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いのち 荒々しく自由に

2018.11.16 14:43

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-384.htm 【いのち 荒々しく自由に】より

                     俳人 金 子  兜 太(とうた)

一九一九年、埼玉県生まれ。昭和一八年、東京大学経済学部卒業、加藤楸邨に師事。同年、日本銀行入行。一九年より終戦まで、海軍主計中尉としてトラック島に赴任。二一年復員、二二年日本銀行に復職。神戸、長崎など支店勤務を経て、四九年証券局主査を最後に定年退職。かたわら「寒雷」「風」に参加、前衛俳句の旗手として頭角をあらわし、三○年第一句集「少年」刊行。三一年現代俳句協会賞を受賞、伝統にとらわれない独特の作風を不動にした。三七年俳誌「海程」創刊、六○年より主宰。五九年現代俳句協会会長を経て現代俳句協会名誉会長。「海程」代表。句集に「少年」「金子兜太句集」「旅次抄録」「遊牧集」「皆之」、著書として「一茶句集」「放浪行之」「種田山頭火」「俳譜有情」「わが戦後俳句史」「兜太のつれづれ歳時記」「蜿蜒」ほか。

                     ききて 山 田  誠 浩

ナレーター:  戦後、前衛俳句の旗手として、「五七五」の世界に新たな潮流をもたらした俳人金子兜太さん。季語や花鳥諷詠に拘らず、現代社会に生きる人間の現実を切り取ってきました。 

     銀行員等朝より螢光(けいこう)す烏賊(いか)のごとく

     湾曲(わんきょく)し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン 

金子さんは、戦争で多くの仲間の死を体験しました。以来、戦後の社会や人々の生き様を読み続けてきました。八十九歳の今、その目は草や木にも通じ合ういのちの世界に注がれています。

人間がどう生きるか。その答えはいのちの本当の姿にあると感じています。

金子:  「鶯神楽(うぐいすかぐら)」というんですね。これは嫁さんが調べて、こういうのを付けてくれているんだ。「鶯神楽」知らない名前だね。木というのも馴染んでいると同じ生き物という感じが強いわけなんだよ。だからこれこう幹なんかなぜたりすると友だちの肌に触ったりしているような気がしたりね。いい気持なもんですよ。寒紅梅を行ってなぜたりね。向かい側にカリンの木があるんだけど、カリンの木なんかの幹なんかやっていると、なんともいい気持になりますな。気持が非常によくなる。歳のせいもあるでしょうな。庭の梅を詠んだ句に、

     梅咲いて庭中に青鮫(あおざめ)が来ている 

ちょうど寒紅梅が後半の時期に入って、白梅や普通の紅梅が咲き出す。重なる時期があるんですよ。その時期が春の盛り上がるという感じですね。

山田:  それを詠まれたのが今の歌ですか。

金子:  ええ。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」 

山田:  「青鮫が来ている」?

金子:  その頃から既にずっと庭全体が、朝なんか特に青さめているんです。海の底みたいな感じ。青っぽい空気ですね。こう春の気が立ち込めているというか。要するに、春のいのちが訪れたというか、そんな感じになるんですね。それで朝起きてヒョイと見てね、青鮫が泳いでいる、というような感覚を持ったんですよ。それですぐできた句なんですけどね。私の場合だと、見たままを、そのまま丁寧に書くということよりも、それを見ることによって感じたもの、その感じたものからいろんなことを想像して書く、というふうなことがほとんどなんですね。想像の中にうそが入ったり、ほんとが入ったりしていい加減なんですけどね。それが自分では面白いんで。 

山田:  「前衛俳句の旗手」と言われていた金子さんが、自然を見ながら、そうやって俳句を詠むというのは意外な気もしますけども。それは前衛俳句の社会的なものを詠んでいらっしゃったけども、今の自然に向けていらっしゃる目もどっか通底するものはあるんですか。

金子:  まったくそうなんですね。それで今言われたような「前衛俳句」なんて言われた時期は、おっしゃる通り、社会と自分という関係をいつも見ていました。そこで見ていましたね。だけど同じ目で、現代はいわば天然のものですね。これはやっかいな言葉なんで自分では注意して遣っているんですが、私は、「天然と人間を含めて自然」という言い方をするんです。「草や木、動物たち」と言われるものは天然のもので、それと人間も同じような生き物なんだけど、一応人間というのは別枠のもので、それで両方ひっくるめて「自然」と呼ぶようにしているんですけどね。人間を見るのと花を見るのと変わらない。そういう状態になっていますね。前衛の頃はもっぱら人間と社会ばっかりみておったんですけどね。そこからいつの間にかそうなりました。

山田:  そうですか。 

金子:  勿論、「五七五」あればいい、と。あと自分の肉体に結び付けばいい、と。これが自分のいのちのままに振る舞っていることにもなるんだ、と、こういう思いですかね。 

ナレーター:  金子さんのいのちへの深い思い、その源流は故郷にあります。 

金子:  春になってきてこう芽吹くでしょう。この辺の感じは非常に記憶に残っているんですね。秩父ということを思うと記憶に浮かび出る風景です。昔から残っているんじゃないかな。これは子どもの頭に。春が来たという悦びもあるでしょうけどね。

