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児童虐待といじめ自殺をなくすために ―道徳を排斥して学校と子どもの未来を破壊した共産党とマスコミ

2021.11.18 07:30


 児童虐待といじめ自殺をなくすために 


―道徳を排斥して学校と子どもの未来を破壊した共産党とマスコミ

 (「道徳排斥」の共産党・マスコミによる持続可能(SDGs)な児童虐待といじめ自殺をなくすために)―



 ―「日本の学校を破壊した共産党・野党の政治家とマスコミ」 ―


 11月14日の自らの48歳の誕生日を期して、まさに誕生日の日に、日本を救済するための下の社会衰退の図を作成しました。

 新型コロナの収束に続いて、全国で発生している深刻な児童虐待、いじめ自殺を一刻も早くなくすため、一人でも多くの国民がこの画像を拡散することを望みます。

                11月15日 哲学者 高澤 一成



 当初は、「児童虐待といじめ自殺をなくすための道徳講演会」と銘打った著書を出版したり、地元を中心に各地で道徳講演会を開こうと考えたが、出版社を探したり、無名の私が理解を求めて講演を開催していくには時間がかかり過ぎるため、一人でも多くの国民、特にPCやスマホを使う子どもたちに一日でも早く知られ渡るように、一念発起して、スピード感を持って上の図を作成した。

 

 諸哲の道徳を重視する引用は、私が知る限り五万とあるが、ここではよりわかりやすくするために、哲学者だけではなく、日本人でもよく知っている偉人の引用も厳選して取り上げた。


■ 道徳の復活を目指して ―西部 邁(すすむ)の志を継ぐ―

 

 まず私が、この20年の間、いわゆる普通の人、一般国民に対して「道徳の必要性」を言っても、批判されたり、反対されたことはまずない。

 芸能人や政治家、公務員の犯罪、不祥事やいじめ自殺、児童虐待が増加している今のご時世というのもあろう。

 むしろ「普通そうじゃないの?」と言った反応で、嫌な顔一つされたことはない。

 

 日本の一般国民の大半が、日本を好きであるか、道徳を否定する共産主義的なイデオロギーを植え付けられていない保守から中道、無党派であるためだ。

 ところがこれが国会議員や経済評論家、マスコミともなると、途端に全く相手にされなくなる。

 朝日新聞、テレビ朝日などは20年以上も前から門前払いで、山本太郎や三橋貴明、国民民主党、参政党でもダメだ。

 日本がこのような深刻な社会衰退に陥っているのは、「道徳は必要ない」と声高に叫ぶ頭のおかしい人たちしか、テレビを中心とするマスコミや政界にいないためだ。

 道徳の著書を出版することができた幻冬舎MCも、最初は「道徳は酔っぱらいの管(くだ)巻き」と言われて全く相手にされなかったが、偶然北野武さんが、幻冬舎から「新しい道徳」(2015年)という本を出してくれたため、その翌年に私の本の出版も決まったのである。

 全く日本語や「1+1=2」が通用しないような、人に悪意を持って印象操作をしようとする、思考停止した新聞社やテレビ局といったマスコミの、全く何も知らない偽善的でしかない、誤った、悪意のある、反日の醜い人たちを五万と見てきた。

 「道徳の必要性について、マスコミ・政界と一般国民は完全に乖離(かいり)している。

 

 そこで私は一般国民の大半が道徳の必要性を認めているのであるから、社会衰退を解決して一般国民を救うために、一般国民を代表して、都議選に出ることに決めたのである―。

  

「地球上の人類の、何十万もの社会はそれぞれ倫理的確信をもち、それにもとづいている。」レヴィ=ストロース 著「野生の思考」


 フランスの文化人類学者、レヴィ=ストロースの主著「野生の思考」の中でも特に重要な一節である。

 彼は同じフランスの代表的な社会学者であるデュルケムの影響を色濃く受けており、また、ヘーゲルの影響を受けた哲学者で、いわば完全な「別畑」で同国人のサルトル批判でも有名となった。

「市場の論理が社会の隅々に入り込み、道徳や価値の議論が押されっぱなしでいいのかと問う。」 サンデル

 NHKのテレビでも取り上げられた日本でも有名なアメリカの哲学者だが、彼が最も重視する道徳は日本では封印されて骨抜きにされてしまった。但し彼は西部邁(すすむ)と同じく、哲学で最も重要なヘーゲルと社会学で最も重要なデュルケムの普遍的な道徳を知らないため、立ち位置としては日本の宮台真司氏に近く、 世の中を変えるには至らなかった。

「各人が自由を使用する場合には、道徳的法則に従わねばならぬという責務が課せられている。」 カント著「純粋理性批判」

 カントの「純粋理性批判」には道徳に関する言及が非常に多い。ただ「定言命法」は矛盾だらけで、ヘーゲルによってすでに反論されており、ヘーゲルを知らない倫理学者たちがそのまま引用することが多いが、完全に時間の無駄である。但し定言命法を除けば、政治家に対して道徳を求める「永遠平和のために」など、カントの道徳哲学は非常に優れている。

