「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」5 (3)一橋家①一橋慶喜
内憂外患に対する激しい危機感から改革に邁進した斉昭を処罰しても、危機は解消されない。異国船の来航は続き、幕府は対策を立てざるを得ない。1845年(弘化2)、天保の改革に失敗した水野忠邦の後を受け、26歳の若さで老中首席となったのが阿部正弘。彼も幕末日本を動かしたキーパーソンの一人。
備後(広島県)福山藩主だった阿部は1843年(天保14)、わずか25歳で老中に就任。以来,権力抗争の打ち続くなか15年にわたり老中の職にあり、「収拾の偉才」と評された。ペリー来航以降,大船建造の解禁,江戸湾・大坂湾防備の強化と兵器の江戸運送許可,日米和親条約の調印,講武所・蕃書調所の設立等々,外圧への対応政策を進めた。かかる政策の推進は,これを川路聖謨(かわじとしあきら)、永井尚志(なおゆき)、岩瀬忠震(ただなり)など有能な吏僚を身分の高下にかかわらず幕政の要路に抜擢し委託した。また,薩摩藩主島津斉彬,越前藩主松平慶永らの有力大名と協調を図り,前水戸藩主徳川斉昭に幕政参与を要請した。しかし、これらの協調と改革の路線は、旧来の幕府専断に固執する譜代名家大名群の反感も招き、摩擦回避の意もあって正弘は、1855年堀田正睦(まさよし)(佐倉藩主)に老中首席の座を譲り、翌1856年、外国事務取扱も堀田に兼務させて第一線を退いた。
以上述べたように、阿部は斉昭の謹慎を解除し幕政に登用したが、慶喜の一橋家相続はこのことと密接に関係している。どういうことか?幕府は一度斉昭を隠居謹慎処分にした。幕府は天下の大公儀(おおこうぎ)であり、誤りを犯してはならない。そのため幕府は自ら斉昭の処罰は間違いであったと公然と認めることはできなかった。しかし、それでは斉昭や水戸藩の改革派を納得させることができないばかりか、全国の有志の士の信頼を得ることもできない。そこで、将軍家と水戸家との融和政策として採用されたのが、斉昭の七男慶喜の一橋家相続であった。
慶喜に徳川御三卿のひとつである一橋家を継がせようとする動きが出てくるのは、弘化4年(1847)8月のことである。7月に同家8代目当主昌丸(まさまる)が亡くなったのを受けて、老中阿部正弘を介して、水戸家に対して、慶喜を跡継ぎに望む将軍家慶の考えが伝えられた。この申し出は当時にあって極めて異例。御三家のひとつである紀州和歌山藩系で締められていた徳川宗家および一橋家から見て、最も縁遠い存在となっていた、水戸徳川家から慶喜が養子として入ることになったからである。家慶と首席老中阿部正弘の両者が斉昭との関係修復を望んだこと(家慶は、愛する正室の妹【斉昭の正室吉子】の子慶喜が賢明だとの評判をが聞きつけ気に入っていた)が、水戸家出身の慶喜の一橋家相続という異例の事態を生み出したのだろう。
この申し出に、慶喜を嗣子慶篤の控えと考えていた斉昭は難色を示したと言われるが、将軍の命とあっては拒むことができなかった。いや、斉昭にとって大きな魅力だったと言っていい。なぜか?
斉昭ならこう読んだはずだ。現将軍家慶は、あまり健康でないため長生きはしないだろう。それに家慶の後を継ぐべき世子の家定は生まれつき虚弱で、女性とも交われず嗣子がつくれず、おそらく短命であろう。となれば、次代の将軍家に養子が必要になってくる。将軍の養子は、水戸家を除く紀州家、尾張家という御三家のほかに、御三卿(一橋家、清水家、田安家)の家から選ばれる。その一橋家に慶喜が入る。そして、世嗣の子すらない尾張家、当主の死後生まれた菊千代(のちの慶福→14代将軍徳川家茂)は生後1年にもならない紀州家には、当分養子を出しうる能力はない。御三卿の方も、田安家は当主が元服したばかりだし、清水家は当主が紀州へ養子相続して空家。一橋家も不幸が続き、当主の昌丸はいま危篤の床にある。その一橋家を慶喜が継ぐということは、もし将軍家が養子を必要とするなら、この一橋家からとらざるを得ないということだ。となれば、水戸家から、将軍が出るかもしれない。それは初代水戸藩主以来例のないこと。一橋家への慶喜養子の話は、斉昭にとって魅力がないはずがなかった。こうして慶喜は一橋家に入る。
慶喜(草彅剛)と斉昭(竹中直人) NHK大河ドラマ「青天を衝け」
水野忠邦
「阿部正弘像」福山城 広島県福山市
「合衆国提督口上書」という、ペリーら三人の使節を描いた錦絵
禁裏御守衛総督時代(1864年~1866年)の一橋慶喜