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八咫烏と山窩

2018.11.17 14:38

https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=334320 【秦氏と藤原氏】より

東ローマ帝国から中国南朝に至る絹の国際交易ルート構築のため、ユーラシア東部のトルコ系騎馬民族・突厥は、ロシア沿海地方から渡海して、東北・北陸に上陸、東北・関東・甲信・駿河の大平原に「牧」を設け、馬を繁殖させて運搬・戦闘に用いた。将軍一族の「蘇我氏」は、騎馬軍団により列島を支配し、突厥語は、やがて日本語の中核となった。

次に、北魏での弾圧を逃れた仏教軍団が、朝鮮半島に侵入し、高句麗・百済を勢力下に置き、新羅に迫った。景教徒の新羅王族・騎士団は、北九州に亡命し、「秦氏」と呼ばれた。

秦氏は、ヒッタイト→古代エジプト→ヘブライ→イスラエル→アッシリア→バクトリア→秦→新羅と移り住んだ氏族であり、古代エジプト式土木建築などの技術力に秀でていた。また、「正々堂々と戦った勇者は、戦死しても再生する」と約束する軍神「ミトラ」を信仰し、ローマ騎士道を信奉していた。

蘇我氏と秦氏は、蘇我王朝を建てて明日香を都とし、蘇我氏の製鉄技術と秦氏の高度土木建築技術により、巨大古墳築造・河内湖干拓・大運河掘削などを行い、水銀製造工場・金メッキ工場・ガラス器工場を建設し、さらに東北から近畿に至る道幅12mの直線式高速道路を敷設して、馬車輸送による国際交易を発展させた

645年、唐進駐軍は、藤原氏と共謀の上、蘇我王朝を急襲して崩壊させた。そして、列島東国の絹、水銀、銀、金、琥珀、翡翠などの資源略奪のため、亡命百済人を属国官僚とする政府を樹立し、唐の律令を施行させた。さらに、騎馬民族を蔑む漢訳仏教を思想武器として持ち込み、民衆奴隷化を目的とする列島統治を開始した。

これに対し、蘇我軍団と秦氏騎士団合同軍は、672年、近江の亡命百済王朝の本陣を攻撃して壊滅し、明日香の地に再び砦を築き、騎馬民族の王号であるテングリを「天皇」号とし、国号を「日本」とし、日本初の天皇、天武天皇を誕生させた。

藤原氏は、唐進駐軍を後ろ盾として権勢を揮い、天武王朝の皇子を次々と謀殺した。また、道鏡への譲位を願った称徳天皇の計画を謀略によって阻み、天皇を毒殺した。後を継いだ井上天皇と他戸皇太子も呪詛の嫌疑を掛けて暗殺した。これにより、天武王朝は滅亡し、唐進駐軍と藤原氏が、亡命百済貴族を傀儡として支配する桓武王朝が誕生した。

中央を追われた蘇我氏・秦氏末裔は、東北に逃れ、『蝦夷(えみし)』と呼ばれた。彼らは桓武王朝に激しく反抗したため、朝廷は、唐の軍事顧問を司令官として派遣し、鎮圧を図った。蝦夷の棟梁、アテルイは坂上田村麻呂の言葉を信じ、平安京に向かったが、朝廷により斬首された。

蝦夷の捕虜は、西国に送られて「別所、湯浅、散所、海渡」などの捕虜収容所に集められ、『俘囚(ふしゅう)』と呼ばれた。この収容所が、「落ち武者の武民が集う処」という意味で、後に「武落」から『部落』と呼ばれるようになった。この俘囚の中から、武士道に則って戦う武士が誕生した。そして、蝦夷が用いた馬上戦用の蕨手刀から日本刀が誕生した。

また、近畿の山奥に逃れた蘇我氏・秦氏末裔は、山の民となり、藤原氏が支配する平安京にゲリラ戦を仕掛け、『鬼』と呼ばれた。後には、情報・技術力を駆使して戦国大名に仕え、『忍者』として活躍した。