   

「偉大な道徳力は、社会が形を整え、揺ぎないものとなるにつれて、社会自身の内部から引き出したものなのである。」デュルケム    

 社会学者のデュルケムは、ドイツのヘーゲルと並ぶ「人文学の巨人」と言える。逆にこの二人なくして普遍的な道徳はありえない。そもそもヘーゲル抜きには現代思想は立ち行かない。だが日本のメディアに露出する有識者の中にヘーゲルとデュルケムに精通する人は皆無で、かつ、日本の社会学者は皆道徳を全否定していて、道徳を重視するデュルケムの社会学すら満足に理解できていないため、今日(こんにち)の日本の未曾有(みぞう)の社会衰退となっている。

 

「およそ国家はその臣民さえ富むなれば道徳は欠けてもよいとは誰もいい得まいと思う。」渋沢栄一

 儒教道徳からは、日本の資本主義の祖、渋沢栄一である。 私は知らず知らずのうちに20代の孤独な青春時代を、渋沢の邸宅があった東京北区の飛鳥山公園で過ごしていたが、二宮尊徳と同様、「道徳と経済」の両方を重視し、社会学者マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を地で行く生涯を送った日本史上屈指の偉人である。

「日本人の精神性が変わったことのひとつに、目に見えないものを畏(おそ)れる気持ちが薄(うす)らいでいることが挙げられます。」江原啓之 著「言霊のゆくえ」

 修身と教育勅語からはご存知、江原さんだが、私が「ロゴス(言語)」的というか、デリダ哲学的な著書と勘違いして手に取った江原さんの著書、「言霊のゆくえ」の中の第2章の章題「今こそ必要な道徳と修身」は、私の著書のタイトルに類似していて驚いた。テレビでは一言も「道徳」という言葉を発することができなかったが、同著は「オーラの泉」が終わった3年後の2012年に出された著書であり、私以上に胸に溜まっていた道徳の必要性に対する思いを一気に吐き出したような渾身(こんしん)の道徳書となっている。



■「児童虐待をしない」、「いじめをしないようにしよう」も道徳


 人の親に対しては、「児童虐待をするな」と命令型で言えるし、社会が言うべきであるが、まだ幼少で「社会性」が身に付いておらず、分別のない子どもに対しては、理性が効かず、時にいじめをしてしまうこともあるため、人として成長するまでは「いじめをしないようにしよう」という努力目標、方向性を示すことになる。

 道徳とは、唯物主義の戦後知識人が思っているような儒教道徳や、内心に立ち入る「善をすべき」というものだけではなく、当然、ヘーゲルの「精神現象学」に書かれているような、「(犯罪に等しいような)悪をするな」という道徳もあり、いじめや児童虐待が大きな社会問題となっている反面、いじめや児童虐待のほとんどのケースで加害者が摘発、検挙されない以上、後者の「児童虐待をしない」、「いじめをしないようにしよう」のような「相対悪(どちらかと言えば悪いこと)をしない」が普遍的な道徳となる。

 それを日本の教育界は完全に無学なものだから、「道徳は普遍的ではない」などと寝言を言って道徳教育をお粗末にする始末なのである。

 もし普遍的な道徳がないなら、すべてが相対主義となり、社会秩序もなくなって、普遍的な道徳を定義していくことで初めて哲学者足り得たのがソクラテスであるため、哲学それ自体もなくなってしまう。

 戦後の日本の学界は「道徳=修身、儒教道徳」という固定観念、ただの思い込みがあまりにも強すぎて、かつバカ全共闘世代の力があまりにも強すぎて、私のようなまともな哲学者が誰一人存在しなかったため、このような深刻な未曾有(みぞう)の社会衰退を引き起こしてしまっている。

 

 無論、我々日本人がテレビ・新聞の影響下によって道徳をあきらめ、インドのタギー(ヒンズー教とイスラム教の秘密結社)のように、直接手を汚すような強盗殺人を善とすることも可能である。

 それに対して日本の無哲学な左翼やテレビの徒は、私が「殺人」を引き合いに出すことに反論して、「法治主義」を言うかもしれないが、いじめ自殺や児童虐待は合法的かつ間接的で、社会的な殺人であり、これらを助長しているのが、道徳の否定を浸透させてきたテレビなのである(タギー≒ テレビ・野党)。

(2021年 2月16日 / 3月12日 朝日新聞)

