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ZIPANG TOKIO 2020「『八戸三社大祭』神社とともに伝統を守り伝える八戸の人々…義経北行伝説は今も北の大地で生き続けている!後編」

2017.05.11 07:30


八戸三社大祭の歴史

八戸三社大祭の始まり

享保5年(1720)、凶作に悩む八戸の有力者たちが、法霊大明神(現在のおがみ神社)に天候の回復と豊作を祈願したところ、無事に秋の収穫を迎えることができました。その御礼として、八戸藩の許可のもと、武士や町人から寄進を募って神輿を建造し、享保6年(1721)、長者山三社堂(現在の新羅神社)に渡御したことが、八戸三社大祭の始まりと言われています。


祭りの変遷

やがて、この祭りには、八戸藩の有力な商人が買い入れた人形を載せて担いだ「屋台」や「虎舞」など、町民で編成した行列が参加するようになり、まちの安泰や豊作を祈願する大規模祭礼として発展していきました。

明治17年(1884)には新羅神社が、その5年後には神明宮の行列が加わって三社の祭りとなり、それまでの同じ人形を屋台に載せるスタイルから、毎年新しく作った山車を運行する形へと変化し、現在の祭りの原型となりました。

現在の八戸三社大祭は、行列の運行経路や参加する民俗芸能など伝統を保ちつつも、民話や歌舞伎などを題材として製作された27台の山車が祭りの余興「附祭」(つけまつり)として参加し、祭りをより華やかで迫力のあるものにしています。

(写真:江戸時代の屋台山車「太公望」。豪華絢爛な現代の山車とは違い、三社大祭の長い歴史の重みを感じさせます。普段はおがみ神社にて通年展示しています。)


おがみ神社

おがみ(龗)神社は八戸市内で最古といわれる神社で、その歴史は判明しているだけでも平安時代後期にまで遡るといわれています。山伏の技である法霊神楽(ほうりょうかぐら)が伝承され、第二土曜日には法霊神楽祭の前夜祭が、その翌日の日曜日には本祭が行われます。また、国重要無形民俗文化財・八戸三社大祭発祥の神社としても知られています。

源義経が平泉をひそかに抜け出し、北へ落ち延びたという「義経北行伝説」の残る場所でもあり、源義経の正妻が愛用していたという伝説のある鏡や、藩政時代に義経北行伝説が記されたという「類家稲荷大名神縁起」が収蔵されています。


長者山新羅神社

延宝6年(1678)に八戸藩2代藩主南部直政が、領内の守護を祈願して建てたのが始まり。本殿・拝殿は細部の彫刻などに江戸時代の特徴がよく表現されているとして、県の重宝にも指定されています。

毎年2月17日には八戸の冬の郷土芸能「八戸えんぶり」の奉納舞が行われることで有名です。また、8月の八戸三社大祭ではおがみ神社より神輿の渡御が行われ、8月2日には全国に3例しか現存しない貴重な騎馬打毬の一つ「加賀美流騎馬打毬」が行われます。


神明宮

神明宮は、八戸三社大祭の三社のひとつとして知られる神社。

毎年7月1日、社殿前に茅でできた大きな輪が設けられる「茅の輪祭」では、厄払いと無病息災を祈る人びとで長い行列ができます。また、6月30日の前夜祭・7月1日の本祭ともに神楽の奉納や盆踊りが行われ、境内にたくさんの出店が立ち並ぶ夏の風物詩として親しまれています。樹齢推定600年といわれるイチョウの木も、見どころのひとつです。



「八戸三社大祭」一番の見どころは、おがみ神社・長者山新羅神社・神明宮の三神社の神輿行列と、神話や歌舞伎等を題材に各山車組が制作した27台の山車の合同運行です。


 重要無形民俗文化財の指定

現在の三社大祭は、行列の運行経路や参加する民俗芸能等に古い伝統を保ちながら、民話や歌舞伎などを題材として毎年趣向を競って製作される27台もの山車が行列に「附祭(つけまつり)」として加わり、見る人に驚きと感動を与えます。

八戸三社大祭は、その歴史・変遷を調査した結果、2004年2月に「八戸三社大祭の山車行事」として、重要無形民俗文化財に指定されました。

2016年12月1日、ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録が決定しました!