藤原氏は、蘇我氏・秦氏が支配者であった歴史を隠蔽する為に、蘇我王朝の歴史書を焚書し、隠し持つ者を厳しく処罰した。また、漢字二文字の地名・人名を強制したのみならず、蘇我氏・秦氏の宗教施設を破壊した跡に寺院・神社を建設して、それ以前の列島歴史を抹殺した。

藤原氏支配の正当性を主張する為、720年、創作歴史本「日本書記」を刊行し、蘇我氏に「稲目、馬子、蝦夷、入鹿」などの蔑称を名付けて、貶めた。また、「馬子、崇峻天皇を暗殺」などの記述で、徹底的に蘇我氏の暴虐非道性を捏造した。

また、藤原氏は、「仏教伝来」「聖徳太子即位」「遣隋使派遣」「大化の改新」などの架空事件をでっち上げ、騎馬民族支配と蘇我王朝の歴史の完全削除を目論んだ。その目的は、渡来異民族の闘争劇であった日本列島史を隠蔽し、天皇に統治された単一大和民族が、今日まで存続していたと信じ込ませるためであった。

さらに、藤原氏は、騎馬民族蔑視の漢訳仏教を利用し、騎馬民族末裔の蘇我氏・秦氏に『旃陀羅(せんだら)』や『穢多(えた)』などの差別語を与えて、排除した。それに加えて、らい病者の世話を彼らが住む『部落』に押し付けた。『旃陀羅』の語源となったカースト制は、釈迦が激しく非難していたものであり、本来の仏教とは真逆の存在と言うべきである。


http://web.joumon.jp.net/blog/2018/08/3322.html 【藤原・百済派と反藤原・新羅派の両建てで生き残った賀茂氏が日本の闇をつくった】より

表の世界で藤原氏vs蘇我氏ら反藤原氏の闘いが繰り広げられる日本の歴史にあって、一貫して、影から政権を操り、力を保持してきたのが、三輪氏と並んで出雲族の本流をなす賀茂氏である。同じく出雲→葛城系の蘇我氏が倒された乙巳の変から、壬申の乱を経て、平安京がつくられるまでの賀茂氏の動きが、それを象徴している。 賀茂一族は、この激動期を、百済派(天智・持統派)にも新羅派(天武派)にも両建てで対応し、どっちにころんでも、神官としての座を守りながら、一族の権力を保持し続けてきた。そして、最終的に、秦氏とともに、平安京建設の立役者となった。この両建て戦略で、政治の矢面に立たずに、裏から政権をコントロールするスタンスが、賀茂氏が八咫烏と言われる所以である。

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大賀茂真也氏の「八咫烏の超日本史」から紹介します。

天武元年(672年)、天智天皇の没後、皇位継承をめぐって、天智天皇の子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子との間に、勃発した日本古代史最大の内戦を「壬申の乱」と言う。

通説では、この乱は、大海人皇子にとって「窮鼠猫を噛む」如く勝算のないものだったとされる。実は、『日本書紀』の記述に全く記載がない人物が、後に編纂された『続日本紀』等には多くの記載があるという事が判明している。大海人皇子は決して勝算のない危険な賭けに出たわけではなかったのだ。壬申の乱で大海人皇子を支えた豪族は多かった。中でも軍事氏族として名高い大伴氏の中心人物であった、大伴馬来田(マクタ)、大伴吹負(フケイ)の兄弟。  しかし、この大伴氏以上に、皇子が頼りにしたと思われるのが鴨君蝦夷。賀茂氏系図に壬申の乱の功により、天武3年に「賀茂朝臣」の姓を賜ったとの記載ある。

壬申の乱で活躍した人物に注目すると、吉野方には、圧倒的に出雲族がついていたことがわかる。逆に近江方の名門豪族で最後まで戦い抜いたのは、中臣連金と穂積臣百足だけであった。つまり、近江朝にいた名門豪族の殆どが、開戦後吉野方に寝返ったということある。こうして、壬申の乱は、吉野方(大海人皇子)の圧倒的勝利に終わった。   しかし、天武天皇が崩御すると、皇位についたのは皇后である「うののささら皇女」(後の持統天皇)であった。天武後の皇位後継者は大津皇子と目されていた。ところが持統は大津皇子に謀反の疑いをかけて処刑。病弱な我が子、草壁皇子を使命したが、草壁皇子が病死。皇位継承者は高市皇子と目されていたが、それまでの皇位継承ルールを無視して、自ら女帝となった。