 「言い過ぎ」と思う人があるかもしれないが、道徳を否定する政党の優秀な国会議員だった永田寿康氏が「道徳を教えられなかった」ということだけで、暴走して精神的な病気になって自殺してしまったり、あるいは山尾志桜里さんが不倫をして、かつ不倫相手の奥さんを自殺に追いやってしまうなど、野党の優秀な国会議員の末路を見れば、私が「1+1=2」を教えるように、30分で教えられるような道徳を知らないだけで、取り返しのつかないことになってしまっており、決して言い過ぎではないのである。

 その背景にあるのは、全共闘世代(左翼)が大企業やテレビ民放の上層部にあって、かつ反日的な外国の支配が強まっているテレビ、マスコミ、戦後知識人の反日かつ左翼的な「政治性」である。

 そして反語というか、逆説的な言い方をすれば、年20万件を超えてますます激増する児童虐待をなくすには、「日本人がもう子どもを産まないこと」である。

 道徳倫理が粉々に破壊されたわが国で、道徳のない親たちに子どもが虐待されることは倫理的に言って忍びない。

 

 逆に、今日のメディアや政界に、「児童虐待をする道徳のない親の元に生まれてきて、失意と絶望の中で、なぶり殺されたい」という奇特な人がいるならぜひとも名乗り出てほしいものだ

 

 だが、道徳を全否定して日本社会を深刻な状況に陥れた罪深いマスコミや野党の政治家、学界にはこの問いから逃れられる資格がないはずだ

 日本の高齢者は3600万人いて、そのうち認知症高齢者が世界でダントツ1位の500万人もいるにも関わらず、昨年の出生数はたったの84万人という、とんでもない超少子高齢化社会のわが国にあって、哲学者である私が「子どもを産むべきではない」というのは、完全な異常事態であり、「国家の死」である。


 日本の高齢者は3600万人いて、そのうち認知症高齢者が世界でダントツ1位の500万人もいるにも関わらず、昨年の出生数はたったの84万人という、とんでもない超少子高齢化社会のわが国にあって、哲学者である私が「子どもを産むべきではない」というのは、完全な異常事態であり、「国家の死」である。

 他の三大宗教が浸透している国など、道徳倫理が肯定されている国で生まれた方が、日本ほど豊かで平和な生活は送れないかもしれないが、親から虐待される心配がないので、子どもにとって幸せなのである。

 あるいは全(まった)き道徳家である私の子として生まれてくるなら―。

 無論、私たち日本人一人一人が、私が作成した社会衰退図を見て、西部 邁(すすむ)氏が著書「国民の道徳」で警鐘を鳴らしていたように、戦後70年続いてきたマスコミや政治家のあやかし、道徳排斥の暴挙に気づいて、道徳の必要性を理解するなら、どんどん子どもを産むべきだと思う。

「道徳について論じるものを道学者とよび、道学者を『生の選択肢を縮小させるもの』として非難するのが現代の習わしであった。

 とくに戦後日本ではその非難が大きくなり、とうとう道学者という言葉すらも廃語になっている始末である。」 (西部 邁 著 「国民の道徳」産経新聞社)



■「隠れキリシタン」、美輪明宏の思い

 諸哲のほとんどすべてが普遍的かつ理論的な道徳の必要性を説いているのに、テレビを始めとする日本のマスコミで、一貫して道徳の必要性をテレビで言っている人は一人もいない―。

 社会衰退になるのも「当然」である。

 

 もし美輪明宏さんが「道徳」という言葉を使っていたら、絶対にテレビには出られない。

 いかに戦後マスコミのタブーである「道徳」という言葉を使わずして、「隠れて」国民に道徳を教えるか、国民を道徳的に導くかが、「隠れ」キリシタンの指導者である天草四郎時貞を前世に持つ美輪明宏さんのテレビでの振る舞い方であるように思う。

 事実、曽野綾子さんが言うように、極端な人権主義を採(と)る戦後マスコミの「言葉狩り」は完全に常軌を逸している。

 なにしろ普遍的な道徳は「放送禁止」なのに、無知・無哲学な自分たちの主観(=不完全な道徳)だけは国民に押しつけようというのであるから。

 美輪明宏さんは、テレビ・新聞から排斥・印象操作される私とは全く異なる「ドラッグクイーン(女装する男性)」と「麗人」という立ち位置から、道徳的な発信がテレビから認められている。

 だが、メディアにとってそれは大型書店でいう占い本コーナーに過ぎず、仮に美輪さんがスーツを着た普通のお爺さんの見た目で、男性的な話し方なら、道徳的な発信はできない。

 テレビから見て、美輪さんはあくまで故・細木数子さんやマツコ・デラックスさんと同じく、見た目やキャラクターありきで数字を取るためだけの客寄せパンダに過ぎない。

 つまりこうした人たちは「エンターテイメントを本業とする人たち」としてみなされ、あくまでエンターテイメントありきであって、「道徳的発信を中心にしない」という前提である。 

