「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」13 将軍後見職の辞表提出
このままでは、いつまでも京に引き留められ、朝廷内の攘夷派が暴発し乱行に及ぶ可能性もある。場合によっては将軍家茂の命も危険にさらされるかもしれない。そこでようやく幕府も覚悟を決める。文久3年4月20日、ついに「5月10日をもって攘夷を決行する」と家茂の名で約束したのである。そして4月23日、幕府から諸藩にも攘夷決行が布告された。幕府はもちろん、何もする気はない。だからこそ、将軍・後見職とも京都にいる4月20日に、そのわずか20日後の5月10日からというようないいかげんな返事ができた。そうして、この返事のおかげで、4月21日将軍は退京して大坂城へ入り、4月22日、慶喜は江戸へ向けて出発することができた。
慶喜はゆっくり帰り、江戸に着くのは攘夷期限2日前の5月8日。旅程の途中から、江戸の幕府幹部に宛てて、攘夷強行の指令を発しているが、もちろんジェスチャー。しかし、これ以外にも慶喜は重要な指令を発していた。イギリスが要求している「生麦事件」(文久2年8月21日)の「賠償金支払不可」の指令。生麦事件発生以来、幕府は困惑を続けていた。薩摩藩は犯人引き渡し、賠償金支払いに応じない。諸情勢を考えると、幕府が支払うしかないが、朝廷に攘夷実行を約束している以上、うかつに処理するとひどいことになる。しかしイギリスは強硬で、香港にいたキューパー提督に連絡し、文久3年2月、合計8隻の艦隊を横浜へ集結させた。幕府は賠償金を払うしかないが、どうやってうまくやるか?
生麦問題の専任にされていた老中格小笠原長行(ながみち)が、独断でこの混乱を乗り切った。つまり、慶喜の知らないところで勝手に賠償金支払いを行ったという形にしたのだ。もちろん慶喜と打ち合わせの上で。一方、江戸へ戻った慶喜は、一応、在江戸幹部に対して攘夷実行を命じたが、誰も承知しない。慶喜はもちろん、初めからやる気はないが、朝廷との約束には違反しているので、5月14日、京都に宛てて将軍後見職の辞表を提出した。
ところで、小笠原がこの時やろうとしたのは、独断での生麦事件の賠償金支払いだけではない。率兵上京による「京都武力制圧」も実行しようとした。イギリスの汽船を借りて兵力を大坂へ運び、一挙に京都を制圧しようというものだ。フランス公使ド・ベルクールとイギリス代理公使ニールがこの計画を支援していた。小笠原が率いた軍勢は、歩兵と騎兵合わせて1500。これと将軍が率いている3000、さらに京都守護職の会津藩兵などを加えれば、京都の尊攘派を制圧することは可能であったろう。
小笠原は、5月30日大坂に到着。兵を率いてすぐ京に向かうが、淀まで進んだところで京都から次々と制止の使いがやってくる。それでも行こうとしたが、朝廷は急に将軍東帰の許可を与え、将軍が大坂へ下ってくることになった。小笠原も仕方なく大坂城に入る。こうして、強硬派幕臣の京都制圧の夢は、あえなく消えた。京都は依然として尊攘派の天下。それが覆ったのは、この2カ月余り後、8月18日の薩摩・会津藩のクーデタ(「八月十八日の政変)によってだった。外様と親藩の連合軍が、長州勢を京都から追い払ったのである。直属軍では駄目だったことを、会津と薩摩がやる。このことが、あとへ持つ影響は非常に大きい。
文久3年8月18日、孝明天皇・中川宮が薩摩・会津両藩と組んだクーデタが成功して、長州系の尊攘激派が京都から閉め出されると、朝廷はすぐに島津久光の上京を求めた。久光は大いに喜んで、1万5千の大軍を率いて10月3日京に入る。久光は、公武合体派の同志だった雄藩前藩主たち、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城を京へ呼び寄せ、一橋慶喜にも、将軍家茂にも上洛を促す。今度こそ、開国貿易の大方針を確立しようというのだ。慶喜が将軍の上洛に先立って江戸を出発し、再び海路上洛したのは、文久3年(1863年)11月26日のことであった。以後、彼は結局、鳥羽伏見戦争後まで京坂地区にとどまり、江戸に帰ることはなかった。
賠償金をイギリスの軍艦に運ぶところ(1863年9月12日 『絵入りロンドンニュース』)
イギリスへの賠償金の勘定(1863年9月12日 『絵入りロンドンニュース』)
イギリス海軍キューパー提督
イギリス代理公使ニール
小笠原長行
「七卿落ちの図」
八月十八日の政変の結果、長州藩は御所警衛の任を解かれ、三条実美ら尊攘派の公家は長州藩へのがれた