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粋なカエサル

「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」8 (3)日米修好通商条約②

2021.11.20 00:55

 井伊は条約調印の問題解決に向けて、速やかに方針を定め解決に向けて取り組んだ。幕府では天皇の勅命の意図をくみ取って、諸大名に対して意見聴取を進めており、その回答も集まって来ていた。その内容によっては大名を説得し、おおよそ意見が集約できたところで、天皇に対して説明する使者を派遣するという手順が組まれた。またアメリカの条約調印要求に対しては、3カ月の延長を承知させ、ハリスを下田まで引き取らせた。

 ところが、天皇への使者を出立させる予定だった安政5年(1858年)6月18日、予想外の大事件が起こる。同月13日頃からアメリカ蒸気船2艘が下田に渡来し、うち1艘にはハリスが乗船して江戸内海に入り、小柴(横浜市金沢区)沖に停泊。ハリスは、清国での戦争が終了したのでまもなくイギリス・フランスの軍艦数十艘が日本に向かうだろう、それ以前にアメリカと条約調印すれば、後に英仏両国が強引な要求をしてきてもアメリカが調停を行う、と即時の条約調印を要求した。この頃、清では英仏とアロー戦争(第二次アヘン戦争、1856~60)の最中だったが、天津条約の調印により、休戦状態になっていた。

 このハリスの即時条約調印要求への対応検討のため、6月18日、江戸城内で幕閣会議が開かれた。出席していたのは大老・老中・若年寄と海防掛ら。ほとんどの役人が異口同音に、直ちに調印すべきと申し立てたのに対し、井伊は勅許を得ないうちは調印すべきでないと主張。しかし、賛成する者は若年寄本田忠徳のみであったので、井伊はなお熟考するとして、御用部屋に戻り老中らと審議する。堀田正睦・松平忠固は即時調印、その他の者はさし当り術はなく、なるべく延引させるしかないという意見であった。そのため井伊は、井上清直(下田奉行)、岩瀬忠震(目付)の両人を召し寄せ、勅許が得られるまではできる限り調印を延期するように交渉するよう命じた。

 問題はその直後のやりとりだ。井上は、「交渉が行き詰まった場合は調印してもよいか」と井伊に伺ったので、「已むを得ざれば、是非に及ばず」(「その際は仕方がないが、なるべく延期するよう努めよ」)と答えた。井上は最悪の場合には調印許可との言質を井伊から引き出したのだ。岩瀬は、したたかだ。「初めからそのような了見ではとても行き届かないので、是非とも延期する覚悟で応接に望む」と述べ、出立したという。これは岩瀬の本心ではないようだ。岩瀬がどの程度交渉を行ったかは不明であるが、即日(6月19日)調印したことを考えれば、これ以上ハリスと交渉する気は全くなかったが、井伊の調印許可の言質を揺るぎないものにするための演技と考えられる。(母利美和『井伊直弼』)。即日調印を知らされた井伊は、引き延ばしの努力は見られず、呆れるほどの速さと感じた、と漏らしている。

 こうして、井伊の意に反して天皇の勅許なく調印されたが、井伊は早速次の行動に出る。京都へ説明するための文書案の作成にとりかかり、21日には老中と協議してこれを完成させ、22日の飛脚(「宿継(しゅくつぎ)奉書」)で第一報を京都に送った。あわせて、22日の諸大名惣登城で、条約調印を公表した。

 以上のように井伊個人としては天皇の勅許を重視していたとはいえ、幕閣の外から見れば、大老井伊直弼をトップとする政権が天皇の意向を無視して調印したと映る。そのため、一橋派の大名は、批判材料を得て井伊を責める。6月23日、江戸城に登城してきた慶喜は井伊に対面を申し出て、条約調印の経緯について問い詰めた。24日には、松平慶永が井伊登城前の彦根藩邸を訪問して面会するが、慶永はその場の話では納得せず、井伊の登城後、水戸藩の斉昭・慶篤父子、尾張藩主徳川慶恕らとともに井伊を追うように登城する。彼らは、登城日でないのに勝手に登城するという幕法違反を犯してまで、井伊との面会を望んだのだった。彼らは、無断調印の旨を朝廷に「宿継奉書」のみをもって京都に奏上したことを批判し、大老か老中が京都へ赴くべきだと主張したが、井伊は彼らの主張に同意したため、それ以上の対立にはならない。そこで次に、将軍継嗣公表の延期を求めるが、井伊は将軍の意向による継嗣発表を取りやめることはできない。結局、6月25日、予定通り将軍継嗣を徳川慶福とすることが発表された。

「日米修好通商条約」 外務省外交史料館

井伊直弼

狩野永岳「井伊直弼」清凉寺(井伊家の菩提寺)

和歌 「あふみ(近江)の海(み)磯うつ浪のいく度(たび)か

               御代(みよ)にこころをくだきぬるかな」