 この10年ほどで、テレビで「道徳の必要性を言えた」のは、室井佑月さんとやくみつるさんの二人だけ。

 それも、「ただの一言だけ」である。

 そしてほとんどの日本人がそれを記憶していないと思う。


 今、私が政治家を志す理由としては、社会衰退の元凶である既存のテレビ民放やNHKの放送分野における報道と表現の自由を認めつつ、それとは別に、新たに唯一日本人のために、地上波に「日本チャンネル」を設立し、そこでテレビでは取り上げられることのない「チャンネル桜」や三橋貴明氏、深田萌絵さんや堤未果さん、百田尚樹氏のYouTube動画を流して、それを3600万人いる高齢者の皆様がいつでもどこでも視聴できる放送局を提供して、そこで私が普遍的な道徳を教える番組を作る―と。

 第29代内閣総理大臣であり、五・一五事件で「話せばわかる」と言って暗殺された犬養毅は、テレビの民営化に大反対していたが、今日の日本社会の惨状を見れば、彼は心底、優れた政治家だったと言う他ない。

 ソクラテス、ルソー、カント、ヘーゲル、J. S. ミル、西田幾多郎、レヴィナス・・・みんな哲学的、理論的に道徳の必要性を強調しており、まさに私も、死ぬ間際の犬養と同様、「話せばわかる」という心境しかない。

 ≪モラルは哲学の第一分枝ではなく第一哲学である≫
 (レヴィナス著『全体性と無限』 デリダ著「エクリチュールと差異」)

 

 「憲政の常道」と議会制民主主義を体現していた犬養の死は、まさに「日本の終わり」というべきものであり、戦争を経て戦後から始まった、子ども、若者と3600万高齢者を文化や必要な情報から遮断して娯楽漬けにすることで、まさに盲目かつ痴呆にする、情報統制による支配的で排他的・独占的な「暗黒のテレビ民放時代」の到来を告げていた。

 日本のテレビ民放こそ、国家的かつ、非道徳的、つまり非人道的な呪わしい社会実験だった。

 「テレビ民放の増長」を恐れて死んだ犬養は、「(巨大多国籍)企業の増長」を恐れて死んだリンカーンに酷似する。

「『企業は自ら王になった。これからは高貴なモノが打ち砕かれる時代になる。
 カネがひとびとを誤った方向に導き、企業の王政を長引かせようとする。』 
 リンカーンの警告に耳を貸すものはいなかった。」(カレ・ラースン著 「さよなら、消費社会」)


■全国で相次ぐ悪質ないじめによる自殺と、学校・教委の隠ぺい

 まず下の図は、私が2018年に作成した社会衰退に瀕する日本社会の経緯である。

 当時は図の一番下にある顔写真の、若者たちによる凶悪犯罪やいじめ自殺がまだテレビなどで取り上げられていただけ、まともだった。

 だが、2021年の今となっては、旭川いじめ自殺を始めとする町田、新潟、山形、御殿場など、全国で起きている悪質ないじめ自殺と、学校・教委による隠ぺいとが、テレビや大手紙などの主要メディアで全く取り上げられなくなってしまったため、下の画像のような、知名度のある犯罪ジャーナリストや弁護士、人気ユーチューバーが個人の力だけで、これらの深刻ないじめ事件の問題を取り上げて、風化させないようにしているという有り様であり、日本のテレビを始めとするマスコミやジャーナリズムは死んだと言っても過言ではない。

 彼らはそれぞれのいじめ事件を個別的な案件としてとらえ、いじめと認めなかったり、適切な対応を取らなかった学校と教委を厳しく非難している。

 だが、日本社会そのものに、「道徳(=社会性)が必要」という認識がなく、学校そのものが「子どもをしつけられない」という機能不全に陥っているため、たとえば今問題となっているいじめ防止対策推進法を改正して、調査対象にもなる教育委員会が第三者委員会の委員を選出できないようにするだけでは、悪質ないじめそれ自体や、学校・教委による「事なかれ主義」と隠ぺい体質は改善しないだろう。

 また実際に社会学の権威、デュルケムは次のように言っている。

「法律的条項をもうけることによっては、どのみち人びとの道徳的感受性をめざめさせることはできないだろう。」(デュルケム)

 たとえば法律には、「右側通行」の交通法規のように、道徳とは全く関係ない側面もあるためである。

 また、ほとんどすべての国政政党は、形骸化していて罰則のない公選法を積極的に堂々と破っている。

 辻元清美さんもかつては詐欺容疑で逮捕されて有罪判決を受けたし、与党でも河井克行・案里夫妻、秋元司被告もまた同様である。

 つまり橋下徹が何と言おうが、日本の政治家に欠けている遵法意識そのものが道徳なのである。


 さらには大半の国民に宗教倫理がなく、無宗教が多い日本にあっては、アメリカを真似た、橋下さんのような弁護士だけが得をする道徳と赦(ゆる)しのない「訴訟社会」まっしぐらであり、つまり、森友学園に法令違反で認可適当を出すなど、「バレなければ何をやってもかまわない」という道徳崩壊による混沌状態(社会学で言う「アノミー」)に瀕しているため、このような社会の結末は、道徳を重要な要素とする三大宗教が存在する他国と比較すれば、至極当然のことなのである。


