「中央構造線」がもたらす不思議な力
https://kansaiguide.jp/rt/hot/detail/?item_id=NWS0000077 【地球のエネルギーが生んだ聖なるライン ~「中央構造線」がもたらす不思議な力~】より
縄文時代の遺物が発掘された宮滝遺跡は、近畿地方のへそに位置する奈良県吉野町にある。一帯は、緑色の岩が切り立ち、巨岩壁の間を縫うように濃緑の清らかな水がうねりをなす。そこは仙人が住むような神々しい別世界だ。
今からさかのぼること1400年近く前の656年、時の斉明天皇がこの地にあえて吉野離宮を造営したのも、そこに大地が放つ特別な力を感じたからなのだろう。吉野川の急流に立ちはだかる断層崖は緑色の塊をなして、そこから東へ、西へ、海に落ちるまで続いている。
1885年、ドイツからやってきた地質学者、エドムント・ナウマンは、中央日本から紀伊半島、四国にかけて日本列島を横断する1,000㎞に及ぶ世界有数の断層線の存在を明らかにする。紀伊半島を横切るように東西に延びる緑色の岩石群こそ、まさにその大断層線上に位置していた。
後に「中央構造線」と名付けられるこの大断層がかたちづくられたのは、ジュラ紀末から白亜紀初め頃(約1億4千万~1億年前)のこと。中央構造線の境界に表れる岩石群はその北側(内帯、Inner Zone)と南側(外帯、Outer Zone)で明らかな違いが見られる。とくに南側には緑色片岩の岩石帯が広がる。緑色片岩は、緑色の鉱物が醸す穏やかな色合いと、薄い葉を重ねたような構造が織りなす縞模様が特徴だ。そして、この中央構造線上には不思議と精霊を宿す施設、信仰の聖域が集まり、その多くでなぜか緑色片岩が使われている。
紀伊半島を横切る中央構造線の東端にあり、古来より日の出を拝む場所として知られる三重県伊勢市の夫婦岩のうち男岩は緑色片岩の塊であり、いにしえより多くの人によって拝まれてきた。そして、夫婦岩から南西に8kmほどのところに位置する、日本人の心のよりどころ、伊勢神宮こそ中央構造線上に鎮座している。
古くから断層のあるところでは火山活動が活発で地震が頻発に起きていた。厄災を鎮めるために伊勢神宮がこの場所に祀られたとしても不思議ではない。五十鈴川の烏帽子岩や鏡岩の巨石群も緑色片岩で、緑石の上を滑るように流れる五十鈴川の水はひときわ清らかだ。
さらに西へ進むと、三重県松阪市の月出川源流域で中央構造線の断面を間近で見ることができる。月出中央構造線露頭だ。1959年の伊勢湾台風によるがけ崩れでその岩肌が現れ、内帯と外帯の境界がはっきりと確認できる。2002年には国の天然記念物に指定され、「日本の地質100選」にも選ばれている。
近畿の屋根に当たる大台ケ原に発する吉野川が北上して中央構造線に交わる辺りに冒頭にも触れた宮滝遺跡はある。吉野離宮は斉明天皇による造営後、大海人皇子(後に天武天皇)や持統天皇、聖武天皇などの行幸があり、行幸とともに多くの歌が詠まれた。発掘された宮殿の礎石には緑色片岩が使われている。天皇家がこれほどまでにこの地を大切にしたのは、大地の営みから湧き出てくる悠久の力を感じ、それを得ようとしたからではなかったか。これらの歴史は吉野歴史資料館で知ることができる。
吉野川は紀ノ川へと名前を変え、和歌山県に入る。和歌山市の紀の川南岸扇状地に広がる岩橋千塚古墳群は、4世紀末から7世紀にかけて造られた850基を超える全国最大規模の古墳群だ。大陸から渡来し一帯を支配していた豪族・紀氏一族の墓域であるとされる。これら古墳群の石室は、緑色片岩に積み上げにより築かれている。また、紀伊半島における中央構造線の西端に建つ和歌山城の石垣にもまた緑色片岩が使われている。
N極とS極の力がぶつかり合い、力を打ち消しあって生じるゼロ磁場は、この中央構造線上に多く見られるという。大地の動きが産み出した見えない力を感じ取り、古来より人はそれを治めようとし、また取り入れようとしてきた。中央構造線上に沿って営まれてきた人の生活、築かれた造形物を見てその不思議な力を感じずにはいられない。
https://www.fujisan.co.jp/articles/power-spot/30/ 【地球科学的に見たパワースポット 神々の警告 神社と活断層】より
地球を覆う複数のプレートがぶつかり、ひしめきあう日本列島周辺。
それゆえ日本は、火山と地震の国となっている。
だが──その地震を霊的パワーによって、古代から抑えつけてきたものがあった。 それがパワースポット上に置かれた、各地の古い神社なのである。
記憶に新しい2014年の木曽御嶽(おんたけ)山の噴火。日本は火山列島であり、同時に地震列島でもある(写真=共同通信)。
日本はなぜ地震が多いのか?
