーリーだった。

ここで少し疑問が出る。何故、尚巴志は後継ぎになるはずの長男を養子に出したのだろうか?長男以外にも息子がいたのだが、通常であれば嫡男を養子に出すのは考えにくい。これについて、手登根の上之毛で出会った80歳のおじいの説は、尚巴志の叔父の平田大比屋の尚巴志長男の平田之子は正室の子ではなく、側室の子だったと推測していると言っていた。その根拠として、子孫とされる手登根の平田家には家紋がない。尚巴志系は左三つ巴を家紋としているのだが、平田家ではこれを使っていない。使うことができなかったのではないか、その理由は嫡男ではなかったという推理だ。おじいによれば、この持論は昔から主張していたが、同じ門中の人からは、なぜ自分の祖先を妾の子などというのだと、たしなめられていたと言っていた。話をしていると、おじいも平田之子の子孫のようだ。おじいの説とは別に、平田子は新里村の後並里の娘との間に生まれた子というのがあった。

資料では、この敷地内には、向かって右手に井泉跡と思われる拝所があるとなっていたが、見当たらない。そこにある石碑に「殿森川碑 2009年十月吉日」と刻まれているとある。(この後に、この石碑を偶然、別の場所で見つけることになる)

また、左手には3つの小祠が祀られていて真ん中の祠の中にある石には「殿のクサティ御嶽」とかかれている。これは面白い。クサティはクサイ、グサイで「対、関連」や「付随」を意味する。御嶽が殿に付随するというのはおかしく、御嶽に付随するのが普通だ。これは御嶽という概念が次第に拝所と同じように使われているケースと思える。左側の祠の石には「豊年満作」と表記されている。

東風平殿の脇に林の中に上っていく道があったので、入っていくと行き止まりの木の根元に石が置かれている。拝所の様な気もする。わざわざ道があり、ここに通じているので何らかの拝所なのだろう。


平田村 村屋跡

東風平殿の正面の広場は、資料によれば平田村の村屋があった場所となっていた。平田村は1909年 (明治42年) に廃村となって、手登根集落に吸収されたとなっているのだが、沖縄戦当時の地図には村屋が記載されている。廃村後も平田村では自治を維持していたのだろう。これは沖縄の血縁一族、門中の結束力の強さと排他的な風土が良く表れている。


沖縄戦日本軍砲台跡

東風平殿の裏山には、沖縄戦当時、日本軍の砲台が二基備えられていた。一つは東風平殿の後方、もう一つはその山の向こう側の斜面となっていた。砲台があったことは米軍は掌握していたことは確実で、ここも艦砲射撃の目標になったと思われる。


山城井泉 (ヤマグスクカー)

東風平殿の前の村屋跡の西側に平田村の産井泉だったとも伝わる山城井泉 (ヤマグスクカー) がある。 神谷子 (カナシー) が掘った井泉といわれる。二つ井戸があり、どちらも今でも湧水があり、給水パイプが通っている。現在でも使用されているようだ。


平田村前道 (メーミチ)、馬場跡 (ウマィー)

先程見たカーラヤーの前の道は南側に続いているのだが、この道が旧平田村の前道 (メーミチ) だった。この道の東側に平田集落が広がっていたのだ。この道沿いにもかつては平田の馬場があった。手登根の馬場とそれほど距離は離れていないのだが、やはり、旧平田村は手登根に合併後も依然と変わらず、独自の馬場を持ち、村の自治を守っていたのだろう。


平田組製糖所跡 (サーターヤー)

前道 (メーミチ) の南端に二つサーターヤーが置かれていた。一つは空き地になって草がきれいに刈られている。もう一つは畑になっていた。 


殿森川碑 (トゥンムリガ-)

資料では東風平殿の敷地内にあるとなっていた拝所が、集落から東に外れた丘陵の麓にある畑の一画にあるのを見つけた。ここに移動したのだ。


後でインターネットでこの殿森川碑を検索したが、何を祀っているかなどの情報は得られなかったが、東風平殿での写真があった。2014年に撮られた写真なので、それ以降にここに移されている。想像では元々はこちらにあったものを、東風平殿に合祀したが、元に戻したのではないかと思われる。別の資料ではこの場所は東風平井泉 (クチンダガ-) となっており、また別の資料ではトゥンムリ井とあった。 トゥンムリは殿 (トゥン) 森 (ムイ) と一致する。やはり、元々ここに井戸があったのだ。殿とは東風平殿の事だろう。それで資料によっては東風平井泉 (クチンダガ-) となっているのだ。色々な呼ばれ方をしたのだろう。多分、東風平殿のグサイガ-に当たると思われる。(下の写真は東風平殿にあった時のもの)