「もし道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、かれらにもそれが浸透しないわけにはいかない。」(デュルケム)  

 

 つまり社会問題の本質とは大きくかけ離れた第三者委員会うんぬんのためだけの法改正、法律的条項だけではなく、道徳的環境をなんとかしないといけないとデュルケムは言う。

 そして道徳の必要性の認識によってしか、この道徳退廃による深刻な社会衰退やアノミー(混沌状態)から日本を救い出すことはできない。


■いじめは犯罪だが、犯罪ではない。


 美輪明宏さんや小川泰平さんは「いじめは犯罪」という。

 当然、いじめの中でも、物理的な傷害や恐喝は犯罪である。


 ただお二方とも、急激にデジタル化しつつ、道徳が崩壊して悪意のかたまりでしかない現代のいじめ加害生徒の悪質さ、悪らつさまでは精通、経験されておらず、事実、14歳未満の子どもは罪にも問えず、そもそもが「道徳=社会性」を学ぶための学校現場で、いじめは起きてしまうのであって、つまり新入社員で言えば、研修中に会社で失敗をしているような段階であって、新入社員を指導する立場の企業、つまり学校側が監督責任を取らなければならないのであるが、そもそも今日(こんにち)の日本では、学校が「道徳=社会性」を学ぶ場、子どもを育てる場に全くなっていないという状況があって、さらには共産党や野党の流れを汲む日教組が影響力を持つ学校現場の教員や校長、教委も、当然、「道徳=社会性」の必要性すら知らないため、いじめをなくす前提や体制が全く皆無の状態なのである。

 (2021年11月10日 ANN NEWS ) (2021年 3月13日 朝日新聞)


 それどころか「道徳=社会性」を教えるべき学校の教員が、今の日本ではわいせつ行為をはたらいて社会問題にまでなっており、むしろ「日本人男性は学校教員になるべきではない」というほどの状況であって、微塵の道徳倫理も教えられてこなかった日本人男性そのものが犯罪者予備軍化していて、学校現場から多くの性犯罪者を進んで輩出していっている有り様であり、学校現場そのものにこそ、道徳教育が必要という、「あべこべ」かつ最悪の状態になってしまっているのである。

 性犯罪者が道徳を教えられるわけがない。

 つまり問題のある故障品を修理に出そうとして、メーカーに行っても、メーカーにも不良品や故障品しかない状態であり、かつ、それを修理できる担当者もいなければ、簡単に修理できるマニュアル自体を野党やマスコミが率先して社会から排除しているような状態なのである。

  (2016年 12月14日  朝日新聞)


 また、それは道徳を否定する朝日新聞自体が証明しているように、いじめの大半を占めるのは「無視、陰口、仲間外れ」であり、これらはすべて犯罪ではなく、道徳の範ちゅうである。

 「誰を親しい友達に選ぶか」などの子どもたちの好き嫌いの情という感情にまで法が立ち入るわけにはいかない。

 そして、事実、子どもたちが自殺に向かうのは、スマホのLINEなど無機的なツールによる陰口に傷ついて、孤立感を感じて自ら死を選ぶのである。

 根本的にいじめ自殺をなくすためには、事実上、日本全体で起きているのであるから、「社会全体の問題である」という認識が必要なのであって、いじめ自殺を見過ごしたり、助長させたとは言え、直接的な加害者ではない学校の教員や教委を個別的に個人糾弾(きゅうだん)すべきではあるが、もちろんそれだけでは、個別的な案件というだけで終わってしまうため、日本のいじめ自殺それ自体の根本的な解決策には全くならず、学校の教育現場に「道徳=社会性」を浸透させるために、日本社会全体に「道徳=社会性」の必要性の認識が共有されることが徹底されるべきである。

 正直、全国各地で起きているいじめ自殺の狡猾(こうかつ)な(=ずる賢い の意)いじめ加害生徒の道徳教育なくして、このような状況を打開できる術はない。

 しかし、全国の中学生のうち、誰が、いったい個別的に、私のような専門家が道徳教育をすべきいじめ加害生徒かは、おおよそ事前に予想できない。

 したがって、相模原障害者施設殺傷事件などの防止もそうであるが、デュルケムが指摘するように、社会全体に「道徳=社会性」の必要性の認識が共有されること以外、現実的にこの社会衰退の流れを押しとどめることは不可能なのである。

