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那須の旅路

2018.11.17 13:57

https://nattoku-travel.com/%E8%8A%AD%E8%95%89%E3%80%81%E9%82%A3%E9%A0%88%E3%81%AE%E6%97%85%E8%B7%AF-2/ 【芭蕉、那須の旅路】より

松尾芭蕉が、那須町に滞在した5日間を残された資料と共に足取りを解説。

芭蕉翁塚

高久家滞在

 芭蕉(当時46歳)は、元禄2年(1689)4月16日、13日間を過ごした黒羽を発ち、一路那須温泉に向かいます。お弟子さんの「曽良」が残した随行日記には、昼頃、馬にて黒羽の余瀬を出発したが、野間で馬を返したなどと書かれています。この途中で作られた俳句が有名な「野を横に馬牽きむけよほととぎす」です。

 余瀬から高久家までは4里(16km)の道のりと記されています。高久家(大字高久甲)では、角(覚)左衛門(28歳)に迎えられます。若い当主ながら、角(覚)左衛門は、黒羽藩の大名主です。年の違う二人はどんな話をしたのでしょうか。

 この日の朝、天気は良く、やがて雨になったようです。芭蕉が角(覚)左衛門に与えたとされる懐紙が当家に残っていますが、それには、「殺生石を見ようと那須の篠原をたずねてきたが、雨が降り出してきたので、ここに留まることにした」というようなことが書かれています。そして芭蕉(風羅坊)の発句と曽良の脇句が下記のように残されています。「落ちくるやたかくの宿の郭公 風羅坊」「木の葉をのぞく短夜の雨 曽良」高久家では次の17日も雨で天気に恵まれませんでした。芭蕉と曽良はここに二泊し、18日の昼頃、雨が止んだ空の下、那須殺生石へと高久家を後にしました。松子まではやはり馬に乗ったようです。昼過ぎは快晴だったようですから、芭蕉は馬上から那須連山をはっきりと見たのではないでしょうか。やがて芭蕉は徒歩で湯本へと向かいました。

高久家に伝わる 「芭蕉懐紙」  浮世絵版画 「九尾の狐」 作=歌川国貞 

湯本滞在(那須湯本 那須温泉神社)

「湯を結ぶ誓いも同じ岩清水」

 18日の、午後早いうち(3時頃ヵ)に湯本に着いた芭蕉は、現在の民宿街の和泉屋(主人は五左衛門)に草鞋をぬぎ18、19日と宿泊します。この両日は天気に恵まれ、芭蕉は曽良とともに、那須温泉神社を訪れ参拝し、神主の室井越中に迎えられて、那須与一ゆかりの宝物などを観覧しています。ここでは「湯を結ぶ誓いも同じ岩清水」の俳句を残しています。

湯本滞在(那須湯本 殺生石)

「石の香や夏草赤く露あつし」

 午後には、五左衛門の案内で殺生石を見学しています。「殺生石」は、その物語性のおもしろさから、室町時代には謡曲(お能)、やがて浄瑠璃、歌舞伎でも上演され、江戸の文化元年(1804)に、高井蘭山により大作「絵本三国妖婦伝」が出版されるに及んで、世間に広く知られるようになりました。芭蕉は、文化元年のこの出版物は読んではいませんが、博学の芭蕉は、室町時代の「下学集」「玉藻の草紙」その他の文献に目を通していたのではないでしょうか。芭蕉の湯本への旅の中心目的はこの殺生石にあったのですから。「おくのほそ道」には、この殺生石の光景を次のように活写しています。「石の毒気いまだ滅びず。蜂蝶のたぐい真砂の色の見えぬほど重なり死す」また、「おくのほそ道」には収録されていませんが、この地で次の名句が造られています。「石の香や夏草赤く露あつし」。

芦野の里(那須芦野 遊行柳)