ナレーター:  金子さんは、大正八年に生まれました。かつてニホンオオカミが棲んでいたという険しい峰々に囲まれた秩父。ここで金子さんの命が育まれたと言います。

金子:  向こうの家がちょいちょい見えますね。あれが皆野町(みなのまち)で、私の故郷です。

山田:  どの辺ですか。

金子:  キラキラ見えているところ、山の向こうに。屋根が見えているでしょう、たくさん。荒川がこう行っているでしょう。そこの小高い山とキラキラした荒川との境面辺りが私の育ったとこですね。山の向こうです。夕焼けになった時―ちょうど西ですよ―ちょうど赤く染まって、補陀落(ふだらく)とか言うでしょう、浄土の世界。ああいう感じになるんです。 

ナレーター:  金子さんの少年時代、秩父の山里は昭和恐慌のただ中にありました。主な産業であった生糸の相場は安定せず、人々は食べるのに精一杯でした。町の開業医だった金子さんの家も例外ではありませんでした。そんな中、楽しみにしていたのが、父親が自宅で開いていた句会でした。夜になると重労働を終えた農村の青年たちが集い、生活の実感を思い思いに詠んでいました。時には喧嘩になるほど活発に批評しあう青年たち。そんな生活と深く結び付いた人間臭い俳句が金子さんの原点です。

金子:  昭和恐慌の頃で、農村も不況でして、それだからあんまり仕事がないという状況だったのかな。それから勿論長男でも上の学校へなかなか行けないというような、そういう状態でしたね。ですから知的要求に飢えていたんですね。そういう青年たちが句会があると言ったら、みんな集まっちゃったんですね。句会に行ったらそういうものが満たされるという思いがあったんじゃないでしょうか。

山田:  頻繁に句会があったんですか。

金子:  月一、二回でしょうかね。とにかく元気でした。それで句会の後は必ず酒を飲みましてね。酒がないと句会じゃない、というふうなことをいう人がいましたね。それで母親がもっぱらその世話をしておったんです。ところが元気のいい人たちですから酒を飲むと喧嘩をするというのが普通でして、その喧嘩が面白くて我々は行って見ているというような。そして母親はそれに腹を立てていて、もっぱら私に向かって、「兜太、俳句なんか作っちゃいけないよ。俳句は喧嘩だからね」って。「喧嘩ばかりしている人間というのは、これは人間じゃないんだよ。俳人と書いて、どう読むかわかるかい。喧嘩するなんかする人は、人偏に非で人間に非(あら)ずなんだよ」って、よく言われまして。私はだから旧制中学時代は俳句を作らずにきました。作っちゃいかんと思った、ほんとに。

山田:  そこにいた人たちが詠んでいらっしゃった俳句なんていうのはどういうものだったんですか? 

金子:  いくつか覚えていますよ。その句会の席上で評判良かった句で、

     霧晴れて?(ぶな)の木(こ)の芽のいま芽立つ

ちょうど山麓(さんろく)ぐらいのところに住んでいる農家の人でしたけどね、まだ若い人で。農家は朝早いしね。霧の山を背負って畑に行くわけでしょうね。そのうちに振り返ったら、さぁっと霧が晴れて、そうしたら?(ぶな)がみんな芽を吹いていた、というのは壮観な風景ですね、新鮮で。それからこれはかなり先輩の人―先輩と言ったって、四十ぐらいですが、

     山風の荒(あら)らべる日なり栗拾う 

山の風がごうごうと吹いて―これは秋ですね―「山風の荒(あら)らべる日なり」わぁっと激しく吹いている。そういう中で栗を拾っている。「荒らべる」なんていう言葉は新鮮な感じでしたね、山の人が遣うと。そんな句を覚えています。まだ子ども心に覚え込んじゃって。

山田:  やはり秩父の人たちの暮らしの中からとらえた風土が、

金子:  まったくその通りですね。 

山田:  それは金子少年としては、そういう人たちの暮らしの様子とか生き方というのをどういうふうに当時眺めていらっしゃったんでしょうか。

金子:  とにかく貧しかったな、ということで、大変だなあ、という思いで。その頃の映像を今思い出しますと、秩父盆地全体がこう海の底のような感じで、その中を魚がみな泳いでいる。そういう風景です。魚が人間たち。海の底の魚の感じ―深海魚といったらいいのかな、その感じでした。澱(よど)んでいましたね、ドロンとした感じの。成長していって、それで出沢珊太郎(でざわさんたろう)という変な先輩に旧制高校の時に捕まって、それ以来俳句に入っているわけですが、その俳句に入るようになった途端に、私の体の中にはそこで見てきた知的な野生の人たち―知的野生に満ちた人というかな、そういう人たちのことがずっと出てきまして、俳句はこういう人たちが書いて、こういう人たちを書く。こういう人たちが書いて、こういう人たちを書くもんなんだ、と思い込んでやっていました。だから花や鳥を書くもんだと全然思わなかった、ということですね。人間を書くもんだ、と思い込んだのもそこからです。

山田:  じゃ、子どもの頃は俳句には全然近づかなかったけれども、その後ご自分で作られるようになった時には見事にそのことが影響しているわけですね。

金子:  そうです。俳句はこの人たちのためにあるんだ、と思っているぐらい、といってもいいかな、そう思っていましたね。ある時、「花鳥諷詠だ」と聞いても、そんな限定があっていいのか。そんなふうに限定する必要ないじゃないか、と、こう思っちゃった。

