『Captain Fantastic』:はじまりへの旅
映画『はじまりへの旅』を観た。ものすごく考えさせられる映画だった。
ビゴ・モーテンセンが大家族の父親役を演じ、森で暮らす風変わりな一家が旅に出たことから巻き起こる騒動を描いたロードムービー。現代社会から切り離されたアメリカ北西部の森で、独自の教育方針に基づいて6人の子どもを育てる父親ベン・キャッシュ。厳格な父の指導のおかげで子どもたちは皆アスリート並みの体力を持ち、6カ国語を操ることができた。さらに18歳の長男は、受験した名門大学すべてに合格する。ところがある日、入院中の母レスリーが亡くなってしまう。一家は葬儀に出席するため、そして母のある願いをかなえるため、2400キロ離れたニューメキシコを目指して旅に出る。世間知らずな子どもたちは、生まれて初めて経験する現代社会とのギャップに戸惑いながらも、自分らしさを失わずに生きようとするが……。監督は「アメリカン・サイコ」などの俳優で、「あるふたりの情事、28の部屋」で監督としても高く評価されたマット・ロス。第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門の監督賞をはじめ、世界各地で数々の映画賞を受賞した。《映画.comより》
観たのは、そう、コメディが観たかったからだ。
そして僕はロードムービーが好きだ。
その2つの要素がある映画だ、観ないほかない。
でも観たら、コメディかと思いきや、めちゃめちゃ考えさせられる人生のロードムービーだった。
まあ観て欲しいんで詳しい説明を省くけど、弥生時代になって、縄文人家族が弥生文化に嫌気がさして、森で縄文生活してるんだけど、弥生文化のムラ社会に行くことになり、そこで自分たちがやって来た縄文生活で生きて行くことは、もはや難しいと悟る話。
そのキャプテンである父親の《縄文原理主義》という理想主義、僕も多分に理想を追い求める傾向があるので、彼の最初のイケイケの原理主義的行動が、そしてだんだんムラ社会への反抗になり、やがてそれがムラ社会では犯行になり、やがてムラ社会で挫折して、ムラ社会のルールを受容する(しかない)という旅の行程が、すごく考えさせられた。
初めは縄文キャプテンに感情移入していた僕なのに、いつの間に弥生文化ムラの人たちの意見や規則の方が正しいと思えてきてしまうのだ。
キャプテンの方が間違ってるぞ、と。
あれ、最初はキャプテンの方が正しかったのに。それはファンタスティックな理想論でしかないのか。ファンタスティックな幻想でしかないのか。
僕が普段至る所で言ったり書いたりしていて、それを実践するために退社までした《おもしろ原理主義》、それはただの理想論でしかないのか。ムラ社会では通用しない幻想なのか。
でもでもさらに複雑なのは、その“現実”を最後に受け入れるキャプテンとその家族たち、それでよかったのかもと思えるのだ。
つまり、旅は“はじまり”でなく“終わり”の旅だった。
でも何かが終わるのは、次に何かが確実にはじまることを意味してる。
つまり、何かにこだわって、何かが続くことは、結局次が何も始まらない、ことかもしれないのだ。
うーん。
この映画を観て以来、すごくすごく考えてる。
僕が会社を辞めたことは、実は今まで大事にしていた僕の想い=理想を、終わらせないためだった。
でも、それを続けていると、やがて現代日本という究極のムラ社会の中で、反抗が犯行になって挫折するんじゃないだろうか。
つまり、僕の想いを終わらせないことより、新しい時代に、新たな僕の想いをはじめるため、僕は今までの想いを終わらせて、新たな旅をはじめるべきなのではないか?