 したがって、道徳を否定・排除して、その妨害をしているテレビや野党を批判して、その前提を変えていく以外は、この国を救うことにはおおよそならないのである。


(2021年11月7日  朝日新聞)


 但し、旭川のいじめ自殺事件は、事件性があり、私も犯罪であると思うし、自分の意志で川に入っていったこと自体が全く事実とは思わないし、警察の初動捜査が怠慢だったどころか、学校と教委がいじめの存在さえ認めないという異常事態である。

 これは学校と教委と第三者委を含む社会全体、旭川市全体が、爽彩(さあや)さんをなぶり殺しにしたに等しい。

 つまり市全体の道徳が完全に崩壊しており、彼ら自体は優秀なスクール・ロイヤー、弁護士を付けて、合法の範囲内で、加害生徒を守るために、何より学校それ自体を守るために、確信犯的に隠ぺいしているのであって、14歳未満の加害生徒はもちろん、いじめ自体の存在を認めない学校、教委、第三者委を、法だけで個別的に責任を取らせることなどできないのである。

 

「…彼ら(戦後知識人)の唱える個人主義や自由主義は他者への冷酷な無関心と張り合わせになっているといわざるをえない。
 そうでないとしたら、彼らは価値判断の問題に、いいかえれば道徳の問題に、死活の覚悟で取り組んでいるはずである。」(西部邁 著「国民の道徳」)


「われわれの出会う最大の困難は、…その目的自体に対する一般人の無関心という点にあるのである。
…大多数の人々は、現在のままの人類の慣習に満足しているので…道徳と社会との改革者の大多数は、…煩(わずら)わしくまた恐らくは手に負えない障害物となるものとして、むしろ猜疑の念をもってこれを見るのである。」(J.S.ミル著 塩尻・木村 訳『自由論』)


「社会じたいが改革されないかぎり、教育の改革も行われえない」デュルケイム


 つまり道徳なしには、悪質ないじめによる子どもの自殺の根本的な解決にもならないし、また罪刑法定主義の下では、いじめを隠蔽する学校に対して法的手段を取ることもできないが、小川泰平さんや令和タケちゃんさんがやられているように、これら学校、教員、教委に対しては当然、道徳的非難を浴びせることはできるし、また、浴びせるべきである。


 「他人との交渉における虚偽やうらおもてのあること、他人に対する優位を不当に、もしくは無慈悲に行使すること、また、利己のために、他人の蒙ろうとする損害を防ごうとしないことでさえ、―すべてこれらの行為は、当然に道徳的非難を受くべきものであり、また重大な場合においては、道徳的報復と刑罰とを受くべきものである。」(J.S.ミル著 塩尻・木村 訳 「自由論」)


 但し、小川泰平さんやタケちゃんさんが、哲学的な解決策である「道徳の必要性」をいっさい顧(かえりみ)ずに、特定の教員や教育委員だけを叩いて、個別的な案件だけで終わらせてしまうことは、フジテレビの「バイキング」の日大アメフト問題みたいに、結局は全国で起きているすべてのいじめ自殺を、一過性の時事的なこととして風化させることになって、抜本的な解決にはつながらず、結果的に、道徳を全否定して、これら社会衰退を引き起こしているメディア権力の人たちの思うツボになってしまうことだけは申し上げておきたい。



■いじめ被害生徒がたくましく、我を通して生きていくために

 

 また、いじめ被害に遭うことのような挫折や孤立はどんな子でも経験することでもあり、子どもの自殺を防ぐために、いかに、たくましく生きるように育てるかを教えることが必要である。

 昨今は、女子児童や女性の自殺が増加しているが、その点、国会議員時代に非道徳な言動のため、かつて私も批判していた上西小百合さんのように、人に批判されても、人に多少の迷惑をかけても、打たれ強く、他人の戯(ざ)れ言(ごと)などには我れ関せず、なりふりかまわず、図々しく生きて我を通すことも人生には重要である。デヴィ夫人などもそうであろう。美輪明宏さんは「オーラの泉」で、当時道義的に批判されていたデヴィ夫人を快(こころよ)く迎え入れたし、デヴィ夫人が若かったころも、美輪明宏さんは当時のマスコミから騒がれていた彼女を励ました。

 哲学者、ニーチェの言う「力の意志」のように、生きていくためには個の力がどうしても必要である。

 人間、生きていれば、まして道徳のない今の時代ならば、社会には、それこそ、心ない問題を起こした団塊ジュニアの女性芸能人や政治家が皆そうであったように、社会には心ない人たちがあふれ返っていて、子どもや木村花さんのように失意や絶望に陥ることは多々あるが、道徳家である私を見つけ出して、道徳を否定して自分をいじめる状況を作っている今の日本社会の方にこそ、道徳がなくて完全に間違っているという思いを大にして、道徳のない社会そのものやいじめ加害生徒に対して毅然として、たくましく生き抜いてほしいと願うものである。