地球の表面(地殻)は、十数枚のプレートと呼ばれる岩の板で覆われている。それらが何億年と動いている「プレートテクトニクス」という働き(相互作用)で、大陸移動、隆起、沈降、火山活動、地震などのあらゆる地質現象を起こすとされる。
震源地は、プレートとプレートの境界に集中している。中でも太平洋を取り巻く地域は「環太平洋地震帯」と呼ばれ、地震多発地帯として知られている。
その地震帯に属する日本は、世界最大の地震国だ。日本列島の総面積は、地球表面のわずか1400分の1にすぎないが、有感・無感をあわせた地震の総数は、世界で起こる地震の10パーセントにも及んでいる。これは、日本列島の周囲で4枚ものプレートが力と力でせめぎ合っているためで、プレート境界地震、断層型地震、火山性地震など、さまざまなタイプの地震を多発させているのだ。
「天災は忘れたころにやってくる」とは、関東大震災の災厄を見た、地球物理学者・寺田寅彦の標榜だ。『寺田寅彦随筆集』のひとつ「神話と地球物理学」という一文で彼は、日本神話や伝説は日本の自然現象を象徴的に描写していると述べている。
たとえば気性の烈しい素戔嗚命(すさのをのみこと)の神話には火山現象を彷彿とさせるものが多く、八岐大蛇(やまたのおろち)の話も火口から流れだす溶岩流を連想させる。天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天岩戸に隠れて天地が真っ暗になったという下りは、火山の噴煙降灰による天地晦冥の状態だという。
理論物理学者・湯川秀樹の実父である小川琢治(たくじ)は、明治24(1891)年の濃尾(のうび)地震の惨状を目撃して地理学を志し、日本最初期の地質学者になった。彼は晩年、地震神について研究し、『支那歴史地理研究』(1928年刊行)で、素戔嗚命は地震を起こし、大己貴(おおなむち)命(大国主命)は地震を鎮めた神だと述べた。
火山の神・軻遇突智(かぐつち)命を産み、 火傷で死んだ母神・伊邪那美(いざなみ)命を慕う素戔嗚命は、父神・伊奘諾(いざなぎ)命から委ねられた海原の支配を放棄し、号泣しつづけ、地上の草木を枯らせ、川や海を干からびさせ父神を困らせた。
放逐された素戔嗚命は、姉神・天照大神のいる高天ヶ原を目指す。このとき地上の山河は震え、国々は揺れ動く(まさに地震だ)。姉神を困らせて追放された弟神は、やがて地下世界・根の国(堅州国)(かたすくに)に住まう。
出雲の大己貴命は、兄神たちである八十神(やそがみ)に殺されそうになり、母神の教えに従って素戔嗚命のもとに逃れた。そこで素戔嗚命の娘神・須世理毘売(すせりひめ)と仲よくなり、彼女の援助もあって、素戔嗚命からの試練を耐え抜く。
ふたりは素戔嗚命が寝ているのを見計らい、「生太刀(いくたち)、生弓矢 (いきゆみや)、天(あま)の沼琴(ぬごと)」という3つの宝を取り、逃げだす。大己貴命は須世理毘売を背に担ぎ、天の沼琴を肩に掛けるが、その琴が樹に触ると地面は動き、鳴り響いてしまった。
小川はこの天の沼琴こそ、素戔嗚命が根の国で地震を引き起こすための呪宝 (じゅほう)だったと語る。
目覚めた素戔嗚命は山上からふたりに向かって、「その宝を使って兄たちに勝ち、地上の王となって大国主命と名乗れ」と叫ぶ。素戔嗚命の三宝は、皇孫が持つ三種の神器に相当する。大国主命は武力とともに、地震を操る神の力を得て、地上を治める王者となれたのだという。
