ある難問。
教室のミニホワイトボードに、とある難問を書いてほったらかしています。気付く生徒は気付き、これは何かと私に問います。
「これは、中学レベルの知識で解けるという難問らしい。先生は、4日悩んだけど、答えにたどり着かなかった。だから、うちに塾に一人くらいそれが解ける人がいないかと思って書いてみた。もし、今目の前にある教材を家でもやれると確信しているのであれば、この問題にチャレンジしてもいいよ。ていうか、家でできることは家ですればいいんだよ。足を運んでまでやる必要性を全く感じない。だって、それは調べさえすればいくらだって自分でできるだろう?たまに先生に説明させてみて、それが自分の観点とどれくらい違っているかを試すとか、あるいは、先生が課す論点がいかにショートカットにつながっていて、どんな因果関係に基づいて、どうやれば同じようなことを自分で論証できるようになるのか、とか。そんなことのために塾は使えばいいよ。この問題については、先生もむしろ答えを知りたいくらいに思っている。先生はすでに24時間以上かけてこの問題を考えている。でも、まだ解けていないんだ。」
そして、数学大好き軍団は、目の前の英語や理科を放ったらかしてこの問題に挑みます。見た目のシンプルさからして、簡単そうだと判断した生徒たちも、全員が何かこれはおかしいということに気付きます。
「俺は、答えが分かったとしても絶対に君たちには教えないつもりだ。しばらく数ヶ月、この問題はここに残しておく。だから、ふとした時に、あれってどうやるんだろうなって考えてほしい。それがどうしても解けなくて、不毛な時間を何時間だって何十時間だって過ごしてもいい。君たちにとっては、今は五教科合計点数が最も重要なものなのかもしれないけど、人生っていうのは、いつもこんな難問に向き合うようなものさ。一見シンプルに見えて難しい。それに対して、既存の見方とは違うアプローチを何通りも仕掛けて、糸口を掴んで、これだ!!っていうタイミングに、考え続けていれば出会う。数学の問題を例えば100問解いても、1000問解いても、この問題は解けないかもしれない。ただ、ある時に突然、選ばれた人間が閃くのさ。それは、しかしながらずっと考え続けた人間にしか訪れない閃きなんだよ。閃く人間という選ばれた人間は、間違いなく考え続けた人間でしかないんだよ。」
彼ら彼女らは、これから数ヶ月、塾に来るたびにそれをみて、悶々とした日々を過ごし続けることでしょう。そして、ほとんど哲学的な意味において、学習というそれ自体の意味を、学校での勉強を深めながらも、全く別の観点から問い続けることになるでしょう。ただ習得すれば良いということが、どれだけ楽で、いろんな道具が揃っているのに解けないものがあるということが、どれだけストレスになることでしょう。
しかし、彼らは意外なブレークスルーの方法を持っていました。「これ、学校の知り合いの数学が得意なやつらと一緒に考えてみます。学年1位のやつですらきっと唸ると思います。いろんな意見を出し合いながらやってみます。」と。
そうなんだよね。そのために仲間がいる。自分の見方がいかに狭いか、固執しているのか、そして、他人はこの問題をどう見るのか、どうやって解決策を編み出そうとするのか。新中1から高校生まで、私も含めてうちの塾で総がかりになって挑んでも答えは出ませんでした。ならば、もっと外の世界に向けて問題点を発信して、糸口を掴んでいくということは普通のことなのです。