 そもそも加害生徒のような子どもとは、当然、まだ自分自身の「道」を見つけていないため、いじめくらいしか生きがいがない、今のところは生きる価値すらない、かわいそうな生き物なのであるから。

 そんな人の悪口を言う事しか能がないような、社会から全くしつけられていない、未熟極まりない野蛮な小動物のためにいちいち絶望していたのでは命がいくらあっても足りないのである。

「意識において自らの個性は、それ自体正しく善きものである普遍的なもののもとにしつけられるべきである。
…そして真のしつけとはもっぱら、個人的な性格のすべてを犠牲にするということである。
 つまりそれは、意識が実際もはや個々のものに囚われたままではないということを証示することなのである。
 徳の意識にとっては、…個人は廃棄されるべきものである。
 つまりこのことは、個人の意識そのものに関しても、また、世の流れに関しても、当てはまるべきなのである。」
 (放送大学 高山守 第11回「精神現象学」を読む III)

 ヘーゲル哲学にもデュルケム社会学にも共通するのは、未熟な若者は社会によってしつけられなければならないという点である。

 だが、日本のマスコミや、無能な教育界は完全に「性善説」であり、完全に頭がおかしいのである。

 そして旭川事件のような凶悪犯罪を起こしても尚、死刑にしても足りないような罪を犯した未熟な加害生徒たちを「善」であるとして、学校が庇(かば)い、教委が庇い、第三者委が庇い、市議が庇って、警察も十分捜査をせず、テレビもこの重大凶悪・異常事件を意図的に一切取り上げず、いわば社会総出(そうで)で、加害生徒が「善」であるとして、一切しつけず、守り抜いているのである

 曽野綾子さんは、「子どもは悪いから学校に行くんです」とはっきり言う。

 今の時代、正直、若者は、文学少年だった団塊世代の私の父の世代とは全く別人種であり、旭川事件のようにムチャクチャをする(私は江別出身、父は夕張出身だから、旭川からはそう遠くない)。

 私が人の親だったら、道徳倫理を知らず、物の分別がつかないガキには一切ネットをやらせない。

 「2ちゃんねる」の創設者であるひろゆき氏ですら、「子どもにはネットをやらせない」という認識である。

 なのに一部の企業の利権のためだけに、何も知らない頭のおかしい人たちが「GIGAスクール構想」などとうそぶいて、学校で、凶器にしかならないタブレット端末を推奨してしまっている。

「社会の比較的弱い成員たちを教育して理性的行為の…水準にまで高めるためには、彼らが…無分別な行為を為すのを待って、…その後にこの行為を理由として法律上…の刑罰を加えるという方法以外には、方法がないかのように論ずることには、賛成することができない。」(J.S.ミル著 塩尻・木村 訳 「自由論」)

→ 要約すると「犯罪を犯してから道徳を教えるのでは遅すぎる。」

 私の親に当たる70代の団塊世代は、その親や先生から体罰を受けたり、厳しくしつけられながらも、社会性のある立派な人間として皆良く育ったが、今の時代は、日本「だけ」に極端なジェンダー平等を「押し付け」る国連左翼と反日マスコミの陰謀によって、すべての体罰が違法となって、社会が子どもをしつけることすらなくなった。

 

 極端な少子化とももに日本にはしつけられた若者がおらず、このままでは日本の衰退は必至である。


■具体的な道徳科の提言

 まず今日の学校で教えられる道徳とは、おおよそ普遍的な道徳とは全く呼べない「主観」、「意見」、「一億分の一の人にしかあてはまらないヒューマニズム」であり、少なくとも今のところは社会的役割を全く果たしていない「なにか」である。

 つまり教育界自らが、「道徳は普遍的ではない」と言ってしまっている時点で、そこで道徳そのものを否定しており、完全に終わっている話であって、普遍的ではない道徳など、関心のない人たちに対しては「押し付け」にしかならず(半グレの人たちでも「お年寄りを大切にしよう」くらいの標語を知っているように)、普遍的ではないことを前提・出発点にしてしまった道徳教育は、所詮たわごとであって、当然道徳にはなり得ないのである。

 

「道徳が相対的なものだなんていい出したら、誰も道徳を真面目に守ろうとしなくなる」
(北野武 著 「新しい道徳 」)

 

 まず一つの案として、中だるみの時期で、いじめも多いとされる中学2年時に、道徳そのものを必修にした上で、以下の宗教・諸学から選択させることが現実的であろう。

 

・修身・教育勅語 (江原啓之 など)

・儒教 (渋沢栄一 など)

・キリスト教 (YOSHIKIなど)

・日蓮宗 (三木大雲 など)

・陽明学 (林田明大 など)

・葉隠 (三島由紀夫)