八戸三社大祭の行列を彩る郷土芸能

法霊神楽(ほうりょうかぐら)

山伏による神楽の一つで、おがみ神社にて伝承されてきた法霊神楽。神楽の中心演目は、獅子頭「権現様」(ごんげんさま)を持って舞う権現舞で、数人の舞手が獅子頭を一糸乱れずに打ち鳴らす「一斉歯打ち」に心が清められます。八戸三社大祭では、おがみ神社の行列に参加。

5月の第二土曜日とその翌日におがみ神社で行われる「法霊神楽祭」でも、法霊神楽の山伏の技を堪能することができます。


虎舞(とらまい)

 滑稽な動きで沿道の人々を和ませている「虎舞」。東北の太平洋岸に多く分布し、火伏せや航海安全に関する信仰として伝承されてきました。八戸市内でも鮫・湊・小中野・新井田などいくつかの地域に虎舞が伝えられており、八戸三社大祭の行列の中で披露されます。

虎が一斉に地面を転がったり、肩車によって立ち上がるアクロバティックな演技に注目。また、虎に頭を噛まれることで無病息災のご利益があるとされており、人気のある芸能です。


太神楽(だいかぐら)

獅子舞が伊勢神宮や熱田神宮の信仰と結びつき、芸能となったもの。お伊勢参りに行くことができない人のために地方を巡回していた神楽に始まり、やがて地方に定着したと言われています。

 八戸三社大祭では、太神楽が各神社行列の先頭に立ち、道を払い清めて歩きます。


駒踊(こまおどり)

 馬産地である三八上北・岩手県北地域に分布する芸能で、馬の模型を胴に固定し、跳ねるように踊る舞。明治時代から八戸三社大祭に参加していたと言われていますが、その後参加が途絶え、平成になって復活し現代に至ります。

 八戸市高館の「高館駒踊」が代表的な団体で、八戸三社大祭への参加のほか、高館の小田八幡宮の例祭にも出演しています。


笹の葉踊(ささのはおどり)

 藩政時代からの歴史ある踊り「笹の葉踊」は、明治時代に入ると八戸三社大祭から姿を消しましたが、平成に入ると、古文書などを頼りに、おがみ神社によって復活しました。

笹の葉を手にした十五名前後の踊り子が、お囃子に合わせて可愛らしい踊りを披露し、沿道の観客を和ませてくれます。


手古舞(てこまい)

昔ながらの衣装に身を包んだ2人の「手古舞」が、杖を鳴らしながら山車行列の先頭を歩きます。


華屋台(はなやたい)

花街として栄えた小中野地区・鮫地区の芸妓が乗る屋台として、明治時代から行列に参加していたと言われています。その後、戦争の影響や芸妓の減少により、祭りに参加しない時期が長く続きましたが、平成に入ると、市内の舞踊の師匠などの手により復活を遂げました。

現在の華屋台は山車行列の最後尾を飾り、八戸小唄などの踊りが披露されます。


「八戸三社大祭」一番の見どころは、おがみ神社・長者山新羅神社・神明宮の三神社の神輿行列と、神話や歌舞伎等を題材に各山車組が制作した27台の山車の合同運行です。お見逃しなく!


※昨日、「八戸三社大祭」後編をアップしたところ長者山新羅神社で行われる「加賀美流騎馬打毬」についてのお問い合わせが相次いできておりますので、八戸市観光課様にご協力をいただきもう少し詳しく紹介いたします。


「加賀美流騎馬打毬」とは

藩政時代の姿を現在に伝える勇壮な伝統武芸

加賀美流騎馬打毬は、騎馬武者が杖で毬を奪い合い、毬門(ゴール)へ毬が入った数で勝敗を争う勇壮な伝統武芸で、毎年8月2日に長者山新羅神社で開催されています。
いま日本で打毬が行われているのは宮内庁・山形市・八戸市の3か所だけですが、その中でも八戸の打毬は藩政時代の古式馬術を現代に伝えており、鎌倉・鶴岡八幡宮の「流鏑馬(やぶさめ)」や、相馬・相馬神社の「野馬追(のまおい)」などと並ぶ貴重なものです。
サラブレッドではなく、日本在来種の北海道和種という馬が出場することも特徴の1つで、東北の馬と人が生きてきた風景を現代に伝えています。

加賀美流騎馬打毬 4つの見どころ!

1.毬杖が折れるほど激しい!勇壮な武芸の魅力
騎馬と騎馬とがぶつかりあうなど、荒々しさをそなえています。ですが、そこは武芸。礼に始まり、礼に終わることを最も大事にしています。

2.人と馬とが一体となった華麗な馬術に注目!
日々の練習で乗馬に熟練し、馬の気持ちもわかる騎士でなければできないのが打毬です。人馬一体の魅力をお楽しみください。

3.かわいい毬童子など騎士以外も見どころあり!
毬を置く毬童子や、鐘や太鼓を叩く合図方など、多くの人によって成り立っています。それぞれの衣装も見どころの1つです。