ユックィービラ (坂) 

手登根から知念字久手堅へ登る坂道でユックィービラ (坂) と呼ばれている。かつては御新 (おあらお ) 下り (往路) の際、首里城から港橋経由で続いている斎場御嶽へ向かう道の上り口で、アカバンターまで石畳の道だった。

アカバンターまで続いているかも知れないと思い。斜面の道を森の中に入って行く。しばらく進むと行き止まりになった。森の中に道らしきものがあるかも知れないと、木々をかき分けて探すが、それらしきものは無く、断念。

風力発電のプロペラの場所がアカバンターで、ここからだと急坂だっただろうが、それほどの距離では無い。


ハサマ井泉

集落の南端にある井泉。この辺りに古集落の平田村があったといわれている。 現在も湧水があるそうだ。井戸はサトウキビ畑の中にあり、一面ぎっしりとサトウキビが生えて、中に入るのが、躊躇われた。道路の上から井戸を探して写真を撮った。


山内屋取地区

手登根集落から伊原集落に向かう途中には、かつて山内屋取集落があった。現在でも数軒の民家が集まってたっている。旧士族が帰農し、この辺りの畑で小作をしていた集落。


集落に近い場所にはサーターヤーがおかれていた。跡地は空き地になっており、雑草が生い茂っている。


12月4日に隣村の伊原集落を見終わった後に丘陵の上にあるアカバンターを目指した。古道で歩いて訪れたかったのだが、古道は全て消滅してしまっており、ここからアカバンターに行ける道は1931年 (昭和6年) に開通した県道のみになっている。この坂道を登るのだが、斜度は10-16度とかなり急な坂で1キロ続く。登り始め暫くで力尽き、残りは自転車を押しながら、途中給水タンクで休憩を取り、なんとか登り切った。


底井 (スクガー)

坂道を三分のにニ程登った道端に井戸跡がある。底井 (スクガー) という。県道の東側は谷になっており、そこを流れる川がセクガーラだった。谷 (セク) 川 (ガーラ) で、その井戸でセクガーと呼ばれ、スクガーに変化し、谷が底という当て字に変わり、底井 (スクガー) となったそうだ。


アカバンター

県道を登り、丘陵の端の崖までは未舗装の道を通り、アカバンターに到着。以前は手登根のユックィービラがここまで続き、斎場御嶽への道の経由地だった。残念ながら、ユックィービラは消滅してしまっている。この場所は知念と佐敷交流の場で、戦前まではモーアシビ (毛遊び) が行われていた。佐敷の若者たちはユックイ道を登り、知念の若者との交流をしていた所。佐敷からユックィービラを登りここに来るのは大変なので、ほとんどは佐敷の青年が知念の少女目当てのモーアシビ (毛遊び) だったのではと想像する。

ここは佐敷が一望できる名所だったそうだ。確かに、字佐敷全域が見渡せ、遠くは中城までも見える。


平田大比屋 (ヒラタウヒヤー) の墓、フナクブ洞窟群

アカバンターから丘陵の上を南西に進んだ所は、フナクブと呼ばれる洞窟群がある。その洞窟を利用した古墓が幾つかあり、その一つが尚巴志の弟で、1429年の南山攻めの際に戦死した平田大比屋 (ヒラタウヒヤー) の墓といわれている。

平田大比屋 (ヒラタウヒヤー) の古墓の周りにも幾つかの古墓がある。平田大比屋に関連した人物を葬っているのかもしれない。

墓の裏側は洞窟になっている。この周辺に点在するフナフグ洞窟群の一つで、第二フナフグ洞窟 (後フナクブ洞窟) と呼ばれている。沖縄戦当時は独立混成第四十四旅団独立混成第十五聯隊第二大隊 (井上部隊) の大隊本部、通信隊、医務室の兵員がここを陣地壕としており、知念村役場の職員もここに同居していたという。井上部隊は昭和20年3月23日から4月28日までこの壕に待機し、その後、那覇市壷屋の壕へ移動し、首里戦線の戦闘に投入されている。