山田:  今おっしゃいましたように、旧制水戸高校に行かれてから俳句をなさるわけですけど、そうすると、その学生時代は戦時の統制下の軍国主義の世の中ですよね。

金子:  ええ。郷里がそういう貧しい状態で、それでしかも貧しいものの克服というか、打開はね、戦争が何よりだ、というふうな大人たちの思いが普通になっていたんですね。戦争というのは善いものだ、と。戦争そのものは善いものでないが、戦争によって救われるしかない、というふうな、そういうかなり絶望感に近いものがあったようですね。現に秩父の盆地から一村落が全部あげて満州移民なんていうのをやっていますから。そういうふうな人たちのグループを実際に駅で乗っているのを見た記憶もありますしね。だから、「戦争によって貧乏から救われる」というのが、子ども心に前から染みていたんでしょうかね。同時に一方で、学生の頭では帝国主義戦争であって、どっちも市場獲得のための侵略戦争であって、それがぶつかっているだけだ、と。理屈の上ではわかっているから良くない。良くないんだけども、一方では子どもの頃から戦争によって救われる、という思いがあるから、私自身は極めて曖昧な、何故か烏賊か蛸みたいな、戦争に対しては非常にふらふらした人間でしたですね。

山田:  そうすると、俳句というのはどういうところで思考していかれたということですか。 

金子:  出沢珊太郎が句会をやるので、その高等学校の英語の先生の長谷川朝暮(ちょうぼ)、吉田両耳(りょうじ)という両先生のお宅を代わり代わり借りて、そこで句会をやっていたんですが、その長谷川先生、吉田先生、そういう人たちが、みんな私の言葉でいうと、「自由人」だということです。「自由人」という印象がありましてね。非常に何か時代に対して、まったく賛成はしていないんですね―十五年戦争に賛成はしていない。内心は非常に批判的なんですが、そういうこともあんまり見せないで、飄々と自分の好きなことをやっている。自分の生活ペースを絶対崩さない、そういう方だった。それを私は、「自由人」と、後から名づけているんですけども。自由人たちと一緒に俳句をやるということによりまして、この人たちが作るようなものならば自分もやれる。だから自由人への憧れというのが自分の中にあったんですよね。それだけはっきりしていますね。それがあるから俳句をやっているという面が自分でもありましたね。

ナレーター:  昭和十八年、金子さんは、東京帝国大学を卒業し、日本銀行に就職します。しかしほどなく海軍を志願。激戦地南方での任務を希望しました。昭和十九年(1944)に配属されたのは南洋トラック島。二百人の部下を預かる下士官となり、食料や武器の調達などを担当しました。トラック島は当時度重なる空襲に見舞われていました。しかし当初金子さんは人間の命の重さを深く実感していませんでした。 

山田:  戦争というのは死と向き合うわけですけれども、どういう感じを?

金子:  全然なかった。どうせやる戦争なら華々しく戦いたい。それから善い悪いに関わらず、負ければ日本は滅びてしまう。民族も滅びる、と。そういう単純な図式が頭にありましてね。民族を守るために俺は戦うぞ、と。戦うなら南方第一線で華々しく戦いたいという、青年の活気というんですかね、青年の安直な気負いですかね、その気負いのままに私は動いていたんですね。だから平気で飛び回っている。他の年輩の士官たちは穴に籠もってきょろきょろしているわけでしょう。私は一人で飛び回っているものだからね、「そんなことやったら命がないぞ」と脅かされた。 

山田:  金子さんはその頃どういうことを俳句にお詠みになっていたんでしょうか。 

金子:  「魚雷の丸胴(まるどう)」というんですね。魚雷が椰子林の影に野積みになっているんですよ。 

     魚雷の丸胴蜥蜴(とかげ)這い廻りて去りぬ

そこへ蜥蜴(とかげ)がヒュヒュヒュと這い回って実にいまわしい、実に不気味なんですよ。武器というのは不気味ですからね。武器と生き物が出会う場面というのは非常に不気味ですから、それが自分の感覚を刺激しておったことは間違いないですね。死に対する恐怖は、ある事件がある時までは全然死を思っていなかったですね。私は、いわゆるマリアナ諸島を制圧されて、補給が受けられなくなった。現地で武器を作ろう、ということになりまして、海軍には工作部というのがあるんですが、工作部で手榴弾を作ったんです、現地製の。それを実験したわけですね。そうしたら直撃で―あれは一遍ぶっつけて投げるわけですけれども―ぶっつけた途端にパンッと爆発しちゃって、その実験した人は死んじゃった。それから横に居て指導してくれていた落下傘部隊の飛行員も死んじゃった、破片に当たって。で、私はかなり近いところにいたんですがまったく無傷だった。その体験があったわけです。その死臭ですね。そういうものが体に巻きつくというか、そういう体験をしてから、死というのは凄まじいものだ、という思いがあって、ゾクゾクと死への恐怖が湧いてきました。さらには餓死者がたくさん出ましてね。餓死の人に直接触れる。その顔がまた非常に気の毒なんですよ。菩薩様のような、木の葉っぱのような、そういう本当に萎んでしまった虚しい状態で死んでいくんですね。それを見ることによって、どうも酷く死が怖くなって。同時に主計課の自分が食料の手当も十分に手当できないで目の前で死んでいくという。そういうのを目撃することによって、自分の責任も感じるというようなことになって。それでこういう惨たらしい、酷い死というものを平気でもたらす戦争というものは、大量殺戮(さつりく)であって、こんなものは赦しがたい、というふうな思いが強くなってくる。そうなってきましたね。

山田:  それを意識的に句にしようというふうには特に思いにならなかった?