地震の神、地震鎮めの神と要石
日本で一番古い地震の記録は、 『日本書紀』巻13・允恭(いんぎょう)天皇5(416)年7月に、遠飛鳥京(とおつあすかのみや)付近で起きた允恭地震だ。古語で地震を「なゐ」または「なゐふる」 とある。「な」は土地、「ゐ」は「居る所」の意、「ふる」とは「震える」という意味だ。それが後 に「なゐ」だけで地震を指す言葉となった。
続けて『日本書紀』の推古(すいこ)天皇7(599)年4月に、「地動(なゐふ)りて舎屋ことごとく破(ごほ)たれぬ。則ち四方(よも)に令(命令)して地震(なゐ)の神を祭らしむ」とある。
なゐの神は固有名詞ではなく、総称である。しかし『延喜式(えんぎしき)』の神名帳によれば、伊賀国名張郡(現在の三重県名張市下比奈知)には名居(ない)神社があり、なゐの神を祭神としていたらしい。その社の西方には、活断層である名張断層が走っている。
また、名居神社から東北へ7 キロの場所には、同じ延喜式内社の大村神社(伊賀市阿保)が 鎮座し、地震鎮めの神・武甕槌(たけみかづち)命と経津主(ふつぬし)命が祭祀されている。
大村神社拝殿右の小祠の中には、直径40センチほどの球体の石「要石」(かなめいし)がある。注連縄(しめなわ)が張られ、前に鯰(なまず)が穴から首を出す姿の陶製の造り物が置かれる。さらに小祠前の左右には、石彫りの鯰が横たわる。参拝者はその鯰に水をかけ、地震の鎮静を祈るのだ。
創建は神護景曇(じんごけいうん)元(767)年。武甕槌命は常陸国(ひたものくに)の鹿島神宮から、経津主命は下総(しもうさ)国の香取神宮から三笠山遷幸(みかさやませんこう)(春日大社の創建)の道すがら、大村神社に御休息し、そのときに「要石」を封鎮せられたという。
この武甕槌命を祀る常陸国一ノ宮・鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市宮中に鎮座しているが、やはり直径30センチほどの要石が瑞垣に囲まれて鎮まっている。社伝では武甕槌命がこの地に降臨されたとき、まずこの要石に鎮座されたという。
ところで、要石が地震を起こす巨大な鯰を抑えているとする伝承は広く知られているが、本来はそうではなかったらしい。
たとえば地震と鹿島神宮の要石の関連を示した寛永元(1624)年の摺物(すりもの)『大日本国地震之図』では、鯰ではなく龍が描かれており、「ゆるぐともよやぬけじのかなめ石、かしまの神のあらんかぎリハ」と地震鎮めの呪歌が添えられている。この図柄及び歌は『伊勢暦』に引用されて、幕末まで継承された。
つまり当時は、地震をもたらす原因は地底に潜む超巨大な龍で、その龍の頭部と尾部を武甕槌命が要石で押さえていると考えられていたのだ。
また、東大地震研究所が所蔵する建久年間(1190~1199年)の暦では、日本を取り巻く生物は「地震虫」と名づけられている。いずれにせよ鎌倉時代には、龍もしくは「地震虫」説が存在したことになる。
琵琶湖に潜む鯰と竹生島縁起
いっぽう地震と鯰を関連づけた最古の記録は、天正13年陰暦11月29日(1586年1月18日)の天正地震で被災体験した豊臣秀吉だという説がある。
