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石川県人 心の旅 by 石田寛人

加賀宝生と綱紀公

2021.11.23 15:00

 今回は、先月の「別冊太陽・金沢・加賀・能登の工芸」の紹介の続きとして、同書に、能楽史研究者西村聡公立小松大学教授が執筆された『「加賀藩の御細工所と「加賀宝生」』について述べたい。この記事は、加賀の能楽に関して、御細工所の人々、すなわち工芸担当者の果たした役割を論じ、この職人達の支援によって前田家5代目綱紀公が宝生重用の道を開かれたことを述べたものと私は理解した。

 「加賀宝生」なる言葉は、人口に膾炙している。石川県で謡曲といえば、宝生流である。私は中学生の時、「鞍馬天狗」の小謡を学校の先生に習い、大学生になってから、小松の麦谷萬次郎師から「鶴亀」を口うつしに教えて頂いたが、もちろんいずれも宝生流であった。祖父の謡も宝生、本屋に置いている謡本も宝生だった。

 しかし、加賀では、藩祖利家公の時代から、いきなり宝生の能が行われたのではない。豊臣秀吉と親しかった利家公は、秀吉が好んだ金春の能に親しまれた。江戸時代に入り、徳川家康は、観世・宝生・金春・金剛の4座を保護したが、北(喜多)七太夫という名手が金剛座から出て、秀忠将軍に重く用いられた。同時期に加賀藩主であった3代利常公は、竹田権兵衞たち金春の能役者に活躍の場を与えながら、北七太夫にも多くの出演機会を提供され、この能役者は加賀藩でも活躍したようだ。かくして、前時代からの4座に新しく喜多流が加わり、四座一流となった。

 次の前田家4代目光高公は、英邁な当主であったが、惜しいことに早世され、5代綱紀公の時代となる。綱紀公は、将軍家の式典などで、武家の式楽となってきた能を見る機会はあったものの、当主としての任務が多用で、熱心に能に取り組む時間がなかったところ、江戸城中での会話がきっかけとなって、鼓を打つことになった。そこで、加賀藩御細工所の経師、表具等の紙細工の担当者加藤市之丞、勘左衛門、惣大夫の3兄弟は、小鼓や大鼓にも堪能だったので、綱紀公に呼ばれて鼓打ちのお相手をしたことが、綱紀公が能楽に打ち込まれるきっかけとなったというのが西村先生の説かれるところである。

 かくして綱紀公は、能への関心を深められ、綱吉将軍が愛好した宝生の謡をたしなまれることなって、貞享3年(1686年)閏3月11日、宝生太夫を藩邸に招かれて稽古を受けられ、この日が加賀宝生の始まりの日になったと西村教授は述べられている。同年4月3日に将軍お声掛かりの江戸城中の演能で綱紀公は「桜川」を演じられた。

 では、何故に御細工所の人々が謡や鼓をたしなまれたのだろうか。また、綱紀公の宝生重視はいかなる意味があったのだろうか。私は次のように思っている。まず、工芸家は、手はいそがしいけれども、口を使うことは少ない。そこで、この人々は謡を口ずさみつつ仕事をすることが多かったのではないだろうか。金沢で植木屋さんが空から謡を降らせると言われるのも同じことのように思われる。また、綱吉将軍の時代、綱紀公が宝生の能に傾斜されたのは、かすかに残る秀吉時代の遺風をすっかり変えて、加賀の親徳川路線を強調する意味もあったのではないだろうか。かくして、加賀の宝生流は今日に至っているが、残念なのは私自身で、先生方の指導にもにかかわらず、謡も仕舞も全くモノにならなかった。学生時代には、当時水道橋能楽堂と呼ばれていた今の宝生能楽堂で、「紅葉狩」の仕舞を舞ったが、酒飲みの「猩々」の舞でもないのに「足もとがよろよろ」となる始末だった。今や袴も畳めなくなってしまった。しかし、西村教授の記事を読んで、60年前の仕舞の稽古でかいた汗が頬を伝わるような気がしてとても懐かしかった。(2021年11月19日記)