など。

 但し、私の専門である哲学、社会学、社会思想から成る人文諸学の道徳は、中学生には難解であるため、まず高校の倫理科で紹介されるべきである。

 しかし、これらの諸宗教、諸学の修得は、学校だけの短時間では到底容易ではないのと、それこそ特定の思想の押し付けという批判であるとか、興味が湧かない子どももあると思う。

 そこで、上の道徳科の選択が無理であれば、全国の中学2年に対して、5コマ(5時間)だけ、「相対悪をしない」という、いわば最大公約数の、諸哲の引用や理論をベースにした(私の主観を極力差し挟まない)普遍的な理性道徳教育の講義を学校内で放送する。

 質問や悩み相談などはメールなどで随時受け付ける。

 これに関しては、私自らがやらなければならないのは、残念ながら、哲学、社会学、社会思想を全く知らない今現在の学校教員では道徳を教えることは全くできないためである。

 ただ、中学2年の悪い子どもたちであれば、どんな優れた教育課程を設けても、反抗して自らの行動規範とはしないため、結局は西田幾多郎の言う「至誠」のように、人生経験を積んで初めて得られるのが道徳である。

 ただ、「未熟な社会の構成員に人としての最低限の社会性を教育する」というJ.S.ミルやデュルケム、曽野綾子さんの精神で、本当に取り返しのつかないことだけはしないように、させないように、最低限の社会性を、「1+1=2」の理性で教えるというのが「中2道徳」の理念となる。

 いずれにせよ、各教育委員会が今般の未曾有の社会衰退を十分鑑みた上で、判断して、導入するかどうかを決めるべきと思う。

「哲学は一切の認識と人間理性の本質的目的[特に道徳的目的]との関係に関する学である」(カント 「純粋理性批判」 )
「感情を宥(なだ)め、抑えるうえでの人間の無力を、私は「奴隷状態」と呼ぶ。
 じっさいもろもろの感情に服する人は自分を支配する立場になく、偶運の支配下に置かれているからである。」(「『スピノザ エチカ抄』 佐藤一郎 編訳 みすず書房」)
「それまで自分しか考慮しなかった人間は、違った原則に基づいて行動し、自分の好みに従う前に理性に図らなければならない。」(ルソー著 井上幸治 訳 「社会契約論」 岩波書店)
「世俗的な道徳教育…は、…もっぱら唯一理性によって主宰される観念や感情や実践に力点をおく。一言にしていえば、それは、純粋に合理主義的な教育である。」(デュルケイム著 麻生誠/山村健訳 「道徳教育論」)
「社会の比較的弱い成員たちを教育して理性的行為の…水準にまで高めるためには、彼らが…無分別な行為を為すのを待って、…その後にこの行為を理由として法律上…の刑罰を加えるという方法以外には、方法がないかのように論ずることには、賛成することができない。」(J.S.ミル著 塩尻・木村 訳 「自由論」)



■人はどう生きるか? 

(2021年11月4日  日本テレビ 「NNN ストレイトニュース」)


 マスコミや著名人の中にはあまりにも、「道徳家」としての私を誤解し過ぎている人が多すぎるため、当たり前の話をするが、老子の言う「道」のように、人間には人それぞれ「道」があって、「どのように生きるか」を指し示すことが私の本意ではない。

 但し、今の日本の若者はニーチェの言うように、あまりにも人間然としていない、「気味の悪い何か」だ。

 私自身、20代前半のころの精神性は、社会から道徳倫理を教わっていないため、京王線事件の犯人である服部恭太容疑者と何ら変わらない。

 全く何も知らない、悪の塊にすぎない未熟な個の人生を本来的な道に就かせることは、あなたがたが思うほど、余計で、おせっかいなことだとは思わない。

 現に児童虐待、いじめ自殺は増加の一途を辿っている。

 そもそも私は哲学者であり、「道徳家」というのは、道徳の必要性さえわかっていない日本の雲の上に立つマスコミや著名人に対して、皮肉をこめて、あえて名乗っているだけだ。

 完全に無知蒙昧であるクセにそれすら全く自覚していない、自覚することすらできない、頭のおかしいあなたがた「だけ」に対して。

 そしてすべての日本人、いや人間はあなたがたとは無関係ではない。

 これらの若い犯罪者は、正真正銘、道徳を排除してアノミーにある日本社会が生み出したのである。

 まして無宗教で娯楽のあふれた日本人が、私みたいに何十年もかけて、主要な哲学書を読む時間もないし、興味もないし、人によっては素養もない。

 何も知らないあなたがたマスコミや芸能界の頂点に立つような人たちが、自らの快楽と利益だけを追求しつつ、同胞の人生をメチャクチャにしておいて、人間の尊厳をあざけるような冷笑主義(シニシズム)もそろそろいい加減にしておいた方がいい。

 

 そもそも、あなたがたの存在なんて私にとっては無以下ですらないから


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