生と死は常に隣り合わせ
Facebook矢加部 幸彦さん投稿記事
生と死は常に隣り合わせにて、我らはその際にいつもありき。しかるに、その危うさを忘れて、目先のことや欲に囚われ、遂には悔いたるまま、そのどちらも全うすることあたわず。生死無常を知りて、笑って拍手を打ち鳴らし、天地に己を捧げ尽くすとき、永遠不滅の我、そこにありき。。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
「迷いの世界に狂える人は、その狂っていることを知らない。真実を見抜けないものは、自分が何も見えていない者であることがわからない」
「わたしたちは生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない。死に死に死に死んで、死のおわりをしらない」
「眼を病んでいる人が、空中に花をみたり、亀の苔(こけ)を尻尾とみあやまったりするように、人は自分の思考や肉体を本当の自分と思い込み、それにとらわれる。のどが渇いた鹿や馬が陽炎を水と思いあやまるように、自分の愚かな心に気がつかない」
「物質世界に取り込まれて、間違っていても正しいと思いこみ、それをふりかえることもしない。人は迷いの世界において生死を繰り返し、生きとし生けるものの世界をさまよう。」
空海「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」より
空海の言葉は現代の日本にもあてはまります。
原発事故を起こした日本がこれから成長するプロセスを空海の「十住心論(じゅうじゅうんろん)」に例えてみました。
1、異生羝羊心 (いしょうていようしん)
お金に目がくらみ原発を推進する。都合の悪い放射能のことは考えない。餌に寄っていく羊のような心
2、愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
原発事故が起きても、どうすれば良いのか、わからない、とりあえず、場当たり的な対策を繰り返す心
3、嬰童無畏心(ようどうむいしん)
どうして原発事故が起きたのか考えるが、どうすれば良いのかわからないので、わかっていそうな学者や原子力規制委員会にすがる心
4、唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
なぜ原発事故が起きたのか本当の原因を探り、答えを探し求めていく心
5、抜業因種心(ばつごういんじゅしん)
原因を探求するうちに、真の原因がわかり対策を行じていく心
6、他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
循環エネルギーの政策を実行し、世界中から頼りにされる心
7、覚心不生心(かくしんふしょうしん)
循環エネルギーが真実の道だとわかり安心する心。
8、一道無為心(いちどうむいしん)
地球のあらゆる生命体は互いに関連しあって生きているということを知る心
9、極無自性心(ごくむじしょうしん)
原発が五官からくる煩悩に覆われた自我が自覚がないままに作り出した偽りの夢だと知る心
10、秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)
この世界はエネルギーでできており、エネルギーは無尽蔵にあり、エネルギーがつきることはなく、そのエネルギーを含んだ全体が自分の本性だと知る心
今、日本全国で原発を再稼働しようとしています。
原発再稼働、着実に進めるのが政府の考え方=梶山経産相
https://jp.reuters.com/article/japan-politics-idJPKBN27J2X7
事故を起こした福島原発のウランはオーストラリアから東電に輸出されました。
掘り出されれたオーストラリア先住民は警告していました。
「もし、この土地が侵されたなら、ジャンという名の死をもたらす力が解き放たれることになるだろう」
「ジャンが世界中を滅ぼすことになるかもしれない」
しかし、その警告に耳を傾けることはなく事故が起きました。
アメリカ先住民は自分達の行いのために子孫に負債を背負わせてはならないと7世代先の子孫のことを考えて暮らしてきました。
私たちの文明は危険な放射能を垂れ流し、7世代に及ぶ未来の子供達に放射能廃棄物を押し付けます。
自分の友達、家族、子供や孫が癌で苦しむ姿を見ても原発が必要といえるでしょうか?
原発によって先祖伝来の土地が死の町になり、離れなければならない苦しみ。
一万年以上危険な放射能を未来の子供達に押し付ける身勝手な行為をどのように弁明するのでしょうか。
「自分さえよければ誰が苦しもうが関係ない」
この病は深く現代社会を蝕んでいます。
このまま、自分の利益だけを考えて原発をやめずに突き進んで苦しんで倒れてしまうのか。
ここで気がつき、
自然循環エネルギーの生活に切り替えて健康な社会に移行するのか。
それが問われています。
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
同調圧力
同調圧力。ことし、よく耳にした言葉です。「圧力」というくらいですから、当然、いい気分になる言葉ではないですね。
寛容さを失った社会を反映しているようにも思います。同調しないことで、いじめが起きたり、ネット批判されたり、やたらと横並び的に「自粛(コロナ禍に限りません)」を求めたりと。
もともと、日本人の特徴のひとつと言われる自然を畏敬・畏怖する価値観は、人間の傲慢さに歯止めをかけたり、生きとし生けるものへの優しい視線を持っていました。この教えこそが一番というような「是非」「正義」とは違ったものです。
神様はそれこそ、いたるところにおられて、その数も、八十神(やそがみ)であったり、八十万神(やそよろずのかみ)だったり、八百万の神(やおよろずのかみ)だったり、千万神(ちよろずのかみ)だったり・・・。
四季は自然のいろどりを見せ、あるときは容赦ないものですが、その豊かさはまた、おおらかさも育んできたのではないでしょうか。
かつて、「一億総中流」と言われたころもお隣との「横並び」を求めたものですが、この横並びは、個性のないことの象徴だけでなく、みんなで一緒に生活水準をあげていこうよ、というかけ声でもあったのではないかと思います。ただ「モノ」に偏りすぎてはいましたが。
八百万、千万の神様たちの視線を気にして善なる者とありたいと生きる、というところから、世間の視線を気にして、他人の価値観に従って生きる、に変わってしまったようです。
ただ、よくもわるくも、他人は人生の責任などとってはくれません。
「この」世界で「いま」の自分を生きるのは、一回きりの自分。その真実に生きないところには後悔だけが残るように思います。八百万、千万もの神様が守ってくれているのですから、大丈夫、大丈夫。