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ZIPANG TOKIO 2020「古都大津京を開かれた 第38代天智天皇をまつる神社『近江神宮』(後編)」

2017.05.17 14:30


第38代天智天皇をまつる近江神宮は、天智天皇の古都、近江大津宮(大津京)跡に鎮座する神社です

滋賀県西部の大津市中心部にほど近い、琵琶湖西岸の山裾にあります。旧官幣大社・勅祭社で、社殿は近江造り・昭和造りといわれ、近代神社建築の代表として登録文化財となっています。

開運へのみちびきの神、産業文化学問の神として崇敬が深く、また漏刻(水時計)・百人一首かるた・流鏑馬(やぶさめ)で知られ、境内に時計館宝物館があり、漏刻・日時計なども設けられています。


天智天皇と大津京 史跡と伝承

近江大津宮概説

天智天皇は、その6年(667)、斉明天皇の御時より都を置かれていた飛鳥岡本宮より近江大津宮に都を移された。それまでの多くの都が置かれた飛鳥近辺から離れたこの地であるが、大化の改新の理想に基づいた政治改革を行うために人心の一新を図るとともに、同盟国であった百済への援軍を出して唐・新羅連合軍と戦った、4年前の白村江での敗戦後、深刻化した本土侵攻の危機に備え、国土防衛のための態勢を整えるなかで、その根幹として天然の要害であるとともに交通の要衝でもある大津に遷都したものと考えられている。

5年後に起った壬申の乱の敗戦によりわずか5年半の都に終るが、この短い期間に大津宮において画期的な新政治を推進されることになり、ひいては近江国・滋賀県の発展の基ともなった。更にそのあとを受けた天武天皇は、壬申の乱で対峙したにもかかわらず、多く天智天皇の施策を受け継いでさらに発展させられたことにより、天智朝の意義もより大きなものとなったといえる。

大津宮中枢部復元推定模型(右上は近江神宮前駅と錦織車庫)(大津市歴史博物館所蔵 『大津の歴史』より)


宮跡の所在については江戸時代より諸説があり、論争が続いたが、昭和49年からの発掘調査により錦織がその中枢地区であることが確定的となった。『近江名所図絵』(文化11年・1814)『近江名跡案内記』(明治24年)などに記された、大津京は錦織字御所之内にあったという伝えに基づき、明治28年、この地に『志賀宮址碑』が建立されていたが、あたかも碑の建立地は復元推定地の中心地、内裏南門の跡に相当する。碑のある場所から近江神宮に至る県道は、まさにそのまま大津京のメインストリートの跡でもあったのである。

なお、一般に大津京といわれているが、大津京の語は古い文献に表われておらず、藤原京・平城京などのように大規模な条坊制をともなったものを京というのであり、大津宮は京といえる程の規模には達していないとして、大津宮というべきだとする学者が多い。一方、中心部の宮域内を大津宮といい外延部まで含めた全体像を大津京というとする考え方もある。

 
近江大津宮錦織遺跡

昭和49年、錦織二丁目の住宅地の一角で行われた発掘調査により、大規規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。続いて昭和53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域が大津宮の所在地であったことが確実視されるにいたった。その後十数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定して、その中枢部の構造も復原されるまでに研究は進展している。昭和54年7月に国史跡に指定された。

昭和49年に発見された建物跡は、天皇の居所の内裏と政務を行なう朝堂院とを分ける内裏南門であることがわかり、復原すると東西7間と、南北2間で、その東西に掘立柱の複廊が付属している。この門の北側が内裏、南側が朝堂院である。門の真北には三方を塀に囲まれた庇付きの建物の内裏正殿がある。この建物は、復原すると東西7間、南北4間の建物になると推定されている。


南滋賀町廃寺跡

大津京跡の探索の過程で発掘された、天智朝当時の寺院跡。国指定史跡。かつては梵釈寺とも考えられ、大津宮そのものに比定されたこともある。文献には現れないが、崇福寺・園城寺前身寺院・穴太廃寺とともに大津京をめぐる四大寺院のひとつである。昭和3年・13年の発掘調査により、金堂を中心に塔・小金堂・講堂を配し、廻廊と僧房で囲む、川原寺式の伽藍配置となっていることが明らかとなった。白鳳期に創建され平安時代まで存続したことが明らかとなっている。


崇福寺跡

大津京の乾の鎮めとして天智天皇の勅願により創建されたと伝える。『扶桑略記』『今昔物語』などに創建説話が掲載されている。志賀の山寺として、平安時代を通じて多くの都人が往来した志賀越え山中の名所であった。

波にたぐふ鐘の音こそあはれなれ夕べさびしき志賀の山寺        藤原良経

『扶桑略記』によると、天智天皇7年(668)の創建とされる。平安初期には、東大寺・興福寺・薬師寺などと並ぶ十大寺の一つとして朝野の信仰が厚く、弥勒信仰の聖地として繁栄した。その後火災・地震等で焼失・倒壊と再建を繰り返しながらも国家的な保護・崇敬が続聖けられていたが、鎌倉初期には園城寺の支院とされ、室町時代には廃絶することになる。