大津の坂本城で大地震に遭遇した秀吉は、琵琶湖の湖面で鯰が飛び跳ねる様を観察し、地震発生は鯰が原因だと考えたそうだ。 その6年後、秀吉が伏見に城を築こうとしたとき、普請の担当者・京都所司代の前田玄以(げんい)に送った書簡に、「伏見の普請、鯰大切にて候(そうろう)まま、いまにも返答いた司申候」と記し、伏見城建造に鯰(地震)対策が大切であることを指示している。
琵琶湖には竹生島(ちくぶじま)という小島がある。宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)(竹生島)神社という寺社のみで占められた信仰の島で、もとは神仏習合で弁財天(市杵島比売(いちきしまひめ)命)を祀っている。
寛政5 (1793)年から文政2 (1819)年に刊行された『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)25巻「竹生嶋縁起」は、竹生島で海竜が大鯰に変じて大蛇を退治した伝説を記す。そもそも竹生島は、「金輪際」(こんりんざい)という世界の中心の柱から生えでた金剛宝石(ほうしゃく)(金輪際にある宝石)の島であり、大鯰に取り囲まれているのだ、という。
歴史学者・黒田日出男の『龍の棲む日本』(岩波書店/2003年)によれば、仏教の世界観では大地の最深部に届く長大な柱を金輪際と呼び、要石は本来、この金輪際を指すのだそうだ。竹生島の縁起も、だからこそ地震があっても不動の島だと説いているわけだ。
地球は複数の巨大な岩の板=プレートによって覆われている。
関東大震災。日本は過去、何度も大地震に襲われつづけてきた。 (写真=共同通信)
日本神話に登場する荒ぶる神、素戔嗚命(すさのをのみこと)。こうした神の所業は、日本を襲う自然災害をモチーフにしたものだという。
天守閣から竹生島が見える長浜城(滋賀県長浜市)の城主でもあった豊臣秀吉は、竹生島の縁起も知っていたはずで、そのうえで地震と鯰が関係あると語ったのだろう。かくして江戸時代中ごろには、大地震があるたびに縁起物「地震の鯰絵」が流行するようになった。
一方、下総国一ノ宮・香取神宮にも要石は存在する。
千葉県香取市に鎮座する同神宮は、やはり国譲り神話に登場する経津主命を祀る。利根川と潮来(いたこ)の水郷地域を挟んで、香取神宮本殿の中心から正確に北東の方向に鹿島神宮本殿が位置する。さらに正確な北西の方向には筑波山の男峰が位置していることから、測量によって配置されたことがうかがえる。ちなみに男峰山頂には、延喜式名神大社・筑波山神社の古祠も鎮座しているのだ。
香取神宮の要石は、鹿島とほぼ同じ直径30センチほどの丸石で、半ばは地中に埋まっている。説明板には「住古(おうこ)(大昔)この地ただよえる国にして地震多きが故に香取の大神地中深くこの石を刺し込まれて東国鎮護の石となせしものと伝えられる」と書かれている。こちらも地震の抑止力があるというのだ。
常陸国一ノ宮/ 鹿島神宮
国譲り神話の主役、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る鹿島神宮。
下総国一ノ宮/香取神宮
やはり国譲り神話に登場する経津主命(ふつぬしのみこと)を祀る香取神宮。
神が降りた諏訪大社の要石
信濃(しなの)国(長野県)一ノ宮の諏訪(すわ)大社は、諏訪湖を挟んで南に上社の本宮(もとみや)と前宮(さきみや)、北に下社の秋宮と春宮の計4宮を擁する。『延喜式』では「南方刀美(みなかたとみ)神社」と称する。祭神は建御名方富(たけみなかたとみ)命と妃神・八坂刀売(やさかとめ)命の2座だ。