金子:  できなかったんじゃないかな。重いことですよね。戦争は善くない、と。こんなけちなものはない、と。そういう思いは勿論出てくるわけですよ。戦争がすべての罪の元だ、ということをわかっていますからね。そう自分で思っていますけども、戦争に反対しなければならない、というアクティブなものの考え方は、その時はないですね。 

山田:  それは句にもなっていかない?

金子:  なっていかないですね。だからセンチメンタルな句で、例えば「銃眼」鉄砲の目玉ですね、

     銃眼に母のごとくに海覗く

海が覗いているんですが、母親のような、というそんなセンチメンタルな思いが出てくるというのは、死への恐怖というのがあったんじゃないかな、と今では思いますがね。「母の如くに」なんてね。それからカナカ族がその島にたくさんいるわけです。いわゆる土着の人たちがね。カナカ族の人たちの句を作った句で、彼らは犬を飼っている、

     犬は海を少年はマンゴーの森を見る

犬は海を見ている。少年はマンゴーの森を見る。カナカ族の人が気の毒だな、というふうな、そういう人たちへの同情のような―こんな戦争の中に置かれてね、それで食料が減っていくにつれてカナカ族の食べ物をどんどんかっぱらっていく奴がいるわけですからね。そういう考え方を土台をしたセンチメンタルな母への思いとか、島民への思い入れとか、人間への思い入れですね、それが句になっていくということでしょうかね。なんか単純に特に若いと、そういうふうに思想的にとか、ちゃんと根拠を持った行動性というか、そういうものになるのになかなか時間がかかるんじゃないでしょうかね。全部気分的なもので、私は反応していた、と思いますね。

山田:  「気分的なもの」というのは、自分がなんか皮膚感覚というところで受け止めていらっしゃったものを、ということですか。

金子:  どうも、皮膚のちょっと中身ぐらいのとこかな。内蔵の皮膚というとおかしいか、

山田:  自分の実感みたいなもの、 

金子:  実感と言って頂けば、いいかも知りません。そうです、実感です。実感であって、それが思想というものにはならなかった、ということでしょうかね。

ナレーター:  昭和二十年、敗戦。補給を絶たれたトラック島では、餓死が相次ぎ、金子さんの部下も次々と命を落としていました。彼らの非業の死は自分の責任である。金子さんは激しい自責の念を募(つの)らせ島を去ります。

     日盛りの墓碑やあらわに匂いもなし

金子:  自分にはまったく未熟で来たような思いがあったんで、何もしていない、と。これからまともな人間になろうか、というぐらいの気持だったかな。そんなふうにとにかく生き死に言わず生きてやろう、と。そういう句を作っております。海に青い雲が―赤道直下ですからね―海に入道雲、積乱雲が出るんですか、あれが青いですよね。

海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

生きるとか死ぬとか、ということを言わないで、これからもひたすら生きてやろう、と。そういう思いを書いた。帰りの船の島から出る時に、

     水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

こうずっと船が走っている水脈(みお)がずっと見えていますね。ちょうど夕暮れ時でしたけど、炎天のもとで、桟橋から出てくるわけですけども、ずっと水脈(みお)がひいていますね。その水脈(みお)の向こうに去って来た島があるわけですね。その島には死んだ人たちの墓碑がある、という思いですね。「炎天の墓碑を置いて去る」というところに、この人たちに報いたい、という思いがあった、込められていた。その辺になってくると、とにかく生きる、と。そして死者に報いたいという思いがあった。これは思想というよりも、思いというふうに思ってもらった方がいいかも。実感の出てきた思い―思想じゃないですね。

ナレーター:  昭和二十一年、帰国した金子さんは、日本銀行に復職。同じ秩父出身のみな子さんと結婚します。銀行では組合活動に没頭するようになりました。理不尽に命が失われる戦争が再び繰り返されないために社会を改革したいとの思いからでした。しかし活動は挫折。金子さんは十年に及ぶ支店勤務を命じられることになります。その日々の中、人が生きるために大切なことは何か。俳句を通して問い返していきました。

金子:  世直しのために一応身を落ち着けた職場で、その職場があまりに暗くて鬱陶しくて、それでしかも身分制が残っていて、こんな職場だったら戦争阻止の社会ができあがらないという、青年の思いがあるわけですね。

山田:  労働組合の準備をやったりしていかれますよね。

金子:  私の場合は、組合をやろうとした時に、俳句は止めようと思ったんですよ。俳句なんか作っているような状態ではないぞ、というふうに思った。思ったけどできちゃうんですね。私の体がもうできちゃう。その時の句で、今でも覚えていますがね。

