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Baby教室シオ

偉人『林芙美子の望んだもの』

2022.01.28 00:00

前回の記事内容では彼女の全てを語り尽くすことはできない。また彼女の生き方は家族という形とその家族が住む終の棲家で彼女の望んでいたもの、大切にしていたものが理解できるのである。この記事で前回の記事がよい方向に覆されると大変ありがたい。

煙草を片手に煙を燻らせる芙美子からは想像だにできない笑顔の彼女が終の棲家にいた。

失恋し東京にそのまま居た彼女は牛鍋家の女中や新聞社の雑用係り、貿易店の事務、カフェの女給(今でいうキャバクラ)など食べていくために多くの仕事をした。恋をしては破局をし、荒んだ生活をしていた23歳のときに、夫となる穏やかな青年画家手塚緑敏氏と内縁の結婚をする。この結婚により芙美子は心穏やかに小説に没頭することができるようになった。これまで書いてきた日記に手を加え出版したのがあの『放浪記』である。

60万部のベストセラーとなりその印税で一人シベリア鉄道に乗りパリへ向かい、ロンドンで数ヶ月住み、中国大陸へと鞄一つを手に旅行し紀行文や小説などを書き上げた。さながらバックパッカーのようであるが、実は幼少期に母の下から実父の下へ船で一人旅をし、船や列車で風を受けることで高揚する感覚を忘れられずにいた。彼女を旅へと突き動かしたのはやはり幼少期の出来事であったのである。

多忙すぎる生活の中で起伏の激しい一面もあったがそれを全て包み込んでいたのが夫である。母キクは芙美子に「今のあなたがいるのは緑敏さんのおかげ」と言われたそうである。

放浪し続けていた芙美子もこの結婚で落ち着き、終の棲家を建築した。夫と母キク、そして母の世話をお願いした姪二人の五人家族となり穏やかに住んでいたが、物足りなさを感じ養子を迎え入れることとした。それも夫に無断である。ある日夫が帰宅すると生まれたばかりの男の乳児を抱いて「私の子供」と喜んでいる芙美子に驚いたという。がしかしその様子に動じることなく受け入れたいうのであるからその包容力の大きさに言葉を失ってしまう。

親が育てることができない養子泰をいたく可愛がり、家族のために料理を作り若き頃の芙美子とは大きな隔たりを抱くほど家族を愛し、仕事にも手を抜くことはなかった。残念ながらその仕事の忙しさで命を縮めたのではないかともいわれている。

母を労り、夫を頼りにし、実子ではないものの息子泰に愛情を傾け、自らが家族のために拘った終の棲家を建て放浪にピリオドを打ち、家族という形を作り46歳の若さで生涯を閉じたのである。

彼女が晩年求めたものは、生きるために翻弄され放浪人生ではなく、腰を据えて家族が集える温かな家庭であったのである。人はどこかで温かな人に出会えることがあれば人生を変えることができる。そう感じてならない。

芙美子の死後8年経ち、息子泰は不慮の自己で16歳で亡くなり、夫は妻の多くの作品を整理してこの終の棲家で生涯を閉じた。切なくなるが彼女が家族のために建てた家は今も尚、家族がここに居たことの象徴として存在している。人間は幼き頃の環境が人生を大きく作用しても、心が望むままに努力をすればその望んだものが手に入るのだと教えられたような気がする。望みを抱く夢を持つことは未来を描くに必要なことである。