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偉人『林芙美子の生い立ち』

2022.01.21 00:00

私小説『放浪記』で一躍売れっ子作家の仲間入りを果たした林芙美子。彼女とその作品を俯瞰してみると、現代のSNSで私的な思いを綴っているブログのようだと感じている。

「私は宿命的に放浪者である。私は古里をもたない。」の書き出しで始まる放浪記を読んでいると芙美子は恋に破れ、酒やたばこに溺れ、貧困に喘ぎお金を稼ぐために身を粉にして働き、作家になりたいという思いだけでこの世に踏みとどまっているように感じてならない。

しかし芙美子は現代の女性が持っていない明治生まれの強さを武器に、桁外れの行動力と精神力で47年という短い人生を『物書き』であり続けることを支えにして生きてきた。

今回は多くの研究者が彼女の真実に迫ろうとしていることを踏まえた上で私は幼少期を勝手に想像する。

1903年大晦日に父宮田麻太郎と母キクのもとに誕生するが、父に認知されず母方の伯父の戸籍に入った。既に誕生した段階で名乗るべき名を名乗れず放浪していたのである。認知されてはいなかったものの父の商才のお陰で豊かな生活を送っていたが、6歳の頃父の浮気が原因で母と家を出て正真正銘の放浪生活になった。

下の写真は3歳頃といわれ実父との豊かな生活をしていた頃である。

養父と母と芙美子の三人で木貸宿を転々とした貧しい生活で行商をしながら、家をもたず経済的にも恵まれず各地を渡り歩いた。母は厳しい状況下でも娘芙美子を学校へ行かせることを決めていた。しかし長崎市では友達が持つ学用品を一切持てずその恥かしさから登校拒否をし、佐世保では木貸宿から学校に通う子はいないいじめられその憤りを母にぶつけて通わず、下関では1年の不登校がブランクになり学業についていけず友達に馬鹿にされるのに耐えられず勉強嫌いのふりをした。相当な負けず嫌いであったことが分かる。しかしは母は信望強く芙美子を説得し続け、読み書きだけはできるようになり本を読むようになった。危うく物書きの道も放浪しかけたが母によって首の皮一枚でその道は繋がっていたのである。

奇跡的か必然か分からないが芙美子13歳で広島の尾道の尋常小学校で彼女を文学の尾道へ誘う2人の教師に出会うことができた。

芙美子は学力不足で2学年下のクラスへ編成された。担任の女性教師の計らいで大好きな文学本を読みたさに学校へ通い、彼女の話す各地での話を楽しむ級友も増え学校に馴染んでいった。もう一人の男性教諭が担任となってからは、高度な文学作品を読むよう促されその感想を書くことで力を付けた。芙美子の文学才能と絵画を評価した教師は高等女学校への進学を進めた。当時の高等女学校への進学率は10%に満たなかったことから、貧しき家の芙美子が進学できたかは大変興味深いものである。母キクは芙美子の実父宮田に頭を下げてでも進学させることを決めた。入学試験を受け合格するか厳しいものであったが、放課後や休日を受験勉強に協力する恩師の尽力もあり5番目の成績で見事合格することができたのである。

働きながら女学校で学びやがて初恋を経験し、一足先に東京へ進学した恋人を追い卒業後追いかけていくがその恋もあっけなく終わってしまう。3度目の放浪生活となった。

ここからが本当の意味で苦しく厳しい放浪の生活が数年続くことになるというわけであるが、そのときの日記が放浪記の原型である。転んでもただで起きない生命力の強さを感じるのである。

彼女の生活は貧苦に喘いだ労働を強いられる5,6年で多くの清濁併せ呑む生活をしたことが人生を紐解くと分かるのだが、彼女の根底には『物書きである、作家になるんだ』という高きプライドが存在していた。第2次世界大戦時には陸軍の報道部員として戦地をまわり、戦後は外国を一人旅しそれを記事にし、仕事はどんな仕事も断らない。他の女性作家に書かせるわけにはいかないという露骨過ぎる妨害工作もした。ヨハン・シュトラウス1世と似ている他者に仕事を渡さないという独占欲はどこから来るのかを考えてみる。

これから先は私の勝手な想像であるがゆえご容赦願いたい。

幼い頃であっても頂点から底辺に落ちる生活というものは精神的にも大きな落差を感じるであろう。羨ましいと思われる生活から見下されいじめられる経験が、人格形成の多感な時期に起きたことが心に影を落としたのではないかと考える。またその養父と母との貧しい生活の中でも、実父は豊かに生活をし会いにいくと豊かさを味わえるという立場が、より自分を卑下するものに対しての対抗意識に変化した。だから人一倍の負けず嫌いが誕生したのであろう。子供にとって両極端の状況が存在し混乱をきすのは好ましくない。実父の娘に対しての贖罪であったのかも知れないが、そこは親として配慮すべきだったのではないのか。


残念ながら子供の頃の感情は大人になっても改心することは難しい。芙美子の葬儀で川端康成がこう語っている。

「......故人は自分の文学生命を保つため、他に対しては、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、あと2、3時間もたてば故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか、この際、故人を許してもらいたいと思います」

自分より前に出るものを許さず、才能ある同姓の作家を妬み、激しい嫉妬をしたことも知られているが、これはやはり育ちとその後の人生によるものである。卑しい心があったにせよ行動を起こせるか否かは人として大きな分かれ目である。しかし芙美子を踏みとどませるだけの心の持ち方や切替え方を教える人物がいなかったのであろう。

私達大人は自分の子供以外であっても真っさらな状態で生まれ来る子供の人格形成の重要さを感じ、いけないことはいけない、素晴らしいことは素晴らしいと云える大人であること、そして子供を社会で育てることの重要性を改めて認識したものだ。


彼女を傲慢な女流作家で終わらせたくはないので、次回は林芙美子の心から望んでいたものに焦点を当てた記事である。お楽しみに。