     死にし骨は海に捨つべし沢庵(たくあん)噛(か)む

沢庵をガリガリ噛んで、戦後の物のない時です。もう死んだ骨は海に捨てちゃって、出直だ、という気持ですね。そういう思いを俳句に書いたりして。だからもう出直しなんだから俳句なんか作っていないで頑張ろう、という気持なんです。そのくせできちゃう。俳句は私の体と一緒に動いているんだ。これはちょっと普通の方には想像できないんでしょうね、こんな変な奴は。だから私は、「アイデンティティだ」と言っている。不思議な状態です。で、組合の仕事は―仕事というか、要するに失敗して―結局挫折して支店に飛ばされる、という状態になって、やっとまた俳句を少し本気でやろうかという状態になって、自ずから対社会、熱烈に社会を批判する。あるいは自分を反省する。そういう自分という人間、それから社会、その社会を構成する人間、そういう世界にひたすら向かっていました。で、花や鳥を句の対象にするという考え方はまったくなかったです。当時俳句では、「社会性」ということがテーマになっていたんですよ。俳句の総合誌が「社会性」というようなことをテーマに出して、「これはどうか」という質問をしたのがきっかけで、社会性をみんなで詠おう、というふうな空気が動いていたんです。そういう時に、私は、「社会性というのは態度の問題であって、社会性は思想ではない」ということをはっきり言った。それから、「思想と言っても、その人の肉体化された思想でなければ思想と言えない。それは単なるイデオロギーに過ぎない。イデオロギーなんていうのは糟(かす)みたいなもので、ガイドが口にするだけのことであって、実行力にならない。ほんとに人間が生きて栄養になるのは、その人の肉体化された思想だけだ」という考え方をその時私ははっきり持っていました。自分が生(なま)のことだけで動いてきた。これからくるんじゃないかと思いますけどね。

山田:  生のもの?

金子:  生のもの。自分の実感ね、さっきおっしゃっていた。

山田:  そうすると、社会的なものを詠みながら生のもの、というのは、金子さんの視点はどういうものに向かって、どういうものを見ていく、という形になって?

金子:  これは自分ではあまり好きな句じゃないんですけどね。

     銀行員等朝より螢光(けいこう)す烏賊(いか)のごとく

私は銀行にいましたから、銀行員たちが朝っぱらから頭のうえに蛍光灯を点けて、みな事務をとっていたんですけどね。どんよりと暗いところで蛍光灯が、「朝より螢光す烏賊のごとく」まるで烏賊みたいだと。これはちょうど前の日に水族館に行って見てきた烏賊がそのまま眼に浮かんだわけです。神戸で作ったんです。それからもっと内面的な句だと、「暗闇の下山」という、真っ暗闇の中を山を下りてくる。 

     暗闇の下山くちびるをぶ厚くし

なんかやってやろうというような闘志に満ちた生き様というふうなものを自分で感じますけどね、それによって。実際は福島支店というとこにいた時に、安達太良山(あだたらやま)を登って下りて来て、そして暗闇の中をタッタッタッと一人で下りて来た。その時の句なんですけどね。神戸から長崎に移ったんですけど、特に長崎は私にとってはそれに相応しい句ができた時期ですが、その中にご承知の、

    湾曲し火傷し爆心地のマラソン 

という。長崎の原爆の地ですからね。それに向かってふんだんな批評を込めて作った句なんです。「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」ちょうど山里の被爆の中心地がありまして、まだ黒こげが残っていましたけどね。そこへ人間がマラソンして元気のいい人たちが走って来ると。そうすると、被爆地の黒こげのところに入ると、火傷(やけど)をして歪んでいるという。そういう如何にもなんか人間が悲惨に潰れているという、その思いを書いた句なんです。この句なんかが前衛俳句と言われた私の時期の代表句になるわけです。つまり原爆の爆心部の見方が、既にその中に露骨にあるわけですよ。あってそういう句が出てくるわけですね。自分の肉体の中に死臭が染みているわけです。その肉体に染みているものがあるから、そういう句ができる。

山田:  一貫性という、そういうものこそを詠っていくべきだ、ということを強く思われた、ということですか。

金子:  基本的に人間がどう生きているか、という問題。それを肉体でどう消化していくか、という。その方だけが基本であって、それ以外のことはみんな付けたりだ、という思いが強いです。今でもその思いです。だから季語というのは美しい日本語だからどんどん使いたいけども、なければならんという、そんな規制は絶対受けたくない。とにかく世の中で無ければならんというのはない、というのが、私の考え方になっているわけです。自分の肉体が納得するものだけがある、という。そういう考え方なんですよ。だからそういうルールみたいなものは一切要らない。どうも根っから自由人―自由人に憧れて俳句に入っているわけだけども―どうも子どもの頃から私はそういう一種の自由人の素質を持っているということにもなるんでしょうかね。どうも絞められるのがダメですね。 

山田:  それは逆に約束事がない、という俳句でありながら、人の心を打つ、人の心に届いていくものを詠んでいくということですね。そのためには何が必要かということもありますね。 

金子:  それは、「五七五」なんですよ。この「五七五」の韻律―これからできあがってくる韻律ですね―協和音律ですが―これに言葉が入り込んで韻律になるわけですが、「五七五」が作り出す韻律というのは素晴らしいと思っているんです。これがあるから私が自分の肉体を打ち込んで、書いたものに迫力が得られている、とこう思います。逆にいうと、そんな素晴らしい韻律を形成する四季なんだから、それがただ季語が必要だとか、花鳥を詠えというだけのことで作ったんじゃ勿体ないという気持が、私なんかにはありますね。応えるものを作らなければいかん。