洞窟への入り口にも古墓があり、「神谷子之御墓 (カナシーヌウハカ) 」と書かれている。更に洞窟の中にある踊り場には「神谷 (カナ) 家祖先之御墓」と書かれた石柱が立っている。この洞窟事態またその周辺にある墓は神谷 (カナ) ヒチ一族のものの様だ。平田村で回った文化財の多くがこの神谷 (カナ) ヒチ関連のものだった。平田村では筆頭の門中であることが判る。


東風平主 (クチンダスー) の墓

平田大比屋 (ヒラタウヒヤー) の墓のすぐ北側には平田村に最初に住みついたと伝わる東風平主 (クチンダスー) の墓がある。この墓も神谷家が管理しているようだ。こちらの墓は新しく祠が建てられて祀られている。

東風平主 (クチンダスー) の墓の隣には、神谷家の新しい墓 (当世墓) が造られている。「神谷家元屋之墓」と石碑が置かれている。現在はこの墓が使用されているのだろう。また、墓の屋根のひさしには旧御拝領墓とも書かれている。 拝領墓とは琉球王統時代に首里王府から賜った墓という意味なので、かなり古くから墓はあったと思われる。墓は建て替えられたのだろう。この神谷家の墓の前にはケーヌスクナベ之墓という古墓 (写真右下) もあり、ここから向かって右側の洞窟への入り口にも古墓 (写真左下) がある。

神谷家元屋之墓之向かって右側に洞窟がある。これもフナフグ洞窟群の一つ。第一フナフグ洞窟 (前フナクブ洞窟) と呼ばれている。見つけた資料ではフナフグ洞窟群で名前が付けられているのは6つあった。それ以外にも名が付けられていない物もあるようだ。その洞窟にも沖縄戦当時、野戦高射砲第七十九大隊と独立第二大隊が陣地壕として使っていたそうだ。

東風平主 (クチンダスー) の墓の向かって左側にも自然洞窟があり、その道沿いに古墓が一つ (写真右上) 、更に洞窟への入り口の崖にも石が積まれた古墓 (写真下) がある。

洞窟の中に入るとかなり広い空間がある。ここも井上部隊が陣地壕としていた。鍾乳石のつららが何とも神秘的だ。


手登根大比屋 (ティドゥグンウフヒヤー) の墓 (12月30日再訪、未訪問)

平田大比屋 (ヒラタウヒヤー) の墓から西に200m程行ったところに手登根大比屋 (ティドゥグンウフヒヤー) の墓があるのだが、平田大比屋 (ヒラタウヒヤー) の墓の隣の古墓をそうだと勘違いして、手登根大比屋の墓まではいかなかった。後で、間違っていたことが判り後悔。12月から1月にかけては、旧知念村の集落を訪れる予定なので、その際に再訪して、この手登根大比屋の墓を見学することにする。資料にある写真を下の載せている。

後日 (12月30日) に再度、ここを訪れ、手登根大比屋 (ティドゥグンウフヒヤー) の墓を探す。結果は見つからなかった。標識があるのだが、その先に道らしきものはない。強引に林の中に入る。

所々に道らしきものが通っている。その道を進みながら探すと、門中墓が三つあった。

古墓もいくつかある。

古墓の一つは面白い造りになっており、墓の前面には石積みでアーチ型の門が設けられていた。

更に、自然洞窟にも出くわした。フナフグ洞窟群の一つなのだろう。中はいくつもの通路があり、その側には部屋らしきものもある。その部屋の床には香炉が置かれていた。ここは墓だったのだろうか?先に見た。フナフグ洞窟群も古墓跡で香炉などが置かれていた。この洞窟もかつては古墓で、祖先を真tるために香炉が置かれているのではないだろうか。またここも、沖縄戦では日本軍の陣地壕として使われていたようにも思える。


手登根集落から目印になっていた風力発電所がすぐ近くにある。沖縄新エネ開発株式会社が風力発電と太陽光発電で電力会社への売電事業や企業への小売事業を展開しおり、沖縄全土で8サイト14基の設備をもっている。ここはそのうちの2基が設置されている。


これで手登根の訪問は終了し、丘陵尾根に通っている自転車専用道路を通り帰路に着く。誰ともすれ違わず、車も通らず快適。

所々で、林が途切れて中城湾が一望できる。今日は日差しがあり、暖かいので、入っていると風が気持ちがいい。沖縄はまだ冬が来ていない。


参考文献

  • 佐敷村史 (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
  • 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)