「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」

4月20日(新暦の6月7日)の朝、芭蕉は和泉屋を出て、一路芦野の里に向かいます。曽良の随行日記には、小や村とウルシ塚を通り、計5里余り(20Km少々)で芦野に着いたと記されています。しかし、どの道を通ったかは定かではありません。曽良は、「湯本ヨリ総て山道ニテ能く知レズシテ通リ難シ」などと記しています。今では、想像もつかない、道無き道だったのかもしれません。「おくのほそ道」では、芦野について8行ほど費やしていますが、この8行がいろいろな情報を与えてくれます。19代芦野領主が芭蕉の門下であったこと、領主は「遊行柳」を自慢して、芭蕉に一見を勧めていたらしいこと、そして注意すべきことは、芭蕉が、「遊行柳」とは言わず、「清水流るゝの柳」と呼んでいたことです。まさにここにこそ、西行法師に対する芭蕉の深い敬慕の念が表れているのです。すなわち、西行の名歌、「道野辺に清水流るゝ柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ」の「清水流るゝの柳」をとっているのです。 芭蕉は、少なくとも、昼頃には、この「清水流るゝの柳」に着いたと思われます。芭蕉一行を案内したのは、当地の茶屋松本市兵衛なのですが、この時、領主や芦野氏家来がどのように関わったのかは、残念ながら資料がなく分かっていません。芭蕉は、「どこにあるのかなと思っていたが、今日やっと、この柳の影に立つことをえた」という意味の文章を、次の名句とともに残しています。「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」。芭蕉は、ここから寄居村を経て宿泊地へ、4里少々(約17Kmヵ)の道のりを旗宿村へ向かいました。


https://www.tokyo-np.co.jp/article/39839 【西行、芭蕉に思いはせ ぶらり栃木県那須町「遊行柳」】より

 栃木県那須町に、古くから歌枕として詩歌や能で取り上げられてきた「遊行(ゆぎょう)柳」がある。何代目かの柳だろうが、歴史のロマンを感じる。新型コロナウイルスで人混みは避けたいが、ここなら人もまばら。大空の下、ストレス発散しては。(藤英樹)

 福島との県境近く、広々とした田んぼの中に二本の大きな柳の木が見える。

 柳の下に立てられた説明板によると、諸国巡歴の遊行上人(時宗の僧)の前に老翁が現れ、この柳の下に案内して消える。夜更けに上人が念仏を唱えると、烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)姿の柳の精が現れ、極楽往生できることを感謝して舞を披露したという。

 草木にも仏性があるという「草木国土悉皆(しっかい)成仏」の思想が背景にある。室町時代の能楽師・観世信光が「遊行柳」として能に仕立てた。

 平安末期の歌僧・西行は二十代と六十代の二度、みちのくへ旅したが、遊行柳で詠んだとされる歌が

道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ  立ちどまりつれ    「新古今和歌集」に収められている。

 江戸元禄期の俳聖・松尾芭蕉が「おくのほそ道」の途次にここで詠んだ句が

田一枚植ゑて立去(たちさ)る柳かな

 「ほそ道」の地の文には、芦野の郡守戸部某(こほうなにがし)が「ぜひ見ていってほしい」と旅の前に折々話していたというくだりがある。この郡守とは芭蕉の俳諧の門人だった芦野の領主・芦野資俊。句の「植ゑて立去」ったのは早乙女か、芭蕉か、はたまた柳の精かとさまざまに想像がふくらむ。

 さらに芭蕉を慕った俳人・与謝蕪村もここで

柳散清水涸石処々(やなぎちりしみずかれいしところどころ)

 と漢詩調の句を詠んだ。

 三人の歌句碑が柳の下に立っている。風に吹かれながらしばしたたずんでいると、時空を超えたはるかな世界に誘(いざな)われる。 


https://ameblo.jp/wizbizsendai-lovetouhoku/entry-12595759834.html 【那須黒羽コース ~奥の細道紀行~】より

約330年前に松尾芭蕉さんが歩いた足跡をたどってみましょう。

第二弾は芭蕉さんが14日間も滞在した「那須黒羽」散策です。

奥の細道マイスター主催の研修は2016年3月12日に実施したので、写真はその日に撮影したものです。

<黒羽芭蕉の館>

栃木県大田原市は、源平屋島の戦いで名を挙げた那須与一ゆかりの地として有名です。

一方、同市の黒羽地区は芭蕉さんゆかりの地です。

芭蕉さんは「おくのほそ道」の旅の中で13泊14日という最長期間を黒羽に逗留し、多くの足跡を残しました。

<翠桃墓翠桃邸跡>

全国に芭蕉さんの門人がいましたが、那須の黒羽にも家老の浄法寺図書(俳号は桃雪)とその弟鹿子畑善太夫(俳号翠桃)がいて、芭蕉さんはこの兄弟から手厚いもてなしを受けました。

「おくのほそ道」の全工程の中で13泊14日と長く滞在したのは、ちょうど雨続きで出立できなかったことや疲れがたまっていたこともありますが、彼らの接待で居心地がよかったことも一因でしょう。