祠職(ししょく)(神職、神主)のトップは、上社(本宮、前宮)では神別の守矢(もりや)氏が世襲し、下社(秋宮、春宮)は朝廷から派遣された皇別の珠流河(するが)国造・金刺(かなさ)氏が就く。そして上社祝(はふり)家(守矢氏)の襲職儀礼では、「要石」と呼ばれる神石が使われていた。
大祝(おおほうり)(神に奉仕する最高位職)は前宮境内の柊樹の下、鶏冠社の小祠の御前にある要石を内にして、周囲に幕を引いて神殿を設ける。そこで神長官が神霊ミシャグジを呼び降ろし、8歳の童子に憑依(ひょうい)させて現人神(あらひとがみ)とする儀式であった。
ミシャグジは、建御名方富命より前から、諏訪で祭祀されてきた土着神だ。起源は縄文時代に遡り、蛇神をイメージさせる正体不明の神らしい。
要石のある前宮の境内は、ちょうど北西から南東へ走る糸魚川・静岡構造線に、南南西方面から走る中央構造線が衝突する結節点にあたる。日本最大級の断層帯と断層がぶつかる、文字通りのパワースポットだ。
当然、危険度の高い活断層も潜伏している。前宮から本宮の直下を走る岡谷断層群(の大熊断層らしい)は、1725年8月14日に、マグニチュード6・3相当の強い地震を発生させた。
要石は地震を抑制する神石だから、蛇をイメージさせるミシャグジとは、大地の裂け目となった長大な活断層そのものであり、秘められたエネルギーを霊視したものなのかもしれない。
なお、本宮には本殿はなく、西に面する拝殿からは何を御神体として祈願するのか不明とされる。境内の南側には硯石(すずりいし)という霊石があり、本来はこの硯石をミシャグジの依代(よりしろ)として拝礼するのが正しかったらしい。岡谷断層群中の大熊断層はまさにこの硯石の背後を走っており、硯石には要石のような地震鎮めの意味もあったのだろうが、今は忘れられているようだ。
前宮のミシャグジが降りた要石は、驚いたことに明治初年に持ち去られて所在不明になったままだという。これでは活断層(ミシャグジ)を鎮めることはできないのかもしれない。
長大な大陸プレートの裂け目
構造線とは、地質構造を区画する大規模な断層帯である。特に南は静岡市内から、北は新潟県糸魚川(いといがわ)まで、本州の中央部を縦断する糸魚川・静岡構造線は、西側がユーラシアプレート上の西南日本、東側が北アメリカプレート上の東北日本となるプレートの境界でもある。
糸魚川・静岡構造線は1本の活断層として地上に現れている場所もあれば、複数の断層に分裂して、幅7~8キロほどの地溝帯を形成する場所もある。諏訪湖はその地溝帯に生まれた湖沼だ。大断層は地中深くマントル層まで裂け、大量の熱水が温泉水となって噴出している。
そのため諏訪湖の汚水処理場では、乾燥した廃泥(はいでい)から大量の黄金が産出される。その量はドラム缶1本あたり20グラム(1万本で200キロ)。諏訪の無尽蔵の黄金は何万年もかけ、超深部から断層の裂け目を通って涌きでる熱水よってもたらされたものだ。
なお、4宮ある諏訪神社はすべて本殿がなく(明治以降、前宮には作られた)、拝殿しか存在しない。本殿がない式内社には、奈良県の大神(おおみわ)神社と埼玉県の金鑚(かなさな)神社があるが、それぞれ本殿の代わりに三輪(みわ)山、御室山という御神体山を祀っている。
