苦悩の正体!

最近読んだ仏教書の一節をご紹介します。
「・・・この世の人たちは、めいめいが荷わねばならぬ業苦を荷いながら、ひぐらしをつづけているのであります。 まことに業苦とは、私自身が嫌でも荷わねばならぬ重荷であります。 しかるに荷物と言えば、すぐにでも肩から降ろされるようですがこの荷物は、私が担いでいる荷物ではなくて、実は私自身なのであります。罪や悩みや、分別やはからいなど、これらはみな、我執と我見と我慢とによって生まれたもので、すべて私の「我」にもとづくものであります。 しかるに私は自分の我性に気づいても、むしろこれを隠そうとしたり、ごまかそうとしたりして、「我」にとらわれることが私の生まれつきの根性であるかぎり、いつまでも「我」をたのみとし、「我 」をたよりとしていますから、自分の力で「我」を捨てきることはできないのであります。 しかるに私の知恵や権力や財産をもってしても、どうにもならぬギリギリのところに行き詰って、私のたよりとし、たのみとしていたものが、みな空しく消えうせて、私の分別やはからいが、仏様の方から打ち砕かれる時、私は自分自身を投げ出すより他はなく、凡小のはからいを捨てて、仏様の大きなおはからいにまかせきることによって、まことの安らかな境地に至ることができるのであります。・・・ ・・・」(『病に生かされて』(村上速水著))
コロナ禍さえ終われば・・・という思いは私を含め、多くの人の共通するところでしょう。しかし、「コロナ後」には、新たな苦悩が生じるのではないでしょうか。その苦悩の原因を外に見てしまうのが私たちの愚かさです。苦悩とは「私の思い通りにならない現実」と言えます。私自身を含め、現実世界は様々に変化し続けています。 それを受け入れられず苦悩する私を、仏様(阿弥陀如来)は決して見捨てません。
合 掌