4.見れば見るほど深い。何度も見る価値あり!
スポーツにも通じる相手とのかけひきや、馬と人との関係などが、見れば見るほど面白くなってきます。

簡単なルール説明

赤白4騎ずつの計8騎で試合が行われます。 毬(ボール)を長さ2メートル以上の毬杖(ぎっちょう)という道具で拾い、毬門(ゴール)へと投げ、自分の色の毬を先に4毬入れたチームが勝ちです。 ほかにも様々な伝統のルールがあります。


加賀美流騎馬打毬は、毎年8月2日に長者山新羅神社で開催されています。


八戸歴史探訪

縄文と南部のロマン薫るまち

縄文時代から江戸時代、そして現在に至るまで、 八戸はこの地方の拠点として栄えてきました。 その歴史や文化は現在の八戸にも脈々と受け継がれています。

八戸の縄文文化

およそ2万年前、旧石器時代から人が住んでいたと言われる八戸地方。縄文時代には、縄文時代後期を代表する是川遺跡や風張遺跡などから発掘された数多くの出土品、大規模な集落跡が示すとおり、多くの人々が暮らし、繁栄したと考えられています。

国宝「合掌土偶」をはじめとする芸術性の高い出土品が多いことも特徴。出土品は八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館に展示され、古の記憶を現在に伝えています。

八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館 住所:青森県八戸市大字是川字横山1


戸(のへ)の成立

青森県の南部から岩手県の北部にかけて残る「戸(のへ)」のつく地名。「戸」は集落や行政区画を意味するとされ、平泉の奥州藤原氏の支配の中で成立したと考えられています。「戸」は馬の牧場であるという説、蝦夷支配のための基地であるという説も。


八戸に伝わる「義経北行伝説」

八戸市内には、平氏打倒の立役者・源義経が立ち寄ったと言われる場所が古くから伝えられており、800年以上経った現在でも、伝説として市民に受け継がれています。

義経北行伝説とは

平安時代末期、時の権力者であった平氏打倒の最大の功労者・源義経。その後、兄・源頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼って平泉に落ち延びたものの、頼朝の追及から逃れることができず、自刃したと言われています。

その源義経が、実は平泉から密かに脱出して海路八戸に入り、北海道、樺太、モンゴルへと移って、成吉思汗(チンギス・ハーン)になったという「義経北行伝説」。八戸市内には、義経が立ち寄ったと言われる場所が古くから伝えられており、800年以上経った現在でも市民に受け継がれています。

おがみ神社

ひそかに北へ逃れた義経は、八戸に上陸し市内の高館に住んだといわれている。元久年間(1205)義経婦人(京の久我大臣の姫君)が亡くなり京ヶ崎に葬り、報霊大明神とあがめられた。おがみ神社がその場所だといわれており、義経夫人が使用したと言われている手鏡八戸の義経伝説の記録「類家稲荷大明神縁起」(るいけいなりだいみょうじんえんぎ)が所蔵されている。


三八城神社と弁慶石

義経が高館の場所から見渡して馬淵川の東の野原を京ヶ原、その北の洲先を京ヶ先と命名したのが今の三八城山である。足下のこの大きな石は弁慶石と呼ばれ、昔は境内南側のコブシの木のあたりに置かれていたという。石のところどころが人間の大きな足型のように窪んでいるのが、力自慢の弁慶が岩にしるした足型だといわれている。


小田八幡宮

八戸に上陸した義経は現在の高館に住んだといわれている。その時、この宮に義経が持参した毘沙門天の像を八幡の神に合せ奉ったともいわれ、また家来と共に奉納した大般若経の写経と経箱が現在も奉られている。


長者山(ちょうじゃさん)

当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し、木を植えみだりに人が入らないようにした地と伝えられており、昔は長治山と呼ばれていたといわれている。それを今では長者山と呼んでいる。

長者山新羅神社

このほかに、八戸には義経、弁慶主従の足跡はあちこちにあります。

それでは、昭和33年の八戸三社大祭に登場し見事優勝を果たした山車。壇ノ浦の戦いの「義経八艘飛び」を紹介して後編といたします。

今年の夏はぜひ「八戸三社大祭」と義経の足跡を訪ねてみては如何ですか。

                                  

(参考)
撃毬(キョック)とは? 古代ペルシアが発祥の、馬に乗って行う伝統球技の一種で、現在のポロも同一起源。馬に乗って、杖匙と呼ばれる棒状の用具で球を打ち、毬門と呼ばれるゴールに入れれば勝ちとなる。朝鮮半島へは統一新羅時代に伝わったと見られ、武芸の一種として発展した。特に武臣政権期には、武芸の修練の一環として盛んに行われており、チェ・ウ(崔瑀)に関する記録では、近隣の民家数百戸を破壊して広大な撃毬(キョック)場を建設し、そこで数日間におよぶ撃毬(キョック)大会を催して、才能のある者にはその場で官職を授けたと記されている。(出典:武神)



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使



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