持統は、天武天皇の妻であり、天智天皇の娘であるが、反百済・反藤原の天武の政策をとらず、むしろ藤原を重用していく。こうして、壬申の乱で、破れたはずの、藤原は息を吹き返し、天武方についた出雲系は排除される。724年には藤原不比等の娘・宮子を母に持つ聖武天皇が即位。770年には天智天皇の孫、光仁天皇が即位し、その子桓武天皇は亡命百済王族の帰化人(武寧王10世孫)高野新笠の血を引くことになる。こうして、百済王子・豊璋とも同一視される藤原鎌足の跡を継いだ不比等の目論見通り、亡命百済王族による日本支配が確立する。

しかし、古代から天皇になるためには母方の血統が重要であり、藤原氏がいかに政治手腕に置いて力があったとしても、天皇家に外戚となることはかなわないことであるはずだ。事実、いくら実力があっても、母方の血統が条件に合わないものは、天皇にはなれず、源氏、平氏という苗字を与えられ、臣下の身分に降下させられていった。では、何故、藤原氏は天皇の外戚となれたのか?それは藤原氏には賀茂氏の血が入っていたからである。

なんと藤原不比等の娘・宮子の母は、賀茂朝臣比売。壬申の乱で天武方の功臣、賀茂蝦夷の娘なのだ。壬申の乱で、反藤原として闘う一方で、乱の後、藤原氏とつながっていたのである。

つまり、不比等は、賀茂朝臣比売との間の娘、宮子を天武天皇第二皇子であり、持統天皇が寵愛した軽皇子でもある文武天皇の后とし、聖武天皇を即位させ、その聖武天皇の皇后として、自分の娘の光明子を嫁がせることで、藤原時代を築き上げたのである。

壬申の乱の敗北者である藤原氏の大逆転には、賀茂氏、すなわち八咫烏が深く関わっていたのである。

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そして繰り返された遷都は、ようやく平安京で定まり、藤原氏は歴史の表へ。そして賀茂氏は安倍晴明ら陰陽師として、あるいは京都下鴨神社の禰宜(神職)として全国の神社ネットワークを支配下におくことで、裏から日本を支配していくことになる。

なんと女系社会日本が藤原支配を生んだということだ。そして、この女系支配を正当化するツールとして女神としてのアマテラスを描き出した記紀神話が編纂された訳である。しかも、藤原不比等は最初の側室として、蘇我氏の血を引く蘇我娼子を迎え入れているのだ。

これでは、記・紀によって日本の歴史がいくら改ざんされても、表立って文句がでなかったわけだ。蘇我氏らは、人質をとられたようなものだ。藤原鎌足は人質として百済から日本に来た豊璋だとされる。不比等は人質の扱いを熟知していたのかもしれない。

あるいは、元来、亡命者である、徐福、秦氏の血を賀茂氏が継いでいたからこそ、起こったことなのかもしれない。

いずれにせよ、乙巳の変→壬申の乱→平安京の成立に至る流れの中で、藤原・百済派と反藤原・新羅派が激闘・暗闘を重ねながら、今日の権力対立の基礎が作られたことは間違いない。藤原・百済派と反藤原・新羅派の両建てで生き残った賀茂氏が日本の闇をつくったともいえる。聖徳太子の和を持って貴しとなす、は綺麗事ではなかったのだ。


https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=334020 【南朝皇統奉公衆【八咫烏】と北朝皇統奉公衆【山窩】】より