黒羽滞在中も、弟の翠桃は現地の名所旧跡を案内し、芭蕉さんは散策をしています。

<西教寺>

翠桃邸跡の目の前にある西教寺は、明治2年に創立されたので、芭蕉さんには直接関係ないのですが、曾良さんの句碑があります。

かさねとは八重撫子の名なるべし

(かわいい女の子だ。よく女の子はナデシコに例えられるが、「かさね」という名のこの女の子は、花びらが幾重にも重なった八重撫子であろう)

<玉藻稲荷神社>

美女に化けて天皇をたぶらかした九尾の狐が、正体を暴かれて退治された池「鏡が池」があります。その狐を祀った神社です。

芭蕉さんも見学に足を運びました。

<那須神社(八幡宮)>

源義経につかえた那須与一が加護を祈願した神社です。

屋島の合戦で扇の的を矢で打ち抜く際も、与一は心でこの神社を念じたと伝えられています。義経の大ファンである芭蕉さんが訪れないわけにはいきません。

<修験光明寺跡>

この当時の住職は、翠桃の義兄弟であったこともあり、芭蕉さんも案内されて訪れています。特に芭蕉さんの心に残ったのは、修験道の開祖として知られる役小角(えんのおづめ)の行者堂だそうです。

夏山に足駄を拝む首途かな

(行く先にそびえる夏山を超えて、奥州に向かうにあたって、役行者がはいたという高下駄を拝んだ。旅の再開を前にして、彼の健脚にあやかりたい)

<雲巌寺>

鎌倉時代から続く古刹。

八溝山地のふところ深く、清らかな武茂川の渓流沿いにあり、禅宗の日本四大道場と称されています。

芭蕉さんが師を仰いだ仏頂禅師が、若き日に修行をかさねたお寺だったので、是が非でも立ち寄りたかったのでしょう。

仏頂でさえも、若いときになかなか無欲になれず、その苦悩を歌に託したそうです。

黒羽の中でも最も感動した雲巌寺を、黒羽を発つ直前に参拝したように書いたのは、そのほうが盛り上げるという芭蕉さんの演出でしょう。

木啄も庵は破らず夏木立

(寺をもつつき壊すというキツツキさえも、仏頂がいた草庵だけはつついた跡がない。

キツツキも以前の主人を敬い、遠慮しているのだろう)

当日は、栃木県大田原市にて芭蕉の里観光ボランティア「ふるさとを知る会」の方々との交流を兼ねて、芭蕉さんゆかりの地を訪ねる研修でした。

那須与一関連や黒羽城址など、見どころがたくさんありますね。

以前当ブログに「黒羽」関連で書きました内容も、ご参考までに。

西教寺

https://ameblo.jp/wizbizsendai-lovetouhoku/entry-12139800720.html?frm=theme

3月12日は、「奥の細道マイスターの会」による初めての研修会でした。

黒羽(現・栃木県大田原市内)は、松尾芭蕉さんが憧れていた東北の玄関口「白河の関」を目の前にして、この道中最も長い十三泊もした滞在場所です。

それは、ちょうど梅雨の時期で雨の日が多かったこともありましたが、芭蕉さんの俳諧の弟子でもあった桃雪(黒羽藩家老の浄法寺高勝)と翠桃(鹿子畑豊明)の兄弟を訪ねたことで、おもてなしを受けたことが大きいようです。

芭蕉さんは東北入りする前に、この地で十分な英気を養ったことでしょう。

まず、芭蕉さんとお供の曽良さんは、日光を出て黒羽に向かう広い那須野原において、野良仕事をしている男に道を尋ねました。その男は「道に迷うから」と言って、馬を貸してくれたのですが、その馬のあとを幼い姉弟が走ってついてきます。

その女の子の名前は「かさね」といって、田舎にしては京の都で聞くような優雅な名前だと、芭蕉さんはいたく感心します。

曽良さんが言うには「かわいい娘は『なでしこ』に例えられるが、『かさね』とは八重咲きの八重撫子の名だろう」と句を詠んでいます。

かさねとは 八重撫子の 名成るべし (曽良)