山田:  その「五七五」の韻律の中にほんとに自分が思う一貫して、これこそと思うものを詠み込んでいく。

金子:  詠み込んでいく、それしかないと。それは神戸、長崎ぐらいで固まったということです。そこで自分の俳句論も方法論も出てくるわけです。とにかく固まった。

ナレーター:  大胆なスタイルで戦後の人間のあり方に迫る金子さんは、「前衛俳句の雄」と呼ばれるようになりました。しかし時代は、高度経済成長を迎えます。「もはや戦後は終わった」と口にする人々に金子さんは衝撃を受けます。何故簡単に過去を忘れ去るのか。人間とは何なのか。答えを求め、小林一茶など漂泊の俳人に関心を深めていきました。そんな中、四十八歳の時、妻の勧めで埼玉県熊谷市に転居。自然に囲まれた生活を始めます。 

金子:  これがリョウブ。リョウブという木は珍しいでしょう。リョウブの木っていいですよ。この花がいいですよ。匂いもね。それからこれがヤマボウシだ。このヤマボウシがとってもいいんですよ、これがまた緑の葉っぱの上に白い葉っぱが出るような。ここへ来て四十二年なんですよ。昭和四十二年に来ましたからね。今になってこういう庭を女房が造ってくれて、自ずから作ったんですけどね、勿論これは。無造作に木を植えて、いわゆる庭園というものでもなんでもないわけですな。無造作に木を植えた場所なんですね。私は、「林だ」と言っているんですけど、この林ができて、これをこう眺めているのがなんともいいん。だから夏なんかでも、どっか別荘とかに行きたいという気はないですね。軽井沢へ行ってどうとかいう気はまったくない。ここもそういう感じです。夏になるとみんな葉を出してくれますからね。実にいい林の感じ。有り難いですよ。

ナレーター:  やがて金子さんは人間に対する見方、いのちの捉え方を大きく変えていきます。

金子:  きっかけは六十年安保という、昭和三十五年の事件ですけど、あの後でいろんな思想家たちの考え方がコロコロ変わったり、今まで「戦後だ、戦後だ」と言ったのが、「戦後は終わった」なんて平気な顔で言っているとかね。そういうのを見ています。俳句の世界でも随分虚子の有季定型というやつがその頃復活するわけですけど、「有季定型でなければ俳句でない」というふうな意見も、今までそうでないことを言っていた人が、急にそれに乗っかってみるとかね。いろいろ変化があったわけですね。その時、私はどうも人間というのは一体なんだ、とこう思うようになったんですよ。今まで俺は社会性の中の人間を見てきたけど、存在としての―人間存在性の中の人間というか、社会の中の人間でなくて、存在としての人間。人間のありのままの姿、これを見極めることができるんじゃないかと。つまり漂泊者、放浪者というのは、自分を裸にして生きているわけですからね。何も飾りようがないわけですから。この裸の人間を見ることが大事じゃないか、とこう思い付きましてね。それから小林一茶と取り組み、山頭火と取り組む、ということになってきて、それで初めて人間の存在ということがわかってきた、ということですね。赤裸々な姿が見えてきた。 

山田:  小林一茶はそういう漂泊の俳人でありながら、どういうふうに物事を捉えていって、そこに金子さんはどういうふうに惹かれていかれたわけですか。

金子:  とにかく好き勝手な句を作って、例えばこれは晩年になりますけども、しかも季語がない句なんですけどね、

     ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び

という句を作っていますね。五十九歳の時ですね。今まで長く生きてきたけど、飢え死にもせず生きてきた。そんな悦びもあり、「ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び」この世の中は遊んで暮らそう、と。そんな句をぬけぬけと作っていますね。それから、

     春立や菰(こも)もかぶらず五十年

五十年間旅暮らしの俳諧師ですからね。食うや食わずだったわけですけど、目出度いことに五十の歳を迎えた。菰もかぶらず乞食にもならずに五十年間生きてこられた、と。ああ、目出度い、目出度い。よかった、よかった、と。そんな句をぬけぬけと作っていますね。つまり自由自在、本能のまま生きている。おまんま(御飯)を食うために生きる人間というのは、境遇上からも自分はおまんまを食うために生きるしかない人間であると。いくら偉そうなことで「詩がどうだ、俳句がどうだ」と言ったって、食わなければ話にならない、と。また現実におまんまを食うために努力しなければ生きていけないような二流の俳諧師の生活をしたわけですからね。そういうふうにおまんまを食うことが人間にとって一番大事なことなんだ、と。俺はおまんまを食って、どうやら来れた、という悦びですね。だから六十の時、荒凡夫と言った時もその生き方をそのまま貫くと。要するに煩悩具足という、人間は煩悩で生きているのもあって、その煩悩を止めることなんか意味はない、と。それをおれは貫くぞ、と、そう言っているわけですね。つまりおまんま食うためです。人間生きるということが大事だ、ということですね。