徐福に起源を持つ、技能集団は、土地に縛られた農民としてではなく、全国に散らばった一族の技術者ネットワークを武器に、天皇をも裏で操る諜報ネットワークをつくっていった。例えば、穴太衆は城の石積み技術を持つ技能集団、雑賀衆は鉄砲づくりの技術を持った技術者集団であるが、当然、生き延びるために、武将の力関係を読み、時には暗殺や裏切りetcを仕掛けていった。南朝を支えたのが【八咫烏】で北朝を支えたのが【山窩】。両者は、特に、対立し、時に協力しながら、現在でも、裏で日本社会を支配しているようだ。石工や軍需産業を擁して大きくなったあたり、さらには、両立て戦略を駆使している点をみると、さながら日本のフリーメーソンである。

リンク より転載

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楠木正成を語る場合、非常に重要な存在が、伊賀の服部氏です。楠木正成の妹は伊賀の服部氏に嫁いでいます。伊賀の服部氏といえば伊賀忍者の祖として有名ですが、元々彼らは南朝に仕える技能集団で、南朝皇統奉公衆【八咫烏】の一派です。

逆に北朝に仕えた技能集団を北朝皇統奉公衆【山窩】と言われますが、これが甲賀忍者です。甲賀忍者の祖は大伴氏です。

伊賀忍者と甲賀忍者、八咫烏と山窩、彼らは敵対していたようなイメージがありますが、実

際には、彼らは同族であり、あえて2つに分かれて活動する事で、日本を裏から操りつつ、存続してきました。常に「正反合」が彼らの常套手段です。

服部氏や大伴氏の忍者の歴史は古く、時は聖徳太子の時代にまで遡ります。聖徳太子が、ブレーンである秦河勝を介して、秦国から伝わった兵法に習い、「志能便(しのび)」「志能備」と呼ばれるスパイを使った事が、間者の起源。後に服部氏族が伊賀忍者の源流となり、大伴氏が甲賀忍者の源流となりました。

現在、歴史教科書に詳しく説明されていない技能集団として、雑賀衆、川並衆、ワタリ衆、 穴太衆等がありますが、これらは邪馬台国以前、徐福の一団の来日以降から活躍し、建築技術や製鉄技術を伝えた技能集団の末裔であり、いつの時代も重要な裏方として活躍してきました。

話を楠木正成に戻します。楠木正成の妹と伊賀の服部氏の間で生まれた子が能楽を興した観阿弥であり、観阿弥の子が世阿弥です。能楽者は全国各地を巡業しましたが本業は諜報活動であり、いわゆる「間者=忍者」でした。

楠木正成と云えば南朝の忠臣としての顔と、まつろわぬ民を率いて奇想天外なゲリラ戦 術で北朝の武士団を翻弄させた山の民の首領という2つの顔を持っています。そうです。楠木正成もまた南朝皇統奉公衆【八咫烏】の1人でした。(母親は橘氏系統)

楠木正成が伊賀忍者や修験道と深く関係していた事も、彼の出自が明らにされておらず、 単純に「悪党」とされている事も、180センチ以上の長身であった事も、奇想天外なゲリラ戦術(兵法)を使いこなした事も、忍者衆の特徴が表れています。

時代は異なりますが、豊臣秀吉も山窩衆の1人です。彼の家は山窩の首領(アヤタチ)格の家柄であり、尾張国中村郷(愛知県名古屋市中村区)に広大な屋敷がありました。この事実をひた隠しにして、秀吉が貧農の子だったという事としているのは、「山窩」というキーワードを歴史上から隠すための作り話に他なりません。

秀吉は土豪・蜂須賀小六率いる「川並衆」を自在に操りましたが、「川並衆」自体、れっきとした独立系技能集団であり、それを自在に操る事が出来たのは、秀吉が彼らの首領格であったからです。

その首領格の血統が、江戸末期、ポルトガル(イエズス会)とオランダ(近代メーソン)の両方に通じて勢力を拡大した穴太村の上田家につながり、江戸時代末期以降の当主・上田吉松(1代目と2代目)から、牧口常三郎、畑中理、笹川良一、出口王仁三郎、戸田城聖といったフィクサー達が登場しています。

南朝皇統奉公衆【八咫烏】、

北朝皇統奉公衆【山窩】、

彼らは今でも日本の裏側で生き続けています。