「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」9 (3)日米修好通商条約③
注意する必要があるのは、慶喜の6月23日の井伊との対面は6月24日の斉昭、慶永らの「押しかけ登城」とは違っていたことだ。慶喜は事前に彦根藩関係者の了解を得ての対面だったうえ、条約調印を批判するためのものではなかった。慶喜は、井伊政権の礼を失したやり方(条約調印の報告を、「宿継奉書」で行った)を批判するために井伊に会おうとしたのである。
慶喜にとってこの行動は、生まれて初めてといってよい主体的なものだったが、やがて彼は謹慎生活を強いられることになる。それは、斉昭、慶永らが7月5日に、徒党を組んでの「不時登城」(定められた日以外に登城)を理由に処分されたことに伴うものだった。一橋派の大名が「隠居・謹慎」といった重い処分だったのに対し、慶喜の処分は当初は「登城停止」という比較的軽いものだったが、後に「隠居・慎(つつしみ)」となる。慶喜はその謹慎生活について『昔夢会筆記』の中でこう語っている。
「慎隠居を命ぜられし後は、昼もなお居間の雨戸を閉て、ただ二寸ばかりに切りたる竹を処々に挿み、細目に開きて光を取れり。されば縁側に出でねば、暗くして書見もなし難かりき。朝は寝所を離るるより麻上下を著用して、夏の暑きにも沐浴せず、もちろん月代を剃ることなし。幕府より見廻りあるにもあらねば、寛ぎ得られざるにはあらざれども、身に覚えなくして罪蒙(こうむ)りたるたれば、一つには血気盛りの意地よりして、かく厳重に法のごとく謹慎したりしなり。」
孝明天皇は、3月に出した勅命が守られずに条約が調印されたことに激怒していた。京都で幕政批判の動きが激しくなる。水戸藩では京都留守居役の鵜飼吉左衛門、福井藩の橋本左内、薩摩藩の西郷隆盛が朝廷や公家と接触し、幕府批判を広める。こうした一橋派の調停工作の結果、孝明天皇より、井伊政権の通商条約の無勅許調印を非難し、再度条約問題についての評議を命じる勅書(のちに「戊午の密勅」と呼ばれることになる)が、8月8日にまず水戸藩に、ついで2日後の8月10日に幕府に下された。また、勅書には一橋派諸侯の処分を理解しがたいとの考えも併せ盛り込まれた。そして、水戸藩に対し、島津家などの有力諸藩や御三家などにこの勅書を伝達するように命じた。
これは、朝廷と諸藩との直接的な結びつきを禁じていた幕府にとって、とうてい無視できるものではなかった。ここに、この問題を直接の引き金とした「安政の大獄」と称される弾圧が一橋派に属する藩主や藩士、あるいは公卿・浪士を対象に、井伊政権によって加えられる。まず、勅諚降下に奔走した水戸藩士鵜飼吉左衛門父子や梅田雲浜(うんびん 旧小浜藩士、浪人)を捕らえ、彼らと連携した宮家や公家の家臣への捜査と、事件の追及を進めた。すると、捜査の中で、万一の場合には薩摩・長州・土佐が挙兵するという西郷隆盛の話を綴った密書が発見され、また、吉田松陰が老中間部詮勝(まなべ あきかつ)襲撃計画を自白するなど、幕府が思いもよらなかった重大な計画が露見。武力を持って政権を打倒しようとする計画に愕然とした幕府は、彼らを厳罰に処した。
一方、密勅への対応を巡り、水戸藩では大騒動が生じる。尊王攘夷派が、「激派」と呼ばれる過激派と、「鎮派」(リーダーは、そもそも尊王攘夷を最初に唱えた会沢正志斎)と呼ばれる穏健派に分かれ、両派が激しく対立するようになったのだ。水戸藩に密勅の返納を求める井伊に対して、「鎮派」は応じようとしたが、「激派」は水戸街道の小金宿(現松戸市)に集結し、密勅返納を阻止しようとする。業を煮やした井伊は、密勅降下に関わったとして水戸藩家老安島帯刀を切腹、鵜飼吉左衛門を斬首、同幸吉を獄門に処すとともに、前水戸藩主徳川斉昭を「江戸水戸藩邸での謹慎」から「水戸での永蟄居」へ、水戸藩主徳川慶篤を「登城停止」から「差控」へ、一橋家当主一橋慶喜を「登城停止」から「隠居・慎」へと罪を加重した。
これに驚いた水戸藩は直ちに密勅返納を正式決定する。そして密勅返納を実力で阻止しようとする激派討伐のため、斉昭の了解を得て追討軍を派遣。これを知った激派は、脱藩して江戸へ逃れ、万延元年3月3日、「桜田門外の変」を起こして井伊を殺害するのである。
井伊直弼
孝明天皇
吉田松陰 伝馬町牢屋敷で斬首 享年29歳
橋本左内 伝馬町牢屋敷で斬首 享年25歳
月照と錦江湾に身を投げる西郷 安政の大獄で幕府に終れた西郷は勤王僧月照とともに入水自殺を図るが月照のみ死に、西郷は蘇生