山田:  一茶のそういう姿勢から、金子さんご自身の句作がどういう変化を受けていったんですか。

金子:  ますます私は肉体派になりまして、ますます自由になったと思います。何ものも拘らず、自分の好きなことを作る。そういうことですね。そして小賢しい俳句の上の規則とか、制約とかということは一切お断り、と。「五七五」だけを信じて書く、そういうふうになりました。その立場で、いわばそれを「自由」と、私は言っていますが、その自由の立場に立ったら、芭蕉の考えている俳論なんかもよくわかるようになりました。人の考えるものがよく見えてきました。そういう功徳がございました。どうなんですかね、基本的に本能というものが非常に人間が生きるということにとって大事な存在の基本だと思うんですが、何のために存在の基本としての本能というものを大事にするか、と言ったら、いのちというものを労(いたわ)っているからだ、と思うんですね。いのちというものは本来制約されるものではなくて、本来自由を求めているものである、ということだと思うんです。 

山田:  そのいのちというものが、金子さんの捉えるのがどういうふうになっていったんでしょうか。

金子:  すべてが人間も他の生き物も全部同じ生き物である、と。つまり今まで「社会」と「自然」なんて区別していたけども、それは意味ないんで、「すべてが自然である」と。そしてすべてが自然であって、その自然の中で人間という、ちょっと特殊な、ちょっとケチな生き物がいる、と。小賢しいやつがいる、と。そういう捉え方ですね。そして同時に、みんないのちのある生き物なんだから、しかもそれは生きているのは本能のままに生きていて、それで幸せだ、と、みんな思っているわけでですよ―客観的にはわかりませんが思っている。そういうことをちゃんと認めて尊敬しあう。親愛感を持って尊敬しあう。そういうふうになっていくのが本当じゃないか、と。原始宗教でアニミズム(animism:精霊崇拝、有霊観(あらゆる対象に生命を認める考え方))というのがありますね。あの場合は一人ひとりのいのちを認めて、そしてそのいのちに精霊を感じて、それを大事にする、というとこが信仰の基礎だ、と聞いておりますけれども、その考え方が一番私はよくわかるんですね。一人ひとりが生き物であって、その生き物のいのちの姿に精霊を感じる、と。日本人でいえば、「仏を見る、神を見る」ということになるでしょう。そしてそれをお互いに尊敬しあう、労り合う。これがアニミズムだと言いますが、この形が私に見えてきた。

山田:  人間も自然も同じいのちを持っているのではないか、という視点が出てきた。そうしますと、自然というものと社会的なものも一体として捉えていこう、ということですか。

金子:  その通りです。おっしゃるとおりですね。だから私は、高度成長期の昭和三、四十年の時期に、一茶や山頭火をほんとによくみるまでは、おっしゃる通り、私は、社会と自分という現実をひっくるめて、これにテーマをおいていた、ということは事実ですね。重心をおいていた。だけども彼らの漂泊放浪の体(てい)を知ることによって人間の存在の姿がわかることによって、そういうテーマ自身も、私は拘らなくなってきた。拘らなくなって、ただウエイトをつけることは、これは自分の考えがありますから、例えば戦争反対ということは非常に大事なことだということは、今でも強く思っていますから、強く思っているという自分の肉体の事実を、これをまず大事にして、だから作るならまずそちらを作りたい、ということはあります。ありますけど、拘らない。だから庭の梅の花が綺麗なら梅の花を作る対象にする。そういう自然の花鳥の姿、美しいものは美しいとする。同時に社会の出来事についての自分の疑問は疑問で俳句にも書く。就中(なかんずく)戦争反対は声を高々にして書く。自分に拘りがなくしてますから、梅が美しいと思えば作る。それでいのちに想像力も働きますから、そうすると梅の美しい姿にほんとのいのちの姿を見るという。ほんとのものを感じる時は、ほんとのものということを捉えたらほんとのいのちの姿が書けるんだ、と思ったりする。そういうことがありますね。そういういのちの姿は何だろうと思っていたら、春雨であったとかね、そういうふうになってくるわけで、そういう自分の想像力を楽しんでいます。

ナレーター:  金子さんが、今、いのちの象徴として強く惹かれているのは、故郷の山を闊歩していた狼の姿です。狼は昔から秩父の人々に神の使いとして敬われてきました。

金子:  あそこの禿げているところがたしか梅林、老梅とかがある。

     おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民

ナレーター: 今も里では今も里では狼に纏わる品が大切に守りつかれています。

狼の頭蓋骨は魔よけとされています。 

金子:  金子と申します。よろしく。(狼の頭蓋骨を見て)

何代も、十代二十代というやつですか。(でもちょっとこの辺は詳しいわからないんですが)。でも信じている人もいるからね。でもちょっと恰好ついていますよ。立派なもんだよ。こっちが鼻の方でしょうな。これが口で牙がありますね。歯が凄いよ。これにこう皮がついて毛がつくと、頭の中にある狼とそう違わなくなる。それで図体(ずうたい)があるわけでしょう。骨の見えるような凄い図体が。