諏訪大社の上社も、一説に守屋山(もりやさん)を御神体とするともいうが、下社は関係ない。では諏訪湖が御神体かといえば、4宮の拝殿は湖からそっぽを向いている。
実は、上社本宮と前宮は構造線の南西側・岡谷断層群の上にある。また、下社秋宮と春宮の拝殿背面直下には北東側・諏訪断層群中の下諏訪北方断層が通っている。ということは、下社秋宮と春宮も、本来は直下の断層を御神体として祀っていたのではないかと想像されるのだ。
4宮の境内の四隅には、大きな4本の御神木が立てられているが、要石も諏訪の御神体で、大地に埋められた石棒であったという話がある。要石や硯石を含め、これらはすべて、地震を鎮める呪術なのではないか。
構造線と一ノ宮
上野国一ノ宮 貫前神社
上野国の一ノ宮である貫前(ぬきさき)神社もまた、構造線上に位置している。
肥後国一ノ宮/阿蘇神社
阿蘇山の激しい火の神と大地を抑える阿蘇神社。
伊勢神宮と中央構造線の関係
諏訪大社の境内に立てられた4本の柱は、「御柱」(おんばしら)と呼ばれる。そして伊勢神宮の内宮(ないくう)(皇大神宮)本殿中心の床下にも、床に接しない「心(しん)の御柱(みはしら)」と呼ばれる柱が埋められ立つ。これは天照大神の御神霊が宿る神聖な柱らしい。外宮(げくう)(豊受神宮)の本殿も同じ構造をしているようだ。御柱と心の御柱──単に名称が似ているだけだろうか。
伊勢神宮は天照大神を祀る内宮と豊受(とようけ)大神を祀る外宮からなり、外宮は内宮から北北西へ約4キロの地点に鎮座する。驚くべきことにその2社間を、またもや日本列島の西の端から東の端へ横断する中央構造線が通っている。ただごとではない。
また、2宮間より構造線の近い場所には、2社の延喜式の大社、伊佐奈岐(いざなぎ)宮と月読(つくよみ)宮が鎮座している。伊勢国には232社(253座)の延喜式内社があるが、最高位の名神大社は4社(11座)、それに次ぐ大社は5社(7座)ある。その中で、中央構造線から3キロ以内に建つ名神大社と大社はあわせて6社にものぼるのである。
これらの神社が地震を鎮めているのか、伊勢地方南部の活断層はみな不活発で、このあたりを震源とする地震も少ない。
それにしても──なぜ伊勢神宮や諏訪大社は、そのような場所に置かれたのか?
マイクロ波システム基地局設計と情報工学の専門家・渋谷茂一は、大型古墳や古い時代からある社寺、宮跡、信仰を集めてきた聖山の山頂などの位置をコンピューターに入力・処理し、その結果を著書『巨大古墳の聖定』(1988年/六興出版)で、次のように論じている。
古代に築造された大型古墳は、現代人の測量技術と遜色ない高度な技術をもって聖定され、純幾何学的な位置決定がなされている。それは畿内のみに留まらず、日本列島を網羅し、聖点と聖点を結ぶ幾何学模様を構築しているのだ、という。
現在では、GPSや測量ソフトのおかげで、だれでも正確な位置情報を調べることができるようになった。その結果を少し、記してみよう。
出雲大社(北緯35度24分07秒・東経132度41分08秒)から豊受大神宮(北緯34度29分14秒・東経136度42分10秒)までの距離が380・435キロ。豊受大神宮から香取神宮(北緯35度53分10秒・東経140度31分44秒)までの距離が381・273キロ。これがほぼ正確な二等辺三角形となる。奈良時代かそれ以前に聖定されたものとして見れば、誤差838メートルなど、ほとんど問題とならないレベルの測量技術であった。