大津京探索の一環として昭和3年・13年に発掘調査が行われ、三か所にわたる尾根上に主要伽藍が築かれていたことが明らかとなった。北尾根に弥勒堂、中央尾根に塔・小金堂、南尾根に金堂・講堂が推定され、周辺にも別の建物跡が発見されている。昭和13年からの発掘調査の際、塔跡の心礎孔中に仏舎利に見立てた水晶三粒が納められた舎利容器をはじめとする納置品が発見され、一括して国宝に指定され、近江神宮の所蔵となっている。

なお近年、南尾根の建物群は桓武天皇が天智天皇追慕のために建立した梵釈寺跡とする説が有力である。


崇福寺創建の縁起と金仙の滝

滋賀里の西方山中にある崇福寺跡の谷筋に金仙滝と呼ばれる小さな滝と霊窟がある。この地は崇福寺建立にまつわる有名な伝説が残る地でもある。『今昔物語』『三宝絵詞』等に以下のように伝えられている。

天智天皇はかねて寺を建立したいと考えておられたが、そのことで願をかけたその夜、夢に一人の僧が現われ「乾の方角(北西)にすぐれた良い所があります」 と告げた。目を覚まして外をご覧になると乾の方角に光が輝き、あたり一帯を明るく照らし出していた。翌朝使いを遣わして光を放っていた山を訪ね、奥に分け 入っていくと深い洞窟があり、怪異な老人がいる。天皇は自らそこに行き老人を訪ねると、翁は「ここは昔仙人の住んでいた霊窟です。さざなみや長等の山 に・・・」といって消え失せた。そこで天皇はこここそ捜していた尊い霊地だと考え、ここに寺を建てることに決められた。

 翌年正月に崇福寺が建立され、丈六の弥勒の像を安置したが、その開眼供養の日、天皇は自ら右の薬指を切って石の箱に入れ灯籠の土の下に埋められた。寺を建 てるための整地の際、地中から三尺程の宝塔が発見されたが、昔アショカ王が多くの塔を建てた、そのうちの一つだと知らされ、いよいよ誓願を深め、そのしる しに指を切って弥勒に奉ったものである。

後の時代になり、その寺の霊験まことにあら たかであったが、一般の人にはなかなか近寄り難かった。寺の別当が「この寺に人が参詣しないのはこの指のせいだ。掘り出して捨ててしまえ」といって掘らせ ると、たちまちに雷が鳴り風雨が激しくなった。掘り出したその指は、今切ったばかりのように鮮やかに白く光っていたが、まもなく水のように溶けて消え失せ てしまった。その後、その別当はほどなく狂って死んでしまった。その後は霊験もなくなっていったという。


榿木原(はんのきはら)瓦窯

昭和49年から53年にわたる西大津バイパス建設にともなう発掘調査で、白鳳時代から平安時代にかけての瓦生産遺跡であることが判明した。この遺跡は、笵(型)によって粘土から瓦を形づくる作業をする工房と、それから乾燥させた後で焼成する瓦窯とで構成されている。焼成した瓦は、すぐ東方の南滋賀町廃寺で使用され、一部は崇福寺へも供給されたものとみられる。

瓦窯は、白鳳時代の登り窯5基、奈良時代末から平安時代中ごろの平窯5基が入り交って3群をなしている。登り窯では、「サソリ瓦」と通称されている蓮華文方形軒瓦ろや複弁蓮華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦・丸瓦・平瓦などが焼かれている。平窯では、流雲文で飾る軒瓦や鬼瓦、丸瓦・平瓦などが焼かれた。この瓦窯群のうち最も遺存状態の良好な登り窯1基は、バイパス建設で現地保存が困難なため、そっくり切り取り、原位置から北方約25メートルのバイパスと主要地方道下鴨大津線の間の斜面に移して保存されている。

工房跡では、長大な掘立柱建物跡が重複して6棟検出されている。7世紀後半から8世紀初めころのもの2棟、8世紀前半ころの1棟、9世紀前半以降の3棟の3期に区分される。 


金殿の井

天智天皇は都を近江に移してまもなく病の床に就かれた。そのとき重臣であった中臣金の夢に、都の西方の大木の根から湧き出る清水を汲んで天皇に奉れとのお告げがあった。そこで中臣金が宇佐山(近江神宮裏手の山)山中に分け入ると、お告げどおりの泉があり、さっそく天皇に飲んでいただいたところ、病気はたちどころに快方に向ったという。そこで、この泉を「金殿井」と名付けて賞賛した。

後に源頼義が宇佐山山中に宇佐八幡宮を建立したとき、この泉の水を人々に拝受させ、霊験があったという。この神水は諸病に功験があり、特に八月初旬の土用の日にいただくと特に効き目があるという。現在も霊泉祭が行われている。

近江神宮境内の井戸や手水の水もかつてはこの神水につながる山の水のであったが、西大津バイパスの宇佐山トンネルの開通後、水脈が断たれたためか、あまり水が出なくなった。