ナレーター:  秩父の山里を見下ろす峰々にはあちこちに神社を守る狼の像があります。

金子:  これ狼。 

山田:  狛犬と違いますね。

金子:  これ狼ですよ。 

山田:  歯のイメージが全然違うんですね。

金子:  違いますね。この辺の眼の険しさとかね。あちこちにいますね。ここにもいます。木訥な感じ。これなんか狼というより狐という感じだ。私は、狼というとピンとくるのはやっぱり両神山(りょうじんやま)のあの中にいるさっきの頭の形に剛毛を生やしてね、痩せた体をつけた精悍な感じの動物。そういう感じなんじゃないかな。だから場面が平安になると、狼感というのはかなり薄れるね。狼が優しくなっちゃって、ああいうふうに人のためになるようになるわけでしょう。そういう感じ。やっぱり私なんか人のためになる動物という感じはしないんですけどね。両神山はゴツゴツ岩肌だらけですよね。ああいうところにジッとしてね、人とそう交わらないというような、孤独というかな、そういう動物の感じがしますね。

     狼に転がり墜(お)ちた岩の音

     狼生く無時間を生きて咆哮(ほうこう)

     山鳴りときに狼そのものであった

     ニホンオオカミ山頂を行く灰白(かいはく)なり

狼というと、秩父の映像として私の中に現れてくる。秩父が出てくるんです。一つ一つ「秩父とは何だ」と聞かれれば、ぐずぐずいうしかないんですね。「秩父は狼だ」と言われると、ピシャッとわかるというものがあるわけですよ。自分の肉体が承認するわけですよ。そのことなんですね。風体が荒武者のような荒涼たるものがあるでしょう。風体の荒涼たるところがいいですよね。だから一々説明できないんだけどね。大好きなんだなあ、狼が。「狼は死んだ」と言われていますけど、私はまだ生きていると思っていますからね。

山田:  「狼の性のように」とおっしゃるのは、それはどういうイメージのことなんですか。

金子:  イコール(=)秩父のような荒々しき命、荒々しく自由に生きる命、荒々しく自由に生きる姿。しかもあまり人に阿(おもね)ず自立、たしかに一匹で生きていくという、その精神をはっきり持っているというか、そんな気持かな。 

山田:  なんか生きることに集中しきっている姿、ということも言えるんでしょうか。

金子:  ピタリだね。生きることに集中している姿ですよ。命を徹底的に労っている姿。それは手前の本能というものを大事にしている姿。しかもその本能が人に迷惑をかけないような状態で、ちゃんとコントロールできるアニミズムを持っている姿、これだと思うんですね。

山田:  そういう象徴として狼の空間と、

金子:  今のところは狼ですね。死ぬまでそうかも知れませんね。

山田:  八十九歳の今日も俳句を作っていらっしゃるんですけれども、トラック島の多くの方が亡くなりましたよね。そのことはずっとお話頂いた経過で、今の時点になってそのことはどういうふうに?

金子:  ますます募(つの)っています。体の中に募ってます、その思いが。そしてそれが私の戦争反対の思いをさらに強めています。それで私の年齢ぐらいまでか、私より十ぐらいまで若い連中ですかね、それぐらいしか戦争体験がないでしょう。もうそういう戦中世代が残り少ない時期ですから、私は意識的に戦争反対の句を大事にするし、自分でも書いていきたい、そう思っています。自分の中に溜まっています。戦争中の死者が溜まっています。それから山田さん、一つだけ加えておきたいのは、アニミズムに関してですけどね、今、私はいろいろと俳句のルールに拘るということに反対しまして、だから「有季定型だ。俳句には季語がなければならないという考え方は反対だ」と言ってきましたね。ところが有季定型を唱えた高浜虚子(たかはまきょし)の系統、最後は花鳥諷詠というとこへいきますが、その考え方の人たちが、花鳥諷詠の中で、花鳥にほんとにいのちを感じて、自分のいのちと重なっているというふうな、そういう人たちが勿論増えているわけですね。私と同じいのちへの思いを持っている。この世がすべていのちの塊であるという。この思いを持って、ほんとに思っている人たちが増えてきている。その考え方の上じゃ私と変わらなくなるわけでして、私はこういう人たちが流派なんか問わないで広がることを期待したいですね。だからあまり流派論というのはしたくないんですね。おしゃべりの中では悪口も言いますけどね。ほんとの気持の中ではいろんな俳句の作り方をしている人がいるけれども、みんないのちに目覚めて、いのちの労り合いをしなければならんと思っているような人たち、この人たちと手を握っていきたい。おそらく俳句がいま生み出しつつある大きな宝は、そのいのちのほんとの発見と、それに伴うアニミズムの世界。これへの信頼、これだと思っています。だから現代の中で俳句が何をやったか、と言われた時に、私はアニミズムを俳句がほんとに実践してきている、と。特に最近してきている、と。それは流派を問わず広がっている。これは非常に日本の文化にとっても大事なことなんだ、ということを強調したいんですね。そういう点で俳句の世界は大同団結というか、一つの大きな社会的なテーマをもって、これからやっていけるんじゃないかな、と。「俳人のすべてはアニミスト(animist:精霊崇拝者、精霊説信奉者)になれ」と。こういう気持で、またなるだろうという期待感の中に私はおりまして、これができたら日本の社会も平和になる。世界は戦争しなくなる。こういうふうに確信しているんですがね。何万年かかるかわかりませんけどね。そのことを申し上げたいんです。

     これは、平成二十一年四月二十六日に、NHK教育テレビの

     「こころの時代」で放映されたものである