芭蕉さんはよほどこの「かさね」という名が気に入ったらしく、自分に娘がいればつけたい名と言い、名づけ親になったときにこの名をつけるほどでした。

現在、この句碑は西教寺にあります。

桃雪と翠桃

https://ameblo.jp/wizbizsendai-lovetouhoku/entry-12139818894.html?frm=theme

芭蕉さんが「おくの細道」の道中、最も長い滞在場所は黒羽と前述しました。

それは、芭蕉さんの俳諧の弟子であった、桃雪(とうせつ 浄法寺高勝)と翠桃(すいとう 鹿子畑豊明)の兄弟がいたことが影響します。

父親と共に、兄弟が七歳・六歳のときから江戸住まいをし、その際芭蕉さんの門下生になった二人ですが、それぞれ十九歳・十八歳のときに黒羽へ帰ることとなりました。

それからちょうど十年後、兄の桃雪は黒羽藩の家老で母方の浄法寺を継ぎ、弟の翠桃は実家の鹿子畑を継いだタイミングで、芭蕉さんが訪れました。

兄・桃雪の書院でくつろいだ芭蕉さんは、初夏のさわやかな風と、庭園の美しさや愛宕山や八溝山を眺めながら句を詠みます。

山も庭も 動き入るるや 夏座敷

また数日後、芭蕉さん一行は、この兄弟の妹の嫁ぎ先である修験光明寺に招かれました。

こちらには、修験道の開祖である「役行者」の像が祀られていて、一日に200㎞も歩けるという高下駄を履いていました。

芭蕉さんは、この健脚にあやかり、これから東北入りする道中の無事を祈りました。

夏山に 足駄を拝む 首途哉

さらに、この黒羽では「おくの細道」で初の歌仙を巻きました。

(「歌仙を巻く」とは、俳諧を三十六句詠むこと)

そこで、芭蕉さんは

秣負ふ 人を枝折の夏野哉

「まぐさを背負う農夫を道しるべとしてやってきましたよ」という、草深い那須の情景を詠んだ句です。

この句碑は、玉藻稲荷神社にあります。

(実際、芭蕉さんもこちらの神社に立ち寄っています)

雲巌寺

https://ameblo.jp/wizbizsendai-lovetouhoku/entry-12139826371.html?frm=theme

芭蕉さんが黒羽で最も訪れたかった場所、それは「雲巌寺」でした。

雲巌寺とは、黒羽から約12km離れている山奥にあるお寺で、芭蕉さんの時代も修行の寺として名高いところでした。現在も臨済宗のお坊さんの修行の場なので、観光化されたお寺とは違い、静謐な空間で身が引き締まります。

それにしても、なぜこのお寺に芭蕉さんが訪れたかったのか?

それは、仏頂和尚の存在でした。

常陸の鹿島根本寺の住職だった仏頂和尚は、鹿島神宮との境界争いの訴訟のため江戸深川に滞在中、芭蕉さんと交流を持ちました。禅の勉強をしたいという芭蕉さんが仏頂和尚を訪ね、その禅問答がきっかけで、あの世界的にも有名な句

古池や 蛙飛び込む 水の音

が誕生しました。

仏頂和尚は、ここ雲巌寺にも出入りし、修行していた庵もあったため、「この庵をぜひ見たい」と芭蕉さんは滞在三日目にして、黒羽藩の若い方々大勢を引き連れて詣でました。

和尚からは「五尺にも満たない庵だが、それさえも雨さえ降らなければ必要ないのに、と炭で岩に書きましたよ」とかつて伺っていたことを芭蕉さんは思い出し、その執着しない生き方に感銘を受けていたようです。

あいにく和尚は留守でしたが、その庵は残っていました。

裏山の急な崖をよじ登ると、そこは断崖絶壁の岩窟に建つ粗末な庵ですが、キツツキに破られずに庵が残っていることに、芭蕉さんは一句詠みます。

木啄(きつつき)も 庵は破らず 夏木立

実は、キツツキは「寺つつき」とう異名を持つほど、寺をつつき壊すそうです。

そのキツツキさえも、和尚の徳の前に敬意を払っているという内容です。

残念ながら、現在は和尚の庵に通じる道は封鎖されているため、伺うことはできませんが、この雲巌寺。山奥のひんやりした中にたたずむ姿に、私は一目ぼれをしてしまいました。まだ木々には緑がない季節でしたが、新緑、紅葉、雪景色、それぞれがどれほど美しいかと想像すると、またぜひ来てみたいと思わざるを得ません。

それにしても、芭蕉さんは黒羽からここまで山道を歩いてきたと思うと、仏頂和尚への想いが深かったのでしょう。

(ちなみに、仏頂和尚と、「仏頂面」は関係ないとか)