境内のご案内

1~12の歌・句碑は昨日の前編で紹介しておりますのでご参照ください。


一の鳥居 京阪踏切をわたると正面に大鳥居がたたずんでいます

社号標 近江神宮奉賛会初代会長・近衛文麿公(公爵・元首相)の筆になる社号標

二の鳥居 参道を進むと石段の上に二の鳥居がそびえます

手水舎 お詣りに際しては手水をとって身を清めます

由緒高札

楼門 手水舎を過ぎると朱塗りの楼門が見えてきます

外拝殿 楼門をくぐると巨大な外拝殿が圧倒します

内拝殿 外拝殿の拝所から正面に見えるのが祭典や祈祷の行われる内拝殿です

内拝殿と本殿 外拝殿中央から両端まで進むと内拝殿の上横に千木・鰹木のある本殿が望めます

神座殿(かみくらでん・かぐらでん) 結婚式・ご祈祷のほか、かるた祭など一部の祭典も行われます

時計館宝物館と日時計 和時計をはじめ古今東西の時計、また宝物館には奉納された絵画などが展示されています。

漏刻 天智天皇御創始の漏刻が設けられています。昭和39年オメガ社総代理店の奉納になります。

古代火時計 古代中国で使われていたと伝えられる古代火時計は、昭和54年ロレックス社から奉納されました

自動車清祓所 明治23年建築の大津地方裁判所の玄関車寄せが、昭和46年解体建て直しされるにあたり近江神宮に移築され、自動車清祓所として使われています。

栖松遙拝殿(せいしょうようはいでん) かつて高松宮家の邸内社・御霊殿として有栖川宮家以来の御霊を祀っていた建物が、高松宮家廃止にともない、平成18年近江神宮に移築されました。遙拝式はここで行われています。

かるた額 昭和58年南部忠平氏奉納と平成5年コニープランナー奉納の中村北潮氏揮毫のかるた額。神座殿中庭に掲げられています。

祓所(はらえど) 例祭に際してはここで修祓を行い拝殿に参進します。大祓式もここで行われます。

木洩れ日の道 境内神苑の樹林の一部に散策路が作られています。

時計学校 近江神宮時計博物館附属の学校として近江神宮時計宝飾眼鏡専門学校が設けられ、時計などの技術者が養成されています。

近江勧学館 天智聖徳文教財団により設けられた研修宿泊施設。結婚披露宴・祭典直会・各種会合が行われ、一般の方にもご利用いただいています。

善庵 境内にある蕎麦どころ。蕎麦の道を究めた主人が皆様に提供しています。近江神宮創建当初より参拝者休憩所として立てられた建物で、ここも登録文化財です。

近江神宮の境内は木々が伸び周囲を展望できるところは限られていますが、一部には琵琶湖や対岸の山が見えるところもあります。


5月~6月の主な祭典

流鏑馬神事  6月第1日曜日

近江神宮流鏑馬神事   武田流 日本古式弓馬術協会奉納    6月4日(日)   12:30 鏑矢奉献の儀 近江神宮拝殿   13:00 騎射     近江神宮参道            小雨決行 観覧無料 (晴雨微妙な場合は当日午前10時に 決定、お知らせ欄で告知します) 6月4日 10:15 流鏑馬教養講座      会場 近江神宮境内 近江勧学館 流鏑馬有料観覧席 500円(全350席)  申込先 077-522-3725      近江神宮やぶさめ事務局

1350年の昔、天智天皇の時代「天皇、蒲生野に狩りしたまふ。…近江国、武を講ふ。また多に牧を置きて馬を放つ」と『日本書紀』に記された故事に想いを馳せて、近江朝・大津宮の御事績を顕彰し、御鎮座記念祭の奉納行事として平成2年より毎年開催されてきました。

27年より、時の記念日の祝賀奉納行事としてその直前である6月第1日曜日に行われることになりました。29年は6月4日(日)の開催となります。


やぶさめ教養講座

講演 流鏑馬の歴史・武田流の道統     和式馬術と洋式馬術     装束馬具・近江神宮流鏑馬 等について  講師 日本古式弓馬術協会理事長    豊 田 重 之 先生  


饗宴祭  6月30日


琵琶湖に浮かぶ「浮御堂」

折角、近江神宮まで来られるのなら比較的近くにおすすめのスポットがいくつもあるので、是非観光していってください。その中でも特におすすめは、琵琶湖に浮かぶ「浮御堂」です。ぜひ訪ねてみてください。きっと癒されると思いますよ。50年位前に訪ねた折には、車から降りると同時に琵琶湖に雪が降り始め、然もお堂までの橋の木の床が朽ちかけた感じで震えながら拝観。
蛇足『風流とは、寒いものである』と悟った次第です(ご安心を、今はしっかりと管理されていますので)。
やはり、これからの季節が最高だと思います。   鎹八咫烏 記

近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。現在の建物は昭和12年の再建によるもので、昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。 

【阿波野青畝句碑】

浮御堂の山門のそばに五月雨に濡れた浮御堂の美しさを詠んだ青畝の向碑が立っている。
(「五月雨の雨垂ばかり浮御堂」)



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


協力(順不同)

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(公社)びわこビジターズビューロー 広報情報部 
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